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1巻

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   第一章


 僕には前世の記憶がある。おそらくこれは転生というやつだ。
 今世の話をする前に、少し僕の前世について説明しておこう。
 何を隠そう、前世の僕は物心ついた時には既に周囲から天才と呼ばれる子供だった。
 驚異的な記憶力を持って生まれた特異な僕は、手当たり次第に本を読み始めた。五歳頃になると大人顔負けのスマートな会話を披露するに至っていた。
 そんなおしゃまな子供など、大人にとっては格好のおもちゃだったりする。気がつくと僕の周りは少しばかり騒がしくなっていた。
 それにうんざりした僕は私語厳禁の聖域である図書館に入り浸り、気がつけばわずか二年足らずで県内にある図書館の蔵書を全て読破していた。
 実用書からラノベ系の異世界ファンタジーまで……そう、本当にあらゆる本を読み尽くしたのだ。
 そして、中学に入りあっさり漢検英検の一級を取得すると、大学で教鞭きょうべんをとるお堅い祖父は祝いだと言って一台のパソコンを僕に与えてくれた。それはまさに天啓のごとく!
 広大な情報の海に飛び込んだ僕は、それはもう無節操に無作為に、興味のあるものからないものまで、全ての情報を脳の海馬に収めていった。
 僕の喜怒哀楽は全てモニターの中にあったし、その箱の中では探せばなんでも見つけられた。
 そうして一日のほとんどをモニターの前で過ごし、ありとあらゆる情報をインプットし続け、その結果……うっかり人間関係をおろそかにした。
 高校を卒業するまでの十八年間にできたリアルの友人は一人もいない。痛恨の極み……
 その後、大学に入り一人暮らしを始めた僕はとうとうFXに手を出した。というのも、石橋を徹底的に叩く男である僕は、胸によぎった将来への不安に備えるなら、親の庇護下にある学生のうちに貯めるだけ貯めるのが最も効率的だという結論に至ったからだ。
 情報を集め、洞察し分析し、確率をはじき出して最適解を導き出す毎日は、まるでゲームのようにスリリングだった。
 半年間で目途をつける、その後は死ぬほど遊びまくってやる! 
 そう決めて、せっかく入った大学を休学してまで徹底的にのめり込んだ。
 母親にキレられ父親に怒鳴り込まれても、僕は寝食を忘れモニターを見つめ続けた。着々と資産を増やし、ようやく向こう五十年くらいは働かなくていいほどの余裕ができた頃、……僕はデュアルモニターの前で息絶えた。
 死因はおそらく栄養失調とエナジードリンクの乱飲である。
 人生なんて不測の事態の集合体。
 こんな事ならもっと好きなように生きれば良かった。やりたい事も行きたいところも全て後回しにして、僕は将来に備えてきたのに。
 思い出の大半は自室の壁とモニターの映像。家族も遠ざけ、買い物すらネットで済ませ、恋人どころか友達さえいなかった僕に触れ合いを伴う思い出はない。遺憾の意……
 そんな僕を見かねた厳格な祖母は、時折一人暮らしの僕の部屋を訪れてはため息混じりに呟いた。

「あなたね、それだけの才能があるなら人のために使ったらどうですか」

 祖母は理性的な人だった。深い洞察力に基づき、僕の足りないところを的確に指摘する。

「それだけの知識と知恵があるなら人を救う事もできるでしょうに。人は誰かと影響し合って生きるものです。人付き合いが苦手なら苦手なりに、関わる姿勢をお持ちなさい」

 祖母の価値観は古き良き時代に培われたものだ。僕はいつだってそれが嫌いじゃなかった。
 かと言って、自分に置き換えられるかといったら、それはまた別の話だ。

「関わるタイミングがなかっただけで、人付き合いが苦手な訳じゃないよ……多分。ネッ友ならいるんだし。だからって誰彼構わず関わりたいなんて思わないし、誰かを救えるなんて思えないけど」
「ごちゃごちゃ言わずに、誰か一人でいいから無条件で力になってごらんなさい。そうすればおのずと何かが見えてくるでしょうし、それは巡り巡ってあなたの力になるでしょう」

