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1巻
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プロローグ
覚めやらぬ眠りの端っこで、私は何やら息苦しさに喘いでいた。
お、重い……
みぞおちにかかる圧に思わず「うっ」と漏らした拍子に、それがもぞりと位置を変える。
ハルったらまた太ったのね。近頃ちょっとご立派になりすぎじゃない?
みんなで寄ってたかって甘やかした結果、豊満なボディに成長した彼をそっと撫でる。思った通り柔らかな毛先が手のひらをくすぐった。
もうちょっとだけ……
一月半ばの朝、暖房のついていない部屋は布団の中と外とでは大違いだ。ほかほかと温かな場所から出られないのも致し方ない。なんと言っても生湯たんぽだ。
しかしいかんせん重すぎる。長時間乗せていたら息苦しくて、おちおち眠っていられないのが玉にきずだ。
いや、タマじゃなくてハルだけどさ。
羽根布団を鼻の上まで引き上げたら、ふわりといい香りが鼻をくすぐった。
温もりだけじゃなく爽やかな香りにも癒されて、二度寝の幸福に浸ろうとしたとき、鎖骨をぺろりと舐められた。
「んっ」
くすぐったさに身をよじると、今度は首を舐められる。
「ハル、もう少し寝かせてよ……」
実家に帰った私が朝寝坊をしていると、彼はいつも私を起こしに来る。そしてこんなふうに『おなかすいたよ』『はやくおきて』と訴えてくるのだ。
今日は仕事か……連休明けってつらいわね。
体が出勤モードに切り替わらない。久々の三連休を謳歌しすぎたのかもしれない。アラームは鳴っていないのでまだ寝ていられるはず。
そんなことを考えつつ、まぶたを閉じたままぐずぐずしているが、その間も頬や額にぴたぴたと柔らかな感触が押し当てられて、たまらず顔を背けた。
「んん、ハルー、ご飯はお母さんからもらって……」
あれ? お母さん? 私実家に帰ってるんだっけ……いやでも、今日から出勤ってことは――
「実家じゃなかった!」
一気に目が覚めた次の瞬間、首筋にちりっと刺すような痛みが走った。
「痛っ」
思わず目を見開くと、視界に映ったのは思い描いていたグレーの毛ではない。ダークブラウンの緩く波打つ髪と、くっきりと大きな二重まぶたの瞳だ。
白磁のごとき肌を持つその男は、気だるげな色香の漂う垂れ目を細め、にっこりときれいな笑みを浮かべる。その拍子に、右目の下にある小さなほくろが目に飛び込んできた。
「ア――」
彼の名前を口にしようとした途端、唇を塞がれた。
「んっ、んんーっ!」
抗議の声を上げようと必死にじたばたするが、のしかかられ、両手を押さえつけられ脱出できない。舌をからめとられて、腰がじんと痺れた。
「むんっ……ふぁっ」
決して激しいわけではないのに、的確に悦いところばかりを突いてくる。
はっきり言ってうますぎる。咥内で好き勝手にふるまう舌に抗うことを放棄して、すべてをゆだねたくなってしまう。
まるで『他のことを考えるなんて許さない』とばかりに口蓋をねっとりと舐られ、みるみる体から力が抜けていく。押し返さなければと思うのに、手がシーツにパタリと落ちた。
パジャマの裾から入ってきた手が脇腹に触れる。ピクンと腰が跳ね、「んんっ!」と抗議の意を唱えるが手は止まらない。さわさわと腰のカーブをなぞりながら上がってきて、たどり着いた膨らみを遠慮の欠片もなく包んだ。
「んんんーっ!」
やわやわと揉まれて身をよじる。こちらの意思を無視しているくせに乱暴さはまったくなく、むしろ繊細でもどかしいくらいの動きに躰の芯が甘く疼きだした。
これはまずい……とてもまずい!
なんとか力を入れ直して彼の体を押し返そうとしたとき、突然唇が離れた。反射的に大きく息を吸い込む。次の瞬間、膨らみの先が生温かく湿ったものに包まれた。
「ひぁっ」
なんとか腰をひねって逃れようとするが、まるで味わうみたいに舌の上で転がされると、痺れるような快感が込み上げる。
「やめっ、なさ……ぁんっ」
舐められたり吸われたり、たまに軽く歯を立てられたりするたびに、甘ったるい嬌声が口から漏れる。下肢からとろりとしたものがこぼれ出してくるのを感じて、ギュッと目を閉じた。
「だめ……あぁ……っ」
舌と手の両方で双丘を責め立てられて、快楽に流されそうになるのを必死にこらえる。けれど容赦ない愛撫にみるみる追い詰められてしまう。
両端の尖りを同時に強くこねられた瞬間、パンッと風船が割れるように快感が弾けた。
「んあぁ……っ」
背中がしなり、つま先がピンと伸びる。ビリビリと電流のような甘い痺れが全身を駆け巡り、頭が真っ白になった。
絶頂の余韻に震えながら荒い息をついていると、名残惜しげに赤い実を啄まれた。
「やっ」
軽い愛撫すら今の私には刺激となり、ナカがギュッと収縮する感覚に身悶える。そんな私を見下ろしながら、彼は垂れ気味の二重まぶたを細め、薄い唇を舌先でぺろりと舐めた。
「静さんの体はどこもかしこも柔らかくて甘いな。どんなスイーツよりもおいしいよ」
彼の微笑みに合わせて、右目の泣きぼくろがかすかに動く。
「しかもすごく敏感だ。胸だけで達けるなんて最高だよ」
彼はそう言いながら、まだ呼吸が整わずに上下する私の胸をすくうように手で包む。
「ホイップたっぷりのパンケーキよりもずっと魅力的だ。お望みとあらば、もっと気持ちよくしてあげるけど?」
彼の手が、腰のラインをするすると下り始めた。――が、すぐにぴたりと止まる。
「忘れてた。……おはよ、静さん」
にこりと無邪気に笑った彼は、私の唇にチュッと音を立てた。
「だ、だっ……」
「ん? どうかした?」
キラキラと目を輝かせながら小首をかしげた彼を、思い切り睨みつける。
「だめだって言ったわよね……アキ」
地を這うような低い声で言いながら、中指と親指で輪っかを作る。彼が『まずい』とでもいうような顔になった。今頃気付いてももう遅いわ。グッとお腹の底に力を入れる。
「こぉんのぉぉドラ猫めーっ! 今すぐ出ていきなさい!」
叫ぶと同時に、渾身の力を込めてデコピンを繰り出した。
第一章 王子様の耳は猫の耳?
