1 / 89
1巻
1-1
しおりを挟む
第一章
白い雪は深く重く、行く手を阻む。
懸命に足を上げても思うようには進まない。大きく呼吸をしても上手く息ができず苦しい。肺は酸素を求めてるのに、吸っても吸っても痛いだけ。
それでも立ち止まらず、空にまっすぐ伸びる針葉樹の森の中を、雪をかき分け走る。
(――走れ! 走れ!)
周囲を漂う異臭と空気を震わせる獣の咆哮。この雪で上手く進まないのは向こうも同じこと。何よりあの巨体。並べたように伸びる針葉樹があの巨体には邪魔なようで、時折木にぶつかっては苛立ったように吼え、体当たりで木を倒している。
ミシミシと大きな音を立てて倒れた木を乗り越え、素早くはないけれど確実に追ってくる大きな獣。木々の合間から少しだけ見える空には、どんよりと灰色の雲が重く垂れ込めていた。
「すまないね、もうこれ以上店を続けられなくて……」
テーブルを挟み向かいに座るマスターは、深々と頭を下げた。
「そんな、やめてください。大丈夫ですから」
両親を事故で亡くし、音大を中退して一人暮らしをしていた私は、このお店でお客さんのリクエストに応えてピアノを演奏し、時には歌うといった仕事をしていた。
とはいえ演奏以外の仕事をすることもあり、厨房での業務や接客を一通りこなせるようになったのも、ここで働いたお陰。
ただいつからかお店の経営が厳しいという話を聞くようになり、ついにこの日、閉店することをマスターの口から聞かされた。
(仕事を探さなくちゃな)
マスターとの話し合いを終えて自宅に戻り、バイト検索のアプリを見ながら、ふと窓の外を見る。外はいつの間にかすっかり吹雪になっていた。
(気分転換にコンビニでも行こうかな)
ダウンジャケットを着て靴を履きながら、靴箱の上にある鏡に視線がいく。そこには、黒髪でショートヘアの私がぼんやりとこちらを見返していた。
「……大丈夫、なんとかなるよ」
そう一人呟いて、ぎゅっと白いニット帽を深く被りアパートを出た。
玄関を出るとすぐに吹雪で視界が悪くなり、どこを歩いているのか分からなくなった。ダウンジャケットのフードを目深に被っても、容赦なく叩きつける雪に時折息ができない。
吹雪で視界が遮られ、真っ白な闇の中を進む。歩いているのは歩道なのか車道なのか。既に膝上まで雪が積もり、道がない。
(まずい、今ならまだ戻った方がいいかも!)
そう思い直して立ち止まり顔を上げると、目の前に突然車のヘッドライトが現れ、耳をつんざくクラクションが鳴り響いた。
(――ぶつかる!)
咄嗟に目を瞑り、来るであろう衝撃に頭を抱える。
(……あれ?)
けれど、何も起こらない。それどころか先ほどまでうるさかった風の音が止み、辺りにはしんとした静けさが広がっている。私は恐る恐る目を開き、周囲を窺った。
「え……?」
家や道路脇にあるはずの雪山はなく、背の高い木々が立ち並ぶ森が広がっている。
「……え? こんなとこ、近所にあった?」
周囲を見渡しても、木々の向こうに家があるような気配はない。
混乱した頭でスマホを取り出し、地図アプリを開いて現在位置を確認しようとしたところで、地を這うような低い唸り声が周囲に響き渡った。びくりと身体が跳ね、恐る恐る声がした方へ視線を向けると、まっすぐ伸びる木立の向こうで、大きな黒い塊が唸り声をあげている。
「熊……?」
自分の声が上擦り震えているのが分かる。
(違う……あれは、熊じゃない)
熊よりも遥かに大きいそれには、真っ黒な体の上に頭が四つある。それぞれが白く濁った目をあちこちに向けて、裂けたような大きな口から鋭い牙を覗かせている。滴るのは唾液なのか、雪原にボタボタと垂れるそれは雪を溶かし、異臭を放っていた。腐敗臭のような不快な匂いがこちらまで漂ってくる。
「……う」
腕で口元を覆っても、吐き気を催すほどの臭気で涙が出る。
(逃げなきゃ!)
咄嗟に立ち上がりあとずさると、いくつもの濁った目が一斉にこちらを見た。
走る、走る、走る。
肺が痛い。自分の心臓の音が耳元でする。雪に足を取られ何度も転んだ。いつの間にかスマホも落としてしまった。さらに涙が出てくる。
でも泣いたって仕方ない、分かってる。進まなきゃ。そしてまた足が縺れて転ぶ。
(立って! 立たなくちゃ!)
けれど、足が震え動かない。
(動いて……!)
その時だった。
ヒュンと高い音がしたと思ったら、自分の横を何かが飛んでいった。
次いで後方から爆発音と、獣の咆哮が大音量で響く。爆風が巻き起こり、巻き上げられた雪と何かがバラバラと身体に降りかかるのを両腕で防いでいると、前方から犬の鳴き声がした。
顔を上げると、二匹の黒い犬がこちらに向かって駆けてくる。二匹はあっという間に私の横を通り過ぎ、後方の黒い獣に唸り声をあげて噛み付いた。
獣は大きな黒い体から血を流し、噛み付いて離れない犬を叩き落とそうと、咆哮を上げながら前脚を振り回す。
尻もちをついたまま呆然とその様子を見ていると、誰かが私を追い越し黒い獣に向かっていった。
身体を低くし人間とは思えない速さで雪の中を駆けていったその人物は、腰に佩いていた剣を素早く抜くと針葉樹の幹に足を掛け高く跳び上がり、剣を振り被って黒い獣を真っ二つに叩き切った。すごい力が加わったのか、周囲の雪を巻き上げ風圧がこちらまで届く。
巻き上がった雪の向こう、ピタリと動きを止めた獣はゆっくりと左右に分かれ、大きな地響きを立てて倒れた。
(……剣?)
状況が色々飲み込めない。
立ち上がれずに呆然としていると、さっきまで獣に噛み付いていた二匹の犬がいつの間にか尻尾を振りながらこちらにやってきて、私の顔や頭にクンクンと鼻を押し付け、あちこち匂いを嗅いでくる。待って待って、君たちアレに噛みついてたでしょ!
