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   第1章 望まぬ結婚


「――お兄様? 今、なんておっしゃったの……?」

 オーリク伯爵邸のとある朝。
 食事の席で、ヴィオレッタは長兄のアンソニーを愕然がくぜんと見つめ返した。
 兄は食後のワインを持ったまま冷ややかな薄青の瞳でヴィオレッタをにらみ、ため息をつく。

「何度も言わせるな。お前のとつさきが決まった、と言ったのだ」
「で、ですが、私は――」

 結婚のだ、と言おうとしてヴィオレッタは口をつぐんだ。
 兄の怒気に身がすくんだこともその理由の一つだが、もし本当のことを言ったとしても、鼻で笑われるか、【悪魔あくまき】として生涯、どこぞの地下牢に幽閉されるだろうと思ったからだ。
 後者のほうが可能性は高く、ヴィオレッタは己をそんなきゅうに追いやるほど愚かではなかった。
 ――この世界には、【悪魔あくまき】と呼ばれる者がいる。
 貴族は皆、人生に三度の洗礼を受けるが、【悪魔あくまき】であった場合はそれを通過できず、地下や牢に幽閉されることになるらしい。細かいことは世間に公表されていないうえ、貴族らは【悪魔あくまき】をけがらわしい者として扱うため、ヴィオレッタも詳しくは知らない。
 しかし、この世には確かに【悪魔あくまき】と呼ばれる者がいて、その烙印を押されたが最後、どれだけ優れた者であっても表舞台から消されてしまう。
 ヴィオレッタは十七歳の成人の際に、三度目の洗礼を無事に終えていた。

(だから安心していたけれど、先日、洗礼後に【悪魔あくまき】と判定された方が現れたと聞いたわ)

 その症状が顕著けんちょではない場合、また、徐々に進行していくタイプの場合もあるため、必ずしも三度目を過ぎたら安心というわけではないのだ。

(……いっそのこと、本当のことを話してみる?)

 自分がなぜ結婚してはならないのか、その理由を。
 そう考えて、そうそうにあきらめた。
 もしここで理由を話せば、【悪魔あくまき】として生涯、幽閉されるに違いない――
 黙りこんだヴィオレッタを鼻で笑い、アンソニーが続ける。

「お前は我がオーリク伯爵家に生まれたのだ。『結婚』などというわがままがまかり通るものか」
「したくないものは、したくないのです!」
(なんとしても阻止しなければ)

 強い気持ちで言い返しながら、ヴィオレッタは椅子から立ち上がった。
 到底淑女らしくない大声をあげた彼女に、アンソニーはやや気圧けおされた様子を見せる。
 彼女はこれまで、こんなふうに声を荒らげたことがなかったのだ。裏を返せば、それほど結婚したくないのだが、妹に言い返された彼はぽかんとしたのち、顔を真っ赤にする。

(あ、しまった)

 慌てていたとはいえ、言い返すのはまずかった。しかし、後悔しても遅い。

「私はオーリク伯爵家のために言っているのだ!」

 アンソニーが怒声をあげる。妹の態度をたしなめなければと考えるよりも、怒りの感情が上回ったらしい。ヴィオレッタは助けを求めて視線を彷徨さまよわせた。
 同じ食卓についているアンソニーの妻メリッサは、夫の言葉は正しいとばかりにふんぞり返っている。ヴィオレッタの妹のソフィは意地の悪そうな表情でほくそ笑んでいた。
 ドアの側に立つ使用人二人は、素知らぬ顔だ。
 予想していたことだが、ヴィオレッタに救いの手を差し伸べようとする者はいない。

