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1巻
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1 突然ですが結婚します
最近三十歳になった野添藍の朝は、至極平凡なものだ。
スマホのアラームよりも早く目覚めて遮光カーテンを開け、うんと伸びをする。ここのところ暖かくなったおかげか、目覚めがよくなった。自然と見た時計は朝七時前。今頃、父・弘行が営むパン屋〈パンののぞえ〉からは、食欲をそそる焼きたてパンの香りが古きよきアーケード街に漂っているだろう。
軽いストレッチを終えると、二階の自室から一階のダイニングに向かう。
「おはよう、お母さん」
「おはよ! 藍、お味噌汁、あっためてね」
家事に追われて、コマネズミのようにあっちこっち動いている母・弓香をのんびりと見ながら、テレビをつける。ちょうど、地方局で天気予報をやっていた。
お天気はしばらく晴れるでしょう。暖かい陽気が続きますので紫外線対策は忘れずに。夜の冷え込みは緩やかになりましたね。アナウンサーの声とともに、地元の公園――通称・城山公園の葉桜並木が映る。
(仕事を辞めた頃は、桜の枝は寒い寒いと北風に揺れていたな)
そんなことを思いながら、炊飯器から炊きたてご飯をよそう。
実家はパン屋を営んでいるが、朝食は白いご飯とお味噌汁、乳酸菌飲料が欠かせない。ひとり暮らしのときでも、藍はしっかりと朝食を取っていた。おかげで無病息災、健康優良。それが唯一の自慢だ。
本日の朝食は、炊きたてのちょっと固めの新潟産コシヒカリ、弘行特製味噌の具だくさん味噌汁、焼いた塩鮭に、ネギとちりめんじゃこがたっぷり入っただし巻き玉子。八百屋さん自慢の春キャベツの千切りサラダ。こんなに手間がかかった朝ご飯が目を覚ませば用意されている実家は最高――であるものの、家事手伝いの身には無言の圧力を感じる。
『――六越デパート美術館では〈日本画家・湖月舜日の世界展〉が始まりました』
風景の刹那を切り取った水墨画が、テレビモニターいっぱいに映し出された。〈落陽〉というタイトルが付いた水墨画は、白と黒の濃淡で空と海のグラデーションが描かれているだけなのに、彩り鮮やかな夕焼けと凪いできらめく海に見える。
(すっごく綺麗……。今にも夕日が沈みそうだし、穏やかなさざなみが聞こえそう……。白黒なのに不思議。お休みの日に行ってみようかな。テレビでもすごく迫力があるから、実物はもっとすごいんだろうなぁ)
身体も心も温まる具だくさん味噌汁をずずっと啜りながら考える。
先日、二十五キロもある粉袋を、パントリーにひょいひょい積んでいる藍を見た弘行に、「我が娘ながら逞しすぎる」と苦笑いされたので、文化芸術に触れたかった。脳筋だと思われているに違いないから。
そもそも藍は逞しい。高校時代はバドミントン部に所属し、大学ではバドミントン部に所属するかたわら、トライアスロン大会にも出場したし、女子マラソンにも出場し完走している。昨年は何年かぶりに参加したシティマラソン女子の部(ハーフマラソン)で完走を果たしたが、きちんと準備していなかったので、女子の平均タイム以下だったのが悔しい。今年は身体をしっかり作ってから挑みたいところ。
中堅どころの広告代理店に就職してからは、スポーツジムとボルダリングジムに通い、フットサルサークルにも所属していた。スポーツ観戦が趣味で、美術館や博物館にはまったく興味も関心もなかった。適度な運動が好きな反面、学生時代の社会科見学――寺社仏閣、美術館巡りは苦痛だった。
授業の美術も苦手だった。ペーパーテストは高得点、提出物は締め切り厳守をし、なんとか先生の恩情で、五段階評価のCを獲得していた。なにをどうしても壊滅的な絵や立体物になるのである。おかしい。選択授業になってからは美術を選ばずに音楽を選んでいた。家庭科の成績はよかったし、料理裁縫は得意分野だが、技術の授業で本棚を作っていたのに瓦礫になっていたのには、優しい両親も引いていた。不思議である。
(恥ずかしい過去が蘇っちゃったな)
三十路で無職・家事手伝いになった。時間だけはたっぷりある身なので、見聞を広めたかったのも事実。日本の世界遺産巡りもしたいが、身近にある博物館や美術館から世界を広げるのもいい。
そう思っていた矢先に飛び込んできたあの美しい水墨画のニュースは、なんだか吉報に感じた。
「藍、いつまでのんびりしてるの?」
「はぁい」
すっかり子供に戻ったかのような返事をして、朝食を急いで終わらせると食器をシンクの水桶に浸し、洗面所へ向かう。歯磨き洗顔は入念に。その後、未だに段ボールが積みっぱなしの自室で着替え、サッと化粧をすると、ガレージに行く。
〈パンののぞえ〉と書かれた軽ボンネットバンと普通のミニバンが並ぶ隅に、赤色のロードバイクと競技用ヘルメットが置いてある。四年前に通勤ラッシュからの解放と終電を逃しても帰宅できるように購入した愛車だ。一昨年、夏季休暇と有給休暇を使って愛車とともに電車で房総半島へ向かった。真夏の房総半島をソロツーリングしたのは楽しい思い出だ。数少ない友人に「勇ましすぎる」と言われて軽くショックを受けた。
藍に合わせてチューニングした世界で一台の愛車は、実家に引っ越したのを契機に改造して街乗り用になった。チェーンホイールとサドルを替え、スタンドをしっかりした物に変更し、太いタイヤに交換し、幅広の泥よけをつけた。これまでの貯金と退職金があるから気兼ねなくチューニングしたが、改めて見てみるとやや寂しい。ハンドルのバーテープも赤い車体に合わせて赤色にしていたが、なんとなく白色に変えてみた。
無職・家事手伝いの身で街乗り用のクロスバイクを買うのは気が引けるし、気軽に旅行にも行けない。それに退社から二か月近く経つが、旅行する気分にはまだなれなかった。
(舜日展。お店が休みの水曜日に行ってみよう)