「わわ、えっと……あ、ありがとう、助けてくれて」
首元に茶色の模様がある犬の頭を撫でると、もう一匹の犬も自分も、と言うように尻尾を振りながら擦り寄ってくる。
二匹の犬の頭を撫でていると、目の前に誰かが立っていることに気がついた。
はっと顔を上げると、先ほど人間離れした速さと力で黒い獣を真っ二つにした人物がこちらを見下ろしていた。灰色のニット帽を被りゴーグルをかけ、同じく灰色のネックウォーマーを鼻の上まで覆っていて顔は見えない。
『……』
「……あ、あの」
まずはお礼を言おうと口を開くと。
『――。――?』
その人の話すそれは、聞いたことのない言葉だった。
森の中、私の前を歩く背中を見つめながら前のめりになる勢いに任せ、ひたすら足を前に出し進む。ここが家の近所ではないことも、そもそも違う世界なのではないかということも、ぼんやりと頭の片隅に浮かんではいるけれど、この短時間で起こった出来事を消化しきれず頭が働かない。
とにかく今は、私を助けてくれたその人の背中を追い掛けることだけに専念していた。
助けてくれた人と一応会話を試みたけれど、やっぱり言葉は通じなかった。試しに英語で話しかけても首を横に振り、聞いたことのない言葉を話す。
私は早々に会話を諦め、その人の促すままについて行くことにした。
二匹の犬はこの人の飼い犬なのだろう、こうして歩いている間も適度な距離を保ち、一緒に森の中を進んでいる。時折こちらにやってきては顔を傾けて見上げてくる様子が可愛らしい。シェパード犬のように凛々しい姿をしているけれど、瞳の色は春の空のような薄い水色だった。
気がつけば、あの人の背中が遠くなっている。
慌ててなんとか追い付こうと足を前に進めるけれど、一向に距離が縮まらない。
(待って、こんなところで一人になりたくない)
どこの誰だか分からないけれど、私を助けてくれて、ついて来いと身振りで示してくれた。きっと悪い人じゃない。
(置いていかないで)
不安が心を支配する。声すら出せないほど息も上がって、呼吸が苦しい、肺が痛い。
そんな様子に気がついたのか、二匹の犬が同時にこちらへ走り寄って来た。ワン、とその人に知らせるように吠える。
遠くなった背中がふとこちらを振り返り、開いてしまった距離に気がついた。膝に手をつき肩で呼吸を整えていると、視界の端に足が見えた。顔を上げると、その人はネックウォーマーとゴーグルを首元まで下げ、眉根を寄せて私を見下ろしていた。
灰色のニット帽の下にある白い肌、高い鼻梁に薄い唇、彫りの深い目元。瞳は濃い深い碧色。びっしりと瞳を縁取る長いまつ毛や凛々しい眉毛から想像するに、髪の色は濃いブラウンだろうか。
うん、普通にカッコいいなと、こんな時なのに感心してしまった。
(分かってたけど、日本人じゃない)
『――、――』
その人は何かを言うと、くるりと背を向けてしゃがみ込んだ。
「……?」
黙って背中を見つめていると、顔だけこちらに向けて背中を親指で指し示す。
(おんぶってこと……?)
え、どうしよう、本当に? おんぶ? いやこれ、違ったら恥ずかしいやつじゃない?
しばらくの間、どうしたらいいのか分からず背中を見つめていたけれど、このままでは迷惑をかけてしまう。この人一人ならあっという間に移動できる距離も、私のせいでどのくらいかかるか分からない。
こちらが理解するのを待っているのか、背中を向けたままじっとこちらを見ているその肩に手をやると、その人はふっと口角を上げて笑った。
そのまま身体を背中に寄り添わせると、心得たように膝裏に腕を入れて立ち上がる。
(おんぶで合ってた……)
初めて会った名前も知らない人に、この歳でおんぶされるとは……恥ずかしいやら申し訳ないやら、いやでもそんなことも言っていられない。
はじめは恥ずかしかったけれど、安定した歩くリズムと高い体温に段々と緊張も解れていく。
「ありがとう、ございます……」
通じないことは分かってる。でも、感謝の気持ちは伝えたい。
その人は少しだけ顔をこちらに向け、ひとつ頷いてくれた。
どのくらい歩いただろう。
その人の背中から感じる高い体温にウトウトし始めていた頃、木立の中に建てられた灰色のテントに到着した。
その人の背中から降りテントの中に入ると、簡易ベッドが一つと小さなテーブル、椅子が設置してある。手際良くテーブルの上のランタンに灯りを灯し簡易ストーブにも火をつけると、テントの中がじんわりと暖かくなった。
オレンジ色に染まるテント内で簡易ベッドに腰を下ろすと、急に身体が重く感じられ、これまでの人生で感じたことのない疲労感に襲われる。
許されるならこのまま横になりたい。もう何も考えられない。
ぼんやりとその人の行動を見つめていると、その人は首元にあるゴーグルとネックウォーマー、灰色のニット帽を徐に脱ぎ、上着の前を寛げた。
帽子の下から現れた青みがかった濃いブラウンの髪は短く切り揃えられ、端正な顔立ちを引き立てている。相変わらずうっすら眉間に皺を寄せ、不機嫌な印象の切れ長の瞳。
私は急に、どうしたらいいのか分からず俯いた。
知らない場所で知らない人と二人きり。この状況はなんだろう。
何か話そうにも言葉は通じないし、この居た堪れない空間でどうしたらいいのか分からない。黙って自分の足元を見つめていると、いつの間に用意したのか、その人が湯気の立つカップをテーブルに置いた。見ると自分の分も用意して一口飲み、ふぅ、と一息ついている。
綺麗な手だな、と所作を見つめながら思う。グローブを外した手は大きく節々がゴツゴツしているけれど、長い指が美しい。
伏し目がちになったその顔をテーブルの上の灯りがユラユラと照らす。
いつまでもカップに手をつけないのは失礼だと思い、有り難くいただこうとしたところで、自分が未だに手袋と帽子をしていることに気がついた。
慌てて手袋を脱ぎ帽子を取る。息を呑む気配がして顔を上げると、その人は目を見張りこちらを見ている。
「いただきます……」
目の前のカップに手を伸ばしてはじめて、自分の手が震えていることに気がついた。
