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1巻
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王都より南方へ、馬で三日ほどかかる土地一帯を治めるハプスグラネダ伯爵家の朝は、優雅な小鳥の囀りではじまる――などと言ったことはなく。
「コォケコッコォォォォー!」
暦の上では春を迎えても未だ冬の気配を残して凛とする空気を引き裂くような鶏の鳴き声を受け、アリシアはゆっくりと榛色の目を開けた。
身体を包む掛け布は薄手で何の飾り気もないけれど、肌触りはこれ以上ないほど滑らかな絹で、中には良質な水鳥の羽毛をたくさん詰めている。雛を守る母鳥にも似た柔らかさに包まれる中、何度も瞬きを繰り返して薄暗い周辺に目を慣らして行った。
今日も目覚め自体は悪くない。
やがて見慣れた部屋の風景が確かな形を持って見えはじめて来ると、両腕を大きく伸ばしてひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
今度は静かに吐き出しながら身体の内側から目を覚まし、ようやく上半身を起こす。自らの体温を含んで心地よい暖かさを帯びた寝具への未練を断ち切るよう、軽く首を左右に振ってベッドから出る。横に置いてあるお気に入りの靴を履き、大きく息を吐いた。
「さ、今日も一日頑張らなくちゃ」
アリシアは独り言ち、また伸びをする。
素朴なワンピースに着替え、寝ている間にほつれた三つ編みを緩く編み直した。それから南側に面した大きな窓に向かうと白いカーテンを勢いよく引き、窓を開け放つ。
さすがに雄鶏が朝を告げる時間帯だけあって、外の景色はまだほのかな夜色に染まっている。東の空には太陽が昇りはじめているのが見えた。この様子なら今日も良い天気になりそうだ。
身体が冷え切ってしまう前に窓を閉め、頬を軽くはたいて自らに気合いを入れる。
出掛ける前に布団を干して行こう。
そんなことを考えながら部屋を出た。
一階に降りると寝起きの身体でも食欲を刺激される良い匂いが漂って来る。
焼きたてのパンの香ばしい香りと、トマトを中心に野菜をハーブで煮込んでいる香りだ。
「おはようアリシア。今日も早いわね」
誘われるままキッチンへ行けば、一人で朝食の準備をしていた母がアリシアの姿に気がついた。
「おはよう、お母さん」
朝の陽ざしさながらに明るい笑顔で声をかけられ、アリシアも笑みを浮かべて挨拶を返す。テーブルの上に置かれた水差しとグラスを取って水を注いで口をつけると、その冷たさに身体の中から目が覚めて行くようだった。
「やっと花が咲いたし、実が生るのが待ち遠しくって」
「頑張るのはいいけど無理はしすぎないようにね」
「うん」
アリシアは今、庭の隅に建てられた小さな温室で苺を育てている。早起きをしているのも苺の世話をする為だ。
温室ではかつて、三歳年上の兄がトマトを植えていた。それを手狭になったからと譲り受け、トマトの代わりに苺の苗を植えたのはアリシアが高等学部に上がる前だ。
好きな作物を好きなように育ててみるという、自給自足を尊ぶハプスグラネダ家ならではの教育方針である。
基本的には自分の力だけで試行錯誤しながら育てている苺も、早いもので今年でもう四年目だ。数日前にやっと白く可愛らしい花が咲きはじめたばかりで、今のところは何の問題も見当たらない。今回も順調に成長しているようだった。
そして苺の栽培をするにあたって、これまでより二時間ほど早起きするようになったアリシアを、母は毎朝心配している。
とは言え起こしに来たことは未だに一度もないから、早起き自体に関しては信用してくれているらしい。
「お母さん今年は苺のタルトが食べたいわ」
「あ、いいな! 私も食べたい!」
料理の手を止めないままに出された母の提案にアリシアは頷いた。
大粒で甘酸っぱい自慢の苺をぎっしりと並べたタルトは、どう考えたっておいしいに決まっている。
こんがりと焼けたタルト台に行儀よく収まった真っ赤な果実の宝石が燦然と輝く姿を想像し、ふと思い立ったようにつけくわえた。
「どうせ食べきれなくてジャムや蜂蜜酒漬けにするし、タルト台とカスタードクリームを多めに作ってお裾分けしようかな」
最初のうちは、不慣れな為に試行錯誤の連続で苗を上手く育てられなかった。実が生ったとしても小ぶりだったり酸っぱいだけだったりしたものだ。
それが去年は初めて、たくさんの果実を満足の行く状態で収穫できた。
でも、とても嬉しい反面、それはそれで新たな問題が発生してしまった。小さな温室での栽培とは言え、果実のままおいしく食べるにも量に限度がある。半分以上はジャムや蜂蜜酒漬けに加工せざるをえなかったのだ。
