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1巻
1-1
しおりを挟む洋燈の灯りがぼんやりと照らし出すのは、豪奢な内装の部屋だった。
臙脂色の分厚い絨毯に同じ色の上質なカーテン。部屋の最奥にあるマホガニーの執務机は細かな細工が施されており、重厚な中にも優美さを感じさせるものであった。壁際には上から下までぎっしりと本が詰まった本棚が置かれている。
案内された応接用の長椅子はきっと高価なものなのだろう。艶やかな黒革はとても滑らかでよく手入れされており、座り心地の非常によいものだ。しかし、どうにも居心地が悪くて、ユーリスは何度も身じろぎしてしまう。
視線を彷徨わせるのはどこを見ていいのか分からないからだ。
部屋を照らしているのは、最近開発されたという魔法石を使った洋燈だろうか。あれはとても高価で流通も少ないけれど、燈油が不要で点火も自動で行える優れモノだと聞く。ここにあるということは、そのうち別館にも買い与えられるだろうか。
そんなどうでもいいことをひとしきり考えて、それからもう考えることがなくなってしまってから、ようやく執務机に座っている人物をちらりと見た。
癖のない栗色の髪に深い紫の瞳。涼やかな目を伏せて、男は手元の書類を黙々と片づけていく。男は、未だに王国騎士団の騎士服を身に着けていた。さすがにペリースは外していたし帯剣はしていなかったが、先ほど帰宅したばかりであるのだと察することが出来る堅苦しい格好である。
――こんな夜半まで、仕事をしているのか。
身体を壊しはしないか、きちんと休めているのか。
彼の整った顔立ちが一か月前に見たときよりも少しやつれているように見えて、様々な心配が胸に去来する。けれど、決してそれを口にすることは出来なかった。
騎士にしては繊細な印象を受ける指先が、はらりと最後の書類を捲った。それから確認済みの全ての書類をまとめて、その人物――ユーリスの夫ギルベルト・ユルゲン・フォン・ローゼンシュタインはようやく顔を上げる。
「夜遅くお呼びたてした上に、お待たせして申し訳ありません。……寒くありませんか」
「あ、いえ。大丈夫です」
玲瓏とした声でそう問われて、ユーリスは着ていたガウンの襟を慌てて合わせた。
もう休もうと思っていたところを突然呼び出されたのだ。薄い夜着にガウンを羽織っただけの格好を見咎められたような気がして、つい背中を丸めるように俯いてしまう。
久しぶりにギルベルトと顔を合わせるのに、こんな格好で来てしまったことを後悔した。
きちんと着替えてきた方がよかったのだろうか。けれど、ユーリスを呼びに来た家令は何も指摘しなかった。それに、急用だと言っていたから、少しでも早く足を運んだ方がいいと思ったのだ。
頭の中で言い訳をしていると、ギルベルトが口を開く。穏やかではあるが、なんの感情も読み取れない平坦な声音はいつだって変わらない。
「ミハエルは、もう休みましたか」
「はい」
数刻前に。
それだけ言って、ユーリスはまた口を閉じた。
ミハエルは、二歳になるユーリスとギルベルトの一人息子だ。ローゼンシュタイン家の嫡子として生まれ、今もそう育てられている。
最近、お喋りが上手になってきたんです。体力もついて、とっても早く走れるようになりました。まだ字は書けませんが、お絵描きは好きなんですよ。
滅多に顔を合わせないギルベルトに、息子の最近の様子を話そうとして、けれど出来なかった。
興味がないと言われてしまったら、数日は立ち直れない気がしたからだ。
