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   第一章 愚かな婚約者との婚約解消に向けて


「準備を忘れているものはないかしら?」
「お嬢様、大丈夫ですよ。全て完璧に整っております。明日からお嬢様も王立学園に通われるのですね」
「えぇ、そうね。今からどんな学園生活になるのか楽しみだわ」

 私、メルティアナ・ミズーリは、期待に胸を膨らませて答えた。
 このルラーネ国は、多くの貴族が大なり小なり魔力を保有している。
 各領主は領地を豊かにするために、魔法を行使することが美徳とされている。そのため、貴族達は、いかに自分の領地を発展させるかに力を注いでいた。
 そして、十四歳になると、貴族と一部の平民は王立学園で二年間学ぶ。
 私も伯爵令嬢として例に漏れず、学園に通うことが決まっていた。
 家族は父と、忙しい父の代わりに私の面倒を見てくれる兄が一人いる。母は私が幼いころにやまいでなくなってしまったけれど、いつも側で見守ってくれるお兄様や優しい使用人達のおかげで充実した日々を過ごしている。

「明日は、どんな髪型で行かれますか? お嬢様の髪は癖のないストレートなので、アレンジのしがいがあります」
「どうしようかしら。ハーフアップにしてサイドを編み込むのも良いかもしれないわね」
「それでは、明日はそのように致しましょう。髪留めには、お嬢様の瞳の色と同じエメラルドをあしらった物をご用意致しますね」
「えぇ、お願いね」

 メイドのミリアと明日のことについて話していると、お兄様が訪ねてきた。
 彼は、私と同じプラチナブロンドの髪にエメラルド色の瞳の、たぐいまれな美貌の持ち主だ。手足も長く、すらりとした体は何を着てもさまになる。次期当主としても優秀だ。
 そんなお兄様には釣書つりがきがひっきりなしに届くものの、未だに婚約者はいない。今は領地経営に集中したいとのことらしいが、詳しくは聞いていない。

「忙しいところ邪魔して悪いね」
「いえ、明日の確認をしていただけなので、大丈夫ですわ」
「明日から学園についていく護衛を伝えておこうと思ってね。メルが気を遣わずに過ごせる相手が良いと思って、ラルフを付けることにしたよ」
「まぁ、ラルフですか? 確かに、幼馴染おさななじみでもある彼ならば、毎日一緒に過ごしても気兼ねしなくて済みますわね」

 護衛騎士のラルフは侯爵家の三男で、侯爵家を継ぐことはないが、望めば子爵位をもらえるらしい。それなのに、何故か我が家に私的に雇用され、護衛騎士をしている変わった人だ。

「メルが、素直に成長してくれて嬉しいよ。それじゃ、明日から学園生活を楽しんで」

 お兄様は私をまじまじと見つめると満足げにそう言い、去って行った。
 家族や使用人達から可愛がられてきた自覚はあるけれど、お兄様からもらった一冊の小説のおかげで高飛車に育たずに済んだ。
 七歳の誕生日に、お兄様から「それを読んでよく考えてごらん? おのずと、どう振る舞えば良いのか分かるようになるよ」と言われ、宝石と一緒にプレゼントされたのだ。
 小説の内容は、甘やかされて育った公爵令嬢が、非道な行いの数々で断罪されるお話だった。お兄様は、私にこうならないようにと言いたかったのだろう。今思い返せば、七歳の女の子が読むには酷な内容だったような気がしなくもないけれど……
 とにかくその本をもらってからは、我儘わがままも程々にして、しっかり勉強しようと心に決め、魔法の特訓も始めることにした。
 幸いにして、伯爵家という高位貴族の生まれのおかげで、私は魔力が多い。
 何かあった時、自分の身は自分で守れるように、防御魔法と治癒魔法に力を入れることにしたのだ。
 まずは繊細な魔力操作が出来るように、七歳になってから一年間、ひたすら魔力操作に力を注いだ。
 八歳からは、生活魔法である浄化やライトといった基本的なものや、水をコップ一杯分出したり、料理するための火を出したりする低級魔法を詠唱なしで使えるように、繰り返し特訓した。
 そして九歳からは、ひたすらシールドと結界を張る訓練をして、いざという時に魔法が使えるように反射神経も鍛えていった。
 学園に入学する前日だからか、今までの苦労を一気に思い出した。
 ふと手をかざしシールドを作る。これは、もうすでに日課になっている。

