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1巻
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序章 ラティスは家を出ることにした
──どうして、こうなったのでしょう。
見慣れたはずの部屋の、見慣れたはずのベッドの上には、はあはあと獣のような荒い息遣いが響いています。
これは、私のもの。
新鮮な空気を求めるように、息を吸い込んで、吐き出して。
幾度それを続けても、まるで足りないぐらいに苦しいのです。
体が熱くて、すごく、おかしいのです。まるで、自分が自分ではなくなるように。
私の旦那様であるシアン様が、私の両足を大きく広げて、下着の上から足の中心に顔を埋めています。
なにをしているのかはよくわからなくて。でも、ともかく熱くて、熱くて。頭がおかしくなりそうなのです。
私は、どうしてこんなことになったのかと、きつく目を閉じて瞼の裏側の暗闇を見つめました。
目尻をあたたかいものが伝い、流れ落ちていくのを感じながら。
◇◇◇
──私が、シアン・ウェルゼリア様のもとに嫁いだのは今から三年前のことでした。
その時まだ私は十五歳。
裏庭で花を眺めていたら、突然国王であるハロルドお兄様から呼び出しを受けたのです。
どこを切り取っても美しい広大なお城の、皆から忘れ去られたような裏庭にある古びた鉄製のアーチに、縦横無尽にクレマチスの蔓が絡みつき、白い花弁の瑞々しい花がいくつも咲いていたことをよく覚えています。
ハロルドお兄様に呼ばれたのは初めてのことでした。
驚き、それから緊張しながら謁見の間に辿りつき、従者たちに促されて中に入りました。
いつ来ても、寒いわけではないのに冷気が肌を突き刺すような、お兄様の権威の象徴のようなこの場所が、私は苦手でした。
豪奢な玉座の前に敷かれた赤い絨毯が靴音を吸収してくれましたが、それでもかすかな音が静かな空間に響くようで、無性に気になるのです。
居並ぶ兵士たちや従者たちの視線が全て、絨毯を歩く私に注がれています。
玉座にはハロルドお兄様が座り──その前には、とても美しい男性が背筋を真っ直ぐに伸ばして立っていました。
私はお二人の前で足を止めると、スカートを摘まみ淑女の礼をしました。
緊張から、指先が震えそうになってしまいます。
「ラティスです。ただいま、まいりました」
挨拶の言葉を考えて、一番短いものを選びました。
ハロルドお兄様は無駄を嫌います。話が長いというだけで、文官を城から追い出したという噂を聞いたことがあります。
ハロルドお兄様の前に立つだけで、鼓動が速くなります。
ハロルドお兄様は私にとって、あまりお兄様という印象はありませんでした。
オルゲンシュタット王国の末の姫として生まれた私は、お兄様に相手にされていなかったために、言葉を交わしたこともほとんどなかったのです。
厳しく、おそろしい国王陛下と──そして、オルゲンシュタット王国のグラウクス騎士団の誉れ高き騎士団長であるシアン様。
シアン様の近くに立つというだけで、さらに鼓動が速くなりました。
私には、一体なんの呼び出しなのか、皆目見当もつきませんでした。
「ラティス。シアンがお前を望んでいる」
「私を……?」
私を値踏みするように眺めながら、ハロルドお兄様がおっしゃいます。
どういう意味かわからない私に、ハロルドお兄様は口角を吊り上げて、意味ありげに笑いました。
「シアン。もう一度、お前の欲しいものを言え」
「ラティス姫を、私の妻に迎えたく思います」
シアン様の低く、あまり感情の起伏のない、けれどどこか艶のある声が響きました。
私はその言葉の意味を一瞬理解できずに、幾度か目を瞬かせて、それから──まさか、と、息を呑みました。
それは決して、シアン様のことが嫌いだからとか、婚姻が嫌だったからなどではありません。
シアン様はただそこに立っているだけで絵になる、神秘的な黒髪と真紅の瞳を持った美しい男性です。
初めてお会いした時は、なんて綺麗な方なのだろうと、見惚れてしまったことを覚えています。
同じ人間とは思えない──と表現するのは、きっといけないのでしょう。
もちろん私は、シアン様の持つ色が、その光を受けて艶めく黒髪や宝石のような真紅の瞳を持つ方々が、『幻獣の民』だと知っていました。
幻獣の民は、古くは幻獣と番った王国の者たちで、その体には幻獣の血が流れ、神秘の力を使うことができるのです。
幻獣とは、神秘の力を持つ獣のこと。今はもう伝承の中に残るだけですが、古の時代には王国人と共に暮らしていたのだと、書物には残っています。
──獣印。獣の番。
幻獣の民を、そのように呼ぶ方々もいます。
それは、ひどい言葉でした。私は、その言葉を聞くと眉をひそめたくなります。
けれど、私のように感じる者は、王国には少ないのです。
幻獣の力──人にあらざる神秘の力を持つために、同じ人でありながら、幻獣の民は王国では畏れられ、忌避されていました。
彼らは我ら王国人とは違う。異物である。化け物だ。
そう言って憚らず、幻獣の民を嫌う者が、王国にはずっと多いのです。
幻獣の民のシアン様が騎士団長の地位まで登り詰めたのは、その偏見さえ払拭してしまうほどの実力があってのことだったのでしょう。
美しく、勇ましく、そして少し怖い方。
それが私の、シアン様への印象でした。
幻獣の民だから怖いというわけではありません。触れたら手が切れてしまいそうな、冷たい眼差しが、少し怖いと思っていたのです。
