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1巻

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   ■ プロローグ


 明かりを落とした部屋の中、シフィルは身体をしっかりと抱きしめられながらベッドへと運ばれる。ひんやりとしたシーツの上にそっと降ろされると、これからのことを想像して思わず熱い吐息が漏れた。
 薄くて軽い夜着は、今夜のために用意した特別なもの。胸元のリボンが鼓動に合わせて少し震え、ほどかれる時を待っている。

「大好きよ、エルヴィン」

 想いを込めてささやくと、返事のように抱きしめる腕の力が強くなった。同時に降ってくる口づけを、シフィルは目を閉じて受け止める。

「俺も、愛してる」

 シフィルの肌のあちこちに唇を落としながら、エルヴィンもささやく。時折ちくりと甘く痛むのは、彼のものであるという証を刻まれているから。それだけでシフィルの身体はどんどん熱くなっていく。
 エルヴィンの指先が胸元のリボンにそっと触れた瞬間、シフィルは息を詰めた。何度身体を重ねても、彼に肌をさらすこの瞬間だけはどうしても羞恥心しゅうちしんがわき起こる。

「いい? シフィル」

 許可を求めるように首をかしげられて、シフィルは赤くなった顔を自覚しつつ小さくうなずいた。
 リボンが解けた瞬間、はらりと夜着がシーツの上に落ちる。エルヴィンがあらわになった肌をじっと見つめているのを感じて、シフィルはその視線から逃れるようにぎゅうっと目を閉じた。あたたかな手が頬に触れる。

「シフィル、目を閉じないで」

 優しく呼びかけるその声にゆっくりと目を開けると、エルヴィンが柔らかく微笑んでこちらを見つめていた。

「俺を見て、シフィル。きみをこうして抱くのが誰なのか、ちゃんと見ていて」
「そんなの、エルヴィン以外に誰もいないわ」

 唇を尖らせると、そこにエルヴィンのキスが落とされる。

「そう、シフィルに触れていいのは俺だけだ」

 強い独占欲を感じさせるその言葉に、シフィルは笑ってうなずく。シフィルだってエルヴィン以外に触れられたくないし、彼に触れていいのは自分だけでありたいのだから。

「私だって同じよ」

 ささやいて、シフィルは目の前のエルヴィンの首筋にそっと唇を寄せた。何度か軽くついばんだあと、思い切って強く吸いついてみる。こうして彼の肌に痕を残すのは、初めてかもしれない。

「ふふ、ちゃんと綺麗に赤くなったわ。一度、つけてみたかったの」
「……っシフィル」

 小さく息を詰めたエルヴィンの余裕のない表情に、笑い声がこぼれる。ベッドの上ではいつもシフィルの方が翻弄ほんろうされてばかりだけど、たまにはこうして彼を驚かせるのも楽しい。

「本当に……シフィルはそうやってすぐ俺をあおる」

 ため息をついたエルヴィンが、まっすぐにシフィルを見下ろした。瞳の奥には燃えるような情欲の色が宿っていて、その美しくつやっぽい瞳から目を逸らせなくなる。思わずこくりと息をのんだシフィルの目の前で、エルヴィンの唇がゆっくりと弧を描いた。

「今夜は朝まで寝かせてやれないかもしれない。いや、朝までで終わるかな」

 不穏なことをつぶやきながら、それでも優しく重ねられる唇にシフィルは小さく笑いつつ応えた。


 それからどれほどの時間が経っただろう。エルヴィンはひたすらに甘く、指や舌でシフィルをとろかした。ひっきりなしに唇から漏れる嬌声きょうせいは、ベッドのまわりを囲む真っ白なレースのカーテンに吸い込まれて消えていく。
 彼に触れられるのは気持ちが良い。だけど早くひとつになりたいのに、一番欲しいものがもらえない。ただ一方的に快楽を与えられるだけの状況に、シフィルはれて首を振った。

「ね、エルヴィン、もう……っ」
「ん? 何、シフィル」

 シフィルが何を求めているか分かっているはずなのに、エルヴィンは意地悪な笑みを浮かべて首をかしげる。止まらない指先が引き出す快楽を少しでも逃がそうと、シフィルは強くシーツを握りしめた。