「あら、素敵ね。みんなもきっと喜ぶわ」
「じゃあ今年もおいしい苺をたくさん作らないと」
花が咲いたからと言って、ぼんやりと見ているだけでは果実は生らない。屋外に自生している植物とは違い温室の中なのだ。実が生る為の受粉作業をする必要がある。それにはミツバチを使うから、父か兄に手伝ってもらうつもりだった。
「大変なら無理しないで数を減らすことも視野に入れていいのよ」
「うん。でも楽しいから大丈夫。家で食べきるのに付き合わせちゃうのは申し訳ないけど……」
母の言うように、苗の数を減らすことも何度か視野に入れてはいた。数が多くて大変に思うのは、栽培そのものではなくておいしく食べることだからだ。けれど今はジャムや蜂蜜酒漬けにすることで何とかなっているし、結局そのままの状態を維持していた。
「アリシアが苦にしてないなら好きになさい。ジェームズも、トマト作りに入れ込みすぎて今では特産品の一つにまでしたし」
「ありがとう、お母さん」
兄ジェームズが育てた大量のトマトを手を変え品を変え、必死になって消化していた日々を思い出して、アリシアは母と顔を見合わせて笑う。
ハプスグラネダ領を支える収入源は、兄が成人するまでは大きく分けて二つだった。
一つはアリシアの父を中心とした男手による酪農及び、牛の乳を用いたバターやチーズと言った乳製品の製造であり、もう一つはアリシアの母を中心とした女手による養蚕及び絹織物だ。
そこにトマトの栽培からノウハウと独自の改良を加え、新しく一大産業の仲間入りを果たしたのが、兄がまとめる比較的若い男手による農作物と果実酒作りである。
これらは皆、数こそ少ないがその分の品質は国内外問わず高く評価されており、物によっては半年以上先まで予約分の生産予定が埋まっていた。
領主夫妻も跡継ぎも領民に交じってよく働く中で一人娘たるアリシアはと言えば、この春に高等部を卒業して間もない身だった。
今は苺の栽培をしながら、色々と自分に合うものを模索しているところだ。
「やっぱりアリシアのお婿さんになってくれる人は、一緒に苺を育ててくれる人がいいわねえ」
水を飲み終わった後で良かった。
母の言葉に一瞬、息が詰まりかける。何度も咳払いをして息を整えると口を開いた。
「お婿さんだなんて、まだ気が早すぎない?」
「そうかしら。アリシアも今年で十九歳なんだし、好きな人くらいはいないの?」
「好きな人とか、別にいないし……」
今度は頬がみるみる赤く染まって行くのが自分でも分かる。脳裏に具体的なシルエットが浮かび上がりかけた。
でも、それを思い出しては、自覚してはいけない。
アリシアは首を振って淡い金色の記憶を必死で頭から追い払った。
「温室に行って来まーす」
コップを軽く洗い、あからさまに不自然な様子で会話を切り上げてキッチンを出る。
その背に向かって母が「帰りに卵を持って来てね」と声をかけるのが聞こえた。
温室に向かう途中、誘われるように北の方角へと目を向ける。
(――見えるはずもないのに)
どんなに目を凝らしたって、かつて一度だけ足を踏み入れたことのある、あの巨大で荘厳な佇まいの王城は影も形も見えない。
当たり前だ。
昨日見えなかった王城が今日から見えるようになる。そんな奇跡みたいなことがあるはずもない。ただ代わりに、小高い丘の上に建つ立派な邸宅が見えるだけだ。
平穏な領地の城さながらに構えるその邸宅は数年前に建てられた。天気の良い日であれば、その二階から王城が見えることもあると父が言っていたけれど、入ったことがないから真偽のほどは分からなかった。
目を閉じれば昨日のことのように思い出せる。
煌びやかな王城と――凛とした、王子様。
だからこそ、目を閉じて感傷には浸らなかった。
夢のような時間はとうに終わっている。
アリシアも心をときめかせた少女じゃない。
なのに、その向こうに広がっている王城の面影を追いかけてしまう。
自分とは違う世界なのだと改めて実感するだけの行動を、飽きもせず毎日してしまう。
「お城に行ったからって、お姫様になれるわけじゃないのにね」
寂しげな笑顔で独り言ち、アリシアは温室へと歩きはじめた。
温室での作業を済ませたアリシアは毟った雑草を手に、右側にある鶏の飼育舎へと向かった。
入口の横に作られた木棚に並んだバスケットのうちの一つを持って、産み立ての新鮮な卵を丁寧に入れる。
ここで飼っている鶏は雄鶏と雌鶏合わせて十羽しかいない。家で卵を食べるのに困らない分だけだ。
卵が入ったバスケットを一旦棚に置き、手早く飼育舎を掃除する。それから温室でむしった雑草と専用の飼料とを飼育舎内のあちこちにある餌入れの中へ適度に移せば、アリシアの一日の仕事はほぼ完了だった。
苺の成長は順調そのものだ。満ち足りた気分のままバスケットを持って家へ戻る。
「お母さん、はい、今朝の卵」
