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1巻

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   第一章


 白い雪は深く重く、行く手を阻む。
 懸命に足を上げても思うようには進まない。大きく呼吸をしても上手く息ができず苦しい。肺は酸素を求めてるのに、吸っても吸っても痛いだけ。
 それでも立ち止まらず、空にまっすぐ伸びる針葉樹しんようじゅの森の中を、雪をかき分け走る。

(――走れ!  走れ!)

 周囲を漂う異臭と空気を震わせる獣の咆哮ほうこう。この雪で上手く進まないのは向こうも同じこと。何よりあの巨体。並べたように伸びる針葉樹しんようじゅがあの巨体には邪魔なようで、時折木にぶつかっては苛立ったようにえ、体当たりで木を倒している。
 ミシミシと大きな音を立てて倒れた木を乗り越え、素早くはないけれど確実に追ってくる大きな獣。木々の合間から少しだけ見える空には、どんよりと灰色の雲が重く垂れ込めていた。


「すまないね、もうこれ以上店を続けられなくて……」

 テーブルを挟み向かいに座るマスターは、深々と頭を下げた。

「そんな、やめてください。大丈夫ですから」

 両親を事故で亡くし、音大を中退して一人暮らしをしていた私は、このお店でお客さんのリクエストに応えてピアノを演奏し、時には歌うといった仕事をしていた。
 とはいえ演奏以外の仕事をすることもあり、厨房ちゅうぼうでの業務や接客を一通りこなせるようになったのも、ここで働いたお陰。
 ただいつからかお店の経営が厳しいという話を聞くようになり、ついにこの日、閉店することをマスターの口から聞かされた。

(仕事を探さなくちゃな)

 マスターとの話し合いを終えて自宅に戻り、バイト検索のアプリを見ながら、ふと窓の外を見る。外はいつの間にかすっかり吹雪になっていた。

(気分転換にコンビニでも行こうかな)

 ダウンジャケットを着て靴を履きながら、靴箱の上にある鏡に視線がいく。そこには、黒髪でショートヘアの私がぼんやりとこちらを見返していた。

「……大丈夫、なんとかなるよ」

 そう一人呟いて、ぎゅっと白いニット帽を深く被りアパートを出た。
 玄関を出るとすぐに吹雪で視界が悪くなり、どこを歩いているのか分からなくなった。ダウンジャケットのフードを目深まぶかに被っても、容赦なく叩きつける雪に時折息ができない。
 吹雪で視界が遮られ、真っ白な闇の中を進む。歩いているのは歩道なのか車道なのか。既に膝上まで雪が積もり、道がない。

(まずい、今ならまだ戻った方がいいかも!)

 そう思い直して立ち止まり顔を上げると、目の前に突然車のヘッドライトが現れ、耳をつんざくクラクションが鳴り響いた。

(――ぶつかる!)

 咄嗟とっさに目を瞑り、来るであろう衝撃に頭を抱える。

(……あれ?)

 けれど、何も起こらない。それどころか先ほどまでうるさかった風の音が止み、辺りにはしんとした静けさが広がっている。私は恐る恐る目を開き、周囲を窺った。

「え……?」

 家や道路脇にあるはずの雪山はなく、背の高い木々が立ち並ぶ森が広がっている。

「……え? こんなとこ、近所にあった?」

 周囲を見渡しても、木々の向こうに家があるような気配はない。
 混乱した頭でスマホを取り出し、地図アプリを開いて現在位置を確認しようとしたところで、地をうような低いうなり声が周囲に響き渡った。びくりと身体が跳ね、恐る恐る声がした方へ視線を向けると、まっすぐ伸びる木立の向こうで、大きな黒い塊がうなり声をあげている。

「熊……?」

 自分の声が上擦うわずり震えているのが分かる。

(違う……あれは、熊じゃない)

 熊よりも遥かに大きいそれには、真っ黒な体の上に頭が四つある。それぞれが白く濁った目をあちこちに向けて、裂けたような大きな口から鋭い牙を覗かせている。したたるのは唾液なのか、雪原にボタボタと垂れるそれは雪を溶かし、異臭を放っていた。腐敗臭ふはいしゅうのような不快な匂いがこちらまで漂ってくる。

「……う」

 腕で口元を覆っても、吐き気を催すほどの臭気で涙が出る。

(逃げなきゃ!)