「あ、あれ?」
カタカタと震える手で掴んだカップから中身が零れそうになり、慌ててテーブルに戻して膝の上でギュッと手を握り締めてみる。なんとか震えを止めようと手を握ったり開いたりしていると、その人が私の側に来て膝をつき、震える手を片手で優しく握り込んでもう片方の手で背中を摩ってくれた。
『――、――』
何かを繰り返し呟く。眉間に皺が寄っているけれど、こちらを覗き込むその瞳は優しい。
「……っ」
それからはもうダメだった。
不安と恐怖に押しつぶされていた感情はとめどなく涙になって溢れ出る。
私はその肩に額を押し付け、身体を震わせ声を殺して、泣いた。
その人は静かに私を受け止め、大きな手で背中を撫で続けてくれた。
視界にぼんやりとオレンジ色に光るランタンが目に入った。
あのまま泣き続け、いつの間にか眠ってしまったらしい。ため息を吐き、ノロノロと重たい身体を起こす。周囲を見渡し、これは夢ではないのだと思い知らされる。
立ち上がり、ぐっと背を伸ばしてから外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。テントから少し離れた位置で、あの人が焚き火の前に座る姿が闇に浮かび上がっている。厚い雲がかかったままなのか空には星ひとつ見えず、吐く息は白いのにあまり寒さは感じられない不思議な夜。
今日助けてくれた首周りが茶色の犬が、尻尾を振りながら寄ってきた。
私、昔から動物には好かれるんだよね。ふふ、と自然と笑みが零れる。
「いい子ね」
焚き火の方を見ると、こちらを黙って見ていたその人が自分の隣にある丸太をポンポンと叩いた。初めて会った男性の肩で泣きじゃくった上に寝てしまうとか、普段なら考えられない自分の行動に戸惑うけれど、ここまで現実離れしていると最早それは問題ではなく。
今はとにかく、心細さを埋めたくて、誰かの側にいたかった。
大人しく近づいて座るとその人は満足そうに頷き、火にかけていたケトルから湯気の立つお茶をカップに注いで手渡してくれた。さっきと同じ甘い香りがする。
「ありがとうございます」
そっとお礼を言って顔を見上げると、また何か呟いた。さっき泣いていた時に繰り返し言われた言葉と同じ言葉だ。
「……たい、しょぽ?」
言葉を真似してみると、ちょっと意外そうな表情でこちらを見て、ゆっくりと繰り返した。
『――ぶ』
「た、しょぷ」
『だ――うぶ』
「た?」
『だ』
「だ」
『だい』
「だい」
『じょうぶ』
「ちょうぷ」
『大丈夫』
「だいちょうぷ」
あ、近くなったかな。意味は分からないけど。
そう思ってもう一度繰り返すと、その人はふっと笑った。こんな状況なのに、なんだかくすぐったく恥ずかしくなって俯いてしまう。だって普通にイケメンだし。
トントンと指で膝を叩かれて顔を上げると、その人は自分の胸に手を当て、ゆっくりとひとつの単語を発音した。
「――レオニダス」
その響きは、ストンと私の中に落ちてきた。それまで何を言っているのか分からなかったはずなのに、その単語はしっかりと聞き取れた。違う、単語ではない。
「……レオニダス?」
そっと繰り返してみる。
見上げるように顔を覗き込むと、その人は、レオニダスは優しく笑って頷いた。レオニダスの隣で目を瞑り伏せている耳の先だけが茶色の犬を『オッテ』と言って頭を撫でる。
「オッテ」
呼ぶと、オッテは目を瞑ったまま耳だけをこちらに向けた。ふふっと笑うと、私の隣にくっついていた首周りが茶色の犬が膝の上に顎を乗せ見上げてくる。
レオニダスが『ウル』と呼ぶとパッと顔を上げて尻尾を振った。
「ウルっていうのね」
頭を撫でると嬉しそうにブンブンと尻尾を振り、顔を舐めてくる。
「ひゃあ!」
くすぐったくて身を捩ると、レオニダスが『ウル!』と笑いながら名前を呼び、座るよう指示をする。興奮した様子を見せながらも、ウルはちゃんと伏せの姿勢をとる。かわいい。
トントンと再び膝を叩かれて振り返ると、こちらをじっと見つめるレオニダスと目が合う。
そう、私の名前。
「長瀬……」
「ナガセ?」
レオニダスは首を傾げ名前を呼ぶ。コクコクと首肯すると「ナガセ、ナガセ……」と、練習するように繰り返し呼んだ。
それが嬉しくて、私も「レオニダス」と繰り返し呼ぶ。あんまりしつこく繰り返すものだから、レオニダスはもういいと言うように笑いながら私の頭をグシャグシャと撫で回した。
◇
「はぁ……」
頭を浴槽の縁に乗せ肩までしっかり湯船に浸かると、自然と深いため息が出た。
あれから一夜明けてテントを出発した私たちは、森を抜けすごく大きな石壁沿いに歩き続け、街に入った。そうして連れてこられたここは、どうやらレオニダスの家。
いや、家というか、お屋敷?
とにかくすごく大きくて立派で、いわゆる貴族、なのかなと思う。
貴族……。テレビでしか見たことがないから正確には分からないけれど。
執事のような格好をしたロマンスグレーの渋いおじさまと、栗色の髪を後ろで一つに纏めた、柔らかな雰囲気の品のいい女性が玄関でレオニダスを出迎えた。他にも使用人のような格好の人々が、レオニダスの馬や荷物をお屋敷へ運び入れる。
みんなチラチラと私を見て、けれど何も言わない。
ウルとオッテは迷わずお屋敷へ駆けていってしまった。手持無沙汰でぼんやりと立っていると、おじさまと話し終えたレオニダスがやって来てじっと私を見下ろした。
私は女性としては背が高い方で、男性を見上げることはあまりないけれど、レオニダスは首が痛くなるくらい見上げないと視線が合わない。服を着ていても鍛え上げられた筋肉を感じる。
手足が恐ろしく長く顔も小さい。羨ましい。とにかく、スタイルがいい。
レオニダスは相変わらず眉根を寄せたまま、深く碧い瞳を揺らめかせて私をしばらく見下ろしたあと、大きな手でポンポンと頭を撫でて去って行った。
(あ、行っちゃう)
急に離れていくレオニダスの後ろ姿に心細さが襲ってくる。
(あとでまた、会えるよね?)