 祖母は僕にとってリスペクトの対象だ。人として生きるために必要な事はだいたい祖母が与えてくれた。
 そしてその教えの数々は、転生した今も強く魂に刻まれている。
 だから今世はもっと人間的に、彼女の教えに沿って生きようと思っているのだ。


 前世の説明も終わったところで改めて、僕はアッシュ。栗毛に茶色い目、ごくごく一般的な外見の十二歳の健全な子供だ。
 地方都市の、一般的よりほんの少しだけ裕福な家庭に生まれた前世と違い、今世の僕は田舎の農夫の次男坊。
 中世の様相を色濃く映すこの世界は、よく見たファンタジーそのものだ。亜人や魔獣もここらじゃ見かけないけどどこかにはいるらしい。
 そして、この世界では皆固有スキルを一つ持つ。
 この固有スキルこそがこの世界をファンタジーたらしめる、魔法の代わりとなるものだろう。
 各々が固有スキルの特性を活かす事で、この世界は上手く回っている。普通なら不便であるはずの様々な事象が固有スキルで解決されているのだ。
 僕のスキルは『種子創造』。植物の生命活動、その全てを制御するスキル。このスキルはスキルランクの中でも相当上位に位置するものだ。スキルは有用さや貴重さによってランクづけされている。
 農夫の息子である僕が種子創造、、まさにうってつけのスキルじゃないか。
 ちなみに父さんはいくら疲れてもすぐに回復するスキル、兄タピオは熊のような怪力スキルを持っている。そんな訳で、体力系スキルを持つ父兄と違って小柄な僕は、今世でもやっぱり頭脳労働担当である。
 僕は前世に死ぬ気で(比喩でなく)手に入れた情報をすっかりそのまま覚えているのだ。ああ、神様ありがとう。
 こうして僕は日々作物の品種改良を趣味としながら土と戯れ、農夫の息子として平凡な毎日を過ごしていた。
 彼と運命の出会いを果たした、あの熱い夏の日までは。


   ◇◆◇


 この世界の夏は比較的過ごしやすい。とはいえ、こんな炎天下に帽子もかぶらず日向ひなたにいたら、すぐに脱水症状を起こすのは目に見えている。
 僕はそう考えながら、目の前の綺麗な顔を涙で濡らしたどこかのご令息から目を離せずにいた。
 この田園風景が目に優しい小さな村は、全てがとある公爵家——リッターホルム公爵家の契約農場だ。村の外れには、公爵家の別荘がある。
 ならば彼はおそらく……
 今も昔もお金持ちには御家騒動がつきものだ。その例に漏れず、この公爵家にも下卑た噂がついてまわる。そう、庶民の僕が耳にするほどのかなり有名なゴシップ。

「うぅ……ぅ……ぐっ……」

 田舎の子供はたいていギャン泣きをする。こんな声を押し殺して泣く子供になどお目にかかった事はない。
 苦しそうに嗚咽おえつを漏らす彼を見ていると、胸が締め付けられる。
 きっと農家の子供には分からない、よほどの事情があるんだろう。なんて綺麗で、そして哀しい涙……
 僕に気づいて俯いてしまう彼の、艶やかで、サラサラとした銀髪がせっかくの綺麗な顔を半分隠してしまう。
 それでも隠しきれない気品だとか優雅さだとかが、まるで絶版になった希少本のごとく僕の琴線に触れて……ふと祖母の言葉を思い出した。