六越デパートがある隣の市までは十キロほど。だが、サイクリングなら近距離の範囲だ。平坦な道ばかりだから街乗り用のギアがちょうどいい。
ヘルメットをしっかりつけて、小さなリュックを背負い、以前より重量が増えたロードバイクを颯爽と走らせ、藍は朝の商店街へ向かった。
藍が〈パンののぞえ〉を手伝うようになって二か月弱が経った。高校生まで看板娘をしていたから、常連客の顔は覚えていたし、ご近所さんからも忘れられていなかったのがありがたいやら恥ずかしいやら。店を離れて十二年経っていたから、商店街の知人も常連客も十二年分老けていた。それは藍も同じだ。商店街には知らない店やオシャレなカフェもできていたし、シャッターが下りっぱなしの店舗も散見して少し寂しい。
朝九時にオープンした〈パンののぞえ〉のレジに藍が立つ。先ほどまで焼き上がりのパンを持って行き来していた弘行は、パンの仕込みと焼きに集中していた。今は、昼によく売れる惣菜パンやバゲットサンドを慣れた手つきで作っている。藍もレジが空くと厨房を手伝う。カレーパンやコロッケ、唐揚げなどの揚げ物や、ベーグルサンドを作る。
昼になると、近くの役所や工事現場から客がやってきて忙しくなる。とはいえ、夕方の忙しさに比べればゆったりとした賑わいだ。焼きたて高級食パンやフランスパン類が店頭に並ぶ午後二時頃は、赤ちゃん連れのママが増える。〈パンののぞえ〉一番人気のクロワッサンは、この時間帯にほとんど消えてしまう。
弓香は、午前中に近隣の保育園や提携の喫茶店、洋食店などにパンを配達して、午後はネットで注文を受けたパンを近くの配送センターに持ち込む。
凪の時間は午後二時過ぎから四時頃だ。そのあいだに遅い昼食を厨房で食べ、そのあとは夕方のピークに合わせて焼き上げる惣菜パンと菓子パンなどを成型し、空いた時間で粉まみれの事務室を気持ちばかり掃除したり、洗い物や片付けをしたりする。
夕方のピークが終わったら、翌朝に焼き上げるパンの仕込みや在庫チェック、店頭の掃除と売り上げの計算になる。両親の仕事になるので、元看板娘はさっさと家に戻ると、夕食を作り、風呂を沸かしておく。
それなりに忙しい日々だが、慣れた作業が多いせいか、時間が余ってしまう。身体を動かしていないときに思い出すのは、退職までの苦くてつらいことばかりだ。考えたくないのに。
「おーい、藍。ぼんやりしてないで食パン切ってよ」
「はぁい」
午後二時すぎ、弘行に声をかけられた藍は返事をして立ち上がる。
弓香特製弁当を食べたあとは、やたら眠たい。それでぼんやりしていた。しっかりと炭水化物を摂取すると眠たくなるから、会社勤めのときは軽い昼食にしていた。
(まだ思い出す。いやだな。早く忘れたい)
手を消毒してビニール手袋をつけると、業務用スライサーでパンを切っては袋につめて、何枚切りかの表示用シールを貼っていく。
(そろそろかな?)
この落ち着いた時間帯に、ほとんど毎日現れるちょっと不思議な客がいた。
肩くらいまでの長い黒髪をもっさりと後ろでひとつにまとめた、作務衣姿の湖月舜太郎という客だ。作務衣の上に絵の具で汚れたエプロンやスモックを着ているが、足にはよく磨かれた革靴や汚れてないスニーカーを履いている。
挨拶と少々言葉を交わすくらいだが、彼の声は歯切れがよく、甘さのあるバリトンは、声優のようで聞き心地がいい。そのせいか、いつももう少し会話を続けたくなる。
弘行によると、舜太郎は売れない画家で三十代半ば独身。商店街がある駅前地区の住民ではないが、近隣の地区に住んでいるのではないか、という話だ。
(よく知ってるわよね。……ということは、逆もまた然り、か)
パン屋の弘行が知る話は、当然商店街の人たちも知っている。つまり、元看板娘が都落ちしたのも耳聡く知っているだろう。
弘行の好みで店内にはジャズスタンダードが静かに流れている。そこへ、コロロロンと、牧歌的なアニメのヤギたちが鳴らすベルに似たドアベルが響く。これは、父がヨーロッパでのパン修業中に買ってきた記念品だ。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
来店したのは、本日ももたっとしたスモックを着た舜太郎だった。彼は毎回、高級食パン一本とあんパンやクリームパンなどの数点の菓子パンと惣菜パンを購入して帰る。ひとり暮らしでは食べ切れないだろう量だ。それともパンしか食べていないのか。もしもそうなら、他人事ながら食生活の偏りが心配になる。
店内を回った舜太郎のトレイには、春の新作・フレッシュいちごのフルーツデニッシュ、ドライいちじくとクルミのスコーン、ザクザクメロンパンがのっていた。今日はお気に入りのこしあんパンとクリームパンがのっていない。珍しいこともあるものだ。
「あと、高級食パンをお願いします」
優しくて甘さのあるバリトンは、店内BGMのジャズスタンダードによく合っていて、つい耳を傾けそうになる。
毎日、千円もする高級食パン一本と千円超分の菓子パン、惣菜パンを買っている。売れない画家だと聞いているから、経済状況も気になる。無理をしていなければいいけれど、とこれまた他人事ながら気にしてしまう。他人だから口出しできないが。
藍は、舜太郎を見上げて柔らかく微笑う。
「メロンパン、おいしいですよね」
「ええ、クッキーがザクザクしていて、ふんわり甘い生地が好ましいです」
よく見るとフェイスラインはシャープで端整な顔をしている。もっさりとした髪型と汚れた服装でなければモテそうだ。
長い前髪で隠れていた目とばちっと目が合って、藍は変に照れてしまった。それを隠すよう、急いで手を消毒してからビニール手袋をはめて、パンを包むのに専念する。
会計をすませて、再度アルコール消毒した素手で、パンが入ったビニール袋と高級食パン用の紙袋を手渡す。舜太郎は、いつもならすぐにレジから立ち去るのだが、この日は違った。
なにか言いたそうにしているので、藍は長身の彼を見上げて待つ。彼の頬がみるみるうちに赤くなる。長い髪でちらりとしか見えない耳も真っ赤だ。なにごとだろう?