それに私は、シアン様のことを美しいと思っていましたから、シアン様のお姿を目に留めると、時折遠くから見つめていました。
盗み見ているという罪悪感もあったのでしょう。
畏れを感じるのは、正しくない行いをしてしまった時です。
私はシアン様を盗み見ることを、正しくないと、不敬なことだと感じていました。
「シアンは、ミュラリアの襲撃から俺や妻を守った。多くの役立たずが死んだが、シアン一人で百の兵を相手にし、打ち払った」
口元に笑みを浮かべながら、ハロルドお兄様が言いました。
多くの護衛の騎士たちが亡くなった──という意味なのでしょう。
亡くなった方々を役立たずと言ってしまえるハロルドお兄様のおそろしさに、背筋が凍えるようでした。けれど、ハロルドお兄様とはそういう方だと、私は知っています。
「俺はシアンに褒美を与えることにした。欲しいものはなんでもくれてやると。シアンはお前が欲しいそうだ」
ようやく事情が呑み込めた私は、ただただ驚いてしまって、なにも言うことができませんでした。
──どうして、私なのでしょう。
私は第七王女。七番目の私は目立たず、期待もされない存在です。お姉様たちのような華やかさはなく、シアン様の瞳に映ることがあったとは思えませんでした。
「幻獣の民に嫁ぐのは嫌か、ラティス」
ハロルドお兄様が、私を試すようにそう尋ねます。
嫌だと──答えるのが、普通なのでしょう。
けれど私はそれをしたくありませんでした。
嫌だとは思いません。どうして私をと、不思議に思うばかりではありましたが。
「いいえ、そうではなくて、驚いてしまって。けれど、望んでいただけるのなら、ありがたく受け入れたいと思います」
──密やかに憧れていた方が私を望んでくださっているのです。
驚きはしましたが、同時にありがたく思いました。
シアン様はなにもおっしゃらず、私とハロルドお兄様のやりとりを静かに聞いていました。
私よりもずっと背の高いシアン様は、隣に並ぶと大人と子供ほどの差がありました。年齢も違います。私は十五歳。婚礼が許される瀬戸際の年齢でした。
シアン様はもう成人されていて、立派に騎士団長を務められています。
私には、シアン様がどうして私を欲してくださっているのか、本当にわかりませんでした。
話が終わると、お兄様の前から退室を許されました。
シアン様とお話しをする機会もなく、すぐに輿入れの準備が始まりました。
従者たちから聞いた話では、外遊中の王家の馬車を襲った者の数はおよそ百。多くの護衛が倒れる中、シアン様はほぼお一人で、馬車を守ったのだとか。
シアン様が持つ幻獣の民の力である青い炎の中で死に絶える敵兵の姿に、味方までも恐怖する中、ハロルドお兄様だけは手を叩いて喜んでいたのだそうです。
それから数週間後、私はシアン様の邸宅へ向かいました。
静かな輿入れでした。
王族の婚姻とは総じて派手なものですが、相手は騎士団長様といえども、幻獣の民。
私を祝福する者は、誰もいませんでした。
私の世話をしていた従者たちは、城から私がいなくなることに対する喜びと、幻獣の民に嫁ぐことへの同情がない交ぜになったような表情で、私を送り出しました。
私の世話は、彼らの権力には繋がらないと、彼らは十分に理解していたのです。私に仕えるのなら、私の兄姉たちに仕えるほうがずっと城での優位な立場を得られるのです。
ハロルドお兄様も、姉たちも、私に声をかけるようなことはありませんでした。
それはいつものことですので、あまり気になりません。
それよりも、シアン様と結婚するのだという事実に、落ち着かない心持ちでした。
けれど──私の考えていた新婚生活というものは、ただの夢に終わりました。
私が輿入れをして、ほぼ時を同じくして隣国ミュラリアとの戦争が起こってしまったのです。
まともに話す暇もないまま、シアン様は戦争に向かい──三年の月日が経ちました。
その間、ウェルゼリア家に残された私は、使用人の方々に支えられながら暮らしていたのですが、つい先日、シアン様の恋人を名乗る方が家に訪れたのです。
「シアン様はあなたのせいで家に戻りたくないの。戦争が終わらないなんて嘘。ずっと私と一緒に暮らしているの」
オランジットと名乗るその方は、豊満な体つきをした、妖艶な大人の女性でした。
ブルネットの巻き毛に、長い睫毛。肉厚な唇と、高い鼻。爪の先まで綺麗に磨かれていて、ゆったりとした作りのドレスを着ています。
私よりもシアン様と年齢が近いように見えました。
全身から色香が漂う美しい女性ですから、シアン様が心を惹かれてしまうことも頷けました。
彼女に比べて私は、まるで子供です。
嫁いできて三年で、少し背丈は伸びて、胸も大きくなりました。
けれど体つきは華奢ですし、オランジットのような大人の女性とは、比べようもありません。
「それは、本当でしょうか。シアン様は、もう王都にお戻りになっていると?」
信じたくないという気持ちで、私は尋ねました。
シアン様はそんな方ではないという気持ちと、けれど私はシアン様のことをほとんど知らないという気持ちが、心の中で鬩ぎ合っているようでした。
「シアン様とは街の酒場で出会ったのよ。私は踊り子をしていたわ。シアン様は私をとても気に入ってくれて、何度も会っては抱いてくれたの。すごく情熱的にね」
耳を塞ぎたくなるようなことを、オランジットは言いました。
私は──シアン様と初夜も迎えていないのです。
私はいまだ清いままです。それなのに、シアン様は彼女を愛したのでしょうか。
本当に──?