多忙な彼に、執務以外のことを話しかける勇気などなくて、ユーリスは膝の上に揃えた両手を強く握りしめる。ギルベルト自身も息子のことなどすぐに興味をなくしたのか、それ以上の質問はせず、持っていた一枚の書類を熱心に読み込んでいた。
彼の視線が何度も書類の上を往復する。それから微かに眉根を寄せて、ギルベルトはようやくそばに控えていた家令にその書類を手渡した。家令は主人に軽く会釈して、ユーリスの方にゆっくりと歩を進める、そして丁寧な動作でその書類を差し出した。
読め、ということなのだろう。そう解釈して、ユーリスはその書類を受け取った。それはひどく上質な羊皮紙であった。
丸められた羊皮紙に記されていたのは流麗な文字と、星を抱えた獅子の紋章が押された封蝋。そして、それらをまとめる金色のリボン。
その紋章と金色のリボンは、ユーリスには相当な衝撃を与えるものであった。
「先日、王太子殿下の婚約者に変更があったことはご存じですか」
「……はい。今日の昼、王宮のお茶会に行っていたので」
そこで聞きました、と答えると、ギルベルトは小さく頷く。
「昼間、茶会で少々騒ぎがあったようですが、大事なかったですか」
問われて、ユーリスは驚いた。自分があの茶会に出席していたことをギルベルトが知っているとは思わなかったからだ。
けれども、ギルベルトはあの茶会の警護をしていたのだ。優秀な近衛騎士である彼が、片隅とはいえ会場で起こった出来事を把握していないはずがなかった。
会場の末席にそっと座っていたユーリスと国王の傍近くに控えていたギルベルトでは、物理的にも立場的にも大きな距離があった。
長身の美貌は遠目からでもよく映えていたが、声をかけることは叶わなかったし、そもそも職務中の夫に気軽に近づけるほど気安い関係ではない。だからこそ、ギルベルトに気づかれないようにそっと会場を後にしたはずだったのだけれど。
その後、ユーリスが巻き込まれた騒動のせいで、迷惑をかけてしまったのだろうか。
ひどく申し訳ない気持ちになり、ユーリスは持っていた羊皮紙の封蝋に視線を滑らせる。紫の瞳を直視することが怖かった。
それでも彼はユーリスの身を案じてくれた。そこに心が伴わず、形だけの心配だったとしても嬉しく感じてしまうのは、ユーリスがギルベルトに対して抱えている想いの深さ故だろうか。
滲み出す嬉しさを極力押し殺して、ユーリスは視線を外したままゆっくりと微笑んだ。
「はい。私はオメガですので、特に何事もなく」
「そうですか」
そう言ったきりギルベルトは口を噤んだ。そして何かを考えるように組んだ手に顎をのせて、ゆっくりと目を瞑る。
そんな少し疲れたような仕草ですら、ギルベルトが行えばとてつもなく美しい。彼の瞳が隠れたのをいいことに、ユーリスは顔を上げる。
髪と同じ栗色の睫毛が、陶器のような頬に濃い影を落としていた。その作り物めいた美しさに見惚れていると、不意にギルベルトがこちらを見た。アメジストよりも透き通った紫がユーリスを捉えて、ついびくりと肩を揺らしてしまう。
「騒ぎを収めていただいたことに、王国騎士団から感謝を。国王夫妻も詳細をお聞きになり、あなたのことを高く評価しておいででした」
そっと息を吐きながら、ギルベルトは言う。国王夫妻という単語にユーリスは驚いたが、薄く形のいい唇から続いた内容にさらに驚いた。
「その件も考慮された上で、王家からの勅命が来ています。ユーリス・ヨルク・ローゼンシュタイン、王太子の婚約者であるアデル・ヴァイツェン殿の教育係にあなたを任命いたします」
王太子の婚約者の、教育係――
正直、すぐには理解が出来なかった。しかし、ギルベルトの発した言葉は、慌てて開いた手元の書類にも同じように記されている。