 咄嗟とっさに立ち上がりあとずさると、いくつもの濁った目が一斉にこちらを見た。


 走る、走る、走る。
 肺が痛い。自分の心臓の音が耳元でする。雪に足を取られ何度も転んだ。いつの間にかスマホも落としてしまった。さらに涙が出てくる。
 でも泣いたって仕方ない、分かってる。進まなきゃ。そしてまた足がもつれて転ぶ。

(立って!  立たなくちゃ!)

 けれど、足が震え動かない。

(動いて……!)

 その時だった。
 ヒュンと高い音がしたと思ったら、自分の横を何かが飛んでいった。
 次いで後方から爆発音と、獣の咆哮ほうこうが大音量で響く。爆風が巻き起こり、巻き上げられた雪と何かがバラバラと身体に降りかかるのを両腕で防いでいると、前方から犬の鳴き声がした。
 顔を上げると、二匹の黒い犬がこちらに向かって駆けてくる。二匹はあっという間に私の横を通り過ぎ、後方の黒い獣にうなり声をあげて噛み付いた。
 獣は大きな黒い体から血を流し、噛み付いて離れない犬を叩き落とそうと、咆哮ほうこうを上げながら前脚を振り回す。
 尻もちをついたまま呆然とその様子を見ていると、誰かが私を追い越し黒い獣に向かっていった。
 身体を低くし人間とは思えない速さで雪の中を駆けていったその人物は、腰にいていた剣を素早く抜くと針葉樹しんようじゅの幹に足を掛け高く跳び上がり、剣を振り被って黒い獣を真っ二つに叩き切った。すごい力が加わったのか、周囲の雪を巻き上げ風圧がこちらまで届く。
 巻き上がった雪の向こう、ピタリと動きを止めた獣はゆっくりと左右に分かれ、大きな地響きを立てて倒れた。

(……剣?)

 状況が色々飲み込めない。
 立ち上がれずに呆然としていると、さっきまで獣に噛み付いていた二匹の犬がいつの間にか尻尾を振りながらこちらにやってきて、私の顔や頭にクンクンと鼻を押し付け、あちこち匂いを嗅いでくる。待って待って、君たちアレに噛みついてたでしょ!

「わわ、えっと……あ、ありがとう、助けてくれて」

 首元に茶色の模様がある犬の頭を撫でると、もう一匹の犬も自分も、と言うように尻尾を振りながら擦り寄ってくる。
 二匹の犬の頭を撫でていると、目の前に誰かが立っていることに気がついた。
 はっと顔を上げると、先ほど人間離れした速さと力で黒い獣を真っ二つにした人物がこちらを見下ろしていた。灰色のニット帽を被りゴーグルをかけ、同じく灰色のネックウォーマーを鼻の上まで覆っていて顔は見えない。

『……』
「……あ、あの」

 まずはお礼を言おうと口を開くと。

『――。――?』

 その人の話すそれは、聞いたことのない言葉だった。


 森の中、私の前を歩く背中を見つめながら前のめりになる勢いに任せ、ひたすら足を前に出し進む。ここが家の近所ではないことも、そもそも違う世界なのではないかということも、ぼんやりと頭の片隅に浮かんではいるけれど、この短時間で起こった出来事を消化しきれず頭が働かない。
 とにかく今は、私を助けてくれたその人の背中を追い掛けることだけに専念していた。
 助けてくれた人と一応会話を試みたけれど、やっぱり言葉は通じなかった。試しに英語で話しかけても首を横に振り、聞いたことのない言葉を話す。
 私は早々に会話を諦め、その人の促すままについて行くことにした。
 二匹の犬はこの人の飼い犬なのだろう、こうして歩いている間も適度な距離を保ち、一緒に森の中を進んでいる。時折こちらにやってきては顔を傾けて見上げてくる様子が可愛らしい。シェパード犬のように凛々りりしい姿をしているけれど、瞳の色は春の空のような薄い水色だった。