「お嬢様は、本当に魔法の修練がお好きですね」
「そうね。自分の身を護るすべを持つことは良いことだし、コツコツと積み重ねることで、目に見えて成果が分かるのは楽しいわ」

 ミリアの言葉に、私は笑顔で答える。
 敵に囲まれた場合は、瞬時に自分の周りに結界を張り、助けが来るまで結界内に籠城することだって出来る。シールドは結界より消費魔力が少ないので、こちらを積極的に活用していきたいと思っているほどだ。

「本当にすごいですよ! 始めた当初はシールドが顔の大きさ程度だったのに、一年経った頃には、お体の半分くらいの大きさになっているんですから。十歳の頃には治癒魔法まで使えるようになられて……頑張りすぎてお体を壊さないか心配になりましたもの」
「ふふっ。ミリアは大げさね。それくらいで体を壊したりしないわ。無理しない範囲で毎日続けていただけよ」

 治癒魔法は主に聖属性だが、私の属性魔法である水魔法でも使うことが出来る。
 しかし、水魔法での治癒は大きな怪我を治すほどの効果はないため、薬を併用する必要があった。
 私の治癒魔法も、初めはかすり傷を治せる程度だったが、コツコツと毎日修練を重ねた結果、今ではナイフの切り傷を治せるまでになった。ただ、残念なことに、これ以上はどんなに頑張っても治癒力は上がらない。
 それこそ、聖属性でも持っていなければ……
 聖属性は、聖女のみが持つことが出来る特別な魔法であり、どんな重傷でも治癒出来るのだ。
 水魔法での治癒に限界があることを知った私は、薬について調べるようになった。お兄様に薬草に関する本をいくつかいただき、どの薬草にどんな効能があるかなど、多くを学んだ。

「この部屋に飾られている花達はお嬢様が世話をしているから、一際綺麗ですね」
「新しく授かった能力のおかげね。好きな花達が生き生きとしているのは嬉しいわ」
「本当に、切り花とは思えないですよ。庭にある状態と同じですし、私達がお世話をしているやしきの花よりも二週間以上長く咲いていますからね」

 ミリアが言っているのは、私の能力についてだ。
 入学の一年前に行うことが義務付けられている属性検査で、植物魔法を使えることが分かったのだ。これがとても素敵な能力で、授けてくださった神に感謝した。
 その影響もあり、ますます薬草についての興味は増している。
 いつか自分でも薬を作れたら良いな。今度、薬師くすしの方を招いて、お話を聞けたりしないかとまで思っている。
 ちなみに、植物魔法は、種があればすぐに植物を成長させることが出来る。
 果樹の種も成長させられるので、遭難した場合でも、種さえ持ち歩いていれば果物を収穫出来る。
 この属性検査は、貴族のみならず、平民も受けることを義務付けられている。
 平民は元々魔力量が少なく、特別な能力を持っている者はほとんどいないが、まれに希少な能力を持って生まれる者もいるからだ。
 つい最近では、入学前の検査で、平民の少女が聖属性を持っていることが分かった。
 この希少な聖属性を持つ平民の少女については、貴族間でも大きな話題になった。彼女は教会が保護を申し出たことで、今は教会で生活していると聞く。
 何も持たない平民の少女が聖女としてあがめられる――
 果たして彼女は変わらずにいられるだろうか。それとも、小説の中の公爵令嬢のように傲慢になってしまうのだろうか?