「私のお腹には、シアン様の子供がいるの」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けました。
目の前が暗くなるようでした。なにも言えない私に追い打ちをかけるように、彼女は自分のお腹を撫でたあとに続けます。
「あなたは邪魔なのよ、ラティス・オルゲンシュタット。あなたがいるから、シアン様は帰れない。あなたを娶ったのだって、あなたの兄王に命じられて嫌々だったそうよ」
そんなこと──私は知りませんでした。
ハロルドお兄様は、シアン様のことを気に入っていました。正確にはその力を、とても気に入っているのです。
ハロルドお兄様はシアン様を王家に繋ぎ止めるため、私を無理やりシアン様に押しつけたのでしょうか。
三年前の、謁見の間でのことが思い出されます。
あの時のシアン様は──ハロルドお兄様に「ラティスを妻にしたい」と言うように、命じられていたということでしょうか。
喉の奥に氷塊を突っ込まれたようでした。
そんなわけがありません。けれど、そうかもしれません。
疑う気持ちが湧き上がり、心が冷たくなるのを、私は止めることができませんでした。
「ラティス。早くここを出ていってちょうだい。あなたはいらないの。シアン様の子を宿した以上、私が彼の妻になるのだから」
オランジットの態度や言葉に耐えかねたように、私の後ろで静かに成り行きを見守っていてくれた、ウェルゼリア家の使用人のヨアセムさんとアルセダさんが、一歩前に出ました。
「いい加減にしろ、無礼な女め。シアン様について大切な話があるというから家に通したが、嘘つきもいいところだ」
「金が欲しいのですか? ウェルゼリア家は、そのような嘘には騙されませんよ」
ヨアセムさんとアルセダさんは、黙り込んでしまった私の代わりに怒り、オランジットを追い出しました。
「ラティス様。どうか、お気になさいませんように」
「あんな女とラティス様に話をさせてしまった私たちが間違っていたのです」
私は、私を励ましてくれる使用人の方々の声を、ぼんやりと聞いていました。
けれど──私は確かにそうかもしれないと思ってしまったのです。
ハロルドお兄様なら、やりかねないことです。私のお姉様たちは、ハロルドお兄様の政権を安定させるために、政略結婚の道具にされていました。
きっと、私も同じ。
シアン様という剣を手元に置くために、王家の血筋である私を妻に娶れと命じたのです。
私は何故シアン様が私を欲してくださったのか、不思議なままでした。
けれど、ようやく腑に落ちたような心持ちでした。
シアン様は私に触れることはありませんでした。情を交わすこともなければ、キスもしませんでした。
──本当は嫌だったのに、ハロルドお兄様の命令で娶ったのなら、それも当然です。
心が、悲しみで支配されるようでした。けれど、ぬるい諦めも感じていました。
私はずっと、そうなのです。
私はどこにいても必要とされません。城の中でも、私はいらない存在でした。
女性の言う通り、私は邪魔なのだと思いました。
だから私は家を出ていくことにしたのです。
一度嫁いだ者が実家に戻るなど、恥でしかありません。
オランジットが帰るとすぐに、私はほんの少しの荷物を持って、ウェルゼリア家を出ました。
親切にしてくださったウェルゼリア家の方々には申し訳なく思いましたが、シアン様の邪魔にはなりたくないのです。
私はシアン様に憧れていましたし、結婚を望んでいただけたことを嬉しく思っていました。
けれどシアン様はそうではなかったのです。
ただただ、悲しいばかりでしたが──シアン様のお立場を思うと、不憫でなりませんでした。幻獣の民として、騎士団長にまでなられたシアン様は、そのお立場を守る必要があります。ハロルドお兄様の命令に逆らうことなどできません。
シアン様でなくとも、ハロルドお兄様に逆らうことができる人など、お城にはいなかったのですから。
シアン様がご不在でも、ウェルゼリア家の方々は私にとても優しくしてくださいました。
この三年間は本当に、穏やかな日々で──それを失うのは辛いことでしたが、これ以上迷惑をかけたくはありませんでした。
私は、なんとか一人で生きていくつもりでした。
シアン様に嫁ぐまで、私はお城を出たことはほとんどありませんでした。
まだ両親が生きていた幼い頃は──馬車に乗って、他の兄姉と共に避暑地に連れていっていただいたでしょうか。よく、覚えていません。
ウェルゼリア家に嫁いでからも、外は危険だからと、邸宅の中で暮らしていました。
シアン様はそのお立場上、人から恨まれることも多いようです。
幻獣の民が権力を持つことを気に入らないと感じる人は私が考えている以上にとても多く、シアン様がいらっしゃらない今は、シアン様の家族である私にその恨みが向けられる可能性があるのだと、使用人の方々は私が外へ行くことを止めていました。
不自由はありませんでしたし、邸宅はお庭も含めてとても広いので、窮屈にも感じませんでした。
むしろ今、王都の街中を人混みに揉まれるようにしながら歩いていると、その人の多さに圧倒されて、目眩を感じるほどです。
ひたすら歩いて、邸宅の場所がどこだったかさえわからない場所まで来ると、心細さを感じました。