「大体、お前がとつがねば、ソフィの縁談はどうするというのだ! お前は妹が可愛くないのか!」
「それは……」

 貴族の結婚は、年功序列という暗黙の了解がある。特に女性の場合、姉から順番にとつがなければならない。もし先に妹がとつげば未婚の姉は傷物ではないかと邪推され、先にとついだ妹のほうも貴族のマナーを知らないはじさらしだと誹謗ひぼうされる。
 何かしらの事情でとつげない場合は、家庭教師として働いたり修道女になったりと、今後の人生を決めなければならない。
 爵位が高い貴族ほどそういった暗黙の了解を守るため、このままではソフィに求婚したい貴族たちが足踏みすることになる。
 ヴィオレッタはそっとソフィを見た。
 波打つ淡い金髪を持つ彼女は、ヴィオレッタに対する嘲笑ちょうしょうを押し隠しながら、おっとりとアーモンド色の瞳を細めて微笑ほほえんでいる。長い睫毛まつげ縁取ふちどられた瞳は無邪気さを宿し、可憐かれんさをぎゅっと詰めこんだ宝石のようにキラキラとしていた。
 今年十七歳になったソフィは、結婚適齢期だ。昨年の社交界デビューと同時に、彼女の美しさはまたたく間に貴族たちに広がり、今や社交界の花と言われている。
 彼女は男性と談笑するとき、己の可憐かれんさを最大限に引き出す口調や素振りをしつつ、相手をたてていた。ソフィほどの美女とのそんなふうな楽しい語らいを経験した男性は皆、彼女に夢中になる。
 つまり、ソフィは引く手数多あまたの美女であり、今は少しでもよい相手を見つけるための重要な時期なのだ。未婚の姉の存在は邪魔でしかない。
 ソフィの縁談がなかなかまとまらないのは、どう考えてもヴィオレッタに非があった。

「何を黙っているの?」

 口をひらいたのは、アンソニーの妻メリッサだ。
 彼女は優雅さのなかにわずかな嫌悪を混ぜながら、ヴィオレッタに向けた笑みを深めた。

「ヴィオレッタ、あなただってソフィが可愛いでしょう?」
「も、もちろんです。メリッサお義姉ねえさま
「だったら今すぐにでもとつぐべきよ。まったく、ソフィと同じなのは髪の色だけね。なぜこうも器量が悪いのかしら」

 ヴィオレッタはぐっとこぶしを握りしめる。メリッサの言うように、ヴィオレッタも淡い金髪だ。ソフィほどあでやかな輝きはないが、陽光に当たるとけて見えるところが気に入っていた。
 視線を下げグラスに映る自分の顔を見る。両親が美しいと褒めてくれたブルースピネルの瞳がこちらを見つめ返していた。

(私だって、とつぎたいわ)

 ヴィオレッタ自身は、心から結婚したい。ものすごくしたい。
 たとえ政略結婚であったとしても、相手の男性を愛して、いずれ生まれてくるだろう子どもを自分の手で育てたい――
 そこでメリッサがこれ見よがしにため息をつく。

「あなたがとつぎ遅れてしまったのは、義父様とうさまたちが甘やかしてきたせいね」
「まったくだ。父上と母上はお前を甘やかしすぎだ」
「そんなこと……!」

 咄嗟とっさにヴィオレッタは声をあげた。
 両親は何度も結婚するよう説得したが、それを突っぱねたのは自分だ。両親と繰り返し話し合った結果、いずれ親戚筋に家庭教師として雇ってもらおうと教養を深めている最中なのである。
 しかし、その両親は三ヶ月前に馬車の事故で亡くなっていた。
 伯爵位を継いだのは、長兄のアンソニーだ。両親の死の悲しみもえないうちに、野心家な彼は家の地位を上げようと動き出したのである。結婚適齢期を過ぎてしまったヴィオレッタをいつまでも実家に住まわせておくのは邪魔でしかないのだろう。

(仕方がないわ。お兄様とお義姉ねえさまはとてもお忙しいし……いきなり爵位を継いだことで、苦労なさっているのも知っているもの)

 ヴィオレッタは思いきって顔を上げた。

「でしたら、家を出ていきます。私、家庭教師として働けるように、教養を身につけておりました。お父様とお母様とも、そのように――」
「みっともないことを言うな!」

 アンソニーの一喝いっかつに、ヴィオレッタののどからヒッと悲鳴がれる。

「オーリク伯爵家の名をとすつもりか!」
「そ、そんなことは……」

 ありません、と答えた声は自分の耳にも聞こえないほどか細い。
 下級貴族が生活に困り、働きに出るのは間々ままあることだ。加えて、家庭教師の職を選ぶ未婚の者は、結婚できない理由があるともされる。
 兄がうなずくはずがなかったと、ヴィオレッタは反省した。