 学園入学の当日。ミリアはせわしなく私の世話をし、昨日話した通り、髪を綺麗に編み込んで仕上げてくれた。

「お嬢様、今日も本当にお美しいです……」
「ありがとう。ミリアがいつも綺麗にしてくれるからね。遅れるといけないから、そろそろ行くわ」
「はい。馬車までお見送り致します」

 エントランスに行くと、黒い騎士服を格好良く着こなしたラルフが立っていた。燃えるような赤い髪と、それより濃い赤い瞳が印象的な幼馴染おさななじみだ。
 お兄様より背が高い彼は手足も長いので、こういった服がとても良く似合っている。

「お嬢様、おはようございます。本日から一緒に学園に参ります」

 いつもの親しげな話し方とは一転して、主従関係を意識した話し方に、むずがゆい気持ちになる。

「ふふっ。ラルフ、おはよう。なんだかいつもと違い過ぎて、おかしいわ。それでは、今日からよろしくね」

 私はラルフのエスコートで馬車に乗り込む。そして車中で、一通の手紙を開く。
 そこには、学園のクラス分けについて書かれていた。
 高位貴族と下位貴族では、家庭での学習内容に差があるため、クラスが別になっている。
 生徒同士のいざこざを未然に防ぐためか、校舎も別になっていて、庭園を挟んで建っていた。お昼を庭園で食べる場合は、別のクラスの生徒達が出会うこともある。
 ちなみに、特待生として入学してきた平民は、下位貴族のクラスに組み込まれる。
 そして、高位貴族は一人だけ護衛騎士を付けて良いことになっている。
 護衛騎士は、授業中は廊下で待機し、昼食などで移動する時に一緒に付いていくのだ。
 また、王都に別邸を持たない貴族のために寮も完備されているため、寮から通う者とやしきから馬車で通う者がいる。
 馬車が学園に到着し、教室へと入るとルシアン様――ルシ様が目を輝かせて近寄ってくる。

「メル、おはよう。今日から毎日学園で会えるなんて嬉しいよ」

 ルシ様は、私の手を両手で握りながら、キラキラの笑顔を向けてくる。まるで絵本の中の王子様みたい。
 彼は、金色のふんわりと柔らかい髪に青い瞳が印象的な、優しい雰囲気の人だ。
 そして、十歳の頃に婚約した、私の将来の結婚相手だ。月に一度、親睦を深めるためにお茶会を開いており、愛称で呼び合う程度には親しくしている。

「ルシ様、おはようございます。私もご一緒出来て嬉しいです」

 私が微笑んで挨拶あいさつをすると、思わずと言ったように彼が抱き締めようとしてきたので、サッと手を前に出し制止する。

「ルシ様? ここは学園ですわ」
「っ、そ、そうだったね。つい嬉しくて」

 はにかみながら言い訳するルシ様の耳が赤くなっている。そして、誤魔化すように私の後ろにチラッと視線を向けた。

「彼がメルの護衛騎士として付いてきたんだね」
「はい。お兄様が幼馴染おさななじみであるラルフなら、気を使わず学園生活を楽しめるだろうからとおっしゃって」
「なるほど。確かに、フェルナンド様の言う通りだね。ラルフ、これからよろしく」
「ルシアン様、よろしくお願いします」
「うーん、相変わらず良い男だよね。何で君には婚約者がいないの? それなのにメルの近くにいるのは少し心配だな」

 ルシ様の言葉に、ラルフは顔色一つ変えずに「お嬢様とはあくまで主従の関係ですので、ご安心ください」と答える。ルシ様はどこか納得していないような表情だったけれど、「ラルフがそう言うなら……」と言った。

「ルシ様、そろそろ席に着きましょう?」
「そうだね。メルの席はこっちだよ、おいで」

 各自、席に座って待っていると、担任の先生が教室に入ってきた。そして、すぐ後ろに一人の女生徒が続く。
 ピンク色の細くて柔らかそうな髪は肩に付かない長さで、丸く大きな瞳は、髪より少し濃い色合いだ。背は私より低く、小さな彼女は庇護欲をそそる雰囲気があった。
 この髪色に瞳……もしかして、聖女様? 平民のはずだけど、何故このクラスに?
 そう思っていると、周りも同じように考えたのだろう、クラスが騒めく。