ふと顔を上げると、王都の門があります。
巨大な石造りのアーチが空高くそびえ立ち、全体に複雑な彫刻が施されています。
門の前では門兵が、出入りする人々の身元を確認しています。荷馬車や、旅の人々や、出稼ぎに来る人々など、様々な格好をした者が門の前に行列を作っていました。
『これは凱旋の東門。この門から、騎士団は戦争に向かう』
三年前に、ここに立ってシアン様をお見送りした時のことが思い出されます。
門の向こう側には、国境に向かう騎士団が待機していました。人々が勝利を願い、彼らを見送っていました。華やかなその見送りの陰に隠れるようにして、私と使用人の方々とシアン様は、別れの挨拶をしたのです。
『シアン様、どうかお気をつけて。ご無事をお祈りしております』
『あぁ。ここを通り、必ず戻る。帰りを待っていてくれるか』
『はい。もちろんです、シアン様』
シアン様は静かに頷くと、馬に乗り、門の向こう側へ去っていきました。
私はその背中を、見えなくなるまでずっと見送っていました。
どうか、シアン様を守ってくださいと神に祈りながら。
ふと、どうしようもない寂寥感が込み上げてきます。
私は──シアン様に憧れていました。その憧れは、シアン様に会えない三年間で、恋に変わっていました。
お帰りになったら、なにを話そう。
私と手を繋いで、街を歩いてくれるだろうか。
抱きしめてくださることはあるのだろうか。
どうか、ご無事で。あなたを待っているから、ご無事で帰ってきてください、と。
そんなことばかりを考えていました。
それは叶わぬ夢に終わってしまいました。
私が密やかにいなくなれば、きっとシアン様は安堵されます。私がいなくなったことに安堵していた、城の従者たちのように。
自分を哀れみそうになる心を切り替えるために、私は深く息を吐きました。
ここで足を止めていては、どこにも行くことができません。
できれば王都からは身を隠して、どこか離れた街で生きていこうと思います。ハロルドお兄様にもシアン様にも見つからない場所に行かなくてはと、私は門の前の行列に並ぼうとしました。
王都の門の周囲には、市場や商店が多くあり、門の行列の最後尾がどこにあるのかわからないぐらいに、人が煩雑に溢れています。
人混みに潰されそうになりながら、私は行列を辿りました。
これほどの多くの人の中では、私の存在などあってないようなものです。
あまり目立たず地味な私ですから、余計に埋もれてしまうでしょう。
ウェルゼリア家の方々が私の不在に気づいたとしても、きっと見つかることはありません。
ここにいるたくさんの方々は私を知らず、私もまた彼らを知りません。
それがとても寂しいと、感じます。
なにも知らず気づかずに、シアン様のお傍にいることができれば、幸せだったでしょうか。
けれどもう──それはできません。
厳めしい男性にぶつかり睨まれたり、女性に邪魔だと言われたりしながらようやく見つけた行列の最後に並ぼうとすると、不意に、強い力で腕を掴まれました。
私は驚いて顔を上げました。
そして、さらに驚いて目を見開きました。
私の腕を掴んでいるのは、見上げるほどの偉丈夫で、美しく精悍な顔立ちをした──赤い瞳に燃えるような怒りを湛えた、シアン様だったのです。
──三年前より、迫力のようなものが増したでしょうか。
そこにいるだけで人目を引く美貌は変わりませんが、長く戦場に身を置いていたからでしょう、少しお痩せになった気もします。
いえ、でも、戦場ではなく、恋人のところに身を置いていたのでしたか。
私は、少し混乱をしているみたいです。
シアン様が、どうしてここに。
掴まれた腕が痛い。今にも捩じ切られるのではないかというぐらいに、大きな手が、骨ばった長い指が、私の腕を強く掴んでいます。
道行く人たちは異変に気づいたのでしょう、「シアン様だ……」と名前を呼んでざわめきながら、私たちから離れていきました。それこそ、波が引くようにというのでしょうか。
私は道の真ん中で、シアン様に腕を掴まれたまま青ざめていました。
「どこへ行く、ラティス」
真夜中に響く獣の遠吠えのような低い声が、私の名前を呼びました。
私はびくりと体を震わせて、私を見据える剣呑な光を湛えた美しいルビーのような赤い双眸を見上げました。
目立たないようにと着てきた黒いワンピースに、ショールを纏い、長い銀の髪をゆるく結った、桜色の瞳を不安げに見開いた女が、シアン様の瞳に映っています。
「……っ」
私は、息を呑みました。
まさかこんな人混みの中で、見つかってしまうなんて。それに、シアン様がどうして私を。
──本当は、おかえりなさいと言って、戦働きを労いたいのです。
寂しかった、無事でよかったと、帰還を喜び、少し甘えてみたくもありました。
理由はわからずとも妻に娶っていただいたのですから、できることなら夫婦として──愛し合いたかったのです。
「わ、私……私は、ラティスではありません」
三年も会っていなかったのですから、誤魔化せるのではないかと思いました。
──どうして、こうなったのでしょう。
見慣れたはずの部屋の、見慣れたはずのベッドの上には、はあはあと獣のような荒い息遣いが響いています。
これは、私のもの。
新鮮な空気を求めるように、息を吸い込んで、吐き出して。