何故、よりにもよって自分なのか。他にも大勢適任者はいるだろうに、どうして。
そんな様々な思いが一瞬のうちに浮かんでは、消えていく。
けれど、その勅命の内容にどれほど混乱したとしても、それがどれほど不条理だと思っても、一介の貴族にすぎないユーリスに許された言葉など、ひとつしかない。
星を持った獅子の紋章は、ここシュテルンリヒト王国の王家の紋章だ。それも夜会や茶会の招待に頻繁に使用される王族個人のものではなく、国家としての勅命を貴族に与えるときに使用される公のもの。
それを与えられた貴族に選択権など存在しないのだ。
視線を上げて、ユーリスはギルベルトを見た。
そこには整った顔のまま、こちらを見つめるギルベルトがいる。彼も理解しているのだろう。最初から決められた、ユーリスの返事を何も言わずに待っている。
「……謹んで、拝命いたします」
震える声でそう言って、ユーリスは恭しく頭を下げた。
* * *
――ルードヴィヒ・クライス・シュテルンリヒト王太子殿下の婚約者殿が変わったらしい。
そんな噂を聞いたのは、昼に出席した王妃主催のお茶会の席でのことだった。
招待された茶会や夜会のほとんどを断るユーリスであるが、年に数度どうしても断れない相手からの招待というのがある。その「相手」のひとりが王妃殿下で、本日のお茶会の主催者であった。
この茶会は春の到来を祝う会で、毎年この時期に王宮の庭園を開放して大々的に行われるものだ。整えられた庭園には、春を待ちわびていたであろう様々な花が思い思いに咲き乱れていた。
そんな花園の中で、色とりどりのドレスを着た貴婦人たちが振舞われたお茶をゆったりと楽しむのだ。まるで蝶か花かというほどの煌びやかな色の渦に混ざって、ユーリスは話しかけられるままにひたすら相槌をうっていた。
久しぶりに袖を通したペールグレーのフロックコートは上品で、ユーリスの亜麻色の髪と緑色の瞳によく似合っている。ほっそりとした首を飾る首環を隠すように巻かれた濃紺のリボンタイも質はいいものだが、この中にあっては少々地味すぎたかもしれない。
けれど、派手に着飾って悪目立ちするよりはマシだろう。そう思い直して、ユーリスは周囲のご婦人たちに愛想笑いを返した。
貴族という人間は、礼儀や作法にはひどくうるさいのに噂話は大好きだ。聞いてもいないのに、王太子と元婚約者の公爵令息との確執や新たに婚約者となった平民の青年の為人をユーリスに教えてくれた。
――なんでも、シュテルンリヒト魔法学園の卒業祝賀会で婚約破棄を言い渡されたとか。
――新しい婚約者様は学園の特待生で、平民出身のオメガだそうですね。
――まぁ、オメガ。さすがアルファを誑かすことにかけては一流ですのね。
――あら、でもリリエル・ザシャ・ヴァイスリヒト公爵令息だってオメガだったのでしょう。
くすくすと広がっていく嘲笑は、まるでさざ波のようだった。
自分たちよりもずっと身分が高い王太子や公爵令息の醜聞が、今の彼女たちの一番のお気に入りの話題らしい。延々と聞かされる下世話な流言に、やはり来なければよかったかな、と後悔してユーリスが席を立とうとしたときだ。
――同じオメガとして、伯爵夫人はどう思われます?
そう見知らぬ貴婦人から声をかけられた。
日差しを遮るための白い帽子に大きな羽のついた婦人だ。赤く彩られた唇を扇子で隠して、優雅に微笑んでいた。
それになんと答えていいか迷っていると、その隣にいた別の貴婦人がさらに笑って問いかけてくる。
――オメガとアルファといえども、上手くいくとは限らないのですね。ローゼンシュタイン伯爵夫人は、今日もおひとりでいらしたのでしょう?
