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1巻

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   一章


 まるで映画のワンシーンを見ているようだった。

『ごめん、やっぱり君と婚約するのは無理だよ』
『え……?』
『妹のジェニファー嬢だったらまだしも、チェルシー嬢、君は暗いし鈍臭どんくさいし、話していて楽しくもない』
『……っ』
『もう少し明るく笑ってみたり、愛想よくしたりした方がいいんじゃないか?』

 きらびやかな服を着ている少年は、悪びれもせずそう言うと、背を向けて去っていった。その言葉に小さく震える少女の体。紫色のガラス玉のような瞳からは今にも涙があふれそうだ。
 チェルシーと呼ばれたその少女がうつむくとオレンジ色の長い髪が顔を覆い、表情を隠してしまう。けばけばしい濃いグリーンのドレスはまったく少女に似合っていない。
 それを遠くから見ているのは、可愛らしいフリルやレースがついたスカイブルーのドレスを着たモカブラウンの髪と赤い瞳の少女。純粋無垢そうな外見に反して、その瞳は歪み、小さな桃色の唇は意地悪く弧を描いていた。そして偶然を装ってか、少年に寄り添うように近づいていく。
 そんな彼女のことをまったく知らないはずなのに、自然と〝チェルシーの妹のジェニファー〟だと理解できた。

『ごめんなさい、ネザー様。チェルシーお姉様が不快な思いをさせてしまって』
『いいんだよジェニファー嬢。ところで、今度よければうちに遊びに来ないか?』
『うふふ……是非』
『見せたいものがあるんだ』
『まぁ、嬉しい! 楽しみですわ』
『チェルシー嬢も、君を見習って少しは楽しそうにしてくれたらいいのに』

 一人ポツリと立ち尽くしているチェルシーに近寄ってくるのは、ダークブラウンの髪と薄い紫色の瞳の、背が高く眼鏡をかけた青年だった。どうやらこの青年は〝チェルシーの兄のダミアン〟のようだ。がっかりしたとでもいうように顔を歪めた後、チェルシーを見て嘲笑あざわらうように呟く。

『まぁ、こうなることはわかっていたさ』
『ダミアン、お兄様……?』
『どうしてこんな簡単なことができないのか……令嬢として出来損ないにもほどがある』
『……っ』
『いつも俺がアドバイスをしてやっているのに、それを何も生かせない。いつまでたってもジェニファーの足元にも及ばない』
『ぁ……』
『ジェニファーがそんなお前のために選んだドレスも令息も、すべて無駄だったな。だからやめておけと言ったんだ』

 その言葉に自分まで胸がえぐられたように痛くなる。何故かチェルシーの思考や感情が流れ込んできているのだ。
 しかしチェルシーはギュッと唇を噛んで、何も言い返すことはなかった。震える手を握りながら、重たくなった足を引きずって歩き出す。
 扉を開くとそこにはチェルシーの〝両親〟がいた。笑って話していた二人はチェルシーを見た途端、氷のような冷たい視線を向ける。チェルシーの指先が冷たくなって動かなくなっていく。

『その顔はまたダメだったのか。どうなんだ、チェルシー』
『お父様、お母様……ごめん、なさい』
『はぁ……もう何回目だったかしら?』
『今回はなんて言われたんだ?』
『どうせ暗いとか愛想がないとかでしょう?』

 両親から投げかけられる言葉はチェルシーの心に大きな傷を残していく。けれどチェルシーは、そんな両親に認められたくて一生懸命頑張ったつもりだった。
 笑顔も作ったし、相手の話も聞くように努力した。なのに何故か公爵令息のネザーはチェルシーを、初めからダメだと決めつけていたのだ。震える腕を押さえながらチェルシーは口を開く。

『頑張ったんですけど、うまく……いかなくてっ』
『まったく……令息から声を掛けられないというから、ジェニファーがわざわざ動いて、素晴らしい令息を連れてきてくれたというのに!』
『あなたはそんなジェニファーの優しさにすら、答えられないというの!?』
『ご、めんなさい……』

 何度も何度も吐きかけられる暴言に、チェルシーはひたすら謝ることしかできなかった。懸命に泣くのを堪えていたが我慢できずに涙が頬を伝う。
 その表情を見た両親は溜め息をついて「またか」と吐き捨てるように言った。
 そして先ほどの公爵令息を門まで送っていたはずのジェニファーが、いつのまにかチェルシーの隣に立っていた。その姿は堂々としており、チェルシーにはジェニファーが輝いて見えた。可愛らしく微笑んでいたジェニファーが唇を歪めて、チェルシーを馬鹿にするように耳元で呟く。