「野添藍さん」
「なんでしょう、湖月さん」
「結婚してください」
「はい、いいですよ。…………ん?」
(ん? んん? あれ? 今、とんでもないことを言われた気が……。結婚とかなんとか)
「えっと、聞き間違いでした?」
見上げた舜太郎は顔を赤らめてはいるものの、表情は真剣だった。
「間違いではありません。僕と結婚してくださいと、藍さんに申し込みました」
声が震えている。冗談で言ったのではなさそう。
藍は少し考える。
結婚。降って湧いたというよりも、挨拶のように軽く舞い込んできた。
おそらく、結婚を前提にお付き合いしてください、と言うはずが、すっ飛ばしてしまったのだろう。そう思うと、舜太郎は茶目っ気のある人なのかもしれない。
無職・家事手伝いの身である藍は、この先再就職はおろか、結婚など縁がなさそうだ。それに――舜太郎自体は嫌いでもないし、いつしか少し興味が湧いていた。よく知っているわけでもないが、口八丁手八丁で詐欺を働くようにも見えない。誠実そうだなとは思う。
自分のなにがよくて、結婚前提の付き合いをしようと思ったのかはわからないが、純粋に舜太郎への興味が湧いた。結婚を前提に付き合ってもいいかもしれない。
「しましょう、結婚」
「いいんですか? ほんとうに?」
「はい。よろしくお願いしますね」
にっこり笑うと、真っ赤になった舜太郎はぺこりとお辞儀をした。どうやら成立したようだ。
藍は、厨房でアルミ板に滅菌スプレーをかけている弘行に声をかける。
「お父さん。わたし、結婚することにしたから」
ちょっとコンビニに行ってくる。そんな感じで言ったものだから、弘行は「はいよー」と言ったあとで、すべての機能を忘れたロボットのようにピシッと固まって、藍を見つめ返した。
◇◆◇
恋をして、交際期間中に互いの価値観や相性をよく知り、愛し合い、結婚の準備をする。これが、結婚までの一般的な流れだと、藍は思う。
翌日の水曜日は、〈パンののぞえ〉の定休日。野添家の前に止まった一台の高級セダンから降りてきた男は、そのよくある流れをすっ飛ばした。婚姻届と、おしゃれで可憐なバラの花束を持ってきたのだ。
玄関に立つ、長い黒髪を丁寧に梳いた和服姿のイケメンは、舜太郎と同じ顔で同じ声をしていた。藍が、舜太郎本人だと気がつくまで、わずかばかり時間がかかり、次いでその手にある婚姻届を見てぽかんとした。
(結婚前提だから? それにしても早くない? 婚姻届で真剣さをアピールしている、とか? そんな感じじゃなくて、もう結婚するしかない、って雰囲気だけど……まさかね)
野添家のリビングの古びたソファに座る舜太郎は、間違ってやってきたモデルのようだ。端整な顔は小さく、手足が長い。
彼の背後に立っている、スーツをかっちり着こなした男・君島七瀬は秘書だという。君島は、舜太郎の戸籍謄本、マイナンバーカード、パスポート、昨年の健康診断書、簡単な履歴書などをローテーブルに並べ、説明する。
(本気のプレゼンテーションだ)
藍は笑顔の裏側で驚いている。弘行も驚きながら、舜太郎が持ち込んだたくさんの書類を真剣な顔で読んでいる。
「湖月さん、うちの子でいいんですか?」
なにか知っている素振りで聞いたのは、弓香だった。やや緊張している様子の舜太郎ははにかみ、「はい」と答える。笑みを浮かべると、もっさりとした売れない画家ではなく、三十代男盛りのイケメンそのものだ。身だしなみと着ているものの力もあるが、舜太郎が迷いない姿勢でいるのも大きい。
書類に記載されている生年月日を見ると、彼・湖月舜太郎は三十六歳だ。パスポートにはいろんな国のスタンプが捺されていた。
「ご両親はなにかとご心配でしょうから、メインで使っている銀行の通帳をどうぞ。ほかの銀行と投資で使っている銀行の通帳はこちらです。保有している株と外貨預金などもありますので、後日書面にてお知らせします」
預金通帳を手渡されて目を通した弘行は、瞠目し言葉を失った。なににそんなに驚いたのだろうか。預金ゼロ、なのか?
「藍さんもどうぞ。共有財産になるのですから」
「はあ」と気が抜けた返事をした藍は、弘行とは別の通帳を手に取り、記載された数字を目で追いかける。
(いちじゅうひゃく……せんまん? サブ銀行で見たことがない桁なんですけど? はい? 新手の詐欺かなにかなの? わたしなんて騙しても仕方ないし。ほ、本気?)
ちなみに、藍の貯金は四百五十万円ほど。別の銀行にわずかばかりの退職金が預けてあるが、それで全財産である。投資や株などをする余裕はなかったが、貯金は頑張ったほうだ。
「あの、湖月さん。わたしのパスポートや通帳は見なくてもいいんですか?」
おそるおそる聞くと、にこにこしどおしの舜太郎は「はい」と歯切れよい返事をした。
「妻の財産は妻のものです。契約書類等を作成してきたので、目を通してください。この契約書には藍さんの意見意向が入っていないので、日を改めて作成し直しましょう」
昨今は結婚するときに生活上のトラブルを避けるため、約束を契約書として書面に残すカップルも少なくないと聞く。が、舜太郎が作成した契約書は生活上の約束というよりも財産関係を明確にするための婚前契約書のようだ。
「はぁ」
(変わった人。変わりすぎている。真面目な人、なの? どうなんだろう? 結婚を前提にお付き合いしますって言った翌日に婚姻届とそのほか諸々用意するくらいだから、変わった人よね。面白い人、なのかしら?)