「まったく……油断も隙もあったもんじゃないわ!」
ロッカーを開けて着ているものを脱ぎながら、ぶつぶつと文句を垂れる。始業時間にはまだずいぶん余裕があるため、更衣室には自分しかいない。
なんでこんなに早く職場に到着したかって。それは間違いなくあいつのせいだ。
「許可なく未婚の女性の褥にもぐり込んだ上に、寝起きを襲うなんて……不届き千万! あの不埒者!」
誰もいないのをいいことに、遠慮なくロッカーの中にフラストレーションをぶちまける。思いつくまま吐いた文句が、ロッカーにかけたダウンコートの中に吸い込まれていく。
『王様の耳はロバの耳―!』って叫びたくなった人の気持ちがちょっとわかる気がする。まぁ、こっちは王様が相手じゃないだけマシかしら。
それにしても、最近の若者はどうもお行儀がよろしくない。王様でなくても厄介な相手だという点では、似たようなものだろう。
成り行きでドラ猫――もとい青年を拾ってしまい、あまつさえ三日も我が家に置いてあげたのに、最後の最後で今朝のアレとは。一宿一飯どころか三宿三飯の恩を仇で返され、思わずため息が漏れる。
あの後すぐ、あのドラ猫を家から追い出した。どのみち今日でお別れ、ノープロブレム無問題。さよならが小一時間早まった程度だ。
すうっと胸いっぱいに空気を吸い込んでから、ゆっくり吐き出す。胸の前でパチンと手を合わせた。
「さっ! 済んだことをいつまでもぐちぐち言っていても仕方ない。せっかく早く来たんだし、さっさと着替えて雑務を済ませておかなくちゃ」
いつまでもぐずぐずしているのは性に合わない。ただでさえ連休明けで仕事が溜まっている。
さっさと仕事モードにシフトチェンジしようと、お腹の下の丹田にぐっと力を込めて背筋を伸ばした。
制服に着替えてから、更衣室の入り口横にある鏡の前に立つ。全身鏡での最終チェックは欠かせない。接客業は身だしなみと清潔感が第一だ。制服に染みやほつれがないか、ストッキングに伝線はないか――というのは基本中の基本。万が一スカートのファスナーが下がっていたら、泣くに泣けない大惨事だ。
丸首のノーカラージャケットは発色のよいロイヤルブルーで、襟からフロントラインにかけてと裾周りに黒いパイピングがあしらわれている。下にシンプルな黒い膝下スカートを穿けば、準備は完了だ。
「オッケー……かな?」
右に左に体をひねると、鏡の中の銀縁眼鏡女も同じように動く。背は平均より少し低めの一五五センチ。そのわりにある胸と腰のボリュームはひそかな悩みだったりする。
今よりずっと若かった頃は、余分な胸を小さめのブラジャーで隠そうとしていたけれど、肩は凝るし胸は苦しいしで、全然いいことがなくてやめた。今着ている制服は生地に張りがあって胸が強調されないから助かっている。
染めていない黒髪は後ろでひとつにくくっただけ。化粧もするにはするが、社会人として恥ずかしくない程度。リップに至っては血色をよく見せるためだけのチョイスだ。
社会人としての最低限の身だしなみは押さえて、ただ黒子としての役割を全うできればいい。
私は株式会社トーマビールコミュニケーションズに所属する、ツアーアテンダントだ。ビール工場を訪れたお客様たちに、ビールの歴史や作られる過程をわかりやすく説明することが主な業務である。
工場を有するトーマビール株式会社は、明治時代に創業した老舗の大手ビールメーカーで、Tohmaグループホールディングス株式会社の主力企業だ。ここ関西工場では、看板商品であるトーマラガーをはじめとして、第三のビールと呼ばれるリキュール酒などを製造している。
「よし。あとはこれだけね」
手に持ったスカーフを広げる。遠目には無地に山吹色のグラデーションが入っただけに見えるが、近くに寄ると白抜きでTohmaのシンボルマークである麻文様が描かれているのがわかる。鏡に近づいてスカーフを巻こうとした瞬間、口から声が飛び出した。
「何これ!」
首の左側にくっきりと赤い斑点がついている。家を出るまでどたばたしていたせいで、まったく気付かなかった。きっと今朝の一件でできたに違いない。
胸の前で握りしめたこぶしがふるふると震える。
「あのドラ猫めー!」
「きゃっ!」
叫ぶと同時に、更衣室のドアの方からか細い悲鳴が聞こえた。