『チェルシーお姉様ったら、本当に何をやってもダメなのね。鈍臭どんくさくて見ていられないわ』
『ぁ……』

 チェルシーはその言葉に目を見開いた。するとジェニファーは両親の元に移動すると、悲しそうな顔で口元を手で押さえる。

『あの令息は人脈が広いし、とっても喋りやすいのよ? 折角チェルシーお姉様のために来ていただいたのに申し訳ないわ』
『ああ、ジェニファー……すまないな』
『いいのですわ。少しでもお父様とお母様の役に立ちたかったの』
『ありがとう、ジェニファー』
『さすがだわ。あなたは自慢の娘よ』
『うふふ、わたくしもお父様とお母様が大好きですわ』

 チェルシーは黙ってそのやりとりを聞いていた。羨ましいと思いながらもうつむくことしかできない。

『そんな性格だから婚約者もできないのよ。王太子のバレンティノ殿下とお近づきになりたいだなんて……夢のまた夢ね』

 ジェニファーのその言葉にチェルシーは呆然とした。それはチェルシー本人しか知らない秘密だったからだ。今まで誰にも言ったことがないのに、それをジェニファーが知っていることが怖かった。
 チェルシー以外、誰も知らないはずの記憶が流れ込んでくる。
 バレンティノはレバレンジェ王国の王太子だ。
 ミルクティー色の癖のある髪にピンクダイアモンドのような瞳、自信にあふれる立ち振る舞いは、チェルシーにとってキラキラと輝いて見えた。
 幼い頃はよく父の仕事についていき、彼とも親しく話していたが、いつの間にか遠い存在になった。そこからは自分にどんどん自信がなくなってしまい、そのうち両親に可愛がられるジェニファーが父についていくようになった。
 接点がなくなってからも、噂だけはよく聞いていた。いつも笑みを浮かべていて、人当たりがよく誰にでも優しいバレンティノは、端整な顔立ちをしていることもあって令嬢たちからは大人気だった。頭もよく、剣術の腕も素晴らしいそうだ。
 数年前に彼と温かい時間を過ごしたことがあった。王家主催のお茶会で、気分が悪くなったチェルシーが人のいない裏庭のベンチで休んでいた。
 どうしてジェニファーのように振る舞えないのか……また侯爵邸に帰ったら怒られてしまうかもしれないと落ち込んでいた時だった。

『大丈夫かい?』
『……!』
『確か、ルーナンド侯爵家のチェルシー嬢だよね?』
『は、はい!』

 名前を呼ばれ、驚いて顔を上げるとそこにはバレンティノの姿。チェルシーの心臓はドキドキと音を立てる。
 チェルシーの緊張をほぐすように、バレンティノは優しく語りかけてくれた。そんな心温まる気遣いと名前を覚えてもらっていたことが、涙が出そうなくらい嬉しかったことをよく覚えている。

『バレンティノ殿下、わたくしのような者が此処にいたために余計なお気遣いをいただいて、申し訳ございません』
『いいんだよ。僕も休憩したかったんだ』
『……はい』
『チェルシー嬢、君はもっと自信を持った方がいい。こんなに可愛らしいのだから』

 何気ない一言だったが、バレンティノに可愛らしいと言われて天にも昇る心地だった。そんな彼との夢のような時間はあっという間に過ぎていく。

『チェルシー嬢、楽しい時間をありがとう。また話そう』

 それ以来、顔を合わせた時は挨拶をかわすようになった。嬉しく思う反面、バレンティノにとって自分は数多いる令嬢たちの一人にすぎないとわかっていた。彼を見るたびに想いは膨らんでいくけれど、こんな自分が……そう思うと到底、好きだという気持ちは伝えられそうにない。
 チェルシーはバレンティノへの想いを心の奥底に仕舞い込んだ。そんな誰にも言っていない秘めた思いを何故ジェニファーが知っているのか。

『どうして……それを』

 目を見開いてチェルシーが問いかけると、ジェニファーはクスリと笑っている。

『ペンを借りようと思ってお姉様の部屋に行ったら、日記をたまたま見つけちゃったのよ。ふふっ、叶えられない夢ばかり書かれてて見ているこっちが恥ずかしかったわ』
『……ッ!』
『なんて冗談よ。チェルシーお姉様の気持ちが知れてとっても嬉しかったわ』

 チェルシーの顔が羞恥で赤くなっていく。ジェニファーは両親の前だからか、すぐに取りつくろうように言葉を付け足した。
 昔からジェニファーはそうだった。チェルシー以外の前では、か弱くて守られる存在を演じている。しかしチェルシーはそんなジェニファーの裏の顔を知っていた。

(なんで、こんな……ひどいわ!)