こちらは薄紅色の日傘をさしていた。大きなリボンがついたそれを右手で持って、左手には先ほどの夫人と同じように扇子を持っている。
レースの手袋をはめた彼女を見て、ユーリスはそれでどうやってお茶を飲むのだろうか、なんてどうでもいいことを考えた。
ユーリス相手に礼儀を取り繕う必要はないとでも思っているのだろう。彼女たちは上品に見えて、ひどく無作法だった。やっていることは貴族のマナーとしては最低で、もしユーリスが評価をするのならば、絶対に『不可』を与える行為だ。
そんな無作法な相手にユーリスは、夫はあちらにおりますよ、と護衛騎士の面々を指さすことでやり過ごす。すると、何がおかしいのか、彼女たちはすかさずころころと鈴が転がるような声で笑う。
婦人たちの意図はとても分かりやすかった。冷たく微笑む彼女たちの後ろには年頃の少女たちが数人控えていて、興味津々にユーリスを見ていたからだ。おそらく、ご婦人たちの娘たちなのだろう。
少女たちは婦人とユーリスの会話に聞き耳を立てては笑い合う。それから時折、周囲に佇む騎士たちに視線をやって、きゃあ、と黄色い歓声を上げた。
貴族たちの間で自分と夫がいつ離婚するのか、と噂されていることは知っている。夫がこの国でも指折りの将来有望な騎士であることも。
早い話がこのご婦人と少女たちの関心事は、その将来有望なアルファの騎士がいつ独身に戻るか、ということなのだ。
ひどく礼儀知らずなそれらの問いを当たり障りのない笑顔で流して、ユーリスは早々に茶会を後にしようとした。件の騒動に巻き込まれたのは、そのときである。
茶会の会場となった庭園は、王族の住まう私的な宮殿内にあった。人が多く出入りする行政機関を有する区画とは少々距離があり、賑やかな王宮内にあってあたりには閑静な空気が漂っている。
そんな庭園の片隅、ちょうど庭園の中央に控える騎士たちからは死角になるであろう植木の陰に、その人影はあった。
それは年若い男だった。一見すると少年にも見えるその青年に、ユーリスは特に違和感は覚えなかった。青年が身に纏っていたのが、下級文官の制服だったからだ。
下級文官は行政局に所属する文官の中でも最も位の低い官吏で、その業務は多岐にわたる。つまり、彼らは王宮内の色んな場所で様々な仕事をしているのだ。
故に下級文官が王族所有の庭園にいることは珍しいことでもなく、見咎められるようなものではない。事実、青年は何やら書類らしきものを手にしていたし、そもそも宮殿への通行証を持っていたからこそ、警備の騎士たちに問いただされずここまで入れたのだろう。
ユーリスが青年の様子がおかしいことに気づけたのは、本当にたまたまだった。
何気なく目で追った彼は、不安定な足取りで苦しげに庭木の中を進んでいく。遠目でも分かるほどふらついていて、ひどく体調が悪そうだった。だからこそユーリスは、声をかけようと彼の後を追ったのだ。
けれど、そうではないことは少し近づいただけですぐに分かった。
上気した顔と荒い息。青年の大きな目は熱に浮かされたように潤んでいて、どこか恍惚とした色を湛えている。ユーリスには分からないけれど、きっとこのあたりにはむせ返るほどの甘い香りが漂っていることだろう。
それはオメガの発情だった。
文官の青年は細い首にがっちりとした革の首環を着けていた。ユーリス自身も結婚するまでは着けていたその頑丈な首環は、番のいないオメガが着けることを義務付けられているものだ。
――番がいないオメガが、こんな公の場で発情しているだなんて。
その事実に気づき、ユーリスは顔を青褪めさせる。
オメガのフェロモンは不特定多数のアルファを誘惑し、その理性を乱すのだ。
まだ距離があるとはいえ、茶会の会場には国王夫妻の護衛のために多くの騎士たちが控えている。王のそば近く侍る近衛騎士は、数多の試験を経て選び抜かれた者だけが叙任されるものだ。誰よりも優秀で誇り高い彼らは、その多くがアルファだった。
このまま彼がここにいては、非常にまずいことになる。ユーリスがそう思ったとき、青年の痩躯が大きく傾いた。
「だ、大丈夫ですか⁉」