「誰か一人でいいから無条件で力になってごらんなさい」

 そうする事で何かが見えると、それは巡り巡って僕の力になるだろうと、彼女はそう言った。
 祖母は僕にとって、常に正しき導き手だった。僕がそれを行動に移すかどうかは別として、その言葉を疑った事など一度もない。
 その祖母から与えられた含蓄のあるミッション。誰かのために生きる……
 その意味を理解する前に前世の僕は人生を終えた。同じ轍を踏んではならない。もっと好きなように生きれば良かった。あの日胸をよぎった最期の無念を僕は決して忘れない。
 なら、今生の僕が誰かを救ってみるのはどうだろう?
 祖母の言葉、その意味を理解できたら僕の中できっと何かが変わる。そう思うのだ。

「人は誰かと影響し合って生きるものです。人付き合いが苦手なら苦手なりに、関わる姿勢を持ちなさい」

 神の啓示のように祖母の言葉が蘇る。目の前には涙に曇る濃紫の瞳。濃紫……?
 違う、そうじゃない! その紫の瞳はもっと高貴に輝いてしかるべきだ! 
 心が騒めく。そうだ、救わなければ! そして彼と関わりたい。影響し合いたい。僕は彼を笑顔にしたい! 僕が救うべきなのは、僕の目をくぎ付けにして離さないこの子に違いない!
 今世では「やりたい事をやる」、そう決めたじゃないか!
 僕は自分でも分からない衝動に突き動かされ、心の赴くままにそう固く決意した。いざ行動あるのみ!

「ねぇ君、そんなところで泣いていたら熱中症で倒れるよ? 日陰に移動したらどうかな?」

 声をかけても見向きもしないし、無反応……。まぁそうだろうな。平民相手じゃこんなもんか。

「僕はアッシュ。怪しい者じゃないよ。とにかくこっちへ来て。ほら手を出して?」

 こちらから手を差し伸べると彼は唇を引き結び、それでもそろそろと僕の手を取る。
 あれ? 意外、というか大丈夫なのか、この警戒心の無さは。子供だからって油断してる? 僕が怪力スキルを持ってたらどうするんだろう。
 とは言え、手をつなげたならこっちのものだ。
 僕は何も言わず、涼しい林の奥へと場所を移すため少し強引に彼の手を引いた。
 場所を移し、木陰に入るとかなり暑さが緩和される。
 まずは高貴な彼を平らな岩に腰掛けさせた。農家の子である僕は地面に直座りで十分だ。おっとハンカチを忘れてた、彼の座る場所にはハンカチを敷かないと……。これエスコートの常識ね。

「これ飲んで。大丈夫、ただのハーブティーだよ」

 相当喉も渇いてたんだろう。水筒の蓋にお茶を注いで差し出すと、彼はコクリコクリと喉を鳴らして飲み干した。

「飲めた? いい子いい子。じゃぁもう一杯ね」

 二杯目のお茶はゆっくりと。これで水分補給はよし。

「次はこれ、ソルトキャンディー。舐めてね」

 ナトリウム摂取も完了っと。

「あとはこれね。微妙な甘さだけど」

『夏の過ごし方 熱中症予防』に書いてあった通り水分と塩分を摂取させてから、昼食代わりに持ってきた少しの焼き菓子を彼の膝にのせた。

「……あー、僕はここでレポートをまとめてるから、泣きたいなら泣いてもいいよ。えー、何か必要なら声をかけて?」

 彼を救うと決めたはいいけど、所詮人付き合いをしてこなかった僕にはどうすればいいのか分からない。でも『対人関係八十八の法則』の本に書いてあった。こういう時はそっとしておくのも一つの方法だと。
 小川のせせらぎと鳥のさえずりが響く中、しばらく待ってみても、もう嗚咽おえつは聞こえてこない。泣きやんだ、のか?