「話には聞いていると思うが、彼女が聖女のアンナだ。みんなと同じクラスに入ることになった。通例とは異なるが、仲良くしてやってほしい」

 先生の言葉を聞いて、私は驚いた。
 平民がこのクラスに入るのは、特別待遇。さすが聖女といったところか。

「初めまして。教会でお世話になっているアンナです! 貴族の人達と過ごすのは緊張するけど、仲良くしてほしいな!」

 彼女は元気良く、満面の笑みで挨拶あいさつをした。その様子は貴族らしくなく、平民であることを感じさせる。
 一年前まで平民として市井しせいで暮らしていたのだし、教会でお世話になっているからといって、礼儀作法がすぐ身に付くわけではない。
 とはいえ、彼女のためを思うなら、特待生の平民がいるクラスに入れてあげるべきなのでは? と、思っていると、アンナ嬢は――ええと、アンナさん? 呼びにくいわね。アンナ嬢で良いかしら。
 アンナ嬢は、先生にうながされて、アルフォンス第二王子殿下の隣の席に座った。
 アルフォンス殿下は、つややかな黒髪を首の後ろでくくり、惹き込まれそうなほど美しい金色の瞳を持っている。落ち着いているせいか年齢より少し上に見え、大人の色気がにじみ出ていた。
 アンナ嬢は聖女という特別な立場にあるため、殿下が面倒を見ることになったのかしら。
 しかし、殿下の側に異性がいることを面白くないと思う令嬢が出てきそうで、少し心配になる。
 殿下には、まだ婚約者がいない。そして、このクラスにもまだ婚約者のいない令嬢が多かった。
 大体は在学中に婚約者が決まり、卒業後すぐに結婚か、一年の準備期間を経て結婚するのが主流だからだ。
 話が終わり担任が出て行くと、アンナ嬢が話しかけてきた。

「あのー、あなたは伯爵令嬢だと聞いたのですが、お話ししても良いですか?」

 伯爵令嬢だと聞いて話しかけてきた……? このクラスは公爵家から伯爵家までの令息・令嬢が在籍しているから、一番爵位の低い私に話しかけてきたということ?
 あまりの理由に、私は驚いて言葉を失う。

「えっと、あの……」

 アンナ嬢がモジモジと手を動かし、周りに視線を彷徨さまよわせていると、殿下が側に来た。

「ミズーリ伯爵令嬢、すまない。アンナはまだ貴族社会にうとく、礼儀も……理解しきれていないんだ」

 この状況を見兼ねたのだろう、殿下が私に謝罪する。

「あっ、いえ。いきなり話しかけられて驚いただけですわ。殿下が謝られる必要はございません」
「ありがとう。そう言ってもらえて良かった」

 そう言うと、殿下は微笑みをたたえる。それにしても、アンナ嬢は私にどんな用があるのかしら。

「それで、アンナ嬢は、私にどのようなお話が?」

 私が話しかけると、アンナ嬢の顔が、ぱぁぁぁっとほころぶ。

「あのっ、私、貴族令嬢のお友達がいないんです。よろしければ、お友達になってほしくて……」

 私とお友達? 彼女とは初対面で……どのように付き合っていけば良いのか分からないけれど……今の環境に一生懸命馴染なじもうとしている気持ちを無下むげにするわけにもいかない。

「えぇ、私で良ければお友達になりましょう」
「ありがとうございます! えっと、何て呼んだら良いでしょうか?」

 さすがに知り合ったばかりで、愛称でというわけにはいかないから……

「メルティアナとお呼びください」
「メルティアナさんですね! 私のことはアンナと……あ、もう呼んでたね!」

 急にアンナ嬢の敬語がなくなった。私はそんなしゃべり方をしないので、少し戸惑ってしまう。

「アンナ、この場合は『さん』ではなく、『様』を付けるんだ。メルティアナ様と呼ぶのが正しいんだよ」
「え? お友達なのに、『様』を付けるんですか?」
「友人とはいえ、礼儀はわきまえなければならない。ただの愚か者になってしまう。アンナには、まだ難しいだろうが、私も気付いた時には注意するようにするから」
「……分かりました。メルティアナ様、よろしくね」