思わず駆け寄ったユーリスに、青年はひどく億劫そうに顔を上げた。ふらつく足がもつれて、そのままふたりで地面に倒れ込む。その細い身体は予想通り、燻る熱に支配されているようだった。
「……だいじょうぶ、です」
どこからどう見ても大丈夫ではないだろうに、青年はか細い声でそう答えた。ユーリスに縋る手は震えて、吐く息はひどく熱い。その様子は発情期か、と問うまでもないものだった。
「抑制剤は――」
青年の上着を探ろうと手を這わせると、それだけで強い刺激になるのだろう。顔を真っ赤にした青年は大きく震えて、力なく首を横に振る。
「持って、いなくて」
「持っていない?」
そんなはずはない、とユーリスは思った。
王宮で働くオメガたちは、発情抑制薬の服用と携帯が定められている。
抑制剤は魔法薬の一種だからとても高価ではあるが、国から必要量が支給されるため、どんなオメガでも王宮に出仕している以上、抑制剤を持っていないなどありえないことだった。
――それを持っていないだなんて。
訝しむユーリスの視線に気づいたのだろう。青年はぼろぼろと涙を流しながら、隠されてしまって、と呟いた。
嗚咽交じりに話す青年の話は、ユーリスにとって心が痛む内容だった。
なんでも彼は、同じ部署の同僚からひどい嫌がらせを受けているのだという。抑制剤を隠されることは日常茶飯事で、その上でアルファの大勢いる場所での仕事を押し付けられるのだ、と彼は言った。
番のいないオメガにとって、同じく番のいないアルファは本能的に恐ろしいものだ。
オメガの発情にはある程度の周期があるが、それは外的要因によって容易に覆されることがある。――つまり、番のいないオメガはアルファのフェロモンで発情を誘発される可能性に常に怯えているのだ。
それなのに、抑制剤のない無防備な状態でアルファのもとに行かせるなど、ユーリスは言いようのない怒りとともに深い悲しみを覚えた。
いつアルファに襲われるか分からない恐怖と発情による情欲で震える背中を、ユーリスは出来るだけ刺激しないようにゆっくりと撫でた。
オメガの出仕が許されてからずいぶん経ったとはいえ、王宮には依然としてオメガは不要である、という空気がある。王宮で働くオメガたちは多かれ少なかれ、そういった雰囲気の中で働くしかないというのが現状だった。
とはいえ、抑制剤を隠すという行為は明らかにやりすぎだった。
彼だけではなく、周囲にいるアルファたちも巻き込んでしまう危険があるからだ。
現に、今この青年は明らかに発情期を迎えていた。行きあったのが同じオメガのユーリスであったため、彼のフェロモンを感じることはなかったが、これが護衛騎士たちであったならば取り返しのつかない事態になっていたかもしれないのだ。
「医務室に行きましょう」
番のいるユーリスは、発情抑制剤を携帯していなかった。
背中で青年の身体を支えるようにして、ゆっくりと立ち上がる。今にも爆発しそうな情欲に耐えている青年は、苦しげな息を吐いて自嘲気味に呟いた。
「本当に大丈夫ですから、もう、放っておいてください」
どうせ自分なんて、と言った彼の精神は不安定で今にも崩れてしまいそうだった。当然、ユーリスに彼を放っておけるはずがない。
「このまま、ここにいるのは危険です」
青年が分かり切っているだろうことを敢えて言うと、それでもいいのだ、と青年は返した。
「どうせ、私は顔も知らないアルファの妾になるんです……だったら、ここで無理やり犯されたって何も変わりません」
「そんなことは……」
ない、とは言い切れないところが、この国で生きるオメガの現実だった。そのことを誰よりもよく知っているユーリスは、青年の言葉を否定することが出来なかった。
けれど、それでも――
「自分のことを大切にしてください。いつかあなたの愛するアルファが心を痛めないでいいように。政略結婚でも、きっと相手を心から愛せるようになります」
それはユーリスにとっても祈りのような言葉だった。
ユーリスは結婚してからずっと、それを願っているのだ。
いつか、ギルベルトが自分を愛してくれる日が来るのを、ずっと願っている。
そこに自分たちの意思のない政略結婚だとしても、ともに長い時間を過ごすことでふたりの間に「愛」や「情」と呼ばれるものが芽生えることを。