「君……このあたりの子……?」

 おおっ、口を開いた……。田舎の平民とは口をきかないのかと思ったけど。

「そう。ここの農家の次男坊。君は公爵家の人だよね?」
「ど、どうして分かった……?」
「分からない訳ないよ。ここは公爵家の専用農村だし、近くには公爵家の別荘もある。ここで見かける貴族様なんて他にはいない」

 僕みたいな子供が世事に詳しい事に驚いたのか、彼は目を丸くして僕を見る。そして、田舎の農村にしては珍しく甘みを含んだ焼き菓子や、僕の持つ紙の束にも疑問を持ったようだ。

「……君の家は裕福なのか?」
「まさか。だけど僕は甘味を手に入れる方法を知ってるから。家族にだけ渡してるんだよ」
「そんな事ある訳ない、だって君は子供じゃないか」

 彼はそう言って胡乱うろんげに目を細めるけど、……ホントだよ?

「子供には違いないけど……君だって同じくらいだよね? 公爵家のご令息……いや、若き公爵様なんだっけ? 確か十二歳だ」

 あっ! また目を見開いた。そんなに驚く事? まさか同い年っていう事実にビックリしたんじゃないよね? いくら僕の背がほんのちょっぴり彼に届かないからって……あんまりだ。

「リッターホルム……名前は? 名前はなんて言うの?」
「ユーリウス……」
「いい名前だね。ユーリウス・リッターホルム。響きがとっても綺麗だ。綺麗な君にピッタリ」
「あ……ありが……とう」

 うっ! 何この破壊力……。貴公子のはにかむ顔ってたまらない。
 それにしても僕ときたら、誉め言葉が綺麗だけってなんてボキャブラリーが貧困なんだ。僕には『過去から現代 形容詞用法大辞典』がついてるはずなのに。情けない……
 話しながらも僕の視線は自作のノートに向いているし、レポートをまとめる手は休めない。
 実はなぜか分からないけど、さっきから彼の顔がまともに見られないでいる。身分差に心がひれ伏してるんだろうか?

「それ……、君は何を書いている?」
「うん? ああ、これは近所のおじいさんに頼まれた、寒さに強い苗を育てるための交配の方法をね……」

 彼に乞われるまま、『品種改良、その歴史』で覚えた農法に関する知識や、望遠鏡を作った苦労なんかをひたすら話しまくった。
 しょうがない。僕はその時必死だったのだ。こんな話が楽しいのかどうか分からない。だけど、親しくなるための会話っていうのを誰かと交わした事のない僕にはこれが精一杯。
 だから、彼が話を真剣に聞いてくれてホッとしたのだ。僕の顔を穴が開くほどじぃっと見つめてくるのには参ったけど。お願い、見ないで……

「ふ……」

 わ、笑った! うっすらだけど、でも確かに笑った。ぐうかわ……。何この生き物?
 そしてその話の流れで、僕らはたわいもない口約束を交わしたのだ。

「僕は果実のように甘いトマトを研究しているんだよ。もうすぐ収穫だから、成功したら一番に君に食べさせてあげる。約束するよ」

 おっと、試食は必要だから正確には二番目かな。彼が村を去るまでには食べさせてあげよう。
 僕は彼に小指を差し出した。

「約束……あ、ああ! 約束だ。ここにいる間は毎日ここへ来る。だからアッシュ……約束だ」

 訳も分からず僕の差し出す小指に小指を絡めた彼の顔に、ようやく大輪の笑顔が咲いた。
 それにしても、ここに来てからずぅっと胸の動悸がおさまらないのは泣いている彼が心配だったから? ならそろそろおさまってくれるだろうか、この不整脈……
 ともかく、かれこれもう数時間は経つ。日が暮れる前に彼を別荘に送っていかなくては。
 公爵様が共も連れず半日も自由に過ごすなんて本来ならあり得ない事だ。名残惜しいけど、従者が騒ぎ出す前に送っていくとしよう。

「まだ帰りたくない……あそこにはいたくないんだ……」

 せっかく上げた顔がまた伏せられ、花開いた笑顔が萎んでいく。
 どうすべきか……。だからってうちに泊める訳にもいかないし。

「いやだアッシュ……もう少しここにいよう」

 気がついたらいつの間にか彼はシャツの裾を固く握りしめている。僕のね。
 押し問答している間にも陽は落ちていく。
 本気でそろそろ帰らないと僕がヤバイ。これ、公爵様を拉致ったとかで捕まるやつ。