幾度それを続けても、まるで足りないぐらいに苦しいのです。
体が熱くて、すごく、おかしいのです。まるで、自分が自分ではなくなるように。
私の旦那様であるシアン様が、私の両足を大きく広げて、下着の上から足の中心に顔を埋めています。
なにをしているのかはよくわからなくて。でも、ともかく熱くて、熱くて。頭がおかしくなりそうなのです。
私は、どうしてこんなことになったのかと、きつく目を閉じて瞼の裏側の暗闇を見つめました。
目尻をあたたかいものが伝い、流れ落ちていくのを感じながら。
◇◇◇
──私が、シアン・ウェルゼリア様のもとに嫁いだのは今から三年前のことでした。
その時まだ私は十五歳。
裏庭で花を眺めていたら、突然国王であるハロルドお兄様から呼び出しを受けたのです。
どこを切り取っても美しい広大なお城の、皆から忘れ去られたような裏庭にある古びた鉄製のアーチに、縦横無尽にクレマチスの蔓が絡みつき、白い花弁の瑞々しい花がいくつも咲いていたことをよく覚えています。
ハロルドお兄様に呼ばれたのは初めてのことでした。
驚き、それから緊張しながら謁見の間に辿りつき、従者たちに促されて中に入りました。
いつ来ても、寒いわけではないのに冷気が肌を突き刺すような、お兄様の権威の象徴のようなこの場所が、私は苦手でした。
豪奢な玉座の前に敷かれた赤い絨毯が靴音を吸収してくれましたが、それでもかすかな音が静かな空間に響くようで、無性に気になるのです。
居並ぶ兵士たちや従者たちの視線が全て、絨毯を歩く私に注がれています。
玉座にはハロルドお兄様が座り──その前には、とても美しい男性が背筋を真っ直ぐに伸ばして立っていました。
私はお二人の前で足を止めると、スカートを摘まみ淑女の礼をしました。
緊張から、指先が震えそうになってしまいます。
「ラティスです。ただいま、まいりました」
挨拶の言葉を考えて、一番短いものを選びました。
ハロルドお兄様は無駄を嫌います。話が長いというだけで、文官を城から追い出したという噂を聞いたことがあります。
ハロルドお兄様の前に立つだけで、鼓動が速くなります。
ハロルドお兄様は私にとって、あまりお兄様という印象はありませんでした。
オルゲンシュタット王国の末の姫として生まれた私は、お兄様に相手にされていなかったために、言葉を交わしたこともほとんどなかったのです。
厳しく、おそろしい国王陛下と──そして、オルゲンシュタット王国のグラウクス騎士団の誉れ高き騎士団長であるシアン様。
シアン様の近くに立つというだけで、さらに鼓動が速くなりました。
私には、一体なんの呼び出しなのか、皆目見当もつきませんでした。
「ラティス。シアンがお前を望んでいる」
「私を……?」
私を値踏みするように眺めながら、ハロルドお兄様がおっしゃいます。
どういう意味かわからない私に、ハロルドお兄様は口角を吊り上げて、意味ありげに笑いました。
「シアン。もう一度、お前の欲しいものを言え」
「ラティス姫を、私の妻に迎えたく思います」
シアン様の低く、あまり感情の起伏のない、けれどどこか艶のある声が響きました。
私はその言葉の意味を一瞬理解できずに、幾度か目を瞬かせて、それから──まさか、と、息を呑みました。
それは決して、シアン様のことが嫌いだからとか、婚姻が嫌だったからなどではありません。
シアン様はただそこに立っているだけで絵になる、神秘的な黒髪と真紅の瞳を持った美しい男性です。
初めてお会いした時は、なんて綺麗な方なのだろうと、見惚れてしまったことを覚えています。
同じ人間とは思えない──と表現するのは、きっといけないのでしょう。
もちろん私は、シアン様の持つ色が、その光を受けて艶めく黒髪や宝石のような真紅の瞳を持つ方々が、『幻獣の民』だと知っていました。
幻獣の民は、古くは幻獣と番った王国の者たちで、その体には幻獣の血が流れ、神秘の力を使うことができるのです。
幻獣とは、神秘の力を持つ獣のこと。今はもう伝承の中に残るだけですが、古の時代には王国人と共に暮らしていたのだと、書物には残っています。
──獣印。獣の番。
幻獣の民を、そのように呼ぶ方々もいます。
それは、ひどい言葉でした。私は、その言葉を聞くと眉をひそめたくなります。
けれど、私のように感じる者は、王国には少ないのです。
幻獣の力──人にあらざる神秘の力を持つために、同じ人でありながら、幻獣の民は王国では畏れられ、忌避されていました。
彼らは我ら王国人とは違う。異物である。化け物だ。
そう言って憚らず、幻獣の民を嫌う者が、王国にはずっと多いのです。
幻獣の民のシアン様が騎士団長の地位まで登り詰めたのは、その偏見さえ払拭してしまうほどの実力があってのことだったのでしょう。
美しく、勇ましく、そして少し怖い方。
それが私の、シアン様への印象でした。
幻獣の民だから怖いというわけではありません。触れたら手が切れてしまいそうな、冷たい眼差しが、少し怖いと思っていたのです。
それに私は、シアン様のことを美しいと思っていましたから、シアン様のお姿を目に留めると、時折遠くから見つめていました。
盗み見ているという罪悪感もあったのでしょう。
畏れを感じるのは、正しくない行いをしてしまった時です。