 気がつけば、あの人の背中が遠くなっている。
 慌ててなんとか追い付こうと足を前に進めるけれど、一向に距離が縮まらない。

(待って、こんなところで一人になりたくない)

 どこの誰だか分からないけれど、私を助けてくれて、ついて来いと身振りで示してくれた。きっと悪い人じゃない。

(置いていかないで)

 不安が心を支配する。声すら出せないほど息も上がって、呼吸が苦しい、肺が痛い。
 そんな様子に気がついたのか、二匹の犬が同時にこちらへ走り寄って来た。ワン、とその人に知らせるように吠える。
 遠くなった背中がふとこちらを振り返り、開いてしまった距離に気がついた。膝に手をつき肩で呼吸を整えていると、視界の端に足が見えた。顔を上げると、その人はネックウォーマーとゴーグルを首元まで下げ、眉根まゆねを寄せて私を見下ろしていた。
 灰色のニット帽の下にある白い肌、高い鼻梁びりょうに薄い唇、彫りの深い目元。瞳は濃い深い碧色。びっしりと瞳を縁取ふちどる長いまつ毛や凛々りりしい眉毛から想像するに、髪の色は濃いブラウンだろうか。
 うん、普通にカッコいいなと、こんな時なのに感心してしまった。

(分かってたけど、日本人じゃない)
『――、――』

 その人は何かを言うと、くるりと背を向けてしゃがみ込んだ。

「……?」

 黙って背中を見つめていると、顔だけこちらに向けて背中を親指で指し示す。

(おんぶってこと……?)

 え、どうしよう、本当に? おんぶ? いやこれ、違ったら恥ずかしいやつじゃない?
 しばらくの間、どうしたらいいのか分からず背中を見つめていたけれど、このままでは迷惑をかけてしまう。この人一人ならあっという間に移動できる距離も、私のせいでどのくらいかかるか分からない。
 こちらが理解するのを待っているのか、背中を向けたままじっとこちらを見ているその肩に手をやると、その人はふっと口角を上げて笑った。
 そのまま身体を背中に寄り添わせると、心得たように膝裏に腕を入れて立ち上がる。

(おんぶで合ってた……)

 初めて会った名前も知らない人に、この歳でおんぶされるとは……恥ずかしいやら申し訳ないやら、いやでもそんなことも言っていられない。
 はじめは恥ずかしかったけれど、安定した歩くリズムと高い体温に段々と緊張も解れていく。