「明日また、この場所で会おうよ。そうだ! さっき話していた望遠鏡、君にも見せてあげる。夜の星空ほどじゃないけど、ここでも良いものが見られるんじゃないかな? 鳥とか蝶とか」
「いいのか? とても珍しいものなのだろう?」
「君はもう友達だよ。大事な友達とはなんでもシェアするものだよ」
「僕は友人がいないから普通が分からない……」

 僕にも友達いなかったけどね……
 心で盛大にため息をつく僕の右手は、さっきから彼の体温に包まれたままだ。

「友達同士なら普通の事だよ」
「そ、そうか。友達なら普通……。分かった、じゃあ明日また、ここで。アッシュ、絶対だ」

 そう言って笑い合って、痛いほど握りしめられていた彼の手からようやく力が抜けた。
 ふぅ、良かった。もう少しで誘拐犯になるとこだった。
 僕はそのまま別荘へ向かう途中の分かれ道まで付き添うと、名残惜しそうに何度も何度も振り返る彼の背中が見えなくなるまで、手を振りながら見送り続けた。


 そして翌日、……昨日の場所にあの子——ユーリは来なかった。
 まあそうだよね。平民相手に約束を守る義理もない。少なくとも、公爵家の家人が怒ったであろう事は想像に難くないし、別に落胆も失望もしない。チーン……
 あきらめ気分でトボトボと帰路につく。仕方ない……この世界には身分制度が存在するのだ。
 それにしても一人で舞い上がった自分自身が虚しい。だ、だから人付き合いは苦手なんだ!
 凹みながら歩いていた僕は、目の前にやってきたそれに気づくのが少し遅れてしまった。

「うわっ! あっぶな……何だよもう! あっ!」

 脇道に避けた僕の横を、何台もの馬車が車輪を軋ませながら乱暴に通り過ぎる。
 その中の一台にユーリがいた。その虚ろな表情に、昨日の面影はどこにもない。
 涙に濡れても高貴に輝いていた濃紫の瞳は光を失い、今やただ暗く濁ったガラス玉のようだ。
 焦燥しきった顔からは生きる力を感じない。まるでねじの切れた人形みたいなユーリを見て、僕の本能が叫ぶ。
 だめだ! このままではユーリは死んでしまう。
 こんなところでウジウジしながら、僕は家に戻ってどうするつもりだ!? 僕は……ユーリを救うと決めたのだ。

「男は簡単に決意を覆さないのですよ。己の格が下がります。でなければ、初めから決意や覚悟といった言葉を気安く使うんじゃありません」

 祖母の教えが脳裏に蘇る。そうだ! この決意は覆さない。何があろうと絶対にだ。


 それからの行動は素早かった。
 前世ほどではないけど、僕にはそれなりに資本がある。
『種子創造』でメープルの木を作り出し、この世界ではまだまだ貴重な甘味であるメープルシロップを売っているからだ。『お役立ち樹木』の本を読み込んでいて本当に良かった。
 村に来る行商人を介しそれなりの高値で売りさばいているのだが、それでもこれだけなのかと詰め寄られるのが毎回の恒例なのだ。恐るべし、甘味の威力。
 馬車で行けば数日かかる公爵領だけど、翼竜の空輸便に乗せてもらえば夜通し飛んでほんの一日。決して安い訳ではないが、うん、問題ない。
 あの日何が起こったのか知るのにもお金がモノを言う。
 別荘に残された公爵家の使用人も、忙しく荷物を運び出す人夫たちも、銀貨一枚でその口はまるで羽毛のように軽くなる。すぐに噂は広まったから、無駄金だったかもしれないけど。
 僕が聞き出したのは、まるで昼メロドラマのように衝撃的な内容だった……
 ユーリの家——リッターホルム公爵家には、ひどく胸糞悪い醜聞がある。誰でも知ってる有名な話だ。
 血筋を遡れば王家にさえ行き着く公爵家は、ほんの数代前まで近親婚を繰り返していた。そのため生まれてくる赤子は心か身体どちらかに問題を持つ子が多く、先代、先々代と生まれつき病弱で長生きはできなかった。
 その先代の娘がユーリの母親カルロッタだ。
 男子に恵まれなかった先代は、娘に乞われるままとある没落伯爵家の息子を婿にとった。顔しか取り柄のないつまらない男、それがペルクリット伯爵家の子息マテアスだ。
 婚儀を終えるとカルロッタはすぐに身ごもり、孫の顔を見て満足したのか、先代はその後すぐに亡くなった。
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 その結果があの光を失った目だ。それなら僕のすべき事は一つ!