「も、だめ……っ、また、イっちゃ……っ!」
「だめじゃないよ、シフィル。まだまだこれからだ。これが欲しかったんだろう?」

 何度目かも分からない絶頂のあと、くたりと力の抜けた身体を抱き寄せてエルヴィンが笑う。そして蜜口にひたりと熱いものがあてがわれた。ようやく彼とひとつになれるという期待感に、身体が震える。

「……っ、あ、あぁっ」

 まだ絶頂の余韻よいんにひくつく身体の内側を押し広げるようにしながら、ゆっくりとエルヴィンが入ってきた。待ち望んだものを与えられた喜びに、思わず彼のものをきゅうっと締めつけてしまう。こんなにも身体の奥深くまでを許すのは、エルヴィンだけだ。

「エルヴィン……っ」

 最初はゆっくりと、だけど徐々にスピードを上げて彼が何度も腰を打ちつける。そのあまりの気持ち良さに、目の前がちかちかとして星が飛ぶ。
 意味をなさない嬌声きょうせいとエルヴィンの名前だけを口にして、シフィルは深い快楽の海へと引きずり込まれていった。


   ◇◆◇


「シフィル」

 低く柔らかな声で名前を呼ばれてゆっくりと目を開けると、エルヴィンがじっとシフィルを見つめていた。
 抱きしめる腕は優しく、乱れていた夜着が元通り着せられている。どうやら過ぎた快楽に、少しの間意識を飛ばしていたらしい。

「大丈夫か?」
「ん、平気」
「良かった」

 安心したとばかりに笑ったエルヴィンの手が、いつくしむように髪をく。
 うっとりするほどの甘い笑みを向けられて、嬉しさのあまり涙があふれそうになる。
 ずっとエルヴィンと笑い合える日がくるのを願っていたし、こうして彼の瞳に映りたかった。
 この幸せが本当なのか確かめたくて、シフィルは自分の頬を軽くつねった。鈍い痛みが夢ではないことを教えてくれて、それだけでふにゃりと表情を緩めてしまう。

「どうした?」

 怪訝けげんそうな顔をしたエルヴィンに笑いながら抱きついて、シフィルは彼の耳元に唇を寄せた。

「何だか、幸せすぎて夢じゃないかなって確認しちゃった。今日は、本当に幸せなことばかりだったから」
「そうだな。俺も、何度この日を夢見たことか」

 小さくうなずいたエルヴィンが、そっと抱きしめる腕に力を込めた。

「式を挙げてようやく、本当にシフィルを手に入れられたような気がする」
「ふふ、挙式までに随分と時間がかかってしまったものね」

 これまでの色々なことを思い出して、シフィルは笑みをこぼした。
 様々な誤解を重ね、書類上だけの夫婦から始まった二人は、今日ようやく式を挙げた。
 エルヴィンからプロポーズを受けた時には、こんなにも幸せな日が訪れるなんて思ってもみなかった。
 彼には、ずっと嫌われていると信じていたから。
 シフィルを見るたびに眉間に皺を寄せ、険しい表情を浮かべていたエルヴィン。
 目すら合わせたくないとばかりに、彼はいつだってシフィルから顔を背けていた。
 こんなにも甘い表情でシフィルを見つめてくれるようになるなんて、思いもしなかった。


「あの時、無理にでも祝福をもらって本当に良かったよ」

 しみじみとした口調のエルヴィンに、シフィルも思わず肩を震わせて笑う。

「有無を言わさずって感じだったものね。私、びっくりして言葉も出なかったわ」
「いやもう本当に、申し訳ない。とにかくシフィルを手に入れたくて必死だったんだ」

 苦い表情になるエルヴィンにくすくすと笑いながら、シフィルは過去に思いを馳せる。
 二人の関係が大きく変わった最初のきっかけは、春に開催された大きな夜会でのことだった――


   ■ 私を嫌っているはずの、初恋の人


 ――どうしてこうなったんだろう。
 シフィルは遠のきそうな意識を必死で繋ぎ止めながら、りそうな頬に力を入れて笑顔を保つ。
 まるで逃亡を阻止するかのように、しっかりと腰に腕が回されている。何も知らない人の目には、幸せそうに寄り添う恋人同士に見えるだろうか。
 実際は恋人なんてありえない関係なので、本当なら今すぐこの手を振り払って逃げ出したいところだ。だけど、さすがにシフィルだって王太子殿下の前でそんなことをするほど馬鹿ではない。
 結局シフィルは笑顔の仮面を必死でかぶり、何とかこの場をやり過ごして早く逃げ出したいと心の中で念じることしかできないのだ。