「落ち着いてくださいまし、アンソニー様。義妹が落ちこんでおりますわ。我が身の浅はかさを悔いているのでしょう。……ヴィオレッタ、あなたは夜会でも壁の花でしたわね」

 メリッサの言葉に、「はい」とうなずく。
 王都で暮らす貴族の義務として、参加しなければならないパーティがいくつかある。王家主催のものや公爵家主催のもの、また、派閥の結束を確かめるものなどがそうだ。
 それらは結婚相手を探す場でもあるため、ヴィオレッタは参加するたびに壁に同化するよう身をひそめ、誰とも多くは話さないようにしていた。愛想のない「はい」か「いいえ」しか答えない娘を相手にする男性はおらず、彼女は今なお、一度も求婚されたことがない。
 メリッサが頬に手を当てて小さく息をつく。

「夜会では壁の花で、まともに人と話せない。そんなあなたを受け入れてくださる相手を、アンソニー様が探してきてくださったのよ。お礼を言うべきではなくて?」
「さすがお兄様ですわね。お姉様もこれで幸せになれますわ」

 その言葉に、ソフィがほがらかな笑顔で追随ついずいした。純粋無垢じゅんすいむくに見えるが、その瞳にはヴィオレッタを見下す色が浮かんでいる。そのことに、アンソニーたちは気付かない。

「ソフィ、お前は本当に姉思いだな」
「あなたのような義妹を持てて、わたくしは幸せだわ」

 兄夫婦はソフィを褒め、彼女は「お姉様のためだもの」と控えめに答えた。
 彼らのやり取りに思うところがないわけではないが、ヴィオレッタがいるせいでソフィに求婚したい貴族たちが足踏みしているのは事実。メリッサの言葉は間違っておらず、世間から見ればヴィオレッタはどうしようもないわがまま令嬢なのだろう。

(でも、結婚したら相手の男性を巻きこんでしまう)

 ヴィオレッタは【悪魔あくまき】ではないが、呪いに似た【契約】をその身に宿している。
 意を決して、彼女は口をひらいた。

「あの、でしたら修道女になります」

 恐る恐る、だがきっぱりと言うと、アンソニーが目を吊り上げる。

「いい加減にしろ! 私がうなずくと思ったのか!?」

 そう吐き捨てた。
 貴族の娘が修道女になる理由は様々だが、未婚で子をはらんだとか、事件を起こしたとか、決して褒められたものではないことが多い。
 これは父の前オーリク伯爵からも聞かされていたので望み薄なのはわかっていたが、どうしても提案せずにはいられなかったのである。

「とにかくお前の結婚は決定だ。荷物をまとめておけ、明後日には送り出す」

 ヴィオレッタは息を呑んだ。明後日は、いくらなんでも早すぎる。

(そんな。もう、そこまで話が進んでいるだなんて……!)

 すでに結婚が決定している状態で断るとなれば、オーリク伯爵家の名に泥を塗るようなものだ。元よりアンソニーにそむくことなどできないとはいえ、結婚からいよいよ逃れられなくなった。
 一瞬、屋敷を出ていこうかという考えがよぎる。

(いいえ、駄目よ。そんなことをしたら、皆に迷惑がかかってしまう)

 今でこそあまりヴィオレッタに好意的ではないアンソニーとソフィだが、幼い頃はそうでもなかった。一緒に遊んだり買い物をしたり、そういった兄妹らしい楽しい記憶は今でもヴィオレッタの宝物である。
 ヴィオレッタはぎゅっとドレスのすそを握りしめた。

(……とついだとしても、相手の方を愛さなければいいのよ)

 結婚や温かな家庭へのあこがれを胸の奥に隠して、そう自分に言い聞かせる。
 そもそも、結婚適齢期を過ぎようとしている女をめとろうという者など、何か魂胆こんたんがあるか、訳ありに決まっていた。そんな相手と愛を通わせられるはずがない。
 そう考えるとほんの少し気が楽になって、彼女は力を抜いて椅子に腰を下ろす。

「先程のご無礼をお許しください。お兄様のおっしゃる通り、結婚いたします」

 途端に、メリッサが満足そうに笑い、ソフィがにやにやと嫌味な笑みを浮かべた。アンソニーはそんな二人の様子には気付かないまま、当然だとうなずく。
 兄の怒りはひとまず収まったようだ。

「お姉様、どなたにとつぐか、尋ねなくていいの?」

 ソフィの軽やかな可愛らしい声が響いて、それまで張り詰めていた場に柔らかな空気が戻る。
 しかし、妹の表情にひそむ意地の悪さに、ヴィオレッタは気付いた。恐る恐るアンソニーに尋ねる。