「もう、静さんったら、ほんまに超びっくりしたんですからねぇ!」
「ご、ごめんね……」
『森』と書かれたロッカーの前で着替えをしている彼女に頭を下げる。
ピンクブラウンの長い髪を緩く巻き、ツケまつげもびっくりの特盛マスカラ、ざっくりニットと膝上のフレアスカート――という、いかにも『女の子』な出で立ちの彼女は、入社二年目の新米アテンダントの森希々花。私がここに転職してきて初めてできた後輩だ。
彼女はチワワみたいなつぶらな瞳で私をじぃっと見つめた後、チェリーピンクの唇を尖らせた。
「のんのかよわい心臓が止まっちゃうかと思いましたよぉ」
そんなにか弱い心臓なら、一度病院で見てもらった方がいいかも。――なんてセリフは心の中に留め置いて、とりあえずもう一度「ごめんね」と謝っておく。
彼女の語尾が伸びる話し方は、何度も注意してきた甲斐あって、最近やっとアテンド中には出なくなったようだ。今は勤務時間外なので、目をつぶっておこう。
「それにしても、森ちゃんにしてはずいぶん早いじゃない。出勤時間までまだ一時間近くあるわよ?」
森はいつもギリギリ出勤だ。さすがに遅刻したことはないが、彼女が制服に着替えて事務所に到着したところで始業の鐘が鳴るのが定番だ。
もしかして今夜は大雪!? このあたりは関西の中でもほとんど積雪がない地域だから、もし今夜積もったら、明日は交通が麻痺して大変だろうな。こういうとき、自宅から職場が近いのってほんと助かる。あ、でも雪道の自転車は危ないから徒歩で出勤しなくちゃ。やっぱり明日は少し早めに家を出た方がいいかもしれない。
「静さぁん、心の声がだだ漏れですよぉ!」
つらつらと考えていると、横から突っ込みが入った。
「あれ? 今私声に出してた?」
「思いっきり出してはりましたぁ! 失礼やないですかぁ」
じっとりとした目つきで頬を膨らませる彼女に「あはは」と笑ってごまかす。すると森は、むっとした表情で付け加えた。
「独り言が出るのは老化の一種なんですってぇ」
「う、うるさいわよ。私だってまだあなたと同じ二十代なんだけど……」
「何言ってるんですかぁ、二ヵ月後には三十路に突入しはる人が」
「二ヵ月半!」
「同じたい」
ワントーン低い声で突っ込まれて口をつぐんだ。
彼女は普段は関西弁を混ぜた不思議な話し方をするけれど、素になったときは生まれ育った地元の言葉になる。なかなかの不思議ちゃんだ。
黙った私に、彼女はにこっとかわいい笑顔をくれる。
「のんやって大事な日くらいは早起きしますぅ」
「大事な日?」
何か特別なツアーでも入っていたかと思い、記憶を手繰り寄せるが、そんなものはない。むしろ今日はツアー自体も少ない。
首をひねる私に森は意味ありげに「うふふ」と笑っただけで、鏡の前で髪を結っている。器用にねじったり留めたりと、手の込んだまとめ髪にした後、たっぷりとひだを作ったスカーフを首の横でふわりと広がるように巻いた。
流行に敏感でいつもかわいらしい彼女だが、今日はいつにも増してふわふわでキラッキラ。輝きがまぶしすぎてそっと視線を剥がす。鏡に映る私と彼女。同じ制服を着ているのに別のイキモノみたいだ。
そんなふうに思いながらじっと鏡を見ていると、横から手が伸びてきた。
「静さぁん、スカーフが曲がってはりますよぉ」
「だめっ」
反射的にその手を振り払った。
「あ……」
横を向くと、驚いた表情をした森がまつげをしばたたかせている。スカーフの下にあるキスマークを見られまいと、とっさにやってしまった。彼女はただ私のスカーフを直してくれようとしただけなのに、私ときたら善意を跳ねのけるようなことを……
「ご、ごめっ」
「すみませぇん。首触られんの、お嫌やったんですね。わかりますぅ、こちょばいですしぃ」
「う、うん……ごめんね。ちょっとびっくりしちゃって。スカーフは自分で直すわね」
「そぉですねぇ」
彼女は何事もなかったかのように鏡に向き直り、リップを塗り始める。見た目や話し方はいかにもイマドキ女子ではあるが、決して悪い子ではない。
もう一度「ごめんね」と謝った私に、森は満面の笑みを見せた。
「スカーフくらい、いくら静さんでも自分で直せましたよねぇ」
ちょっと待て。いくら静さんでも、とは?