 日記にはチェルシーの密かな願望や夢がたくさん詰まっていた。それを馬鹿にするようなジェニファーの口ぶりに腹が立って仕方ない。けれど何も言い返すことができない自分自身が、一番嫌いだった。
 悔しくて悲しくて、涙があふれ出て止まらない。
 そんなジェニファーはハンカチを取り出すとチェルシーの頬をそっと拭う。優しい仕草とは裏腹に、耳元で囁かれるのはチェルシーの気持ちを更に絶望に突き落とす言葉だった。

『お姉様、邸のみんなから裏でなんて呼ばれているか知ってる?』
『え……?』
『〝ルーナンド侯爵家のお荷物〟。あとは〝出来損ない令嬢〟ですって』
『……!』
『少しは自分の将来について考えてみたら? 出来損ない令嬢さん』

 それを聞いて、チェルシーは羞恥心と悔しさから息ができなくなりそうだった。そして水に沈んでいくように意識が落ちていくような気がした。
 涙を流し青ざめた顔でフラフラと廊下を歩いていると、道が開けていくのと同時にクスクスと囁くような笑い声が聞こえてきた。それはジェニファーのそばにいて、いつもチェルシーを馬鹿にしてくる侍女たちのものだ。
 部屋の中に入って後ろ手で扉を閉める。グラリと視界が歪んでベッドへと倒れ込むようにして顔を伏せた。
 チェルシーはシーツをグシャリと握りしめた後に、固く固く歯を食いしばっていた。
 心の声が届いてくる。

(どうして……わたしは誰にも愛されないの? なんで何もかもうまくいかないの。わたしの何がダメなの? 頑張っても認めてもらえないのはどうして?)

 精神的なものだけとは思えない苦しそうなチェルシーの様子にいてもたってもいられず、叫ぶ。
 ───ねぇ、大丈夫? しっかりして!

(苦しい……こんな自分が大嫌い。出来損ないなら消えてなくなっちゃえばいいのに)

 ───よくわからないけど、大丈夫だよ! もうっ! なんでアタシの声が届いてないの!?

(わたしはどう頑張ればいいの? 誰か助けて……お願いっ)

 ───助けるよ! 助けるから、早くこっちに手を伸ばして。あんな奴ら、アタシがぶっ飛ばしてあげるから!
 今にも消えてしまいそうな少女に手を伸ばした。涙をいっぱいに溜めた少女の紫色の瞳と目が合って彼女も手を伸ばしてくる。二人の指が触れた瞬間、辺りがまばゆい光に包まれた。


   * * *


「もう、なにぃ……? すっごい変な夢見たんですけど」

 キララが目を開くと、そこには見慣れない景色が広がっていた。何故か西洋風の部屋の中にいるようだが、訳がわからずに首をかしげる。

(あれ、アタシ……確か電車に乗ってたはずだよね。もしかして寝てる間に乗り過ごしちゃった系?)

 とりあえず、ここがどこか確認するために重たい体を起こす。ボヤけたままの視界が気になり目をこすった。

(やばー! なんか、つけまとカラコンが変な感じするんだけど。てか、バッグどこだよ)

 場所の手がかりを探すことも忘れて、化粧が落ちていないか心配になり、キョロキョロと辺りを見回す。豪華な金縁の鏡を見つけて飛び込むようにして鏡の前に行く。
 ───そこに映る人物に目を見開いた。

「はあぁあぁぁ……!? 何これ、意味わかんないっ」
「お嬢様?」
「そんなに大きな声を出してどうされましたか。お加減でも悪いのですか?」

 眉をひそめて部屋に入ってきたのはスカートの丈が長いメイド服を着た二人の少女だった。一人はベージュのおさげ髪にそばかすが可愛らしい少女、もう一人はミントグリーンの髪をポニーテールにしている吊り目の少女である。
 彼女たちが何者か気にするよりも『お嬢様』という聞き慣れない言葉がひっかかってしまい、思わず吹き出してしまう。

「ぶはっー! お嬢様って何それ、ウケるんですけど。んで、どこにお嬢様がいる感じ? アタシも見たいなぁ」
「……えっと、お嬢様は」
「お嬢様は?」
「あなたのことですけれども……」
「へ……?」

 メイド服を着た女の人の指差す先には、鏡に映っている先ほどの少女がいる。そして指の方向を辿たどると、明らかに〝自分〟を指しているではないか。

「……つまり、どういうこと?」
「あなたがお嬢様ですよ?」
「──はぁ!? アタシがお嬢様って、そんなわけないじゃん!」

 しかし、何を言っているのかと不思議そうにしている二人を見て、もう一度鏡を見ながら頬をペタペタと触ると、自分の肌に触れている感覚があり驚愕する。

(どういうこと? なんで外国人の子供になってるの!? 何で知らない子がアタシの前にいるのよ!)