「湖月くんは、その、絵描きをしているんだよね?」
にわかには信じられないといった表情のまま、弘行が聞く。
「はい。簡単な経歴を書面にしましたのでご確認ください。時間がなくてウェブページのURLしか載せられませんでしたが、明日にはこれまでの活動の新聞雑誌のコピーをお渡しできると思います。スマホでも事務所のウェブサイトが見られます。君島、タブレットを」
「あ、いや、うん。あ、うん。あとで見せてもらおうかな。うん。……なにしろ急だからね。なかなか頭がおっつかないんだよ。入籍は今日じゃなきゃだめなのかな? ああ、大安吉日が今日か」
どうやら結婚前のお付き合いはないようだ。
合わなければ離婚すればいい、くらいの気構えでいよう。バツイチというトロフィー獲得が、いいのか悪いのかわからないが。
「お父さん、わたしは大丈夫よ。長く付き合えばいいってものじゃないもの。それにお見合い結婚も似たようなものでしょ」
重みのある娘の言葉に弘行は渋々頷き、助けを求めるように弓香に視線を向ける。
「いいんじゃないの? 子供同士のままごとじゃないんだから、親がとやかく言って幸せになれるものじゃないわ。ヒロくんだって、あたしと出会って三か月後には結婚を申し込んできたじゃない」
「あれは、だな。……今は関係ないよ。仲人も立てずに、結婚式もせず、入籍だけって藍が可哀想じゃないか」
「ヒロくん。仲人さんを立てない結婚式は増えてるんですって。結婚式だって親がお金を出すわけじゃないから、本人たちの問題。今は結婚式にお金を使わずに新婚旅行を豪華にするのも流行ってるらしいのよ。結納や婚約だってそうでしょ。いろんな結婚の形があって、さまざまな夫婦がいるの。盛大な結婚式を挙げたカップルが翌日離婚する場合もあるし、出会って三か月で結婚して三十年以上も夫婦でいるカップルだってここにいるじゃないの」
(お母さん、柔軟すぎじゃない?)
「せめてだね、湖月くんのご両親に会いたいじゃないか」
「すみません。父は身体を悪くして静岡の富士山が見える町で療養していて、母は仕事でロサンゼルスにいます。家族チャットで結婚したい旨を伝えると、おめでとうと言ってくれました」
療養中と聞き、弘行は一気に同情的になった。弓香がしっかりしているぶん、弘行はお人好しで他者に同情的だ。
「伝えているならいいんじゃない? 湖月さんが親御さんから信頼されている証拠でしょ。三十六歳なんだもの」
「けどね」
「結婚を決めるのは本人たちで、周りの人間じゃないの。周囲の人間関係や環境も無関係ではないけれど、そのなかで幸せを築くのは本人たち。そうでしょう?」
弓香の柔軟な結婚観に驚かされたが、藍も同じ意見だったから強く頷く。
舜太郎が姿勢を正して座り直す。背筋がピンとして凛々しい。深々と頭を下げたあとで、緊張した面持ちで言う。
「藍さんを幸せにする自信があります。この世の悪意や邪なことからも守り切り、いついかなるときも藍さんが笑って暮らせるように努めます。病めるときも健やかなるときもと言いますが、なんでもない平穏な日々であっても、その逆の日々でも、僕は藍さんの意志と意見を尊重して、妻となる人を裏切らずに愛し抜きます」
彼が真摯に、熱意を込めて藍を見つめるものだから、思わず胸がとくんと高鳴った。どきどきしてしまう。ほとんどなにも知らないのに、信じていいのだと思わせる説得力がある。両親も同じのようで、真剣な表情で舜太郎を見て、そして藍を静かに見守った。
(湖月さん、何度も練習してくれたみたい。なんでもスマートにこなしそうなのに)
それに、なんとなくだが、舜太郎とはうまくいく気がする。ただの直感だ。でも、形容しがたい、きらめきのようなものを感じる。
「お父さん、お母さん。まずはわたしを信じて。わたしは湖月さんを信じるから」
急な話だったし、驚くことが多すぎたが、とくに揉めずに、婚姻届に必要事項を記載する。婚姻届の証人欄は、藍側は父・弘行が、舜太郎側は君島がその場で筆記して捺印した。
運転手が運転する高級セダンに乗りこみ(助手席に君島が座っていた)、市役所へ行く。ゼロの多い通帳をいくつも持っているお金持ち……真のお金持ちというのだろうか? だから、売れない絵描きを続けられるのか。
市民課窓口で必要書類を揃えて、滞りなく婚姻届を提出した。さらさらと澱みなく流れる川のように手続きを終えた野添藍は、たった今から湖月藍になった。後日、諸手続きをしなければならないが、今日は婚姻届を提出するだけにした。
市役所を出て駐車場へ向かうとき、
「手を、つないでもいいでしょうか?」
と訊ねた舜太郎は、晴れやかに微笑んでいて、邪気が欠片も見当たらない。晩春の爽やかな風が彼の長い髪をさらう様は、いつだったか見た水墨画を思わせた。なぜかわからないけれど。
「はい。夫婦になったんですから、手ぐらいつなぎましょう」
これから舜太郎と歩いていくのだという思いが強い。
雲ひとつない今日の空のような、のどかな日々が訪れる――そんな予感さえした。
遠慮がちにそっと手が触れ合う。舜太郎の手は男らしく節ばっている。整った指と健康そうな爪。どこか余人と違うように感じるのは、彼が画家だからだろうか?