私はシアン様を盗み見ることを、正しくないと、不敬なことだと感じていました。
「シアンは、ミュラリアの襲撃から俺や妻を守った。多くの役立たずが死んだが、シアン一人で百の兵を相手にし、打ち払った」
口元に笑みを浮かべながら、ハロルドお兄様が言いました。
多くの護衛の騎士たちが亡くなった──という意味なのでしょう。
亡くなった方々を役立たずと言ってしまえるハロルドお兄様のおそろしさに、背筋が凍えるようでした。けれど、ハロルドお兄様とはそういう方だと、私は知っています。
「俺はシアンに褒美を与えることにした。欲しいものはなんでもくれてやると。シアンはお前が欲しいそうだ」
ようやく事情が呑み込めた私は、ただただ驚いてしまって、なにも言うことができませんでした。
──どうして、私なのでしょう。
私は第七王女。七番目の私は目立たず、期待もされない存在です。お姉様たちのような華やかさはなく、シアン様の瞳に映ることがあったとは思えませんでした。
「幻獣の民に嫁ぐのは嫌か、ラティス」
ハロルドお兄様が、私を試すようにそう尋ねます。
嫌だと──答えるのが、普通なのでしょう。
けれど私はそれをしたくありませんでした。
嫌だとは思いません。どうして私をと、不思議に思うばかりではありましたが。
「いいえ、そうではなくて、驚いてしまって。けれど、望んでいただけるのなら、ありがたく受け入れたいと思います」
──密やかに憧れていた方が私を望んでくださっているのです。
驚きはしましたが、同時にありがたく思いました。
シアン様はなにもおっしゃらず、私とハロルドお兄様のやりとりを静かに聞いていました。
私よりもずっと背の高いシアン様は、隣に並ぶと大人と子供ほどの差がありました。年齢も違います。私は十五歳。婚礼が許される瀬戸際の年齢でした。
シアン様はもう成人されていて、立派に騎士団長を務められています。
私には、シアン様がどうして私を欲してくださっているのか、本当にわかりませんでした。
話が終わると、お兄様の前から退室を許されました。
シアン様とお話しをする機会もなく、すぐに輿入れの準備が始まりました。
従者たちから聞いた話では、外遊中の王家の馬車を襲った者の数はおよそ百。多くの護衛が倒れる中、シアン様はほぼお一人で、馬車を守ったのだとか。
シアン様が持つ幻獣の民の力である青い炎の中で死に絶える敵兵の姿に、味方までも恐怖する中、ハロルドお兄様だけは手を叩いて喜んでいたのだそうです。
それから数週間後、私はシアン様の邸宅へ向かいました。
静かな輿入れでした。
王族の婚姻とは総じて派手なものですが、相手は騎士団長様といえども、幻獣の民。
私を祝福する者は、誰もいませんでした。
私の世話をしていた従者たちは、城から私がいなくなることに対する喜びと、幻獣の民に嫁ぐことへの同情がない交ぜになったような表情で、私を送り出しました。
私の世話は、彼らの権力には繋がらないと、彼らは十分に理解していたのです。私に仕えるのなら、私の兄姉たちに仕えるほうがずっと城での優位な立場を得られるのです。
ハロルドお兄様も、姉たちも、私に声をかけるようなことはありませんでした。
それはいつものことですので、あまり気になりません。
それよりも、シアン様と結婚するのだという事実に、落ち着かない心持ちでした。
けれど──私の考えていた新婚生活というものは、ただの夢に終わりました。
私が輿入れをして、ほぼ時を同じくして隣国ミュラリアとの戦争が起こってしまったのです。
まともに話す暇もないまま、シアン様は戦争に向かい──三年の月日が経ちました。
その間、ウェルゼリア家に残された私は、使用人の方々に支えられながら暮らしていたのですが、つい先日、シアン様の恋人を名乗る方が家に訪れたのです。
「シアン様はあなたのせいで家に戻りたくないの。戦争が終わらないなんて嘘。ずっと私と一緒に暮らしているの」
オランジットと名乗るその方は、豊満な体つきをした、妖艶な大人の女性でした。
ブルネットの巻き毛に、長い睫毛。肉厚な唇と、高い鼻。爪の先まで綺麗に磨かれていて、ゆったりとした作りのドレスを着ています。
私よりもシアン様と年齢が近いように見えました。
全身から色香が漂う美しい女性ですから、シアン様が心を惹かれてしまうことも頷けました。
彼女に比べて私は、まるで子供です。
嫁いできて三年で、少し背丈は伸びて、胸も大きくなりました。
けれど体つきは華奢ですし、オランジットのような大人の女性とは、比べようもありません。
「それは、本当でしょうか。シアン様は、もう王都にお戻りになっていると?」
信じたくないという気持ちで、私は尋ねました。
シアン様はそんな方ではないという気持ちと、けれど私はシアン様のことをほとんど知らないという気持ちが、心の中で鬩ぎ合っているようでした。
「シアン様とは街の酒場で出会ったのよ。私は踊り子をしていたわ。シアン様は私をとても気に入ってくれて、何度も会っては抱いてくれたの。すごく情熱的にね」
耳を塞ぎたくなるようなことを、オランジットは言いました。
私は──シアン様と初夜も迎えていないのです。
私はいまだ清いままです。それなのに、シアン様は彼女を愛したのでしょうか。
本当に──?