駆け寄って後ろをついて行きたい。そんなことを思いながらレオニダスの背中をじっと見つめていると、先ほど玄関で見たおじさまが無表情で私の前に立ち塞がった。
そして案内されたのが、このお風呂付きのお部屋。
おじさまに案内されたこの部屋は、私が今日泊まる部屋らしい。
部屋から続く扉の向こうが浴室になっていて、今、こうしてゆっくりとお湯に浸かっているというわけだ。掌でお湯を掬ってみると、お風呂のお湯は白く濁っていて、どうやら温泉のよう。
(生き返る……お風呂最高)
この世界の季節は私が暮らしていた街と同じような感じ。肌で感じる冬の寒さに違和感がない。肌を刺す冷たい風にどんよりと低く広がる灰色の雲、時折チラチラと降ってくる白い雪。私が暮らしていた世界と同じ冬。
だけど違う。
あの見たことのない獣も、レオニダスが腰に佩いている剣も銀色に鈍く光る武器も。建物も人々も。言葉も。私の全然知らない世界。
どうしてここにいるんだろう。何が起きた? 私は、……帰れるの?
元の世界に、私のいた世界に戻れるの? もし、もしも戻れなかったら……
そこまで考えて、思考することをやめた。
息を止めてバシャンとお湯の中に潜る。頭の中で色んな可能性が浮かんでは消え、答えなんか分からない。最悪な事態も楽観的な考えも、ぐるぐる、ぐるぐる。
ぷはっと水面に勢いよく顔を出し目を開ける。
ぼうっと白い湯気が広がる見知らぬ浴室、見知らぬ景色。
「はあ……」
(もう、今はとにかく置かれた状況でなんとかしなくちゃ……)
幸いにも、優しい人に助けてもらった。
こうして暖かい部屋とお風呂を用意してくれて、言葉は通じなくても表情からとても気に掛けてくれているのが分かる。優しくされて、絆されているだけなのかもしれないけれど、それでもいい。
(レオニダスに会えてよかった)
今は、それだけが全て。
浴室を出ると、新しい着替えが用意してあった。
お風呂で下着は洗ったけれど、さすがに濡れたのは嫌だなと思っていたから助かった。籠に用意してあった肌着らしきものを手に取り広げ。
(これって……)
手にしたそれは、どう見ても男性用の下着、に見える。
(子供どころか、男の子だと思われている……)
結局私は、用意された下着を身に着けた。なんかスースーする……
ドアをノックする音がして意識が浮上した。
浴室から出たあと、いつの間にか眠っていたみたい。慌てて返事をしてドアを開けると、お仕着せを着た男性が頭を下げた。部屋を出るよう促しているみたい。
ソロソロと男性の前を通り過ぎて部屋を出る時、ものすごく頭の方に視線を感じた。
え、寝癖ついてます?
髪を手櫛で整えながら男性の後ろをついて行くと、リビングのような部屋に通された。
部屋の中央にあるソファにレオニダスが座っていて、シャツにガウンのようなものを羽織りゆったりとした姿でお茶を飲んでいる。足元にはオッテがお行儀良く座っていて、ウルは私が入室した途端、足元にやって来た。頭を撫でてやると、千切れんばかりに尻尾を振る。
(それにしてもイケメンはどんな格好をしていてもイケメン)
立ったままレオニダスを鑑賞して現実逃避をしていると、レオニダスが手招きをして私に向かい側に座るよう促した。素直にぽすんとソファに腰掛けると、レオニダスは「エーリク」と、自分の後ろを振り返る。
レオニダスの背後から話し声が聞こえ、そちらをじっと見ていると、ふわふわした金色の頭がそっと現れた。エメラルドのようにキラキラした、宝石のような瞳の子がこちらにチラリと視線を向けてすぐに逸らした。
……と思ったら、大きな瞳をこれでもかと見開いてがっつり二度見された。チラリとかじゃなくて、がっつり。
そして私もその子をがっつり見てる。目を見開いて。
(――天使ですか!)
なんて可愛いんだろう!
白い雪は深く重く、行く手を阻む。
懸命に足を上げても思うようには進まない。大きく呼吸をしても上手く息ができず苦しい。肺は酸素を求めてるのに、吸っても吸っても痛いだけ。
それでも立ち止まらず、空にまっすぐ伸びる針葉樹の森の中を、雪をかき分け走る。
(――走れ! 走れ!)
周囲を漂う異臭と空気を震わせる獣の咆哮。この雪で上手く進まないのは向こうも同じこと。何よりあの巨体。並べたように伸びる針葉樹があの巨体には邪魔なようで、時折木にぶつかっては苛立ったように吼え、体当たりで木を倒している。
ミシミシと大きな音を立てて倒れた木を乗り越え、素早くはないけれど確実に追ってくる大きな獣。木々の合間から少しだけ見える空には、どんよりと灰色の雲が重く垂れ込めていた。
「すまないね、もうこれ以上店を続けられなくて……」
テーブルを挟み向かいに座るマスターは、深々と頭を下げた。
「そんな、やめてください。大丈夫ですから」
両親を事故で亡くし、音大を中退して一人暮らしをしていた私は、このお店でお客さんのリクエストに応えてピアノを演奏し、時には歌うといった仕事をしていた。
とはいえ演奏以外の仕事をすることもあり、厨房での業務や接客を一通りこなせるようになったのも、ここで働いたお陰。
ただいつからかお店の経営が厳しいという話を聞くようになり、ついにこの日、閉店することをマスターの口から聞かされた。
(仕事を探さなくちゃな)
マスターとの話し合いを終えて自宅に戻り、バイト検索のアプリを見ながら、ふと窓の外を見る。外はいつの間にかすっかり吹雪になっていた。
(気分転換にコンビニでも行こうかな)
ダウンジャケットを着て靴を履きながら、靴箱の上にある鏡に視線がいく。そこには、黒髪でショートヘアの私がぼんやりとこちらを見返していた。
「……大丈夫、なんとかなるよ」
そう一人呟いて、ぎゅっと白いニット帽を深く被りアパートを出た。
玄関を出るとすぐに吹雪で視界が悪くなり、どこを歩いているのか分からなくなった。ダウンジャケットのフードを目深に被っても、容赦なく叩きつける雪に時折息ができない。
吹雪で視界が遮られ、真っ白な闇の中を進む。歩いているのは歩道なのか車道なのか。既に膝上まで雪が積もり、道がない。
(まずい、今ならまだ戻った方がいいかも!)