藍のバッグからスマホの着信音が響く。相手は弓香だった。
「あの、お寿司を取って、少し料理を作る予定なので、我が家で夕食を食べませんか? って母が。……もしも、このあと予定がなければ、ですけれど」
「喜んで」
凛とした目尻がふうわりと下がる。
並んで歩くとよくわかる。舜太郎は背が高いだけでなく、そこそこ鍛えているのか背筋も伸びているし、しっかりと地を踏む歩き方も好感が持てる。完璧なイケメンだ。もっさりとした彼しか知らなかったから、新鮮を超えてギャップがすごい。
藍はどちらかといえば綺麗と言われることが多いが、誰かをひとめぼれさせるような魔性はない。高校生時代は後輩女子たちにきゃあきゃあ言われたが、それだけ。友人関係の延長や気がつけば付き合っていた交際が多かっただけに、見た目で彼を虜にしたとは思えない。
舜太郎との接点は〈パンののぞえ〉だけだから、自分のなにがよくて結婚を申し込まれたのかさっぱりわからない。
「湖月さんは、わたしのどこがよかったんですか?」
「言うなら、直感です。藍さんとなら幸せになれるっていう」
彼が至極真面目に言うので、藍は目をしばたたかせた。
最近三十歳になった野添藍の朝は、至極平凡なものだ。
スマホのアラームよりも早く目覚めて遮光カーテンを開け、うんと伸びをする。ここのところ暖かくなったおかげか、目覚めがよくなった。自然と見た時計は朝七時前。今頃、父・弘行が営むパン屋〈パンののぞえ〉からは、食欲をそそる焼きたてパンの香りが古きよきアーケード街に漂っているだろう。
軽いストレッチを終えると、二階の自室から一階のダイニングに向かう。
「おはよう、お母さん」
「おはよ! 藍、お味噌汁、あっためてね」
家事に追われて、コマネズミのようにあっちこっち動いている母・弓香をのんびりと見ながら、テレビをつける。ちょうど、地方局で天気予報をやっていた。
お天気はしばらく晴れるでしょう。暖かい陽気が続きますので紫外線対策は忘れずに。夜の冷え込みは緩やかになりましたね。アナウンサーの声とともに、地元の公園――通称・城山公園の葉桜並木が映る。
(仕事を辞めた頃は、桜の枝は寒い寒いと北風に揺れていたな)
そんなことを思いながら、炊飯器から炊きたてご飯をよそう。
実家はパン屋を営んでいるが、朝食は白いご飯とお味噌汁、乳酸菌飲料が欠かせない。ひとり暮らしのときでも、藍はしっかりと朝食を取っていた。おかげで無病息災、健康優良。それが唯一の自慢だ。
本日の朝食は、炊きたてのちょっと固めの新潟産コシヒカリ、弘行特製味噌の具だくさん味噌汁、焼いた塩鮭に、ネギとちりめんじゃこがたっぷり入っただし巻き玉子。八百屋さん自慢の春キャベツの千切りサラダ。こんなに手間がかかった朝ご飯が目を覚ませば用意されている実家は最高――であるものの、家事手伝いの身には無言の圧力を感じる。
『――六越デパート美術館では〈日本画家・湖月舜日の世界展〉が始まりました』
風景の刹那を切り取った水墨画が、テレビモニターいっぱいに映し出された。〈落陽〉というタイトルが付いた水墨画は、白と黒の濃淡で空と海のグラデーションが描かれているだけなのに、彩り鮮やかな夕焼けと凪いできらめく海に見える。
(すっごく綺麗……。今にも夕日が沈みそうだし、穏やかなさざなみが聞こえそう……。白黒なのに不思議。お休みの日に行ってみようかな。テレビでもすごく迫力があるから、実物はもっとすごいんだろうなぁ)
身体も心も温まる具だくさん味噌汁をずずっと啜りながら考える。
先日、二十五キロもある粉袋を、パントリーにひょいひょい積んでいる藍を見た弘行に、「我が娘ながら逞しすぎる」と苦笑いされたので、文化芸術に触れたかった。脳筋だと思われているに違いないから。
そもそも藍は逞しい。高校時代はバドミントン部に所属し、大学ではバドミントン部に所属するかたわら、トライアスロン大会にも出場したし、女子マラソンにも出場し完走している。昨年は何年かぶりに参加したシティマラソン女子の部(ハーフマラソン)で完走を果たしたが、きちんと準備していなかったので、女子の平均タイム以下だったのが悔しい。今年は身体をしっかり作ってから挑みたいところ。
中堅どころの広告代理店に就職してからは、スポーツジムとボルダリングジムに通い、フットサルサークルにも所属していた。スポーツ観戦が趣味で、美術館や博物館にはまったく興味も関心もなかった。適度な運動が好きな反面、学生時代の社会科見学――寺社仏閣、美術館巡りは苦痛だった。
授業の美術も苦手だった。ペーパーテストは高得点、提出物は締め切り厳守をし、なんとか先生の恩情で、五段階評価のCを獲得していた。なにをどうしても壊滅的な絵や立体物になるのである。おかしい。選択授業になってからは美術を選ばずに音楽を選んでいた。家庭科の成績はよかったし、料理裁縫は得意分野だが、技術の授業で本棚を作っていたのに瓦礫になっていたのには、優しい両親も引いていた。不思議である。
(恥ずかしい過去が蘇っちゃったな)
三十路で無職・家事手伝いになった。時間だけはたっぷりある身なので、見聞を広めたかったのも事実。日本の世界遺産巡りもしたいが、身近にある博物館や美術館から世界を広げるのもいい。
そう思っていた矢先に飛び込んできたあの美しい水墨画のニュースは、なんだか吉報に感じた。
「藍、いつまでのんびりしてるの?」
「はぁい」
すっかり子供に戻ったかのような返事をして、朝食を急いで終わらせると食器をシンクの水桶に浸し、洗面所へ向かう。歯磨き洗顔は入念に。その後、未だに段ボールが積みっぱなしの自室で着替え、サッと化粧をすると、ガレージに行く。
〈パンののぞえ〉と書かれた軽ボンネットバンと普通のミニバンが並ぶ隅に、赤色のロードバイクと競技用ヘルメットが置いてある。四年前に通勤ラッシュからの解放と終電を逃しても帰宅できるように購入した愛車だ。一昨年、夏季休暇と有給休暇を使って愛車とともに電車で房総半島へ向かった。真夏の房総半島をソロツーリングしたのは楽しい思い出だ。数少ない友人に「勇ましすぎる」と言われて軽くショックを受けた。
藍に合わせてチューニングした世界で一台の愛車は、実家に引っ越したのを契機に改造して街乗り用になった。チェーンホイールとサドルを替え、スタンドをしっかりした物に変更し、太いタイヤに交換し、幅広の泥よけをつけた。これまでの貯金と退職金があるから気兼ねなくチューニングしたが、改めて見てみるとやや寂しい。ハンドルのバーテープも赤い車体に合わせて赤色にしていたが、なんとなく白色に変えてみた。