 今夜は、城で大きな夜会が開かれている。
 シフィルの暮らすルノーティス王国で春に開かれるこの夜会は、成人の祝いの式典という名目でありながら、成人した未婚の男女であれば誰でも参加可能だ。国の守護神である月の女神が愛をつかさどることもあって、国をあげての出会いの場となっている。王家と国民の距離は近く、最近はイベントごとの大好きな王太子がこの夜会を取り仕切っている。
 ここで出会って結ばれた二人は幸せになれるというジンクスもあり、シフィルの友人らも並々ならぬ気合を入れていた。
 華やかな場が得意ではないシフィルはあまり乗り気ではなかったものの、今年成人を迎えた妹の付き添いとして参加していた。
 それでも早々に壁の花となるつもりだったのに、どうしてこんなことに。
 もう何度繰り返したかも分からない疑問で、頭の中はいっぱいだ。


「――ねぇ、シフィル?」

 耳元で低い声が名前を呼んだと思ったら、更に力を込めて抱き寄せられ、より密着する。

「え? あ、……えぇそうね、エルヴィン」

 まるで胸にすがりつくような体勢に内心で悲鳴を上げつつ、さりげなく手で距離を取ってシフィルは自らを強く抱き寄せる男――エルヴィンを見上げて必死に笑みを浮かべた。
 ひたすらに現実逃避をしていたので何の話題か分からないけれど、まさか聞いていなかったなんて言えるはずもない。りそうな頬を何気なく押さえ、慌てて笑顔を貼りつけてうなずく。

「それは良かったわ。では、わたくしからも心よりの祝福を。末永くお幸せにね、エルヴィン、シフィル」
「え、ユスティナ様⁉」

 王太子と話をしていたはずなのに、いつの間にか目の前には光り輝く金の髪に薔薇ばらいろの瞳を持つ美女が立っていた。彼女はこの国の王女であり、国の守護神である月の女神に愛された聖女。女神の力を使うことのできる彼女は、人々にこうして祝福を授けてくれる。
 ユスティナの祝福を共に受けた二人は永遠の愛を手に入れられると言われており、年頃の男女にとって一種の憧れとなっているのだ。
 ユスティナは、いつも春の夜会の際にこうして恋人たちに祝福を与えてくれる。だけど恋人なんていたことのないシフィルには、最も縁遠いものだと思っていたのに。

「待っ……」

 悲鳴に近い声で止めようとしたその時、シフィルのまわりに白い光が降り注いだ。柔らかな光に包まれて、ほのかに身体があたたかくなる。すうっと会場のざわめきが遠のいて、世界にはエルヴィンとシフィルの二人だけになったような心地になった。
 隣にいるエルヴィンへ視線を向けると、彼は目を閉じてこの祝福の光を受け止めていた。唇が微かに弧を描いていて、その表情はどこか満足げに見える。
 信じられない思いで目を見開いたままのシフィルの耳に、やがて人々のざわめきが戻ってきた。
 ――嘘……
 呆然とするシフィルをよそに、隣のエルヴィンはにっこりと笑って腰を抱く腕に力を込めた。

「ありがとうございます、ユスティナ様。祝福をいただき、嬉しく思います」
おさな馴染なじみのあなた方を祝福できて、わたくしも嬉しいわ。結婚式にはぜひ、呼んでね」
「もちろんです。ね、シフィル」

 うなずいたエルヴィンが、いつくしむようにシフィルの頬に触れる。その感覚に、白くなっていた頭がようやく動き始めた。
 シフィルは小さく首を振ると、エルヴィンの腕から逃れようと身体をよじった。だけどエルヴィンの腕は揺るがなくて、むしろ更に強く抱き寄せられて彼の胸に頬を寄せてしまう。
 がっしりとした腕と、服の下にある筋肉の感触に、鼓動が勝手に速くなっていく。