そう思い直して立ち止まり顔を上げると、目の前に突然車のヘッドライトが現れ、耳をつんざくクラクションが鳴り響いた。
(――ぶつかる!)
咄嗟に目を瞑り、来るであろう衝撃に頭を抱える。
(……あれ?)
けれど、何も起こらない。それどころか先ほどまでうるさかった風の音が止み、辺りにはしんとした静けさが広がっている。私は恐る恐る目を開き、周囲を窺った。
「え……?」
家や道路脇にあるはずの雪山はなく、背の高い木々が立ち並ぶ森が広がっている。
「……え? こんなとこ、近所にあった?」
周囲を見渡しても、木々の向こうに家があるような気配はない。
混乱した頭でスマホを取り出し、地図アプリを開いて現在位置を確認しようとしたところで、地を這うような低い唸り声が周囲に響き渡った。びくりと身体が跳ね、恐る恐る声がした方へ視線を向けると、まっすぐ伸びる木立の向こうで、大きな黒い塊が唸り声をあげている。
「熊……?」
自分の声が上擦り震えているのが分かる。
(違う……あれは、熊じゃない)
熊よりも遥かに大きいそれには、真っ黒な体の上に頭が四つある。それぞれが白く濁った目をあちこちに向けて、裂けたような大きな口から鋭い牙を覗かせている。滴るのは唾液なのか、雪原にボタボタと垂れるそれは雪を溶かし、異臭を放っていた。腐敗臭のような不快な匂いがこちらまで漂ってくる。
「……う」
腕で口元を覆っても、吐き気を催すほどの臭気で涙が出る。
(逃げなきゃ!)
咄嗟に立ち上がりあとずさると、いくつもの濁った目が一斉にこちらを見た。
走る、走る、走る。
肺が痛い。自分の心臓の音が耳元でする。雪に足を取られ何度も転んだ。いつの間にかスマホも落としてしまった。さらに涙が出てくる。
でも泣いたって仕方ない、分かってる。進まなきゃ。そしてまた足が縺れて転ぶ。
(立って! 立たなくちゃ!)
けれど、足が震え動かない。
(動いて……!)
その時だった。
ヒュンと高い音がしたと思ったら、自分の横を何かが飛んでいった。
次いで後方から爆発音と、獣の咆哮が大音量で響く。爆風が巻き起こり、巻き上げられた雪と何かがバラバラと身体に降りかかるのを両腕で防いでいると、前方から犬の鳴き声がした。
顔を上げると、二匹の黒い犬がこちらに向かって駆けてくる。二匹はあっという間に私の横を通り過ぎ、後方の黒い獣に唸り声をあげて噛み付いた。
獣は大きな黒い体から血を流し、噛み付いて離れない犬を叩き落とそうと、咆哮を上げながら前脚を振り回す。
尻もちをついたまま呆然とその様子を見ていると、誰かが私を追い越し黒い獣に向かっていった。
身体を低くし人間とは思えない速さで雪の中を駆けていったその人物は、腰に佩いていた剣を素早く抜くと針葉樹の幹に足を掛け高く跳び上がり、剣を振り被って黒い獣を真っ二つに叩き切った。すごい力が加わったのか、周囲の雪を巻き上げ風圧がこちらまで届く。
巻き上がった雪の向こう、ピタリと動きを止めた獣はゆっくりと左右に分かれ、大きな地響きを立てて倒れた。
(……剣?)
状況が色々飲み込めない。
立ち上がれずに呆然としていると、さっきまで獣に噛み付いていた二匹の犬がいつの間にか尻尾を振りながらこちらにやってきて、私の顔や頭にクンクンと鼻を押し付け、あちこち匂いを嗅いでくる。待って待って、君たちアレに噛みついてたでしょ!
「わわ、えっと……あ、ありがとう、助けてくれて」
首元に茶色の模様がある犬の頭を撫でると、もう一匹の犬も自分も、と言うように尻尾を振りながら擦り寄ってくる。
二匹の犬の頭を撫でていると、目の前に誰かが立っていることに気がついた。
はっと顔を上げると、先ほど人間離れした速さと力で黒い獣を真っ二つにした人物がこちらを見下ろしていた。灰色のニット帽を被りゴーグルをかけ、同じく灰色のネックウォーマーを鼻の上まで覆っていて顔は見えない。
『……』
「……あ、あの」
まずはお礼を言おうと口を開くと。
『――。――?』
その人の話すそれは、聞いたことのない言葉だった。
森の中、私の前を歩く背中を見つめながら前のめりになる勢いに任せ、ひたすら足を前に出し進む。ここが家の近所ではないことも、そもそも違う世界なのではないかということも、ぼんやりと頭の片隅に浮かんではいるけれど、この短時間で起こった出来事を消化しきれず頭が働かない。
とにかく今は、私を助けてくれたその人の背中を追い掛けることだけに専念していた。
助けてくれた人と一応会話を試みたけれど、やっぱり言葉は通じなかった。試しに英語で話しかけても首を横に振り、聞いたことのない言葉を話す。
私は早々に会話を諦め、その人の促すままについて行くことにした。
二匹の犬はこの人の飼い犬なのだろう、こうして歩いている間も適度な距離を保ち、一緒に森の中を進んでいる。時折こちらにやってきては顔を傾けて見上げてくる様子が可愛らしい。シェパード犬のように凛々しい姿をしているけれど、瞳の色は春の空のような薄い水色だった。
気がつけば、あの人の背中が遠くなっている。
慌ててなんとか追い付こうと足を前に進めるけれど、一向に距離が縮まらない。
(待って、こんなところで一人になりたくない)
どこの誰だか分からないけれど、私を助けてくれて、ついて来いと身振りで示してくれた。きっと悪い人じゃない。
(置いていかないで)
不安が心を支配する。声すら出せないほど息も上がって、呼吸が苦しい、肺が痛い。
そんな様子に気がついたのか、二匹の犬が同時にこちらへ走り寄って来た。ワン、とその人に知らせるように吠える。
遠くなった背中がふとこちらを振り返り、開いてしまった距離に気がついた。膝に手をつき肩で呼吸を整えていると、視界の端に足が見えた。顔を上げると、その人はネックウォーマーとゴーグルを首元まで下げ、眉根を寄せて私を見下ろしていた。
灰色のニット帽の下にある白い肌、高い鼻梁に薄い唇、彫りの深い目元。瞳は濃い深い碧色。びっしりと瞳を縁取る長いまつ毛や凛々しい眉毛から想像するに、髪の色は濃いブラウンだろうか。
うん、普通にカッコいいなと、こんな時なのに感心してしまった。
(分かってたけど、日本人じゃない)
『――、――』
その人は何かを言うと、くるりと背を向けてしゃがみ込んだ。
「……?」
黙って背中を見つめていると、顔だけこちらに向けて背中を親指で指し示す。
(おんぶってこと……?)