無職・家事手伝いの身で街乗り用のクロスバイクを買うのは気が引けるし、気軽に旅行にも行けない。それに退社から二か月近く経つが、旅行する気分にはまだなれなかった。
(舜日展。お店が休みの水曜日に行ってみよう)
六越デパートがある隣の市までは十キロほど。だが、サイクリングなら近距離の範囲だ。平坦な道ばかりだから街乗り用のギアがちょうどいい。
ヘルメットをしっかりつけて、小さなリュックを背負い、以前より重量が増えたロードバイクを颯爽と走らせ、藍は朝の商店街へ向かった。
藍が〈パンののぞえ〉を手伝うようになって二か月弱が経った。高校生まで看板娘をしていたから、常連客の顔は覚えていたし、ご近所さんからも忘れられていなかったのがありがたいやら恥ずかしいやら。店を離れて十二年経っていたから、商店街の知人も常連客も十二年分老けていた。それは藍も同じだ。商店街には知らない店やオシャレなカフェもできていたし、シャッターが下りっぱなしの店舗も散見して少し寂しい。
朝九時にオープンした〈パンののぞえ〉のレジに藍が立つ。先ほどまで焼き上がりのパンを持って行き来していた弘行は、パンの仕込みと焼きに集中していた。今は、昼によく売れる惣菜パンやバゲットサンドを慣れた手つきで作っている。藍もレジが空くと厨房を手伝う。カレーパンやコロッケ、唐揚げなどの揚げ物や、ベーグルサンドを作る。
昼になると、近くの役所や工事現場から客がやってきて忙しくなる。とはいえ、夕方の忙しさに比べればゆったりとした賑わいだ。焼きたて高級食パンやフランスパン類が店頭に並ぶ午後二時頃は、赤ちゃん連れのママが増える。〈パンののぞえ〉一番人気のクロワッサンは、この時間帯にほとんど消えてしまう。
弓香は、午前中に近隣の保育園や提携の喫茶店、洋食店などにパンを配達して、午後はネットで注文を受けたパンを近くの配送センターに持ち込む。
凪の時間は午後二時過ぎから四時頃だ。そのあいだに遅い昼食を厨房で食べ、そのあとは夕方のピークに合わせて焼き上げる惣菜パンと菓子パンなどを成型し、空いた時間で粉まみれの事務室を気持ちばかり掃除したり、洗い物や片付けをしたりする。
夕方のピークが終わったら、翌朝に焼き上げるパンの仕込みや在庫チェック、店頭の掃除と売り上げの計算になる。両親の仕事になるので、元看板娘はさっさと家に戻ると、夕食を作り、風呂を沸かしておく。
それなりに忙しい日々だが、慣れた作業が多いせいか、時間が余ってしまう。身体を動かしていないときに思い出すのは、退職までの苦くてつらいことばかりだ。考えたくないのに。
「おーい、藍。ぼんやりしてないで食パン切ってよ」
「はぁい」
午後二時すぎ、弘行に声をかけられた藍は返事をして立ち上がる。
弓香特製弁当を食べたあとは、やたら眠たい。それでぼんやりしていた。しっかりと炭水化物を摂取すると眠たくなるから、会社勤めのときは軽い昼食にしていた。
(まだ思い出す。いやだな。早く忘れたい)
手を消毒してビニール手袋をつけると、業務用スライサーでパンを切っては袋につめて、何枚切りかの表示用シールを貼っていく。
(そろそろかな?)
この落ち着いた時間帯に、ほとんど毎日現れるちょっと不思議な客がいた。
肩くらいまでの長い黒髪をもっさりと後ろでひとつにまとめた、作務衣姿の湖月舜太郎という客だ。作務衣の上に絵の具で汚れたエプロンやスモックを着ているが、足にはよく磨かれた革靴や汚れてないスニーカーを履いている。
挨拶と少々言葉を交わすくらいだが、彼の声は歯切れがよく、甘さのあるバリトンは、声優のようで聞き心地がいい。そのせいか、いつももう少し会話を続けたくなる。
弘行によると、舜太郎は売れない画家で三十代半ば独身。商店街がある駅前地区の住民ではないが、近隣の地区に住んでいるのではないか、という話だ。
(よく知ってるわよね。……ということは、逆もまた然り、か)
パン屋の弘行が知る話は、当然商店街の人たちも知っている。つまり、元看板娘が都落ちしたのも耳聡く知っているだろう。
弘行の好みで店内にはジャズスタンダードが静かに流れている。そこへ、コロロロンと、牧歌的なアニメのヤギたちが鳴らすベルに似たドアベルが響く。これは、父がヨーロッパでのパン修業中に買ってきた記念品だ。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
来店したのは、本日ももたっとしたスモックを着た舜太郎だった。彼は毎回、高級食パン一本とあんパンやクリームパンなどの数点の菓子パンと惣菜パンを購入して帰る。ひとり暮らしでは食べ切れないだろう量だ。それともパンしか食べていないのか。もしもそうなら、他人事ながら食生活の偏りが心配になる。
店内を回った舜太郎のトレイには、春の新作・フレッシュいちごのフルーツデニッシュ、ドライいちじくとクルミのスコーン、ザクザクメロンパンがのっていた。今日はお気に入りのこしあんパンとクリームパンがのっていない。珍しいこともあるものだ。
「あと、高級食パンをお願いします」
優しくて甘さのあるバリトンは、店内BGMのジャズスタンダードによく合っていて、つい耳を傾けそうになる。
毎日、千円もする高級食パン一本と千円超分の菓子パン、惣菜パンを買っている。売れない画家だと聞いているから、経済状況も気になる。無理をしていなければいいけれど、とこれまた他人事ながら気にしてしまう。他人だから口出しできないが。
藍は、舜太郎を見上げて柔らかく微笑う。
「メロンパン、おいしいですよね」
「ええ、クッキーがザクザクしていて、ふんわり甘い生地が好ましいです」
よく見るとフェイスラインはシャープで端整な顔をしている。もっさりとした髪型と汚れた服装でなければモテそうだ。
長い前髪で隠れていた目とばちっと目が合って、藍は変に照れてしまった。それを隠すよう、急いで手を消毒してからビニール手袋をはめて、パンを包むのに専念する。
会計をすませて、再度アルコール消毒した素手で、パンが入ったビニール袋と高級食パン用の紙袋を手渡す。舜太郎は、いつもならすぐにレジから立ち去るのだが、この日は違った。
なにか言いたそうにしているので、藍は長身の彼を見上げて待つ。彼の頬がみるみるうちに赤くなる。長い髪でちらりとしか見えない耳も真っ赤だ。なにごとだろう?