「静さんはものぐさなだけでぇ不器用とちゃいますもんねぇ」
ものぐさって……あながち間違いじゃないわね。
よく見ているなぁ。なんて妙に感心していると、人差し指を顎に当てた森が、小首をかしげた。
「静さん素材は悪くないんやからぁ、もちょっと気張らはったらなんぼかましになるんちゃいますぅ?」
「あのねぇ森ちゃん」
面と向かってだめ出しをされているような気持ちになって、ここは先輩らしくびしっと言おうと口を開いたが、彼女の最後のひと言に言葉をなくす。
「静さんに足りひんのは、若さだけやのうて、やる気もですぅ」
森希々花。決して悪い子ではない。……うん、悪い子では。
森と一緒に更衣室を出た後、事務所までの通路を並んで歩いていく。
甲子園球場四個分ほどの広さがあるこの工場には、私たちツアーアテンダント以外にも製造部や流通部、販促事業部などがあり、総勢二百人ものスタッフが働いている。広大な敷地には社員食堂や売店だけでなく、化粧室や仮眠室、カフェテリアまであってとても働きやすい。あえて不満を挙げるとしたら、更衣室からツアー見学事業課の事務所までが非常に遠いことくらいだ。
長い道のりを歩きながら、隣でキョロキョロと挙動不審な動きをしている人がひとり。さっきからずっと、彼女の視線が頭上を行ったり来たりしているのが気になって仕方がない。
「何? 落とし物でもしたの?」
一緒に探してあげようかと思って声をかけたのに、「はぁ」と呆れたようにため息をつかれた。
「静さんったら相変わらずなんですからぁ」
いったい何が『相変わらず』だというのだろう。いいかげんにしないと置いていくわよ、と喉まで出かかったとき、キラキラと輝くつぶらな瞳を向けられた。
「静さんにはいつもお世話になってますからぁ、特別に教えちゃいますぅ」
もったいぶった口調にしびれを切らしかけ、本気で置いていこうかと思い始めたとき。
「なんと今日! 王子が来はるんですぅ!」
「はい?」
また森ちゃんが変なことを言い始めたわね。
「あ、その顔は信じてませんねぇ」
「そんなことより早く行かないと。始業前にメールチェックしなきゃ」
頬を膨らませる森を横目に足を速め、通路の角を曲がろうとした瞬間、現れた人影と出会い頭にドンッとぶつかった。
「うわっ!」
「すみません。大丈夫ですか?」
降ってきた中低音の声に固く閉じていたまぶたをゆっくり開くと、視界が紺色でいっぱいだった。頬に当たる感触が滑らかで、ブルーのソリッドネクタイには艶やかな光沢がある。
あ、これ、きっとすごい上等なやつ……
瞬間「やばっ」と飛びのいて、勢いよく頭を下げた。
「す、すみません。前方不注意でした!」
どうしよう。もしかしたらお高いスーツを化粧で汚してしまったかもしれない。
そうだ、近所に腕のいいクリーニング屋さんがある。そこに持っていけばなんとかしてくれるはず。これでしばらく節約生活だろうが背に腹は代えられない。ていうか、今はそんなことを心配している場合じゃないわ!
「あの、きちんとクリーニングにお出しします! 差し支えなければ上着をお預かりさせてくださ――」
言いながら顔を上げた瞬間、ヒュッと息をのんだ。
頭ひとつ高い場所にあったのは、驚くほどきれいな顔だった。
ほんの少しだけ目尻の下がった二重まぶたの目。すっと通った鼻梁と、形のよい薄い唇。白磁のごとく透明感のある小さな顔の中に、まるで計算されたかのようにそれらが配置されている。
「あ……」
言葉を詰まらせる私とは反対に、彼は平然と口を開く。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
軽く微笑みながらそう言った男性に、私の目は釘付けになった。
髪全体を整髪剤で後ろに流したスタイリングと、体にぴったりと合った仕立てのよい三つ揃えのスーツ。これまで出会った男性の中で、見た目もまとう空気も最高級だ。
テレビで見かけるイケメン俳優? いや、本の中から出てきた王子様かもしれない。
とにかく私とは別の世界の住人であることには間違いない。
間違いないのに――
凛とした色気のある爽やかな香りが、あることを訴えかけてくる。印象的な二重の垂れ目と右目の泣きぼくろがそれを裏付ける。
うそ、まさか、なんで……!
「こちらも不注意でした。申し訳ありません。そちらこそ大丈夫ですか?」
「あ、い、いえ……は、はい」
「そうですか。それはよかった」
口の端を少しだけ持ち上げ、「お怪我がなくて何よりです」と言ったその人は、私の肩に置いていた手をそっと外して「では失礼」と横をすり抜けた。長い脚を悠然と動かして離れていく背中を、呼吸も忘れて見つめ続ける。やがてその背中が角を曲がって見えなくなった。
「ア、ア、ア……」
「きゃぁぁっ!」
甲高い声に振り向くと、森が目を輝かせ、頬を上気させていた。
「やったぁ! 初日から会えるなんてうれしか! ちかっぱついとぉばい! やだでも、静さんったら抱きついとって! ばりうらやましかぁぁぁ!」
『ばい』だか『ばり』だかよく知らないが、とりあえず声のボリュームを下げておくれ。
「森」と静かに名前を呼ぶと、はしゃいでいた彼女はぴたりと動きを止め「えへへ」と笑う。私は彼女をじろりと睨んだ。
「抱きついたんじゃありません。ぶつかっただけです」
「めちゃついてはるやないですかぁ」
「どこが。こっちは高級そうなスーツを汚したかもって、ひやひやしたんですけど」
「なんかぁ、いい匂いでしたぁ」
全然聞いてないよ……。混乱の真っただ中で注意する気力すらなく、口からため息だけがはぁと漏れる。そんな私のことなどお構いなしの森は、どこか夢見るような瞳で話し続ける。
「しょっぱなから当麻王子に会えるやなんてぇ、早起きがんばった甲斐ありましたぁ」
「はい?」
今なんと?