え、どうしよう、本当に? おんぶ? いやこれ、違ったら恥ずかしいやつじゃない?
しばらくの間、どうしたらいいのか分からず背中を見つめていたけれど、このままでは迷惑をかけてしまう。この人一人ならあっという間に移動できる距離も、私のせいでどのくらいかかるか分からない。
こちらが理解するのを待っているのか、背中を向けたままじっとこちらを見ているその肩に手をやると、その人はふっと口角を上げて笑った。
そのまま身体を背中に寄り添わせると、心得たように膝裏に腕を入れて立ち上がる。
(おんぶで合ってた……)
初めて会った名前も知らない人に、この歳でおんぶされるとは……恥ずかしいやら申し訳ないやら、いやでもそんなことも言っていられない。
はじめは恥ずかしかったけれど、安定した歩くリズムと高い体温に段々と緊張も解れていく。
「ありがとう、ございます……」
通じないことは分かってる。でも、感謝の気持ちは伝えたい。
その人は少しだけ顔をこちらに向け、ひとつ頷いてくれた。
どのくらい歩いただろう。
その人の背中から感じる高い体温にウトウトし始めていた頃、木立の中に建てられた灰色のテントに到着した。
その人の背中から降りテントの中に入ると、簡易ベッドが一つと小さなテーブル、椅子が設置してある。手際良くテーブルの上のランタンに灯りを灯し簡易ストーブにも火をつけると、テントの中がじんわりと暖かくなった。
オレンジ色に染まるテント内で簡易ベッドに腰を下ろすと、急に身体が重く感じられ、これまでの人生で感じたことのない疲労感に襲われる。
許されるならこのまま横になりたい。もう何も考えられない。
ぼんやりとその人の行動を見つめていると、その人は首元にあるゴーグルとネックウォーマー、灰色のニット帽を徐に脱ぎ、上着の前を寛げた。
帽子の下から現れた青みがかった濃いブラウンの髪は短く切り揃えられ、端正な顔立ちを引き立てている。相変わらずうっすら眉間に皺を寄せ、不機嫌な印象の切れ長の瞳。
私は急に、どうしたらいいのか分からず俯いた。
知らない場所で知らない人と二人きり。この状況はなんだろう。
何か話そうにも言葉は通じないし、この居た堪れない空間でどうしたらいいのか分からない。黙って自分の足元を見つめていると、いつの間に用意したのか、その人が湯気の立つカップをテーブルに置いた。見ると自分の分も用意して一口飲み、ふぅ、と一息ついている。
綺麗な手だな、と所作を見つめながら思う。グローブを外した手は大きく節々がゴツゴツしているけれど、長い指が美しい。
伏し目がちになったその顔をテーブルの上の灯りがユラユラと照らす。
いつまでもカップに手をつけないのは失礼だと思い、有り難くいただこうとしたところで、自分が未だに手袋と帽子をしていることに気がついた。
慌てて手袋を脱ぎ帽子を取る。息を呑む気配がして顔を上げると、その人は目を見張りこちらを見ている。
「いただきます……」
目の前のカップに手を伸ばしてはじめて、自分の手が震えていることに気がついた。
「あ、あれ?」
カタカタと震える手で掴んだカップから中身が零れそうになり、慌ててテーブルに戻して膝の上でギュッと手を握り締めてみる。なんとか震えを止めようと手を握ったり開いたりしていると、その人が私の側に来て膝をつき、震える手を片手で優しく握り込んでもう片方の手で背中を摩ってくれた。
『――、――』
何かを繰り返し呟く。眉間に皺が寄っているけれど、こちらを覗き込むその瞳は優しい。
「……っ」
それからはもうダメだった。
不安と恐怖に押しつぶされていた感情はとめどなく涙になって溢れ出る。
私はその肩に額を押し付け、身体を震わせ声を殺して、泣いた。
その人は静かに私を受け止め、大きな手で背中を撫で続けてくれた。
視界にぼんやりとオレンジ色に光るランタンが目に入った。
あのまま泣き続け、いつの間にか眠ってしまったらしい。ため息を吐き、ノロノロと重たい身体を起こす。周囲を見渡し、これは夢ではないのだと思い知らされる。
立ち上がり、ぐっと背を伸ばしてから外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。テントから少し離れた位置で、あの人が焚き火の前に座る姿が闇に浮かび上がっている。厚い雲がかかったままなのか空には星ひとつ見えず、吐く息は白いのにあまり寒さは感じられない不思議な夜。
今日助けてくれた首周りが茶色の犬が、尻尾を振りながら寄ってきた。
私、昔から動物には好かれるんだよね。ふふ、と自然と笑みが零れる。
「いい子ね」
焚き火の方を見ると、こちらを黙って見ていたその人が自分の隣にある丸太をポンポンと叩いた。初めて会った男性の肩で泣きじゃくった上に寝てしまうとか、普段なら考えられない自分の行動に戸惑うけれど、ここまで現実離れしていると最早それは問題ではなく。
今はとにかく、心細さを埋めたくて、誰かの側にいたかった。
大人しく近づいて座るとその人は満足そうに頷き、火にかけていたケトルから湯気の立つお茶をカップに注いで手渡してくれた。さっきと同じ甘い香りがする。
「ありがとうございます」
そっとお礼を言って顔を見上げると、また何か呟いた。さっき泣いていた時に繰り返し言われた言葉と同じ言葉だ。
「……たい、しょぽ?」
言葉を真似してみると、ちょっと意外そうな表情でこちらを見て、ゆっくりと繰り返した。
『――ぶ』
「た、しょぷ」
『だ――うぶ』
「た?」
『だ』
「だ」
『だい』
「だい」
『じょうぶ』
「ちょうぷ」
『大丈夫』
「だいちょうぷ」
あ、近くなったかな。意味は分からないけど。
そう思ってもう一度繰り返すと、その人はふっと笑った。こんな状況なのに、なんだかくすぐったく恥ずかしくなって俯いてしまう。だって普通にイケメンだし。