「私のお腹には、シアン様の子供がいるの」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けました。
目の前が暗くなるようでした。なにも言えない私に追い打ちをかけるように、彼女は自分のお腹を撫でたあとに続けます。
「あなたは邪魔なのよ、ラティス・オルゲンシュタット。あなたがいるから、シアン様は帰れない。あなたを娶ったのだって、あなたの兄王に命じられて嫌々だったそうよ」
そんなこと──私は知りませんでした。
ハロルドお兄様は、シアン様のことを気に入っていました。正確にはその力を、とても気に入っているのです。
ハロルドお兄様はシアン様を王家に繋ぎ止めるため、私を無理やりシアン様に押しつけたのでしょうか。
三年前の、謁見の間でのことが思い出されます。
あの時のシアン様は──ハロルドお兄様に「ラティスを妻にしたい」と言うように、命じられていたということでしょうか。
喉の奥に氷塊を突っ込まれたようでした。
そんなわけがありません。けれど、そうかもしれません。
疑う気持ちが湧き上がり、心が冷たくなるのを、私は止めることができませんでした。
「ラティス。早くここを出ていってちょうだい。あなたはいらないの。シアン様の子を宿した以上、私が彼の妻になるのだから」
オランジットの態度や言葉に耐えかねたように、私の後ろで静かに成り行きを見守っていてくれた、ウェルゼリア家の使用人のヨアセムさんとアルセダさんが、一歩前に出ました。
「いい加減にしろ、無礼な女め。シアン様について大切な話があるというから家に通したが、嘘つきもいいところだ」
「金が欲しいのですか? ウェルゼリア家は、そのような嘘には騙されませんよ」
ヨアセムさんとアルセダさんは、黙り込んでしまった私の代わりに怒り、オランジットを追い出しました。
「ラティス様。どうか、お気になさいませんように」
「あんな女とラティス様に話をさせてしまった私たちが間違っていたのです」
私は、私を励ましてくれる使用人の方々の声を、ぼんやりと聞いていました。
けれど──私は確かにそうかもしれないと思ってしまったのです。
ハロルドお兄様なら、やりかねないことです。私のお姉様たちは、ハロルドお兄様の政権を安定させるために、政略結婚の道具にされていました。
きっと、私も同じ。
シアン様という剣を手元に置くために、王家の血筋である私を妻に娶れと命じたのです。
私は何故シアン様が私を欲してくださったのか、不思議なままでした。
けれど、ようやく腑に落ちたような心持ちでした。
シアン様は私に触れることはありませんでした。情を交わすこともなければ、キスもしませんでした。
──本当は嫌だったのに、ハロルドお兄様の命令で娶ったのなら、それも当然です。
心が、悲しみで支配されるようでした。けれど、ぬるい諦めも感じていました。
私はずっと、そうなのです。
私はどこにいても必要とされません。城の中でも、私はいらない存在でした。
女性の言う通り、私は邪魔なのだと思いました。
だから私は家を出ていくことにしたのです。
一度嫁いだ者が実家に戻るなど、恥でしかありません。
オランジットが帰るとすぐに、私はほんの少しの荷物を持って、ウェルゼリア家を出ました。
親切にしてくださったウェルゼリア家の方々には申し訳なく思いましたが、シアン様の邪魔にはなりたくないのです。
私はシアン様に憧れていましたし、結婚を望んでいただけたことを嬉しく思っていました。
けれどシアン様はそうではなかったのです。
ただただ、悲しいばかりでしたが──シアン様のお立場を思うと、不憫でなりませんでした。幻獣の民として、騎士団長にまでなられたシアン様は、そのお立場を守る必要があります。ハロルドお兄様の命令に逆らうことなどできません。
シアン様でなくとも、ハロルドお兄様に逆らうことができる人など、お城にはいなかったのですから。
シアン様がご不在でも、ウェルゼリア家の方々は私にとても優しくしてくださいました。
この三年間は本当に、穏やかな日々で──それを失うのは辛いことでしたが、これ以上迷惑をかけたくはありませんでした。
私は、なんとか一人で生きていくつもりでした。
シアン様に嫁ぐまで、私はお城を出たことはほとんどありませんでした。
まだ両親が生きていた幼い頃は──馬車に乗って、他の兄姉と共に避暑地に連れていっていただいたでしょうか。よく、覚えていません。
ウェルゼリア家に嫁いでからも、外は危険だからと、邸宅の中で暮らしていました。
シアン様はそのお立場上、人から恨まれることも多いようです。
幻獣の民が権力を持つことを気に入らないと感じる人は私が考えている以上にとても多く、シアン様がいらっしゃらない今は、シアン様の家族である私にその恨みが向けられる可能性があるのだと、使用人の方々は私が外へ行くことを止めていました。
不自由はありませんでしたし、邸宅はお庭も含めてとても広いので、窮屈にも感じませんでした。
むしろ今、王都の街中を人混みに揉まれるようにしながら歩いていると、その人の多さに圧倒されて、目眩を感じるほどです。