「ありがとう、ございます……」

 通じないことは分かってる。でも、感謝の気持ちは伝えたい。
 その人は少しだけ顔をこちらに向け、ひとつ頷いてくれた。


 どのくらい歩いただろう。
 その人の背中から感じる高い体温にウトウトし始めていた頃、木立の中に建てられた灰色のテントに到着した。
 その人の背中から降りテントの中に入ると、簡易ベッドが一つと小さなテーブル、椅子が設置してある。手際良くテーブルの上のランタンに灯りを灯し簡易ストーブにも火をつけると、テントの中がじんわりと暖かくなった。
 オレンジ色に染まるテント内で簡易ベッドに腰を下ろすと、急に身体が重く感じられ、これまでの人生で感じたことのない疲労感に襲われる。
 許されるならこのまま横になりたい。もう何も考えられない。
 ぼんやりとその人の行動を見つめていると、その人は首元にあるゴーグルとネックウォーマー、灰色のニット帽をおもむろに脱ぎ、上着の前をくつろげた。
 帽子の下から現れた青みがかった濃いブラウンの髪は短く切り揃えられ、端正たんせいな顔立ちを引き立てている。相変わらずうっすら眉間みけんに皺を寄せ、不機嫌な印象の切れ長の瞳。
 私は急に、どうしたらいいのか分からずうつむいた。
 知らない場所で知らない人と二人きり。この状況はなんだろう。
 何か話そうにも言葉は通じないし、この居た堪れない空間でどうしたらいいのか分からない。黙って自分の足元を見つめていると、いつの間に用意したのか、その人が湯気の立つカップをテーブルに置いた。見ると自分の分も用意して一口飲み、ふぅ、と一息ついている。
 綺麗な手だな、と所作しょさを見つめながら思う。グローブを外した手は大きく節々がゴツゴツしているけれど、長い指が美しい。
 伏し目がちになったその顔をテーブルの上の灯りがユラユラと照らす。
 いつまでもカップに手をつけないのは失礼だと思い、有り難くいただこうとしたところで、自分が未だに手袋と帽子をしていることに気がついた。
 慌てて手袋を脱ぎ帽子を取る。息を呑む気配がして顔を上げると、その人は目を見張りこちらを見ている。

「いただきます……」

 目の前のカップに手を伸ばしてはじめて、自分の手が震えていることに気がついた。

「あ、あれ?」

 カタカタと震える手で掴んだカップから中身が零れそうになり、慌ててテーブルに戻して膝の上でギュッと手を握り締めてみる。なんとか震えを止めようと手を握ったり開いたりしていると、その人が私の側に来て膝をつき、震える手を片手で優しく握り込んでもう片方の手で背中をさすってくれた。

『――、――』

 何かを繰り返し呟く。眉間みけんに皺が寄っているけれど、こちらを覗き込むその瞳は優しい。

「……っ」

 それからはもうダメだった。
 不安と恐怖に押しつぶされていた感情はとめどなく涙になって溢れ出る。
 私はその肩に額を押し付け、身体を震わせ声を殺して、泣いた。
 その人は静かに私を受け止め、大きな手で背中を撫で続けてくれた。


 視界にぼんやりとオレンジ色に光るランタンが目に入った。
 あのまま泣き続け、いつの間にか眠ってしまったらしい。ため息を吐き、ノロノロと重たい身体を起こす。周囲を見渡し、これは夢ではないのだと思い知らされる。
 立ち上がり、ぐっと背を伸ばしてから外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。テントから少し離れた位置で、あの人が焚き火の前に座る姿が闇に浮かび上がっている。厚い雲がかかったままなのか空には星ひとつ見えず、吐く息は白いのにあまり寒さは感じられない不思議な夜。
 今日助けてくれた首周りが茶色の犬が、尻尾を振りながら寄ってきた。
 私、昔から動物には好かれるんだよね。ふふ、と自然と笑みが零れる。

「いい子ね」

 焚き火の方を見ると、こちらを黙って見ていたその人が自分の隣にある丸太をポンポンと叩いた。初めて会った男性の肩で泣きじゃくった上に寝てしまうとか、普段なら考えられない自分の行動に戸惑うけれど、ここまで現実離れしていると最早それは問題ではなく。
 今はとにかく、心細さを埋めたくて、誰かの側にいたかった。
 大人しく近づいて座るとその人は満足そうに頷き、火にかけていたケトルから湯気の立つお茶をカップに注いで手渡してくれた。さっきと同じ甘い香りがする。

「ありがとうございます」

 そっとお礼を言って顔を見上げると、また何か呟いた。さっき泣いていた時に繰り返し言われた言葉と同じ言葉だ。

「……たい、しょぽ?」

 言葉を真似してみると、ちょっと意外そうな表情でこちらを見て、ゆっくりと繰り返した。

『――ぶ』
「た、しょぷ」
『だ――うぶ』
「た?」
『だ』
「だ」
『だい』
「だい」
『じょうぶ』
「ちょうぷ」
『大丈夫』
「だいちょうぷ」

 あ、近くなったかな。意味は分からないけど。
 そう思ってもう一度繰り返すと、その人はふっと笑った。こんな状況なのに、なんだかくすぐったく恥ずかしくなってうつむいてしまう。だって普通にイケメンだし。
 トントンと指で膝を叩かれて顔を上げると、その人は自分の胸に手を当て、ゆっくりとひとつの単語を発音した。