トントンと指で膝を叩かれて顔を上げると、その人は自分の胸に手を当て、ゆっくりとひとつの単語を発音した。
「――レオニダス」
その響きは、ストンと私の中に落ちてきた。それまで何を言っているのか分からなかったはずなのに、その単語はしっかりと聞き取れた。違う、単語ではない。
「……レオニダス?」
そっと繰り返してみる。
見上げるように顔を覗き込むと、その人は、レオニダスは優しく笑って頷いた。レオニダスの隣で目を瞑り伏せている耳の先だけが茶色の犬を『オッテ』と言って頭を撫でる。
「オッテ」
呼ぶと、オッテは目を瞑ったまま耳だけをこちらに向けた。ふふっと笑うと、私の隣にくっついていた首周りが茶色の犬が膝の上に顎を乗せ見上げてくる。
レオニダスが『ウル』と呼ぶとパッと顔を上げて尻尾を振った。
「ウルっていうのね」
頭を撫でると嬉しそうにブンブンと尻尾を振り、顔を舐めてくる。
「ひゃあ!」
くすぐったくて身を捩ると、レオニダスが『ウル!』と笑いながら名前を呼び、座るよう指示をする。興奮した様子を見せながらも、ウルはちゃんと伏せの姿勢をとる。かわいい。
トントンと再び膝を叩かれて振り返ると、こちらをじっと見つめるレオニダスと目が合う。
そう、私の名前。
「長瀬……」
「ナガセ?」
レオニダスは首を傾げ名前を呼ぶ。コクコクと首肯すると「ナガセ、ナガセ……」と、練習するように繰り返し呼んだ。
それが嬉しくて、私も「レオニダス」と繰り返し呼ぶ。あんまりしつこく繰り返すものだから、レオニダスはもういいと言うように笑いながら私の頭をグシャグシャと撫で回した。
◇
「はぁ……」
頭を浴槽の縁に乗せ肩までしっかり湯船に浸かると、自然と深いため息が出た。
あれから一夜明けてテントを出発した私たちは、森を抜けすごく大きな石壁沿いに歩き続け、街に入った。そうして連れてこられたここは、どうやらレオニダスの家。
いや、家というか、お屋敷?
とにかくすごく大きくて立派で、いわゆる貴族、なのかなと思う。
貴族……。テレビでしか見たことがないから正確には分からないけれど。
執事のような格好をしたロマンスグレーの渋いおじさまと、栗色の髪を後ろで一つに纏めた、柔らかな雰囲気の品のいい女性が玄関でレオニダスを出迎えた。他にも使用人のような格好の人々が、レオニダスの馬や荷物をお屋敷へ運び入れる。
みんなチラチラと私を見て、けれど何も言わない。
ウルとオッテは迷わずお屋敷へ駆けていってしまった。手持無沙汰でぼんやりと立っていると、おじさまと話し終えたレオニダスがやって来てじっと私を見下ろした。
私は女性としては背が高い方で、男性を見上げることはあまりないけれど、レオニダスは首が痛くなるくらい見上げないと視線が合わない。服を着ていても鍛え上げられた筋肉を感じる。
手足が恐ろしく長く顔も小さい。羨ましい。とにかく、スタイルがいい。
レオニダスは相変わらず眉根を寄せたまま、深く碧い瞳を揺らめかせて私をしばらく見下ろしたあと、大きな手でポンポンと頭を撫でて去って行った。
(あ、行っちゃう)
急に離れていくレオニダスの後ろ姿に心細さが襲ってくる。
(あとでまた、会えるよね?)
駆け寄って後ろをついて行きたい。そんなことを思いながらレオニダスの背中をじっと見つめていると、先ほど玄関で見たおじさまが無表情で私の前に立ち塞がった。
そして案内されたのが、このお風呂付きのお部屋。
おじさまに案内されたこの部屋は、私が今日泊まる部屋らしい。
部屋から続く扉の向こうが浴室になっていて、今、こうしてゆっくりとお湯に浸かっているというわけだ。掌でお湯を掬ってみると、お風呂のお湯は白く濁っていて、どうやら温泉のよう。
(生き返る……お風呂最高)
この世界の季節は私が暮らしていた街と同じような感じ。肌で感じる冬の寒さに違和感がない。肌を刺す冷たい風にどんよりと低く広がる灰色の雲、時折チラチラと降ってくる白い雪。私が暮らしていた世界と同じ冬。
だけど違う。
あの見たことのない獣も、レオニダスが腰に佩いている剣も銀色に鈍く光る武器も。建物も人々も。言葉も。私の全然知らない世界。
どうしてここにいるんだろう。何が起きた? 私は、……帰れるの?
元の世界に、私のいた世界に戻れるの? もし、もしも戻れなかったら……
そこまで考えて、思考することをやめた。
息を止めてバシャンとお湯の中に潜る。頭の中で色んな可能性が浮かんでは消え、答えなんか分からない。最悪な事態も楽観的な考えも、ぐるぐる、ぐるぐる。
ぷはっと水面に勢いよく顔を出し目を開ける。
ぼうっと白い湯気が広がる見知らぬ浴室、見知らぬ景色。
「はあ……」
(もう、今はとにかく置かれた状況でなんとかしなくちゃ……)
幸いにも、優しい人に助けてもらった。
こうして暖かい部屋とお風呂を用意してくれて、言葉は通じなくても表情からとても気に掛けてくれているのが分かる。優しくされて、絆されているだけなのかもしれないけれど、それでもいい。
(レオニダスに会えてよかった)
今は、それだけが全て。
浴室を出ると、新しい着替えが用意してあった。
お風呂で下着は洗ったけれど、さすがに濡れたのは嫌だなと思っていたから助かった。籠に用意してあった肌着らしきものを手に取り広げ。
(これって……)
手にしたそれは、どう見ても男性用の下着、に見える。
(子供どころか、男の子だと思われている……)
結局私は、用意された下着を身に着けた。なんかスースーする……
ドアをノックする音がして意識が浮上した。
浴室から出たあと、いつの間にか眠っていたみたい。慌てて返事をしてドアを開けると、お仕着せを着た男性が頭を下げた。部屋を出るよう促しているみたい。
ソロソロと男性の前を通り過ぎて部屋を出る時、ものすごく頭の方に視線を感じた。
え、寝癖ついてます?