「どなたのもとにとつぐことになっているのですか?」
「アベラール公爵の兄に当たる、エリク・アベラール殿だ」

 ヴィオレッタは身体を強張らせた。
 その名前は聞いたことがある。
 アベラール家に生まれた【悪魔あくまき】で、幼少期から地方の塔に幽閉されているという。本来ならば、アベラール公爵家の嫡男として爵位を継ぐべき立場だったのに、【悪魔あくまき】であったがために、生涯閉じこめられることになった人物だ。
 アベラール公爵家が名家中の名家であること。また地下牢や屋敷ではなく、地方の森のなかにある塔に幽閉されていること。さらに、幽閉されてから五十年以上が経過していること。
 それらの事実が、エリク・アベラールについてのうわさに拍車をかけていた。
 彼は人の血をすする化け物で見た目があまりにも人からかけ離れているのだというものから、出生に問題があって父親が違うために幽閉されているのだといった公爵家を侮辱ぶじょくするようなとんでもない憶測まで、エリクに関するうわさは多岐にわたる。
 ヴィオレッタは目眩めまいを覚えてひたいを押さえた。
 兄はいつも欲のない父がもどかしいと言っていたから、妹たちを少しでもよい貴族にとつがせて、彼らとの繋がりを作りたいのだろうが――

「あのう、お兄様。エリク様は一体おいくつでいらっしゃるのかしら……うわさでは、五十年以上も塔にこもっておられるとか」
「御年六十六だそうだ」
「六十六……の、お方……?」

 貴族社会においては、地位や資産が何よりも重んじられる。若くて顔がよいことはステータスの一つだが、それほど重要視されていない。
 エリク・アベラールが結婚相手を探していれば、本来ならば引く手数多あまたとなるはずだ。
 なにせ、アベラール公爵家の資産は王家をしのぐと言われている。年齢など些末さまつなこと。にもかかわらず、ヴィオレッタのような行き遅れに話が来たのは、エリクが【悪魔あくまき】だからだろう。
 そもそも【悪魔あくまき】の者が結婚を求めるなど、世間一般では考えられない。
 ところが、ヴィオレッタにとって重要なのはエリクの年齢だった。

(……六十六歳の方と結婚?)

 その事実を理解した瞬間、脳天から稲妻を浴びたような衝撃を受ける。勢いよく立ち上がり、テーブルに両手をついてぐっと身体を乗り出した。

「お兄様」
「これは決定だ、拒絶は――」
「その結婚、喜んでお受けします。素敵な縁談を持ってきてくださって、ありがとうございます!」

 その言葉は嫌味でもなく、ヴィオレッタの本心だ。
 その証拠に、彼女の表情はかつてないほどキラッキラに輝いている。
 ソフィとメリッサは、ヴィオレッタがさぞ嫌がるだろうと思っていたらしく、呆気あっけにとられていた。アンソニーは突然やる気を出した妹に胡散臭うさんくさそうな目を向けたが、咳払せきばらいをして「ならばよい」とうなずく。
 ヴィオレッタにとって、年の離れた男性との結婚は僥倖ぎょうこうかもしれなかった。
 なぜなら、六十六歳の相手であれば「」という、とある縛りが意味をなさないかもしれないからだ。
 颯爽さっそうと朝食の場をあとにした彼女は、スキップしそうになるほど浮かれた気持ちで部屋に戻る。そして、早速荷造りを始めた。
 本当はずっと結婚したかった。友人知人の結婚式に呼ばれるたび、微笑ほほえみの下でギリギリと歯を噛みしめて血の涙を流していたほどに。
 荷造りはあっさり終わった。持っていく荷物はほとんどなく、トランク一つに入る。

(忘れ物はないかしら)

 部屋を見回したヴィオレッタは、ふと、母がくれた宝石箱に目を留めた。
 数ヶ月前に起きた、あまり愉快ではない事件を思い出して苦笑する。

(あれは、両親が他界した夜だったわね)

 ソフィがこっそりと部屋に忍びこんで、この宝石箱からネックレスを盗んでいったのだ。物音で起きたヴィオレッタだが、そのときはソフィが何をしているのかわからなかった。盗難にあったと気付いたのは翌朝のことだ。

(問い詰めたのに、知らないふりをされたわね。ついにお兄様が出てきて、私の管理不足だと、とても怒られたのだわ)