それが家族愛のようなものでも構わない。自分がギルベルトを想うように、想いを返してもらえなくてもいいから。少しでも彼の心に居場所が欲しかった。
自分で言っていて、なんとも滑稽なことだ、とユーリスは思った。それでも口にせずにはいられなかった言葉を聞いて、青年はどう思ったのだろうか。
発情で力が入らないであろう彼を背負って、ユーリスは医務室を目指した。小柄で細身なユーリスではあるが、それでも一応は成人した男である。同じような体格のオメガの青年ひとりならば、運ぶことくらいは出来た。
医務室で医務官に彼を引き渡したとき、ユーリスは名前を名乗らなかった。
偉そうに説教をしてくる相手が、夫夫仲が不仲で有名なオメガだと青年に気づかれたくなかったからだ。――にもかかわらず、ギルベルトにまで話が伝わっていることには少し驚いたが、ひょっとしたらアルファの騎士たちは、事態に気づきながらもオメガの凶悪なフェロモンのせいで近寄ることが出来なかったのかもしれない。
* * *
この世界には、六つの性がある。
見た目で分かる男女の性と、二次性と言われる三つの性。それらを掛け合わせて合計六つの性だ。
三つの性はアルファ、ベータ、オメガの三種類あり、それぞれの割合や特性は大きく異なっていた。
ユーリスの住まうシュテルンリヒト王国に一番多いのはベータで、彼らは国民の九割以上を占める。ベータの人々は一次性である男女の区別以外の特性を持たず、二次性に振り回されることはない。
その次に多いのがアルファ。アルファは優秀な能力を持つ者が多く、王国騎士団や王宮魔法使いのほとんどがアルファであるという。国民の一割に満たない彼らは、しかしその優秀さによってこの国を支えてきた人材と言えるだろう。
そして最も少ないのがユーリスたちオメガである。
希少なアルファよりもさらに希少。けれど、どれほど希少でも自らがオメガであると言われて喜ぶ者はいないだろう。ユーリスだって、自らの二次性が発覚したときは著しく悩んだものだ。
庭園での出来事でも分かるように、この国におけるオメガの社会的な地位はひどく低かった。
貴族であっても家族や周囲の者たちに疎まれ、嫌厭されるのが当たり前で、平民であればまともに生活を送ることすら難しい。その理由はオメガにのみ存在するとある特性のせいだった。――オメガには、発情期があるのである。
性的に成熟したオメガには、通常二、三か月に一度発情期がやってくる。
期間は個人差や外的要因で変化することも大きく一概には言えないが、だいたい三日から十日ほど。この期間のオメガは発情による性的興奮のため、まともな生活が送れなくなるのだ。
どれほどの人格者でも、どれほど優秀な人物でも発情期の期間は人が変わったようにアルファの精を求める。それだけでも十分生きづらいというのに、シュテルンリヒトの守り神である星女神はオメガにもうひとつ、発情期にまつわる大きな特徴をお与えになったのだ――それこそがオメガが最も忌避される要因になっているフェロモンである。
発情期のオメガはアルファを誘惑するフェロモンを放つ。それはアルファの理性を容易く溶かし、本人の意思を無視して強制的に興奮状態にしてしまうとんでもない代物だった。
優秀なアルファを誘惑し、無理やり性交に及ぼうとする者たち。――それがこの世界のオメガに与えられた評価で、どれほど個人が努力しようと覆ることのない現実であった。
ユーリス・ヨルク・ローゼンシュタイン伯爵夫人はオメガである。
優秀なローゼンシュタイン伯爵をフェロモンで誘惑して、無理やり結婚したのだろう。だから夫夫仲はよろしくなくて、伯爵は夫人を嫌っているのだ。
そう口さがない人々に噂されるのは慣れている。しかし、それも仕方のないことだとは思う。ユーリスとて、自分と夫が仲睦まじい夫夫であるとは決して思わないからだ。
結婚してからのこの三年間、夫であるギルベルトと顔を合わせたのはおそらく両手の指では少し足りない程度。三か月に一度の発情期のときのみだった。