覚めやらぬ眠りの端っこで、私は何やら息苦しさに喘いでいた。
お、重い……
みぞおちにかかる圧に思わず「うっ」と漏らした拍子に、それがもぞりと位置を変える。
ハルったらまた太ったのね。近頃ちょっとご立派になりすぎじゃない?
みんなで寄ってたかって甘やかした結果、豊満なボディに成長した彼をそっと撫でる。思った通り柔らかな毛先が手のひらをくすぐった。
もうちょっとだけ……
一月半ばの朝、暖房のついていない部屋は布団の中と外とでは大違いだ。ほかほかと温かな場所から出られないのも致し方ない。なんと言っても生湯たんぽだ。
しかしいかんせん重すぎる。長時間乗せていたら息苦しくて、おちおち眠っていられないのが玉にきずだ。
いや、タマじゃなくてハルだけどさ。
羽根布団を鼻の上まで引き上げたら、ふわりといい香りが鼻をくすぐった。
温もりだけじゃなく爽やかな香りにも癒されて、二度寝の幸福に浸ろうとしたとき、鎖骨をぺろりと舐められた。
「んっ」
くすぐったさに身をよじると、今度は首を舐められる。
「ハル、もう少し寝かせてよ……」
実家に帰った私が朝寝坊をしていると、彼はいつも私を起こしに来る。そしてこんなふうに『おなかすいたよ』『はやくおきて』と訴えてくるのだ。
今日は仕事か……連休明けってつらいわね。
体が出勤モードに切り替わらない。久々の三連休を謳歌しすぎたのかもしれない。アラームは鳴っていないのでまだ寝ていられるはず。
そんなことを考えつつ、まぶたを閉じたままぐずぐずしているが、その間も頬や額にぴたぴたと柔らかな感触が押し当てられて、たまらず顔を背けた。
「んん、ハルー、ご飯はお母さんからもらって……」
あれ? お母さん? 私実家に帰ってるんだっけ……いやでも、今日から出勤ってことは――
「実家じゃなかった!」
一気に目が覚めた次の瞬間、首筋にちりっと刺すような痛みが走った。
「痛っ」
思わず目を見開くと、視界に映ったのは思い描いていたグレーの毛ではない。ダークブラウンの緩く波打つ髪と、くっきりと大きな二重まぶたの瞳だ。
白磁のごとき肌を持つその男は、気だるげな色香の漂う垂れ目を細め、にっこりときれいな笑みを浮かべる。その拍子に、右目の下にある小さなほくろが目に飛び込んできた。
「ア――」
彼の名前を口にしようとした途端、唇を塞がれた。
「んっ、んんーっ!」
抗議の声を上げようと必死にじたばたするが、のしかかられ、両手を押さえつけられ脱出できない。舌をからめとられて、腰がじんと痺れた。
「むんっ……ふぁっ」
決して激しいわけではないのに、的確に悦いところばかりを突いてくる。
はっきり言ってうますぎる。咥内で好き勝手にふるまう舌に抗うことを放棄して、すべてをゆだねたくなってしまう。
まるで『他のことを考えるなんて許さない』とばかりに口蓋をねっとりと舐られ、みるみる体から力が抜けていく。押し返さなければと思うのに、手がシーツにパタリと落ちた。
パジャマの裾から入ってきた手が脇腹に触れる。ピクンと腰が跳ね、「んんっ!」と抗議の意を唱えるが手は止まらない。さわさわと腰のカーブをなぞりながら上がってきて、たどり着いた膨らみを遠慮の欠片もなく包んだ。
「んんんーっ!」
やわやわと揉まれて身をよじる。こちらの意思を無視しているくせに乱暴さはまったくなく、むしろ繊細でもどかしいくらいの動きに躰の芯が甘く疼きだした。
これはまずい……とてもまずい!
なんとか力を入れ直して彼の体を押し返そうとしたとき、突然唇が離れた。反射的に大きく息を吸い込む。次の瞬間、膨らみの先が生温かく湿ったものに包まれた。
「ひぁっ」
なんとか腰をひねって逃れようとするが、まるで味わうみたいに舌の上で転がされると、痺れるような快感が込み上げる。
「やめっ、なさ……ぁんっ」
舐められたり吸われたり、たまに軽く歯を立てられたりするたびに、甘ったるい嬌声が口から漏れる。下肢からとろりとしたものがこぼれ出してくるのを感じて、ギュッと目を閉じた。
「だめ……あぁ……っ」
舌と手の両方で双丘を責め立てられて、快楽に流されそうになるのを必死にこらえる。けれど容赦ない愛撫にみるみる追い詰められてしまう。
両端の尖りを同時に強くこねられた瞬間、パンッと風船が割れるように快感が弾けた。
「んあぁ……っ」
背中がしなり、つま先がピンと伸びる。ビリビリと電流のような甘い痺れが全身を駆け巡り、頭が真っ白になった。
絶頂の余韻に震えながら荒い息をついていると、名残惜しげに赤い実を啄まれた。
「やっ」
軽い愛撫すら今の私には刺激となり、ナカがギュッと収縮する感覚に身悶える。そんな私を見下ろしながら、彼は垂れ気味の二重まぶたを細め、薄い唇を舌先でぺろりと舐めた。
「静さんの体はどこもかしこも柔らかくて甘いな。どんなスイーツよりもおいしいよ」
彼の微笑みに合わせて、右目の泣きぼくろがかすかに動く。
「しかもすごく敏感だ。胸だけで達けるなんて最高だよ」
彼はそう言いながら、まだ呼吸が整わずに上下する私の胸をすくうように手で包む。
「ホイップたっぷりのパンケーキよりもずっと魅力的だ。お望みとあらば、もっと気持ちよくしてあげるけど?」
彼の手が、腰のラインをするすると下り始めた。――が、すぐにぴたりと止まる。
「忘れてた。……おはよ、静さん」
にこりと無邪気に笑った彼は、私の唇にチュッと音を立てた。
「だ、だっ……」
「ん? どうかした?」
キラキラと目を輝かせながら小首をかしげた彼を、思い切り睨みつける。
「だめだって言ったわよね……アキ」
地を這うような低い声で言いながら、中指と親指で輪っかを作る。彼が『まずい』とでもいうような顔になった。今頃気付いてももう遅いわ。グッとお腹の底に力を入れる。
「こぉんのぉぉドラ猫めーっ! 今すぐ出ていきなさい!」
叫ぶと同時に、渾身の力を込めてデコピンを繰り出した。
第一章 王子様の耳は猫の耳?