 ソフィが盗みなどするはずがない、とアンソニーは言い切ったのである。
 だが、それから三日が過ぎ、ソフィはヴィオレッタの宝石箱から、今度は指輪を盗んだ。以降、彼女はこの宝石箱から様々なアクセサリーを持っていくようになったが、ヴィオレッタはそれをとがめなかった。
 箱に入れていたのはどれも、母から譲られたものだ。妹が欲しいのならば、あげようと思うことにしたのである。
 ただ、初日に盗んだネックレスだけは返してほしかった。
 あれは、母方の先祖が高名な【悪魔祓いエクソシスト】に作らせた悪魔あくまけの御守りだと聞いている。なんでも悪魔を封印する力のある、特別なアクセサリーだとか。

(……いいえ、今更考えても仕方がないわね)

 宝石箱を抱えて苦笑しているところに、「何をやっているのよ」と声がかかる。驚いて振り返ると、ひらいたドアの側でソフィが顔をしかめてこちらを見ていた。
 視線がヴィオレッタの抱える宝石箱に向き、眉を吊り上げる。彼女はドアを後ろ手で閉め、ヴィオレッタのほうに歩み寄ってきた。

「また私を盗人ぬすっと呼ばわりする気ね?」
「しないわ。この宝石箱は置いていくから、好きなだけ持っていって」

 ソフィは軽く宝石箱をひらき、ふんと鼻を鳴らす。

「いらない。お姉様の持ってる宝石って、どれも古くさいのよ。お母様やお婆様のお古でしょう?」

 でもソフィが持っていったネックレスは、母方の実家に伝わる大切なものなの。そう言おうとして、ヴィオレッタはめた。ここで争っても仕方がないし、最後くらい微笑ほほえんで別れたい。
 そんな彼女の気持ちにも気付かず、ソフィは不敵に笑った。

「私にはもっと流行のアクセサリーのほうが似合うと思わない?」

 そう言ってドレスの袖をスッとまくってみせる。彼女の手首には、シルバーのブレスレットが輝いていた。小さなダイヤモンドが中心できらめいている。
 驚くヴィオレッタに、ソフィは満足そうに笑った。

「いいでしょう? ジークフリート様にいただいたのよ」
「ジークフリート様……という方が、ソフィの恋人なの?」
「そうよ。侯爵家の方だから、お兄様も結婚を快諾するわ。だから、お姉様がさっさと家を出ていってくれないと本当に困るのよ」
「そうよね。ごめんなさい」
「ここに来たのは、お姉様に言っておこうと思って」

 ビシッ、とソフィがヴィオレッタに指を向ける。

「何があっても離婚したり、実家に逃げ帰ったりしないで。少なくとも私がジークフリート様と結婚して家を出ていくまではね。そうじゃないと、お姉様のこと呪ってやるから」

 ヴィオレッタはうなずいた。

「わかったわ。ソフィ、あなたの幸せを願ってる」

 そうしてあっという間に時間が過ぎて、ついにとつぐ日がやってきた。
 ヴィオレッタは必要最低限の荷物を持って、アンソニーが用意した簡素な馬車に乗りこむ。
 ついてきてくれるそばづかえもなく、見送りさえいない。たった一人でエリク・アベラールが幽閉されているというアベラール公爵領の僻地へきちに向かったのだった――



   第2章 悪魔憑あくまつきの旦那様


 その日、みどりは死んだ。
 仕事帰りに婚活パーティに向かう途中、横断歩道を渡ろうとした際に、バイクとぶつかったのである。もうすぐ三十歳になろうかという年齢で、翠――ヴィオレッタの前世は幕を閉じた。
 次に目を覚ましたのは、真っ白い場所だ。どこかの部屋みたいで、奇妙な膜がかかっているかのように風景がぼやけていた。そして、やけに身体が軽い。

(変な場所ね。なんだか怖いわ)

 そっと自分を抱きしめたそのとき、記憶が濁流のように押し寄せ、翠は自身に起きたことを理解した。慌てて強打したはずの頭をまさぐる。

(怪我が治ってる……?)