「――レオニダス」

 その響きは、ストンと私の中に落ちてきた。それまで何を言っているのか分からなかったはずなのに、その単語はしっかりと聞き取れた。違う、単語ではない。

「……レオニダス?」

 そっと繰り返してみる。
 見上げるように顔を覗き込むと、その人は、レオニダスは優しく笑って頷いた。レオニダスの隣で目を瞑り伏せている耳の先だけが茶色の犬を『オッテ』と言って頭を撫でる。

「オッテ」

 呼ぶと、オッテは目を瞑ったまま耳だけをこちらに向けた。ふふっと笑うと、私の隣にくっついていた首周りが茶色の犬が膝の上に顎を乗せ見上げてくる。
 レオニダスが『ウル』と呼ぶとパッと顔を上げて尻尾を振った。

「ウルっていうのね」

 頭を撫でると嬉しそうにブンブンと尻尾を振り、顔を舐めてくる。

「ひゃあ!」

 くすぐったくて身を捩ると、レオニダスが『ウル!』と笑いながら名前を呼び、座るよう指示をする。興奮した様子を見せながらも、ウルはちゃんと伏せの姿勢をとる。かわいい。
 トントンと再び膝を叩かれて振り返ると、こちらをじっと見つめるレオニダスと目が合う。
 そう、私の名前。

長瀬ながせ……」
「ナガセ?」

 レオニダスは首を傾げ名前を呼ぶ。コクコクと首肯すると「ナガセ、ナガセ……」と、練習するように繰り返し呼んだ。
 それが嬉しくて、私も「レオニダス」と繰り返し呼ぶ。あんまりしつこく繰り返すものだから、レオニダスはもういいと言うように笑いながら私の頭をグシャグシャと撫で回した。


 ◇


「はぁ……」

 頭を浴槽よくそうふちに乗せ肩までしっかり湯船に浸かると、自然と深いため息が出た。
 あれから一夜明けてテントを出発した私たちは、森を抜けすごく大きな石壁沿いに歩き続け、街に入った。そうして連れてこられたここは、どうやらレオニダスの家。
 いや、家というか、お屋敷?
 とにかくすごく大きくて立派で、いわゆる貴族、なのかなと思う。
 貴族……。テレビでしか見たことがないから正確には分からないけれど。
 執事しつじのような格好をしたロマンスグレーの渋いおじさまと、栗色の髪を後ろで一つにまとめた、柔らかな雰囲気の品のいい女性が玄関でレオニダスを出迎えた。他にも使用人のような格好の人々が、レオニダスの馬や荷物をお屋敷へ運び入れる。
 みんなチラチラと私を見て、けれど何も言わない。
 ウルとオッテは迷わずお屋敷へ駆けていってしまった。手持無沙汰でぼんやりと立っていると、おじさまと話し終えたレオニダスがやって来てじっと私を見下ろした。
 私は女性としては背が高い方で、男性を見上げることはあまりないけれど、レオニダスは首が痛くなるくらい見上げないと視線が合わない。服を着ていても鍛え上げられた筋肉を感じる。
 手足が恐ろしく長く顔も小さい。羨ましい。とにかく、スタイルがいい。
 レオニダスは相変わらず眉根まゆねを寄せたまま、深く碧い瞳を揺らめかせて私をしばらく見下ろしたあと、大きな手でポンポンと頭を撫でて去って行った。

(あ、行っちゃう)

 急に離れていくレオニダスの後ろ姿に心細さが襲ってくる。

(あとでまた、会えるよね?)