 自分の手を上げてみると、同時に目の前の少女の手が上がる。そのことが理解できずに固まった。
 そのまま自分の手のひらを見れば、ギラギラのネイルをしているはずの長い爪がなくなり、綺麗に切り揃えられた美しい爪が視界に入って、また驚いてしまう。
 再び目を凝らして鏡を見れば紫色の瞳と目が合った。そしてオレンジ色の少し癖があるサラサラとした髪に触れる。最近、お気に入りの髪色に染めたばかりのはずなのに。

(あれれ? アタシの髪って金にピンクのメッシュだったよね。エクステもつけたばっかだし……今日のカラコン、紫じゃなくてグレーでしょ? おっかしいなぁ)

 顔を触りながら首をかしげるという後から思えばかなり器用な不思議がり方をしていたが、ある考えに辿たどり着く。

「ねぇ、そこのお姉さんたち。コレって何ていうテレビ番組のドッキリ企画?」
「え……?」
「もう演技はいいから、そろそろ元の場所に返してくんない? 今日さ、ラブちゃんと渋谷に行く予定なの。今度遅刻したら、タピオカミルクティーおごんなきゃいけないんだよねぇ」
「……!?」
「どこにカメラあんのー? てか子どもになって別人になる仕掛けとかマジでうけるんですけど」

 ケラケラ笑っていると、メイドたちは口をあんぐり開けてこちらを見ている。

「うわー! マジで誰だよ、勝手にメイク落としたの。メイクしてないじゃん。でも肌めっちゃ綺麗だねぇ……羨ましいんだけど。このオレンジの髪ってウィッグ? 超可愛いじゃん」
「……だッ」
「だ?」
「誰か……! お医者様を呼んでください」
「お嬢様が、チェルシーお嬢様が……!」
「意識を取り戻したら大変なことにっ」

 扉を開けて慌てて出て行くメイドたちの背を見送った。

「え、なになに? アタシ、なんかした?」

 スタッフを呼びに行ったのかと思い、椅子に座って待っていたがいつまでたっても戻ってこない。暇になり、もう一度鏡を見てプリクラ感覚でピースをする。
 そしてオレンジ色の髪を引っ張ってみると、頭皮が引かれている感覚があるのだ。

(ウィッグじゃなくて、生えてる……? いやいや、ありえないから。まさかね!)

 何度鏡に顔を近づけてみても作り物の感じがない。リアルな感覚に戸惑うばかりだ。数秒だけ考え込んで、ある結論に辿たどり着く。

「考えてもわかんないからいっか! てか、この子めちゃくちゃ可愛いじゃん~! お人形さんみたい」

 マイペースに頬を引き伸ばして遊んでいると、慌てて飛び込んできたのは、派手で重たそうなドレスを着た女性と王様のような格好をした男性だ。

「チェルシー、朝から一体何の騒ぎだっ! あの後、熱を出して倒れたかと思えば次から次に問題を起こしてっ」
「はぁ……?」
「数日前はジェニファーが対応したからよかったものの、今度は医者が必要だなんて、何を考えているのか説明しろ」
「ちょっと、何の話を……」
「これ以上、ダミアンやジェニファーの輝かしい未来を邪魔しないでちょうだい。恥をさらしてばかりで、私たちにも迷惑を掛けてどういうつもりなのかしら?」

 急に怒鳴られれば誰だって気分はよくないだろう。しかも『チェルシー』と呼ばれ一方的に吐きかけられる言葉が自分を責めているのだと何故だか認識してしまったから尚更だ。
 キララが反応しなかったからか、今度はメイドたちが怒鳴られ始める。