 身体を見下ろすと、婚活パーティ用に着替えたカジュアルなスーツ姿だ。
 彼女は両手を握りしめて、ぽつりとつぶやく。

「……私、生きてる?」
「いや、死んだよ」
「きゃっ!」

 いつの間に現れたのだろう。黒髪黒目をした、エクソシストみたいな黒い洋服を着た青年が、翠の前に立っていた。日本ではあまり見ない、知的さがかもた金縁のモノクルをつけている。
 青年はにっこりと笑うと、どこか飄々ひょうひょうとした態度で翠との距離を詰めた。

「俺と取り引きしよう」

 周囲がぼやけているにもかかわらず、青年の姿はやけにくっきりと見える。それに気付いて、翠は混乱した。

(ここはどこで、私はどうなったの?)

 何より、目の前の青年は一体誰なのか。

「きみは随分と未練があるみたいだ。きみの願い、俺が叶えてやるよ」
「どういうことですか? 怪しいんですけど! 私の命が欲しいんですか?」
「いや、もうきみ、死んでるからね」

 青年は馬鹿にしたような目で翠を見て、深くため息をついた。

「順を追って説明しよう。翠、きみは死んだ。次に転生するのは、きみがいたのとは別の世界なんだ。ここまではいい?」
「……たぶん」

 まだ戸惑とまどっているものの、彼の言葉そのものの意味は理解できる。納得できるかどうかはひとまず置いておくとして、まずは青年の話を聞こうと決めた。

「時空を超えて転生する者には、こうして俺たち天使が【契約】を持ちかけることになってるんだ。平たく言えば、願いを叶えてやるから対価を寄越せってこと。どうせ一度死んだんだし、どうだ?」

 まるでセールスをするような、軽快な口調で青年が言う。
 翠は何度か目をまたたいたあと、大きくうなずいた。

「やります」

 途端に青年が目をぱちくりとさせる。

「うわぁ、決断早いな。俺が言うのもなんだけど、もう少し考えたほうがいいんじゃないか? きみ、危ない人にアッサリだまされるタイプだろ」

 気軽に聞いたのは彼なのに、なんてことを言うのだろう。そう内心で怒りながらも、無謀なことを言っている自覚がある翠は、ぎゅっとスカートのすそを握りしめる。

「私、もうすぐ三十なのに彼氏いたことなくて。ずっと、素敵な家庭を持ちたいって思ってて……結局、何もできずに死んでしまったから。あの、生き返らせてほしいって願いはできるんですか?」
「残念ながらできない。きみはもう俺たちが守護する世界に転生することが決まっている。だから、こうして声をかけたんだ」

 確認しておきたかっただけで、それほど生き返りたいとは思っていない。
 両親はとっくに他界しており、翠には家族と呼べる者も、特別に親しい友人もいなかった。毎日、職場と自宅を往復するだけの日々のなか、いつか愛する人と温かい家庭を持ちたいと願うようになったのだ。ならば、いつまでも夢見る少女のままではいられない。そう思い、本格的に結婚に向けての行動を開始した。勇気を振り絞って婚活パーティに登録し、気合を入れて美容院やネイルサロンに通ったにもかかわらず、まさか事故にあうなんて、あんまりだ。

「生き返らせてほしかったのか?」

 黙りこんだ翠に、青年が尋ねる。彼女はゆっくりと首を横に振った。

「叶えていただける願いは、一つですか?」
「内容によるな。願いを叶えるとは言ったが、これは等価交換なんだ」

 そうだ。この青年は悪魔のように【契約】しないか交渉しているのであって、一方的に翠の願いを叶えてくれるわけではないのである。

「俺はあることをきみに望む。きみはそれを叶え、その分、俺もきみの望みを叶える……そんな仕組みなんだ。多少の誤差は許容範囲だけど、大きく差があると取引不成立になる」
「そんな決まりがあるんですね」
「そう。これは俺みたいな天使だけじゃなくて、創世神ですら曲げられない世界のことわりなんだ」
(天使なのね。……悪魔みたいなことを言ってるのに)

 自称天使だけど、実際は悪魔なのかもしれない。そう考えたものの、すぐに思考を追いやる。
 願いを叶えてくれるのならば、どちらでも構わない。

(やっぱり大きな願いを一つ、叶えてもらうべきよね)

 翠が望むのはただ一つ、「幸せな結婚」である。

「先に、私に何を望んでいるのか聞いてもいいですか?」

 これだけは先に確認しておくべきだろう。そう思って口をひらいた翠に、男は隠すことなくあっさりと答えた。

「俺がきみに望むのは、たった一つ。『きみが愛した男の死』だ」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


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