「……や、離し」

 声を上げようとした時、周囲でざわめきが起きた。

「ユスティナ様、私たちにも祝福をいただけますか」
「僕たちにも、どうか祝福を」

 先程の白い光を見て、ユスティナが祝福を与えたことを知った者たちが続々と集まってきたようだ。

「えぇ、もちろんよ。今宵はそのために来たのだから」

 ユスティナは、美しい微笑みを浮かべて集まってきた者たちを見回す。彼女の言葉に、喜びの声が広がっていった。

「では、俺たちは失礼します。ありがとうございました、ユスティナ様」

 同い年のユスティナとは、エルヴィン共々おさな馴染なじみということもあってそれなりに親しい関係ではあるけれど、これ以上彼女を独占するわけにはいかないだろう。頭を下げるエルヴィンにならいつつ、シフィルは隣の男の顔をちらりと見る。冷たく整ったその横顔は、何を考えているか分からない。


 エルヴィンと共にユスティナの前を辞して、バルコニーへと向かう。周囲に誰もいないのを確認して、シフィルは腰を抱くエルヴィンの手を勢い良く引き剥がした。

「どう……いう、つもりなの、エルヴィン」

 数歩下がって距離を取りつつ、シフィルはエルヴィンをにらむように見上げる。緩く結ばれて肩を流れる、夜空と同じ色をした彼の長い髪がふわりと夜風に揺れた。
 王城で騎士として働くエルヴィンは、今日は式典用の儀礼服を身にまとっている。いつもの騎士の制服よりも華やかなそれに負けないほどに、彼の顔は整っている。ワインを思わせる深い赤紫の瞳にすっと通った鼻筋。少し薄い唇も、つややかな濃紺の髪も、見惚みとれるくらい美しい。
 職業柄すらりと引き締まった体躯は、背の高いシフィルと並んでも見劣りしない。だけど粗野な印象はなく、どこか優雅さすらただよわせるその姿は夜会の場でも一際ひときわ目を惹いていた。
 おさな馴染なじみで、子供の頃からずっと好きな、シフィルの初恋の人。だけどそれは決して叶わない想いのはずだった。エルヴィンは、シフィルを嫌っているのだから。
 いい加減諦めるつもりでいたのに、彼と二人でユスティナの祝福を受けるなんて。どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 シフィルの問いに、エルヴィンは柔らかく目を細めて微笑んだ。その笑みは思わず息をのむほど美しかったけれど、彼がシフィルにこんな表情を向けることなどありえなくて戸惑ってしまう。いつだってエルヴィンは、シフィルを見ると嫌そうに眉をひそめるはずなのに。
 当惑したままエルヴィンの表情をよく観察すると、彼の視線は遠く、シフィルを見ているようで見ていないことに気づく。やはり目を合わせたくないという気持ちはあるらしい。

「シフィルを、誰かに渡したくなかったからな」

 そう言って、エルヴィンはシフィルの方に手を伸ばす。距離を取ったつもりだったけど、彼の指先が頬をかすめた。その場所からじわじわと熱が広がっていき、身体が熱くなった気がする。だけどエルヴィンの次の言葉に、シフィルの体温はすうっと下がった。

「今日はユスティナ様が来られると聞いたから、二人で祝福をいただきたかったんだ。そうしたら誰も手出しはできなくなるし、きみは間違いなく俺のものになると思ったから」
「何……それ」

 シフィルは、震える拳を握りしめた。
 問いただすまでもない。エルヴィンの考えなど、本当は分かっている。

「……私を、ローシェの代わりにするつもりなのね」

 込み上げてきた涙をうつむいてこらえ、シフィルは口の中でつぶやく。痛む胸を押さえて顔を上げ、今度こそエルヴィンをにらみつけた。

「私の気持ちはどうなるの。どうして、勝手にそんなことを決めるの」
「一方的な行いだという自覚はある。だけど、俺はシフィルを他のやつに譲る気はない」
「そんな……」

 悪びれた様子のないエルヴィンに、シフィルは言葉を失った。
 嫌っているはずのシフィルをそばに置くほどに、彼はローシェのことが好きなのか。改めて彼の気持ちを突きつけられて、苦しいくらいに胸が痛い。