 アンナ嬢は、先ほどまでの笑顔が一変して、シュンとしてしまった。
 私は励ますように努めて明るく言う。

「貴族社会は色々と難しいことが多いですから。アンナ嬢も大変だと思いますが、徐々に慣れていけると良いですね」
「はいっ!」

 アンナ嬢と話を終えた後、授業を受け、昼休みになった。昼食を取ろうと席を立ったところで、すぐにルシ様が私に声を掛ける。

「メル、一緒に食堂で食べよう」
「はい。喜んで」

 ルシ様と教室から出て行こうとした直後、「メルティアナ様っ!」と大きな声で呼び止められた。こんな大声を出す令嬢は、このクラスにはいない。そう、貴族令嬢の中には……
 そう思いながら振り返ると、案の定、アンナ嬢が駆け寄ってきた。

「メルティアナ様! お昼一緒に食べよう!」

 アンナ嬢の言葉を聞いて、私はチラリとルシ様に視線を向ける。彼は眉を寄せて、難色を示していた。

「アンナ! 大きな声を出したり、走ったりしてはいけない。周りをよく見るんだ。それに……ミズーリ伯爵令嬢は、婚約者と昼食を共にするようだよ」

 さすがに今の態度は問題があると、殿下が指摘してくれて良かった。

「え? 婚約者?」

 ルシ様がサッと前に出て挨拶あいさつをする。

「メルティアナ嬢の婚約者、マイガル伯爵の嫡男、ルシアンと申します」
「マイガル伯爵令息、すまないな。アンナは私が連れていくから……」
「待ってください! せっかくなら四人で一緒に食べましょうよ。人数が多い方が楽しいですよね」

 普通は、婚約者との時間を邪魔してごめんねと言って、引き下がるところだけれど……。でも、先程、お友達になると言ったばかりだから……

「分かりましたわ。ルシ様もよろしいですか?」


「はぁ、メルが良いなら良いよ。殿下もよろしいのですか?」
「……仕方がない。では、王族専用のサロンルームがあるので、そこにしよう。このまま食堂に行くと、周りの目が気になってゆっくり出来ないだろう」
「殿下、お気遣いありがとうございます」

 教室を出ると、ラルフが私達の後ろを付いて歩く。
 アンナ嬢はラルフが気になるのか、しきりにチラチラと後ろに視線を向けていた。

「アンナ、余所見よそみをしていると危ないよ」

 殿下が注意すると、アンナは慌てたように言う。

「っ、あ、あの、後ろの人は誰なのかなと。なんで付いてくるんでしょう?」
「彼は、私の護衛騎士です。常に私の側におりますので、気にしないでください。アンナ嬢にも教会の騎士が付いているでしょう?」
「うわぁー! メルティアナ様の護衛騎士って、とっても格好良いね! あんな護衛騎士が常に一緒にいるなんてうらやましい!」

 ……あなたの護衛騎士だって、清廉な雰囲気の凛々りりしい男前よ。好みの問題かしら。

「そうかしら? ラルフ、良かったわね。アンナ嬢が褒めているわよ」
「私程度の騎士ならば、どこにでもおりましょう」
「またまたー、謙遜けんそんしちゃって!」

 そう言うと、アンナ嬢はバシッとラルフの腕を叩く。

「……アンナ。無闇矢鱈むやみやたらに、男性の体に触れてはいけない。はしたないと思われるよ」

 さすが殿下。先程から、話し方やマナーについてアンナ嬢に注意してくれている。まだ入学初日だから、仕方がないけれど。

「えっ、会話の流れで腕に少し触れただけなのに、ダメなんですか?」
「基本的に、家族や婚約者といった限られた人としか触れ合わないんだ。何より、婚約者のいる男性に触れたら、相手の令嬢から非難されても何も言えない」
「そんな……それくらい……」
「貴族社会では、それくらいではすまされない」
「……分かりました。気を付けます」