「まったく……油断も隙もあったもんじゃないわ!」
ロッカーを開けて着ているものを脱ぎながら、ぶつぶつと文句を垂れる。始業時間にはまだずいぶん余裕があるため、更衣室には自分しかいない。
なんでこんなに早く職場に到着したかって。それは間違いなくあいつのせいだ。
「許可なく未婚の女性の褥にもぐり込んだ上に、寝起きを襲うなんて……不届き千万! あの不埒者!」
誰もいないのをいいことに、遠慮なくロッカーの中にフラストレーションをぶちまける。思いつくまま吐いた文句が、ロッカーにかけたダウンコートの中に吸い込まれていく。
『王様の耳はロバの耳―!』って叫びたくなった人の気持ちがちょっとわかる気がする。まぁ、こっちは王様が相手じゃないだけマシかしら。
それにしても、最近の若者はどうもお行儀がよろしくない。王様でなくても厄介な相手だという点では、似たようなものだろう。
成り行きでドラ猫――もとい青年を拾ってしまい、あまつさえ三日も我が家に置いてあげたのに、最後の最後で今朝のアレとは。一宿一飯どころか三宿三飯の恩を仇で返され、思わずため息が漏れる。
あの後すぐ、あのドラ猫を家から追い出した。どのみち今日でお別れ、ノープロブレム無問題。さよならが小一時間早まった程度だ。
すうっと胸いっぱいに空気を吸い込んでから、ゆっくり吐き出す。胸の前でパチンと手を合わせた。
「さっ! 済んだことをいつまでもぐちぐち言っていても仕方ない。せっかく早く来たんだし、さっさと着替えて雑務を済ませておかなくちゃ」
いつまでもぐずぐずしているのは性に合わない。ただでさえ連休明けで仕事が溜まっている。
さっさと仕事モードにシフトチェンジしようと、お腹の下の丹田にぐっと力を込めて背筋を伸ばした。
制服に着替えてから、更衣室の入り口横にある鏡の前に立つ。全身鏡での最終チェックは欠かせない。接客業は身だしなみと清潔感が第一だ。制服に染みやほつれがないか、ストッキングに伝線はないか――というのは基本中の基本。万が一スカートのファスナーが下がっていたら、泣くに泣けない大惨事だ。
丸首のノーカラージャケットは発色のよいロイヤルブルーで、襟からフロントラインにかけてと裾周りに黒いパイピングがあしらわれている。下にシンプルな黒い膝下スカートを穿けば、準備は完了だ。
「オッケー……かな?」
右に左に体をひねると、鏡の中の銀縁眼鏡女も同じように動く。背は平均より少し低めの一五五センチ。そのわりにある胸と腰のボリュームはひそかな悩みだったりする。
今よりずっと若かった頃は、余分な胸を小さめのブラジャーで隠そうとしていたけれど、肩は凝るし胸は苦しいしで、全然いいことがなくてやめた。今着ている制服は生地に張りがあって胸が強調されないから助かっている。
染めていない黒髪は後ろでひとつにくくっただけ。化粧もするにはするが、社会人として恥ずかしくない程度。リップに至っては血色をよく見せるためだけのチョイスだ。
社会人としての最低限の身だしなみは押さえて、ただ黒子としての役割を全うできればいい。
私は株式会社トーマビールコミュニケーションズに所属する、ツアーアテンダントだ。ビール工場を訪れたお客様たちに、ビールの歴史や作られる過程をわかりやすく説明することが主な業務である。
工場を有するトーマビール株式会社は、明治時代に創業した老舗の大手ビールメーカーで、Tohmaグループホールディングス株式会社の主力企業だ。ここ関西工場では、看板商品であるトーマラガーをはじめとして、第三のビールと呼ばれるリキュール酒などを製造している。
「よし。あとはこれだけね」
手に持ったスカーフを広げる。遠目には無地に山吹色のグラデーションが入っただけに見えるが、近くに寄ると白抜きでTohmaのシンボルマークである麻文様が描かれているのがわかる。鏡に近づいてスカーフを巻こうとした瞬間、口から声が飛び出した。
「何これ!」
首の左側にくっきりと赤い斑点がついている。家を出るまでどたばたしていたせいで、まったく気付かなかった。きっと今朝の一件でできたに違いない。
胸の前で握りしめたこぶしがふるふると震える。
「あのドラ猫めー!」
「きゃっ!」
叫ぶと同時に、更衣室のドアの方からか細い悲鳴が聞こえた。