「母さん父さん、それから兄さん、僕は公爵領に行ってくる。あの子を放ってはおけないんだ」
「あのねぇ、アッシュ。あんたみたいな田舎の子が行ったからって、公爵様に会えるとでも思ってんの?」

 公爵家の別荘で起きた悲劇は既に母さんたちの耳にも入っていた。そして悲劇の直前まで僕があの子と一緒にいた事も話してある。
 なのに、一世一代の覚悟を一笑に付されてしまった……。まぁ予想はついてたけどね。こんな刈り入れ前の忙しい時にこんな馬鹿な事。小麦の収穫までにはもう一週間しかない。

「まあまあ母さん、どうせアッシュは一度言い出したら聞きやしないんだ。行かせればいいさ」

 いつも大らかな父さんが「心配いらないさ」ってプッシュしてくれる。その言葉をさらに後押ししたのが兄さんの一声。

「アッシュの分まで俺が頑張るから、行かせてやろうよ母さん」
「……しょうがないわね。気を付けて行ってくるのよ」
「ありがとう母さん父さん、タピオ兄さん。公爵領の都でお土産いっぱい買ってくるね。期待してくれていいから!」

 この世界は十六歳で成人だけど、十二歳頃から一人前として扱われるようになる。
 貴族の子弟などは学校へ通いだすし、騎士の息子は修行が始まったりもする頃だ。
 そして僕みたいな平民も、行商を通じてものを売り買いしたり、あしらわれずに相手をしてもらえるようになる。
 僕は十歳にも満たない頃から今まで何度となく、前世の知識を活かして突拍子もない事を始めてきた。そんな僕に家族はすっかり慣れている。
 だけど間違いを起こした事はない。失敗した事もない。いつだって僕の行動は大きな利益を生んできた。日頃の行いってとっても大事。
 こうして多大な信頼を味方につけ、刈り入れまでという期限付きで僕は公爵領へと向かったのだ。


   ◇◆◇


 目の前にそびえ立つ巨大な建物が、リッターホルム公爵邸だ。一農民である僕が誰に阻まれる事なくあっさりここまで来られた事に拍子抜けしながら、それでも正面玄関の豪華さには驚きを隠せない。なんなの? この規模。正門から延々歩いたんだけど?
 気を取り直して人の顔を模したドアノッカーを何度か叩くと、少し待ってその扉は開かれた。

「おや、小さなお客様。ここが公爵家のお屋敷とご存じですかな?」

 人の好さそうなご老人だ。執事さんかな?