 ローシェは、シフィルの三つ下の妹だ。
 平均より背が高く、つり目のせいできつく見られがちなシフィルとは対照的に、妹はまるで妖精のように可憐だ。
 小柄だけど女性らしい身体つきに、いつも笑って見える優しげな垂れ目。華やかさのないまっすぐな髪のシフィルに対して、ローシェは思わず触れたくなるふわふわの髪。可愛らしい彼女には、レースやリボンがよく似合う。
 銀の髪に青緑の瞳という同じ色彩を持っていながら、こうも違うものかと思うほどに二人は似ていない。それでも優しくて可愛い、誰からも愛されるローシェは、シフィルにとって自慢の妹だ。
 そんなローシェのことを、エルヴィンは好きなのだ。彼はいつだって、ローシェを愛おしそうに見つめていた。同じようにエルヴィンを密かに見つめていたシフィルには、彼の気持ちが手に取るように分かる。可憐な妹に勝てるはずもなく、シフィルは決して彼に想いを告げまいと心の奥に鍵をかけたけれど。
 騎士団長を父に持つエルヴィンは、自身も騎士として日々鍛練に励んでいる。優秀な彼は、いずれ父のあとを継ぐだろうとも言われている。きっとそろそろ結婚相手を決めなければならないはずだ。
 だけど、エルヴィンがローシェと結ばれることはない。彼女は、この国の第三王子との婚約がすでに決まっているから。


 シフィルは、諦めたように小さく笑った。
 きっとエルヴィンは、ローシェの代わりとしてシフィルをそばに置くことに決めたのだろう。顔立ちも体形も全然違うけれど、今日のようによそおえばシフィルはローシェにほんの少しだけ似ているから。手に入らない彼女の代わりに、わずかでも面影おもかげのあるシフィルを、ということだろうか。
 それに彼がシフィルを欲しがる理由には、もうひとつ心当たりがある。シフィルは唇を噛むと、そっと左胸に手を押し当てた。ドレスで隠れているけれど、その奥にあるあざが、ほんのりと熱を持ったような気がした。

「……ユスティナ様に話して、祝福を取り消してもらうわ」

 そんなことが可能かどうかは分からないが、このままローシェの代わりとしてエルヴィンのそばにいるなんて無理だ。いくら好きな人とはいえ、シフィル自身を見てくれないエルヴィンと一緒になるなんて、辛すぎる。
 シフィルはもう一度エルヴィンをにらみつけると、くるりときびすを返した。

「待って、シフィル」

 呼び止める声と共に腕を掴まれたけれど、シフィルはそれを振り払ってバルコニーをあとにした。


 華やかな夜会の場に戻ると、うしろから鈴を転がすような可憐な声で名前を呼ばれ、柔らかな手がシフィルの腕を引いた。

「シフィル、探したのよ。どこに行っていたの?」

 そこにいたのは妹のローシェで、首をかしげるその姿は愛らしい。淡いピンク色のドレスを身にまとい、ふわふわと揺れる銀の髪に白い小さな花をたくさん飾った彼女は、まるで花の妖精のようだ。
 シフィルは慌てて笑みを浮かべると、ローシェの髪をそっと撫でた。

「バルコニーで夜風にあたっていただけよ。ごめんなさい、ローシェを一人にしてしまって」

 会場内は警備のために騎士たちが常駐しているけれど、仮にも将来ロイヤルファミリーの一員となるローシェを一人にすべきではなかったなと少し反省する。しかも、ローシェはこれが初めての夜会だったのに。
 それもこれも、エルヴィンが突然シフィルの腕を引いて強引に連れ出したせいなのだけど。