「野添藍さん」
「なんでしょう、湖月さん」
「結婚してください」
「はい、いいですよ。…………ん?」
(ん? んん? あれ? 今、とんでもないことを言われた気が……。結婚とかなんとか)
「えっと、聞き間違いでした?」
見上げた舜太郎は顔を赤らめてはいるものの、表情は真剣だった。
「間違いではありません。僕と結婚してくださいと、藍さんに申し込みました」
声が震えている。冗談で言ったのではなさそう。
藍は少し考える。
結婚。降って湧いたというよりも、挨拶のように軽く舞い込んできた。
おそらく、結婚を前提にお付き合いしてください、と言うはずが、すっ飛ばしてしまったのだろう。そう思うと、舜太郎は茶目っ気のある人なのかもしれない。
無職・家事手伝いの身である藍は、この先再就職はおろか、結婚など縁がなさそうだ。それに――舜太郎自体は嫌いでもないし、いつしか少し興味が湧いていた。よく知っているわけでもないが、口八丁手八丁で詐欺を働くようにも見えない。誠実そうだなとは思う。
自分のなにがよくて、結婚前提の付き合いをしようと思ったのかはわからないが、純粋に舜太郎への興味が湧いた。結婚を前提に付き合ってもいいかもしれない。
「しましょう、結婚」
「いいんですか? ほんとうに?」
「はい。よろしくお願いしますね」
にっこり笑うと、真っ赤になった舜太郎はぺこりとお辞儀をした。どうやら成立したようだ。
藍は、厨房でアルミ板に滅菌スプレーをかけている弘行に声をかける。
「お父さん。わたし、結婚することにしたから」
ちょっとコンビニに行ってくる。そんな感じで言ったものだから、弘行は「はいよー」と言ったあとで、すべての機能を忘れたロボットのようにピシッと固まって、藍を見つめ返した。
◇◆◇
恋をして、交際期間中に互いの価値観や相性をよく知り、愛し合い、結婚の準備をする。これが、結婚までの一般的な流れだと、藍は思う。
翌日の水曜日は、〈パンののぞえ〉の定休日。野添家の前に止まった一台の高級セダンから降りてきた男は、そのよくある流れをすっ飛ばした。婚姻届と、おしゃれで可憐なバラの花束を持ってきたのだ。
玄関に立つ、長い黒髪を丁寧に梳いた和服姿のイケメンは、舜太郎と同じ顔で同じ声をしていた。藍が、舜太郎本人だと気がつくまで、わずかばかり時間がかかり、次いでその手にある婚姻届を見てぽかんとした。
(結婚前提だから? それにしても早くない? 婚姻届で真剣さをアピールしている、とか? そんな感じじゃなくて、もう結婚するしかない、って雰囲気だけど……まさかね)
野添家のリビングの古びたソファに座る舜太郎は、間違ってやってきたモデルのようだ。端整な顔は小さく、手足が長い。
彼の背後に立っている、スーツをかっちり着こなした男・君島七瀬は秘書だという。君島は、舜太郎の戸籍謄本、マイナンバーカード、パスポート、昨年の健康診断書、簡単な履歴書などをローテーブルに並べ、説明する。
(本気のプレゼンテーションだ)
藍は笑顔の裏側で驚いている。弘行も驚きながら、舜太郎が持ち込んだたくさんの書類を真剣な顔で読んでいる。
「湖月さん、うちの子でいいんですか?」
なにか知っている素振りで聞いたのは、弓香だった。やや緊張している様子の舜太郎ははにかみ、「はい」と答える。笑みを浮かべると、もっさりとした売れない画家ではなく、三十代男盛りのイケメンそのものだ。身だしなみと着ているものの力もあるが、舜太郎が迷いない姿勢でいるのも大きい。
書類に記載されている生年月日を見ると、彼・湖月舜太郎は三十六歳だ。パスポートにはいろんな国のスタンプが捺されていた。
「ご両親はなにかとご心配でしょうから、メインで使っている銀行の通帳をどうぞ。ほかの銀行と投資で使っている銀行の通帳はこちらです。保有している株と外貨預金などもありますので、後日書面にてお知らせします」
預金通帳を手渡されて目を通した弘行は、瞠目し言葉を失った。なににそんなに驚いたのだろうか。預金ゼロ、なのか?
「藍さんもどうぞ。共有財産になるのですから」
「はあ」と気が抜けた返事をした藍は、弘行とは別の通帳を手に取り、記載された数字を目で追いかける。
(いちじゅうひゃく……せんまん? サブ銀行で見たことがない桁なんですけど? はい? 新手の詐欺かなにかなの? わたしなんて騙しても仕方ないし。ほ、本気?)
ちなみに、藍の貯金は四百五十万円ほど。別の銀行にわずかばかりの退職金が預けてあるが、それで全財産である。投資や株などをする余裕はなかったが、貯金は頑張ったほうだ。
「あの、湖月さん。わたしのパスポートや通帳は見なくてもいいんですか?」
おそるおそる聞くと、にこにこしどおしの舜太郎は「はい」と歯切れよい返事をした。
「妻の財産は妻のものです。契約書類等を作成してきたので、目を通してください。この契約書には藍さんの意見意向が入っていないので、日を改めて作成し直しましょう」
昨今は結婚するときに生活上のトラブルを避けるため、約束を契約書として書面に残すカップルも少なくないと聞く。が、舜太郎が作成した契約書は生活上の約束というよりも財産関係を明確にするための婚前契約書のようだ。
「はぁ」
(変わった人。変わりすぎている。真面目な人、なの? どうなんだろう? 結婚を前提にお付き合いしますって言った翌日に婚姻届とそのほか諸々用意するくらいだから、変わった人よね。面白い人、なのかしら?)