「ええまぁ。僕はリッターホルムの別荘があるマァの村で農家を営むラーシュの息子で、アッシュと言います。ここの若き公爵様とお約束があったので伺いました。公爵様はご在宅ですか?」

 先ずは名を名乗り、用件は簡潔に。うん。パーフェクトだ。

「お約束……と申されましても……。主人はその、立て込んでおりまして……」
「ご不幸があったのはマァの村での事だし、村人なら誰だって知ってます。葬儀は済みましたか? 彼は……公爵様はお元気ですか? 彼の様子が知りたいんです」

 彼と別れてから既に半月ほど過ぎている。そろそろ落ち着いている頃だと思ったんだけど、早かっただろうか。あの暗い瞳はどうなっただろう? ユーリはどこだ? 早くあの子の顔が見たい……

「その、主人はただいまこちらの屋敷にはいないのです。葬儀の後、今後の事も含め父親であるマテアス様とのお話し合いのために王都へと出向いておりまして……いつ戻られるかは……」

 あっちゃぁ……王都か。なんて間の悪い……
 一日も早くユーリに会って、あの暗く濁ったガラス球を高貴な宝石に戻したいのに。
 それだけじゃない。実は僕がこうして急ぐのには……不確かな理由だけど……訳があるのだ。

「いつ帰るか分からないのなら、明日帰ってくるかもしれないって事ですね。分かりました。三日ほどは領都の宿に泊まりますので毎日伺っても良いですか? いないならいないで構いませんので」
「こんなにお小さいのにしっかりしておりますな。御年はいくつでございましょう? まだ十にはいかない……八つほどですかな?」
「十二歳です……。成人前ですが一人前です……」

 いくら背が低いからってあんまりだ……。身長、それは前世から引きずる僕の憂いだ。僕は二重の意味でとぼとぼと宿へ戻った。
 そうして翌日も翌々日も公爵邸へ出向いたけれど、彼は戻っては来なかった。こればかりは仕方ない。
 タイムリミットだ。いつまでもあてもなく待ってはいられない。一度戻って仕切り直しだ。
 結果は分かっているが、公爵邸に最後の訪問をする。返事はいつもと同じ、「戻られてはおりません」だ。

「せめてこれだけ、彼に渡してください。約束の甘いトマトです。保存の箱に仕舞ってあるので傷んではいません。それからこれも、僕の作った『望遠鏡』です。楽しみにしてくれていたので」

 保存の箱とは、その名の通り『保存』のスキルで作られた箱だ。実に便利なものである。

「承知しました。どうやってお帰りになるのですかな? 乗合馬車では大変でしょうに」

 ここの執事さんはいつも優しい。さすが公爵家の執事様は一味違う。お屋敷の執事ってもっとこう……高飛車かと思ってたのに。僕は頭の中の偏見をこっそり塗り替えた。

「大丈夫です。翼竜の空輸便であっという間です。それじゃぁさようなら、また来ます!」

 残念だったけど、また来ればいい。約束は約束だ。麦の刈り入れが終わったら改めて来よう。その頃には彼も戻っているだろう。冬前には来れるだろうか? 冬の空輸便はちょっとツライ。
 そう言えば家族にお土産を買っていかないと。まぁいいや、いったん領都に戻って適当に見繕うか。
 そして、少し時間はかかったものの一通り買い物を済ませ、何とか最終便に間に合った僕は、停泊場で翼竜の食事が終わるのを待っていた。給油……みたいなものだろうか。大切な事だ、身に染みる……
 手元には手製のノート。『種子創造』で作った桑の木を利用して自作した樹皮製だ。
 紙も貴重なこの世界では、これも売ればそこそこいい売り上げになるだろう。だけどほとんどは自分用に使っていて、今も『有機農法 そのポイント』で見た、害虫を寄せ付けないための除虫薬のレシピを脳内から紙へと書き写している。
 ここにタブレットが……キーボードがないのが本当に辛いと日々思う。それが目下最大の悩みだ。


 陽が落ちる前にキリの良いところまで書き上げたくて、必死になってペンを動かしていると、頭上からふいに影が差した。

「ん?」

 そこにいたのは見間違えるはずもない、濃紫の瞳が綺麗な子。ユーリが立っていたのだ。
 慌てて顔を上げ、立ちすくむ彼の手を躊躇なく取る。まるであの夏の日のようだ。だけどあの時と違うのは彼の腕の細さ……。げぇぇぇ……!


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