ひたすら歩いて、邸宅の場所がどこだったかさえわからない場所まで来ると、心細さを感じました。
ふと顔を上げると、王都の門があります。
巨大な石造りのアーチが空高くそびえ立ち、全体に複雑な彫刻が施されています。
門の前では門兵が、出入りする人々の身元を確認しています。荷馬車や、旅の人々や、出稼ぎに来る人々など、様々な格好をした者が門の前に行列を作っていました。
『これは凱旋の東門。この門から、騎士団は戦争に向かう』
三年前に、ここに立ってシアン様をお見送りした時のことが思い出されます。
門の向こう側には、国境に向かう騎士団が待機していました。人々が勝利を願い、彼らを見送っていました。華やかなその見送りの陰に隠れるようにして、私と使用人の方々とシアン様は、別れの挨拶をしたのです。
『シアン様、どうかお気をつけて。ご無事をお祈りしております』
『あぁ。ここを通り、必ず戻る。帰りを待っていてくれるか』
『はい。もちろんです、シアン様』
シアン様は静かに頷くと、馬に乗り、門の向こう側へ去っていきました。
私はその背中を、見えなくなるまでずっと見送っていました。
どうか、シアン様を守ってくださいと神に祈りながら。
ふと、どうしようもない寂寥感が込み上げてきます。
私は──シアン様に憧れていました。その憧れは、シアン様に会えない三年間で、恋に変わっていました。
お帰りになったら、なにを話そう。
私と手を繋いで、街を歩いてくれるだろうか。
抱きしめてくださることはあるのだろうか。
どうか、ご無事で。あなたを待っているから、ご無事で帰ってきてください、と。
そんなことばかりを考えていました。
それは叶わぬ夢に終わってしまいました。
私が密やかにいなくなれば、きっとシアン様は安堵されます。私がいなくなったことに安堵していた、城の従者たちのように。
自分を哀れみそうになる心を切り替えるために、私は深く息を吐きました。
ここで足を止めていては、どこにも行くことができません。
できれば王都からは身を隠して、どこか離れた街で生きていこうと思います。ハロルドお兄様にもシアン様にも見つからない場所に行かなくてはと、私は門の前の行列に並ぼうとしました。
王都の門の周囲には、市場や商店が多くあり、門の行列の最後尾がどこにあるのかわからないぐらいに、人が煩雑に溢れています。
人混みに潰されそうになりながら、私は行列を辿りました。
これほどの多くの人の中では、私の存在などあってないようなものです。
あまり目立たず地味な私ですから、余計に埋もれてしまうでしょう。
ウェルゼリア家の方々が私の不在に気づいたとしても、きっと見つかることはありません。
ここにいるたくさんの方々は私を知らず、私もまた彼らを知りません。
それがとても寂しいと、感じます。
なにも知らず気づかずに、シアン様のお傍にいることができれば、幸せだったでしょうか。
けれどもう──それはできません。
厳めしい男性にぶつかり睨まれたり、女性に邪魔だと言われたりしながらようやく見つけた行列の最後に並ぼうとすると、不意に、強い力で腕を掴まれました。
私は驚いて顔を上げました。
そして、さらに驚いて目を見開きました。
私の腕を掴んでいるのは、見上げるほどの偉丈夫で、美しく精悍な顔立ちをした──赤い瞳に燃えるような怒りを湛えた、シアン様だったのです。
──三年前より、迫力のようなものが増したでしょうか。
そこにいるだけで人目を引く美貌は変わりませんが、長く戦場に身を置いていたからでしょう、少しお痩せになった気もします。
いえ、でも、戦場ではなく、恋人のところに身を置いていたのでしたか。
私は、少し混乱をしているみたいです。
シアン様が、どうしてここに。
掴まれた腕が痛い。今にも捩じ切られるのではないかというぐらいに、大きな手が、骨ばった長い指が、私の腕を強く掴んでいます。
道行く人たちは異変に気づいたのでしょう、「シアン様だ……」と名前を呼んでざわめきながら、私たちから離れていきました。それこそ、波が引くようにというのでしょうか。
私は道の真ん中で、シアン様に腕を掴まれたまま青ざめていました。
「どこへ行く、ラティス」
真夜中に響く獣の遠吠えのような低い声が、私の名前を呼びました。
私はびくりと体を震わせて、私を見据える剣呑な光を湛えた美しいルビーのような赤い双眸を見上げました。
目立たないようにと着てきた黒いワンピースに、ショールを纏い、長い銀の髪をゆるく結った、桜色の瞳を不安げに見開いた女が、シアン様の瞳に映っています。
「……っ」
私は、息を呑みました。
まさかこんな人混みの中で、見つかってしまうなんて。それに、シアン様がどうして私を。
──本当は、おかえりなさいと言って、戦働きを労いたいのです。
寂しかった、無事でよかったと、帰還を喜び、少し甘えてみたくもありました。
理由はわからずとも妻に娶っていただいたのですから、できることなら夫婦として──愛し合いたかったのです。
「わ、私……私は、ラティスではありません」
三年も会っていなかったのですから、誤魔化せるのではないかと思いました。
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