「湖月くんは、その、絵描きをしているんだよね?」
にわかには信じられないといった表情のまま、弘行が聞く。
「はい。簡単な経歴を書面にしましたのでご確認ください。時間がなくてウェブページのURLしか載せられませんでしたが、明日にはこれまでの活動の新聞雑誌のコピーをお渡しできると思います。スマホでも事務所のウェブサイトが見られます。君島、タブレットを」
「あ、いや、うん。あ、うん。あとで見せてもらおうかな。うん。……なにしろ急だからね。なかなか頭がおっつかないんだよ。入籍は今日じゃなきゃだめなのかな? ああ、大安吉日が今日か」
どうやら結婚前のお付き合いはないようだ。
合わなければ離婚すればいい、くらいの気構えでいよう。バツイチというトロフィー獲得が、いいのか悪いのかわからないが。
「お父さん、わたしは大丈夫よ。長く付き合えばいいってものじゃないもの。それにお見合い結婚も似たようなものでしょ」
重みのある娘の言葉に弘行は渋々頷き、助けを求めるように弓香に視線を向ける。
「いいんじゃないの? 子供同士のままごとじゃないんだから、親がとやかく言って幸せになれるものじゃないわ。ヒロくんだって、あたしと出会って三か月後には結婚を申し込んできたじゃない」
「あれは、だな。……今は関係ないよ。仲人も立てずに、結婚式もせず、入籍だけって藍が可哀想じゃないか」
「ヒロくん。仲人さんを立てない結婚式は増えてるんですって。結婚式だって親がお金を出すわけじゃないから、本人たちの問題。今は結婚式にお金を使わずに新婚旅行を豪華にするのも流行ってるらしいのよ。結納や婚約だってそうでしょ。いろんな結婚の形があって、さまざまな夫婦がいるの。盛大な結婚式を挙げたカップルが翌日離婚する場合もあるし、出会って三か月で結婚して三十年以上も夫婦でいるカップルだってここにいるじゃないの」
(お母さん、柔軟すぎじゃない?)
「せめてだね、湖月くんのご両親に会いたいじゃないか」
「すみません。父は身体を悪くして静岡の富士山が見える町で療養していて、母は仕事でロサンゼルスにいます。家族チャットで結婚したい旨を伝えると、おめでとうと言ってくれました」
療養中と聞き、弘行は一気に同情的になった。弓香がしっかりしているぶん、弘行はお人好しで他者に同情的だ。
「伝えているならいいんじゃない? 湖月さんが親御さんから信頼されている証拠でしょ。三十六歳なんだもの」
「けどね」
「結婚を決めるのは本人たちで、周りの人間じゃないの。周囲の人間関係や環境も無関係ではないけれど、そのなかで幸せを築くのは本人たち。そうでしょう?」
弓香の柔軟な結婚観に驚かされたが、藍も同じ意見だったから強く頷く。
舜太郎が姿勢を正して座り直す。背筋がピンとして凛々しい。深々と頭を下げたあとで、緊張した面持ちで言う。
「藍さんを幸せにする自信があります。この世の悪意や邪なことからも守り切り、いついかなるときも藍さんが笑って暮らせるように努めます。病めるときも健やかなるときもと言いますが、なんでもない平穏な日々であっても、その逆の日々でも、僕は藍さんの意志と意見を尊重して、妻となる人を裏切らずに愛し抜きます」
彼が真摯に、熱意を込めて藍を見つめるものだから、思わず胸がとくんと高鳴った。どきどきしてしまう。ほとんどなにも知らないのに、信じていいのだと思わせる説得力がある。両親も同じのようで、真剣な表情で舜太郎を見て、そして藍を静かに見守った。
(湖月さん、何度も練習してくれたみたい。なんでもスマートにこなしそうなのに)
それに、なんとなくだが、舜太郎とはうまくいく気がする。ただの直感だ。でも、形容しがたい、きらめきのようなものを感じる。
「お父さん、お母さん。まずはわたしを信じて。わたしは湖月さんを信じるから」
急な話だったし、驚くことが多すぎたが、とくに揉めずに、婚姻届に必要事項を記載する。婚姻届の証人欄は、藍側は父・弘行が、舜太郎側は君島がその場で筆記して捺印した。
運転手が運転する高級セダンに乗りこみ(助手席に君島が座っていた)、市役所へ行く。ゼロの多い通帳をいくつも持っているお金持ち……真のお金持ちというのだろうか? だから、売れない絵描きを続けられるのか。
市民課窓口で必要書類を揃えて、滞りなく婚姻届を提出した。さらさらと澱みなく流れる川のように手続きを終えた野添藍は、たった今から湖月藍になった。後日、諸手続きをしなければならないが、今日は婚姻届を提出するだけにした。
市役所を出て駐車場へ向かうとき、
「手を、つないでもいいでしょうか?」
と訊ねた舜太郎は、晴れやかに微笑んでいて、邪気が欠片も見当たらない。晩春の爽やかな風が彼の長い髪をさらう様は、いつだったか見た水墨画を思わせた。なぜかわからないけれど。
「はい。夫婦になったんですから、手ぐらいつなぎましょう」
これから舜太郎と歩いていくのだという思いが強い。
雲ひとつない今日の空のような、のどかな日々が訪れる――そんな予感さえした。
遠慮がちにそっと手が触れ合う。舜太郎の手は男らしく節ばっている。整った指と健康そうな爪。どこか余人と違うように感じるのは、彼が画家だからだろうか?
藍のバッグからスマホの着信音が響く。相手は弓香だった。
「あの、お寿司を取って、少し料理を作る予定なので、我が家で夕食を食べませんか? って母が。……もしも、このあと予定がなければ、ですけれど」
「喜んで」
凛とした目尻がふうわりと下がる。
並んで歩くとよくわかる。舜太郎は背が高いだけでなく、そこそこ鍛えているのか背筋も伸びているし、しっかりと地を踏む歩き方も好感が持てる。完璧なイケメンだ。もっさりとした彼しか知らなかったから、新鮮を超えてギャップがすごい。
藍はどちらかといえば綺麗と言われることが多いが、誰かをひとめぼれさせるような魔性はない。高校生時代は後輩女子たちにきゃあきゃあ言われたが、それだけ。友人関係の延長や気がつけば付き合っていた交際が多かっただけに、見た目で彼を虜にしたとは思えない。
舜太郎との接点は〈パンののぞえ〉だけだから、自分のなにがよくて結婚を申し込まれたのかさっぱりわからない。
「湖月さんは、わたしのどこがよかったんですか?」
「言うなら、直感です。藍さんとなら幸せになれるっていう」
彼が至極真面目に言うので、藍は目をしばたたかせた。
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