髪を手櫛で整えながら男性の後ろをついて行くと、リビングのような部屋に通された。
部屋の中央にあるソファにレオニダスが座っていて、シャツにガウンのようなものを羽織りゆったりとした姿でお茶を飲んでいる。足元にはオッテがお行儀良く座っていて、ウルは私が入室した途端、足元にやって来た。頭を撫でてやると、千切れんばかりに尻尾を振る。
(それにしてもイケメンはどんな格好をしていてもイケメン)
立ったままレオニダスを鑑賞して現実逃避をしていると、レオニダスが手招きをして私に向かい側に座るよう促した。素直にぽすんとソファに腰掛けると、レオニダスは「エーリク」と、自分の後ろを振り返る。
レオニダスの背後から話し声が聞こえ、そちらをじっと見ていると、ふわふわした金色の頭がそっと現れた。エメラルドのようにキラキラした、宝石のような瞳の子がこちらにチラリと視線を向けてすぐに逸らした。
……と思ったら、大きな瞳をこれでもかと見開いてがっつり二度見された。チラリとかじゃなくて、がっつり。
そして私もその子をがっつり見てる。目を見開いて。
(――天使ですか!)
なんて可愛いんだろう!
0
お気に入りに追加
1,401
あなたにおすすめの小説
【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!
楠 結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。
(リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……)
遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──!
(かわいい、好きです、愛してます)
(誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?)
二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない!
ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。
(まさか。もしかして、心の声が聞こえている?)
リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる?
二人の恋の結末はどうなっちゃうの?!
心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。
✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。
✳︎小説家になろうにも投稿しています♪
【R18】聖女のお役目【完結済】
ワシ蔵
恋愛
平凡なOLの加賀美紗香は、ある日入浴中に、突然異世界へ転移してしまう。
その国には、聖女が騎士たちに祝福を与えるという伝説があった。
紗香は、その聖女として召喚されたのだと言う。
祭壇に捧げられた聖女は、今日も騎士達に祝福を与える。
※性描写有りは★マークです。
※肉体的に複数と触れ合うため「逆ハーレム」タグをつけていますが、精神的にはほとんど1対1です。
絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
氷の騎士は、還れなかったモブのリスを何度でも手中に落とす
みん
恋愛
【モブ】シリーズ③(本編完結済み)
R4.9.25☆お礼の気持ちを込めて、子達の話を投稿しています。4話程になると思います。良ければ、覗いてみて下さい。
“巻き込まれ召喚のモブの私だけが還れなかった件について”
“モブで薬師な魔法使いと、氷の騎士の物語”
に続く続編となります。
色々あって、無事にエディオルと結婚して幸せな日々をに送っていたハル。しかし、トラブル体質?なハルは健在だったようで──。
ハルだけではなく、パルヴァンや某国も絡んだトラブルに巻き込まれていく。
そして、そこで知った真実とは?
やっぱり、書き切れなかった話が書きたくてウズウズしたので、続編始めました。すみません。
相変わらずのゆるふわ設定なので、また、温かい目で見ていただけたら幸いです。
宜しくお願いします。
私、異世界で監禁されました!?
星宮歌
恋愛
ただただ、苦しかった。
暴力をふるわれ、いじめられる毎日。それでも過ぎていく日常。けれど、ある日、いじめっ子グループに突き飛ばされ、トラックに轢かれたことで全てが変わる。
『ここ、どこ?』
声にならない声、見たこともない豪奢な部屋。混乱する私にもたらされるのは、幸せか、不幸せか。
今、全ての歯車が動き出す。
片翼シリーズ第一弾の作品です。
続編は『わたくし、異世界で婚約破棄されました!?』ですので、そちらもどうぞ!
溺愛は結構後半です。
なろうでも公開してます。
勘当されたい悪役は自由に生きる
雨野
恋愛
難病に罹り、15歳で人生を終えた私。
だが気がつくと、生前読んだ漫画の貴族で悪役に転生していた!?タイトルは忘れてしまったし、ラストまで読むことは出来なかったけど…確かこのキャラは、家を勘当され追放されたんじゃなかったっけ?
でも…手足は自由に動くし、ご飯は美味しく食べられる。すうっと深呼吸することだって出来る!!追放ったって殺される訳でもなし、貴族じゃなくなっても問題ないよね?むしろ私、庶民の生活のほうが大歓迎!!
ただ…私が転生したこのキャラ、セレスタン・ラサーニュ。悪役令息、男だったよね?どこからどう見ても女の身体なんですが。上に無いはずのモノがあり、下にあるはずのアレが無いんですが!?どうなってんのよ!!?
1話目はシリアスな感じですが、最終的にはほのぼの目指します。
ずっと病弱だったが故に、目に映る全てのものが輝いて見えるセレスタン。自分が変われば世界も変わる、私は…自由だ!!!
主人公は最初のうちは卑屈だったりしますが、次第に前向きに成長します。それまで見守っていただければと!
愛され主人公のつもりですが、逆ハーレムはありません。逆ハー風味はある。男装主人公なので、側から見るとBLカップルです。
予告なく痛々しい、残酷な描写あり。
サブタイトルに◼️が付いている話はシリアスになりがち。
小説家になろうさんでも掲載しております。そっちのほうが先行公開中。後書きなんかで、ちょいちょいネタ挟んでます。よろしければご覧ください。
こちらでは僅かに加筆&話が増えてたりします。
本編完結。番外編を順次公開していきます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
貴方様と私の計略
羽柴 玲
恋愛
貴方様からの突然の申し出。
私は戸惑いましたの。
でも、私のために利用させていただきますね?
これは、
知略家と言われるがとても抜けている侯爵令嬢と
とある辺境伯とが繰り広げる
計略というなの恋物語...
の予定笑
*****
R15は、保険になります。
作品の進み具合により、R指定は変更される可能性がありますので、
ご注意下さい。
小説家になろうへも投稿しています。
https://ncode.syosetu.com/n0699gm/
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。