「もう、静さんったら、ほんまに超びっくりしたんですからねぇ!」
「ご、ごめんね……」
『森』と書かれたロッカーの前で着替えをしている彼女に頭を下げる。
ピンクブラウンの長い髪を緩く巻き、ツケまつげもびっくりの特盛マスカラ、ざっくりニットと膝上のフレアスカート――という、いかにも『女の子』な出で立ちの彼女は、入社二年目の新米アテンダントの森希々花。私がここに転職してきて初めてできた後輩だ。
彼女はチワワみたいなつぶらな瞳で私をじぃっと見つめた後、チェリーピンクの唇を尖らせた。
「のんのかよわい心臓が止まっちゃうかと思いましたよぉ」
そんなにか弱い心臓なら、一度病院で見てもらった方がいいかも。――なんてセリフは心の中に留め置いて、とりあえずもう一度「ごめんね」と謝っておく。
彼女の語尾が伸びる話し方は、何度も注意してきた甲斐あって、最近やっとアテンド中には出なくなったようだ。今は勤務時間外なので、目をつぶっておこう。
「それにしても、森ちゃんにしてはずいぶん早いじゃない。出勤時間までまだ一時間近くあるわよ?」
森はいつもギリギリ出勤だ。さすがに遅刻したことはないが、彼女が制服に着替えて事務所に到着したところで始業の鐘が鳴るのが定番だ。
もしかして今夜は大雪!? このあたりは関西の中でもほとんど積雪がない地域だから、もし今夜積もったら、明日は交通が麻痺して大変だろうな。こういうとき、自宅から職場が近いのってほんと助かる。あ、でも雪道の自転車は危ないから徒歩で出勤しなくちゃ。やっぱり明日は少し早めに家を出た方がいいかもしれない。
「静さぁん、心の声がだだ漏れですよぉ!」
つらつらと考えていると、横から突っ込みが入った。
「あれ? 今私声に出してた?」
「思いっきり出してはりましたぁ! 失礼やないですかぁ」
じっとりとした目つきで頬を膨らませる彼女に「あはは」と笑ってごまかす。すると森は、むっとした表情で付け加えた。
「独り言が出るのは老化の一種なんですってぇ」
「う、うるさいわよ。私だってまだあなたと同じ二十代なんだけど……」
「何言ってるんですかぁ、二ヵ月後には三十路に突入しはる人が」
「二ヵ月半!」
「同じたい」
ワントーン低い声で突っ込まれて口をつぐんだ。
彼女は普段は関西弁を混ぜた不思議な話し方をするけれど、素になったときは生まれ育った地元の言葉になる。なかなかの不思議ちゃんだ。
黙った私に、彼女はにこっとかわいい笑顔をくれる。
「のんやって大事な日くらいは早起きしますぅ」
「大事な日?」
何か特別なツアーでも入っていたかと思い、記憶を手繰り寄せるが、そんなものはない。むしろ今日はツアー自体も少ない。
首をひねる私に森は意味ありげに「うふふ」と笑っただけで、鏡の前で髪を結っている。器用にねじったり留めたりと、手の込んだまとめ髪にした後、たっぷりとひだを作ったスカーフを首の横でふわりと広がるように巻いた。
流行に敏感でいつもかわいらしい彼女だが、今日はいつにも増してふわふわでキラッキラ。輝きがまぶしすぎてそっと視線を剥がす。鏡に映る私と彼女。同じ制服を着ているのに別のイキモノみたいだ。
そんなふうに思いながらじっと鏡を見ていると、横から手が伸びてきた。
「静さぁん、スカーフが曲がってはりますよぉ」
「だめっ」
反射的にその手を振り払った。
「あ……」
横を向くと、驚いた表情をした森がまつげをしばたたかせている。スカーフの下にあるキスマークを見られまいと、とっさにやってしまった。彼女はただ私のスカーフを直してくれようとしただけなのに、私ときたら善意を跳ねのけるようなことを……
「ご、ごめっ」
「すみませぇん。首触られんの、お嫌やったんですね。わかりますぅ、こちょばいですしぃ」
「う、うん……ごめんね。ちょっとびっくりしちゃって。スカーフは自分で直すわね」
「そぉですねぇ」
彼女は何事もなかったかのように鏡に向き直り、リップを塗り始める。見た目や話し方はいかにもイマドキ女子ではあるが、決して悪い子ではない。
もう一度「ごめんね」と謝った私に、森は満面の笑みを見せた。
「スカーフくらい、いくら静さんでも自分で直せましたよねぇ」
ちょっと待て。いくら静さんでも、とは?