ユーリスに与えられているのはローゼンシュタイン伯爵邸の最も奥にある小さな別館で、特別な理由がなければ本館に立ち入ることは許可されていない。本館で暮らす夫はユーリスの発情期でもなければ別館には足を運ばないから、普段はすれ違うことすらない生活を送っている。
ギルベルトは王国騎士団に所属する近衛騎士だ。その仕事内容は多忙を極め、昼間の茶会だって主催である国王夫妻の近くに護衛として控えていた。
誘われる夜会は仕事を理由にことごとく断っている様子で、一度だって同伴を求められたことはない。どうしても断れないものにはどうやらひとりで行っているらしいと見知らぬ他人から教えられて、倒れそうなほど衝撃を受けたのはまだ結婚生活に希望を捨てられなかった新婚の頃だった気がする。
だから、社交界で自分たちが不仲であると噂されるのは理解出来る。
ギルベルトは騎士候補生だったときから美しく優秀なアルファだったのだ。
つまり、良くも悪くも若い頃からとても目立つ存在で、多くの独身女性たちが彼の関心を引こうと努力していたのをユーリスは知っている。
そんなギルベルトがよりにもよってオメガのユーリスと結婚してしまったのだ。三年前の社交界には大きな衝撃が走ったらしい。
けれど、不仲とはどの程度から言うのだろうか、とも思う。
浮気をしたり、お互いの存在を無視したりすることだろうか。それとも暴力を振るわれたりすることだろうか。
そうであるならば、自分たちは決して不仲ではないはずだ。
夫であるギルベルトは生真面目すぎるほどに品行方正な男で、ユーリスと婚姻関係にあるうちは決して浮気はしないだろう。滅多に顔を合わせない自分たちであるが、用があるとユーリスが声をかけたときはきちんと時間をとって対応してくれるし、暴力だって振るわれたことはない。三か月ごとの発情期には必ずやってきて、その熱を発散することを手伝ってくれるし、衣食住だって贅沢すぎるほどに保証してくれている。
その上、ギルベルトはユーリスを自らの番にしてくれた。それはオメガの地位が著しく低いシュテルンリヒト王国では、ひどく珍しいことなのだ。
貴族に生まれたオメガは、必ず貴族のアルファと婚姻関係を結ぶ。しかし、そこには「番」というお互いを無二の存在とする関係性は存在せず、ただ家と家を結ぶための道具として、もしくは子を残すための器としてのみの役割が求められる。
裕福な高位貴族に至っては、本妻が別にいて妾として扱われることだって珍しくはない。
ユーリスも当然、自分も将来そうなるのだと思っていた。
けれど、ギルベルトはユーリスと番関係を結んだ上に、本妻として――ローゼンシュタイン伯爵夫人として扱ってくれる。
滅多に顔を合わせず、夜会にだって同伴しない。結婚して以来、笑ったところは見たことがないし、会話が弾んだためしもない。――けれどもそれだけで、不仲だと言っていいのだろうか。
そこには確かにギルベルトからの誠意があるように思えるのだ。
だからこそ、ユーリスは彼との関係を諦めきれないのだけれど、だからといってギルベルトに嫌われていないか、と問われれば、それには少し自信がなかった。ユーリスとしては嫌われている自覚があるわけではないが、自分たちの日々の生活を考えるとどう考えても好かれているとは思えないからだ。
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「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」
「そんな!リカルド酷い!」
マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している
この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ
タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」
「まってくれタバサ!誤解なんだ」
リカルドを置いて、タバサは席を立った
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