 アンナ嬢はそう言いながらも、それくらい良いじゃないというような顔をする。

「幸いなことに、ラルフは婚約者がいないから、うるさく言う女性はいないわ。でも、女性が男性の体に無闇に触るのは良く思われないから、気を付けた方が良いのは確かね」

 これは、アンナ嬢のためにも、ちゃんと注意しておかなければならない。こうやって少しずつ貴族社会の礼儀を学んでいってくれれば。
 とはいえ、いつまでも立ち話をしているわけにもいかないので、私はルシ様の腕に手を掛けて歩き出す。すると、私達の姿を見て、アンナ嬢が口を開く。

「ああいう触れ合いは良いんですか? はしたなくないの?」
「彼らは婚約者同士だ。それに、密着しているわけではなく、そっと腕に手を添えているだけのエスコートだ。婚約者として適切な距離だよ」
「ふーん。メルティアナ様は、素敵な婚約者に、格好良い騎士様までいていいな」
「アンナにも教会の騎士が付いているだろう? 教会の騎士なんて、滅多なことでは護衛に付かない。感謝したほうが良い」
「そうだけど……」

 そんなことを話しながら殿下に案内された王族専用サロンは、陽の光が降り注ぎ、花々が咲き誇る癒しの空間だった。
 余程のことがない限り、高位貴族でも訪れることが叶わない場所だ。

「このような素敵なサロンに連れてきていただき、ありがとうございます」
「いや、こちらが無理を言っているのだから、これくらいはさせてほしい」
「わぁぁぁぁー、すごーい! 素敵! さすが、王族専用!」

 アンナ嬢……先程、殿下から大きな声を出してはいけないと注意されたばかりなのに。でも、平民の彼女にとってここは夢のような場所で、興奮するのも無理はないのかもしれない。

「アンナ、また大きな声を……。まあいい、さぁ掛けてくれ」
「失礼します」

 私は殿下にうながされるままに席に着くと、後ろを振り返りラルフに声を掛ける。

「あなたは、もう食事は済ませたのかしら?」
「はい、お嬢様が授業を受けている間に」
「そう、それなら良かったわ」
「えーっ、せっかくなら一緒に食べれば良かったのに! それに、ずっと立ってるの?」

 アンナ嬢は、ラルフが余程気に入ったらしく、一緒に食事を取りたかったらしい。頬を膨らませて、不満を表していた。彼女は本当に表情が豊かね……

「アンナ。彼は護衛騎士で、今は職務中だ。私達と一緒に食事をすることはないよ」
「えー……また、貴族の決まりごとですか?」
「そうだ」

 殿下がまたもやアンナ嬢に説明する。
 それでも、チラチラとラルフを見て落ち着かない様子の彼女に、これでは駄目だと思い、ラルフに外で待っているように伝えた。
 ラルフは一礼してすぐにサロンを出て行く。

「えっ、何で追い出しちゃうの⁉」
「……はぁ、アンナが彼を気にして落ち着かないからだよ」
「そんな! 私のせいなの⁉」
「いえ、アンナ嬢のせいではないですが、私の護衛がいることでみなさんの気が散ってしまうと申し訳ないので、退室させました。ラルフも気にしていないと思うので、アンナ嬢もお気になさらず」
「えー……分かったぁ」

 食事の前から、なんだか疲れたわね……。でも今日だけだから、我慢しましょう。
 そう思ったのもつかの間、私の思いとは裏腹に、何故か毎日四人で昼食を取ることになってしまった。


 その日の授業は、男子は剣術、女子は刺繍ししゅうと学ぶ内容が分かれていた。私はアンナ嬢と一緒に教室を移動することになったのだけど、当然ラルフも一緒に移動するわけで……
 アンナ嬢は「ラルフさんって、いつからメルティアナ様の護衛騎士をしてるの?」「本当に格好良い! どうして婚約者がいないの?」「恋人を作るつもりもないの?」といった質問を投げかけては、「職務中なので、申し訳ございません」と会話を拒まれていた。
 アンナ嬢はそう言われる度に、私の方をチラッと見て、駄目なの? といった目で見てくるが、あえて気付かないふりをした。
 ちなみに、アンナ嬢はルシ様のことも気に入ったようで、昼食時によく話しかけている。
 しかも、何度も殿下や私から注意されているのにもかかわらず、ルシ様の腕や肩に触れていた。


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