「静さんはものぐさなだけでぇ不器用とちゃいますもんねぇ」
ものぐさって……あながち間違いじゃないわね。
よく見ているなぁ。なんて妙に感心していると、人差し指を顎に当てた森が、小首をかしげた。
「静さん素材は悪くないんやからぁ、もちょっと気張らはったらなんぼかましになるんちゃいますぅ?」
「あのねぇ森ちゃん」
面と向かってだめ出しをされているような気持ちになって、ここは先輩らしくびしっと言おうと口を開いたが、彼女の最後のひと言に言葉をなくす。
「静さんに足りひんのは、若さだけやのうて、やる気もですぅ」
森希々花。決して悪い子ではない。……うん、悪い子では。
森と一緒に更衣室を出た後、事務所までの通路を並んで歩いていく。
甲子園球場四個分ほどの広さがあるこの工場には、私たちツアーアテンダント以外にも製造部や流通部、販促事業部などがあり、総勢二百人ものスタッフが働いている。広大な敷地には社員食堂や売店だけでなく、化粧室や仮眠室、カフェテリアまであってとても働きやすい。あえて不満を挙げるとしたら、更衣室からツアー見学事業課の事務所までが非常に遠いことくらいだ。
長い道のりを歩きながら、隣でキョロキョロと挙動不審な動きをしている人がひとり。さっきからずっと、彼女の視線が頭上を行ったり来たりしているのが気になって仕方がない。
「何? 落とし物でもしたの?」
一緒に探してあげようかと思って声をかけたのに、「はぁ」と呆れたようにため息をつかれた。
「静さんったら相変わらずなんですからぁ」
いったい何が『相変わらず』だというのだろう。いいかげんにしないと置いていくわよ、と喉まで出かかったとき、キラキラと輝くつぶらな瞳を向けられた。
「静さんにはいつもお世話になってますからぁ、特別に教えちゃいますぅ」
もったいぶった口調にしびれを切らしかけ、本気で置いていこうかと思い始めたとき。
「なんと今日! 王子が来はるんですぅ!」
「はい?」
また森ちゃんが変なことを言い始めたわね。
「あ、その顔は信じてませんねぇ」
「そんなことより早く行かないと。始業前にメールチェックしなきゃ」
頬を膨らませる森を横目に足を速め、通路の角を曲がろうとした瞬間、現れた人影と出会い頭にドンッとぶつかった。
「うわっ!」
「すみません。大丈夫ですか?」
降ってきた中低音の声に固く閉じていたまぶたをゆっくり開くと、視界が紺色でいっぱいだった。頬に当たる感触が滑らかで、ブルーのソリッドネクタイには艶やかな光沢がある。
あ、これ、きっとすごい上等なやつ……
瞬間「やばっ」と飛びのいて、勢いよく頭を下げた。
「す、すみません。前方不注意でした!」
どうしよう。もしかしたらお高いスーツを化粧で汚してしまったかもしれない。
そうだ、近所に腕のいいクリーニング屋さんがある。そこに持っていけばなんとかしてくれるはず。これでしばらく節約生活だろうが背に腹は代えられない。ていうか、今はそんなことを心配している場合じゃないわ!
「あの、きちんとクリーニングにお出しします! 差し支えなければ上着をお預かりさせてくださ――」
言いながら顔を上げた瞬間、ヒュッと息をのんだ。
頭ひとつ高い場所にあったのは、驚くほどきれいな顔だった。
ほんの少しだけ目尻の下がった二重まぶたの目。すっと通った鼻梁と、形のよい薄い唇。白磁のごとく透明感のある小さな顔の中に、まるで計算されたかのようにそれらが配置されている。
「あ……」
言葉を詰まらせる私とは反対に、彼は平然と口を開く。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
軽く微笑みながらそう言った男性に、私の目は釘付けになった。
髪全体を整髪剤で後ろに流したスタイリングと、体にぴったりと合った仕立てのよい三つ揃えのスーツ。これまで出会った男性の中で、見た目もまとう空気も最高級だ。
テレビで見かけるイケメン俳優? いや、本の中から出てきた王子様かもしれない。
とにかく私とは別の世界の住人であることには間違いない。
間違いないのに――
凛とした色気のある爽やかな香りが、あることを訴えかけてくる。印象的な二重の垂れ目と右目の泣きぼくろがそれを裏付ける。
うそ、まさか、なんで……!
「こちらも不注意でした。申し訳ありません。そちらこそ大丈夫ですか?」
「あ、い、いえ……は、はい」
「そうですか。それはよかった」
口の端を少しだけ持ち上げ、「お怪我がなくて何よりです」と言ったその人は、私の肩に置いていた手をそっと外して「では失礼」と横をすり抜けた。長い脚を悠然と動かして離れていく背中を、呼吸も忘れて見つめ続ける。やがてその背中が角を曲がって見えなくなった。
「ア、ア、ア……」
「きゃぁぁっ!」
甲高い声に振り向くと、森が目を輝かせ、頬を上気させていた。
「やったぁ! 初日から会えるなんてうれしか! ちかっぱついとぉばい! やだでも、静さんったら抱きついとって! ばりうらやましかぁぁぁ!」
『ばい』だか『ばり』だかよく知らないが、とりあえず声のボリュームを下げておくれ。
「森」と静かに名前を呼ぶと、はしゃいでいた彼女はぴたりと動きを止め「えへへ」と笑う。私は彼女をじろりと睨んだ。
「抱きついたんじゃありません。ぶつかっただけです」
「めちゃついてはるやないですかぁ」
「どこが。こっちは高級そうなスーツを汚したかもって、ひやひやしたんですけど」
「なんかぁ、いい匂いでしたぁ」
全然聞いてないよ……。混乱の真っただ中で注意する気力すらなく、口からため息だけがはぁと漏れる。そんな私のことなどお構いなしの森は、どこか夢見るような瞳で話し続ける。
「しょっぱなから当麻王子に会えるやなんてぇ、早起きがんばった甲斐ありましたぁ」
「はい?」
今なんと?
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