 駆け寄って後ろをついて行きたい。そんなことを思いながらレオニダスの背中をじっと見つめていると、先ほど玄関で見たおじさまが無表情で私の前に立ち塞がった。
 そして案内されたのが、このお風呂付きのお部屋。
 おじさまに案内されたこの部屋は、私が今日泊まる部屋らしい。
 部屋から続く扉の向こうが浴室になっていて、今、こうしてゆっくりとお湯に浸かっているというわけだ。てのひらでお湯をすくってみると、お風呂のお湯は白く濁っていて、どうやら温泉のよう。

(生き返る……お風呂最高)

 この世界の季節は私が暮らしていた街と同じような感じ。肌で感じる冬の寒さに違和感がない。肌を刺す冷たい風にどんよりと低く広がる灰色の雲、時折チラチラと降ってくる白い雪。私が暮らしていた世界と同じ冬。
 だけど違う。
 あの見たことのない獣も、レオニダスが腰にいている剣も銀色に鈍く光る武器も。建物も人々も。言葉も。私の全然知らない世界。
 どうしてここにいるんだろう。何が起きた? 私は、……帰れるの?
 元の世界に、私のいた世界に戻れるの? もし、もしも戻れなかったら……
 そこまで考えて、思考することをやめた。
 息を止めてバシャンとお湯の中に潜る。頭の中で色んな可能性が浮かんでは消え、答えなんか分からない。最悪な事態も楽観的な考えも、ぐるぐる、ぐるぐる。
 ぷはっと水面に勢いよく顔を出し目を開ける。
 ぼうっと白い湯気が広がる見知らぬ浴室、見知らぬ景色。

「はあ……」
(もう、今はとにかく置かれた状況でなんとかしなくちゃ……)

 幸いにも、優しい人に助けてもらった。
 こうして暖かい部屋とお風呂を用意してくれて、言葉は通じなくても表情からとても気に掛けてくれているのが分かる。優しくされて、絆されているだけなのかもしれないけれど、それでもいい。

(レオニダスに会えてよかった)

 今は、それだけが全て。


 浴室を出ると、新しい着替えが用意してあった。
 お風呂で下着は洗ったけれど、さすがに濡れたのは嫌だなと思っていたから助かった。かごに用意してあった肌着らしきものを手に取り広げ。

(これって……)

 手にしたそれは、どう見ても男性用の下着、に見える。

(子供どころか、男の子だと思われている……)

 結局私は、用意された下着を身に着けた。なんかスースーする……


 ドアをノックする音がして意識が浮上した。
 浴室から出たあと、いつの間にか眠っていたみたい。慌てて返事をしてドアを開けると、お仕着せを着た男性が頭を下げた。部屋を出るよう促しているみたい。
 ソロソロと男性の前を通り過ぎて部屋を出る時、ものすごく頭の方に視線を感じた。
 え、寝癖ついてます?
 髪を手櫛てぐしで整えながら男性の後ろをついて行くと、リビングのような部屋に通された。
 部屋の中央にあるソファにレオニダスが座っていて、シャツにガウンのようなものを羽織りゆったりとした姿でお茶を飲んでいる。足元にはオッテがお行儀良く座っていて、ウルは私が入室した途端、足元にやって来た。頭を撫でてやると、千切れんばかりに尻尾を振る。

(それにしてもイケメンはどんな格好をしていてもイケメン)

 立ったままレオニダスを鑑賞して現実逃避をしていると、レオニダスが手招きをして私に向かい側に座るよう促した。素直にぽすんとソファに腰掛けると、レオニダスは「エーリク」と、自分の後ろを振り返る。
 レオニダスの背後から話し声が聞こえ、そちらをじっと見ていると、ふわふわした金色の頭がそっと現れた。エメラルドのようにキラキラした、宝石のような瞳の子がこちらにチラリと視線を向けてすぐに逸らした。
 ……と思ったら、大きな瞳をこれでもかと見開いてがっつり二度見された。チラリとかじゃなくて、がっつり。
 そして私もその子をがっつり見てる。目を見開いて。

(――天使ですか!)

 なんて可愛いんだろう!


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