「ううん、大丈夫よ。美味しそうな料理がたくさんで目移りしちゃって、なかなか戻ってこなかったのはわたしの方だし」

 くすくすと笑いながら、ローシェはどの料理が美味しかったかを教えてくれる。顔馴染みの騎士がそばについていてくれたらしく、不安はなかったようだ。

「それよりも、シフィルは? きっとたくさん声をかけられたんじゃない? 今日のシフィルは、本当に綺麗だもの」

 シフィルのドレスは今夜のためにローシェが見立ててくれたもので、よく似合うと彼女は満足げにうなずいている。

「私は、特に何もないわ」

 妹の問いにシフィルは笑って首を横に振る。いつものことだけど、今日もエルヴィン以外は誰一人としてシフィルに近づこうとはしなかった。
 ローシェのように華やかな容姿ではないし、背の高さに加えて、顔立ちが気が強く怖そうに見えるらしい。そのせいか遠巻きにされるばかりで、男性が近づいて話しかけてきたことは数えるほどしかない。
 それに、実際のところシフィルはあまり自分に自信がないうしろ向きな性格だし、華やかな場に出るよりは家で大人しく本を読んでいたいタイプなのだ。
 唯一声をかけてきたエルヴィンとのことも、ローシェには告げずにおこうと決めてシフィルは微笑む。彼が本心からシフィルを欲しいと思っていないことくらい、分かっているのだから。エルヴィンの想いを知らないであろうローシェに、余計な心配はかけたくない。
 シフィルが誰にも声をかけられなかったと知って、ローシェは驚いたように目を見開いた。

「えぇっ、誰も? きっとシフィルが綺麗すぎて、おくれしてしまったのね」
「ありがとう、ローシェがそう言ってくれるだけで充分よ」
「本当よ。シフィルは高嶺たかねの花って感じだもの。ほら、今だってあちこちから視線を感じるわ。皆、シフィルに見惚みとれているのよ」

 ぐるりと周囲を見回すローシェに、シフィルは苦笑を浮かべた。彼らが見つめているのはローシェなのに、彼女はその視線が自分に向いているとは思っていないらしい。

「遠くから見ているだけの人には、シフィルは渡さないわ。ちゃんとシフィルを幸せにしてくれる人でないと認めないって決めてるの」
「ふふ、頼もしい妹がいて心強いわ」
「だってシフィルは、わたしの自慢の姉なのよ。絶対に幸せになって欲しいの」

 にっこりと笑うローシェに、シフィルも笑みを返す。彼女はいつだって心からシフィルを褒めてくれる。それはとても嬉しいけれど、ローシェと並んだ自分がどれほど見劣りするかは、よく分かっている。


 二人が姉妹だと知った瞬間、誰もが微妙な笑みを浮かべる。そして、必ずこう言われるのだ。――あまり似ていないですね、と。
 いつだって近づいてくるのは、シフィルを通じてローシェと仲良くなりたいという下心を持つ男ばかり。誰も、シフィル自身を見てくれない。
 これでローシェの性格が悪ければ、シフィルだって妹を嫌いになれたかもしれない。だけど、彼女の心は澄み切った美しい湖のように無垢むくで純粋だ。無邪気に慕ってくれる可愛い妹を嫌うことなんて、シフィルにはできなかった。


 シフィルは、小さくため息をついて自らの格好を見下ろす。ローシェが見立ててくれたこの青いドレスはとても素敵だし、シフィル自身も気に入っている。しかし、これもきっと彼女が着た方が似合う。胸元のフリルで誤魔化しているけれど、豊満とは言い難い胸はシフィルのコンプレックスのひとつ。隣に立つローシェの柔らかな胸の膨らみは、同性の自分から見ても美しい。
 うつむいたせいで顔の横に垂れてきた髪も、もうほとんどまっすぐだ。あんなに苦心して巻いたのに。どれほど強く巻いても一日もたない髪は扱いにくい直毛で、柔らかく波打つローシェの髪をうらやましく思ったことは一度や二度ではない。
 ローシェとは違ってほとんどヒールのない靴をいているのに、それでも彼女との身長差は明らかだ。すれ違う男性よりも背が高いことすらあって、シフィルは無意識のうちに背中を丸めてしまっていた。少しでも背が低く見えるように。
 妹のことは大好きだけど、隣に並ぶと自分のコンプレックスがどんどん刺激されて気持ちが落ち込む。どれほど着飾っても、ローシェのような可憐さはシフィルには全く手が届かないから。
 表情をくもらせたシフィルに気づかない様子で、ローシェはにっこりと笑いながら会場の奥へと視線を向けた。

「そういえば、ユスティナ様が来られてたわね。シフィルはお会いした?」
「え? えぇ。軽くご挨拶だけ」

 どきりとした胸を押さえて、シフィルは慌てて笑みを浮かべた。まさかエルヴィンと共に彼女の祝福を受けただなんて、言えるはずがない。


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