「それにお前たちがもっとしっかりとチェルシーのことを見ていればこんなことにはならなかったんだ!」
「も、申し訳ありません! ですが、お嬢様の様子がいつもと違ったので……」
「一度、医師に見せた方がいいと思うのです! よくわからないことばかり言いますし混乱されていて、もしかしたら記憶がっ」
「医師に診せる必要なんてないわ! この子が鈍臭どんくさいのも元からよ。変なことばかりして気を引こうとしているのでしょう?」
「ですが、本当にっ」
「いい加減にしろ! まったく侍女も使えないやつばかりだな」
「どうせ大したことないわ。今だってこんなに元気そうに鏡の前に座っているじゃない。こんなくだらないことでいちいち呼び出さないで」
「……っ」

 メイドたちを一方的に叱りつける男性と女性を見ながら口をポカンと開けていた。

(今、アタシが怒られてたはずなのに、どうして今度はメイドたちが怒られてんの? チェルシー……って、たぶん今のアタシと同じ見た目の子かな、その子を心配してただけよね?)

 先ほどまで心配そうにこちらを見ていたメイドたちは、二人の怒鳴り声に完全に萎縮いしゅくしてしまっている。

「お前たちがしっかりしていれば」
「これ以上いい加減なことをするなら辞めてちょうだい」

 何が理由で彼女たちが怒られているのかもわからないまま会話を聞いていたが、とにかく胸の中がモヤモヤしていた。
 様子をうかがっていると、涙ぐむメイドたちは唇を噛んでこちらを睨みつけている。彼女たちを助けなければと思い、手を伸ばしたのと同時にズキリと痛む頭を押さえた。
 ──チェルシー・ルーナンド。
 そんな名前が頭をぎった。控えめで大人しい性格の彼女は、いつも家族から冷遇されている。気が弱く控えめで自分に自信がない。兄に馬鹿にされても妹に好き放題されても、何も言い返すことができない。兄のダミアンは妹のジェニファーを溺愛して、チェルシーを毛嫌いしている。
 両親も愛嬌があり素直で明るいジェニファーに期待を寄せて可愛がっているようだ。チェルシーはいつも一人ぼっち。何も言い返せない弱い自分を嫌っている。心にあるのは疎外感と悲しみと苦しさだった。

(……なに、この記憶)

 頭の中に知らない情報が次々と流れ込んできて、すぐにすべて理解することはできそうにない。
 けれど、たった一つだけハッキリとわかったことがあった。
 自分が〝チェルシー・ルーナンド〟になってしまったということだ。
 しかしそれを素直に受け入れることができるはずもない。

(なんでアタシがチェルシーなの? コウシャクレイジョウって、コウシャクって何? キゾク、ジジョ、オウコク……なんか難しい言葉ばっかりで意味わかんないけど、コレやばいってことでしょ?)

 混乱している間に男女の怒りは再びキララ……いや、チェルシーにも向いた。

『迷惑を掛けるな』『何故ダミアンとジェニファーのようにできないんだ』『もう少し愛想よくできないのか?』

 チェルシーにかけられる言葉も辛辣しんらつなものばかりだった。混乱している最中、苛立ちをぶつけるかのように一緒に叱られる侍女たちを見て目を見開いた。
 目に涙をにじませながら頭を下げる侍女たちの恨みがこもった視線に肩を揺らす。断片的ではあるが二人と過ごした記憶が流れ込んでくる。パラパラと紙芝居をめくるように二人とのやりとりが頭に浮かぶ。

『チェルシーお嬢様がちゃんとしてくださらなければ私たちが叱られるんです!』
『お願いですから、しっかりとしてくださいっ』
『もう嫌……どうして旦那様と奥様に説明してくださらなかったのですか?』
『全部、お嬢様が何も言ってくれないせいですからねっ』

 ──ごめんなさい。二人を守れなくて
 そう思っていても気持ちに出ることはない。チェルシーは黙ってうつむいているだけだった。

(チェルシーは家族だけじゃなくて、このジジョたちにも嫌われてるっていうこと?)

 しかし、家族と違い、侍女たちに冷たい態度を取られている理由は理解できてしまった。おそらく、チェルシーが家族に問われても何も言わないせいで、チェルシーの近くにいる侍女までこうして理不尽に怒られ続けているのだ。それが今の態度や地味な嫌がらせに繋がっているらしい。
 しかし断片的な記憶によると、元々、チェルシーとこの侍女たちはとても仲がよかったようなのだ。チェルシーが萎縮いしゅくし侍女たちを守るべき場面でも動けなくなったことで徐々に関係が崩れていった。こうして両親がチェルシーと妹のジェニファーを比べるようになってからはますます悪化してしまう。チェルシーはこの二人に申し訳ないと思っていたようだが、それすらも口にしていないため、一切伝わっていない。


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