「今日もお疲れ様。ハンスにもよろしくね」
「うん」
月曜日の今日は、まだもう一つアリシアがやることがあった。母に卵を渡し、玄関を出て表門へ行く。
わずかに門扉を開けて敷地の外に出ると、朝焼けにも似た赤みを帯びた明るい茶色の髪を持つハンスが新聞を片手にやって来るのが見えた。
新聞と言っても週に二度、月曜と木曜にハプスグラネダ領内にだけ出回るごく身内的な物だ。各種の農作物の収穫に関する情報が主な内容で、あまり話題のない冬場に至っては近所の些細なニュースが書かれる。
けれど住民たちには貴重な情報源であり、新聞のおかげで識字率も高い数値を誇っているという重要な物でもあった。だから地方の小さな発行物でありながら四か月に一度、内容が適切なものであることを証明する為に王都の検閲を受けに行っていた。
「よう、お姫様。今朝も新聞をお持ち致しました」
「お姫様って言わないで」
そんなある種名誉ある新聞作りを代々担う家系の跡取り息子のハンスは、アリシアと同い年ということもあって親しい友人の一人だ。付き合いは友人たちの中で最も古く、かれこれ十四年ほどになる。
慣れ親しんだ間柄であるからこそ、髪と同じ色の目をいたずらっぽく輝かせてハンスは気取った様子で声をかけた。
いつもはこんなことを言ったりしないのに、今日に限ってどうしたのだろうか。言われ慣れないお姫様扱いに何とも据わりの悪い気持ちになる。戸惑いで眉尻がわずかに下がるのが自分でも分かった。
一方のハンスは悪びれた様子もなく、四つ折りにした新聞を差し出して言葉を続けた。
「でもご先祖様は本当にお姫様だったんだろ?」
「お父さんの話だとそうみたいだけど、私自身はお姫様じゃないもの」
「いや、そんなこともないし……」
「ないない。領主の娘だからってみんな大げさに考えすぎなのよ」
アリシアは“本当のお姫様”の姿を知っている。
だから自分はお姫様じゃないし、お姫様になれない。
そう思うとほんの少しだけ痛む胸に気がつかない振りをして、笑ってみせた。
家名だけは立派なハプスグラネダ家は父曰く、遡ること二百年ほど昔、王宮の騎士勤めをしていた祖先が大きな武勲を挙げた際、恋仲にあった第七王女を娶ると共に伯爵位を授かったのがはじまりらしい。
その際に領地候補としていくつか挙げられた中で自ら志願して王家より正式に授かったのが、当時まだ開拓の計画が立てられたばかりで全くと言っていいほど手つかずの状態のこの辺り一帯の土地だということだ。
ただ適当なことを並べ立てているようでも、領土の取得や他ならぬ王族の輿入れなど、さしたる力も後ろ盾もなく片田舎で暮らす弱小貴族が騙るにはあまりにも過ぎた内容である。
「すごいよな。武勲を挙げた騎士が姫君を娶って爵位をもらうって、作り話みたいなことが本当にあるんだもんな」
一応、王家が所有する家系図や歴史書を見れば、事実であることの証明自体はできるという話だ。
とは言え権力争いや派閥と言った貴族間の争いごととは一切無縁であり、基本的に領地に籠ってひっそりと暮らし続けているので、現在の王族との個人的な接点はないに等しい。むしろそこまで来ると最早、血縁関係などあってないようなものだった。
この程度のつながりで良いのなら、国内外を問わず多くの貴族たちが王家の縁者に相当すると言えるだろう。地位こそ貴族階級に属さないが、それなりの歴史と地位を持った中流階級以上に位置する家柄の中にもいたとして、何らおかしいことはない。
もっとも、アリシアの父をはじめ、歴代のハプスグラネダ家当主も血筋を辿れば王家へと連なる由緒ある家柄と自慢しているというわけでもなく、単なる話のタネの一つとして伝わっている程度だった。
「しかもそんなに強い騎士だったのに何の未練もなく畑仕事をはじめたんだろ?」
「そうみたいね」
やけに詳しいハンスに、アリシアは思わず感心しながら頷いた。
実際、当の祖先は力のある騎士でありながら、剣を振るうのはあまり好きではなかったらしい。妻となった王女共々、実に慎ましく牧歌的に開拓生活を楽しむ様子を記した文献が、倉庫の隅に何のありがたみもなく転がっている。
さらには少女の好むような脚色を加えて恋愛小説の形にしたものが図書館に所蔵されてはいるから、中には読んだ住民もいるだろう。ただ、ハンスもその中の一人であるのなら正直意外だ。
そうして新天地を求めて集った民と一緒に、剣を農具に持ち替えて第二の人生を歩んだ彼らの血脈は代々受け継がれ、今現在に至る。
世間一般的なイメージでの貴族の生活とはおよそかけ離れているとは言え、決して貧しいわけでもない。けれど王都に立派な屋敷を構える商人の方がよほど贅沢な生活をしているだろう。
「家のことより、今日は何か面白いニュースある?」
話題を変えるべく話を振ると、ハンスは唇の端をわずかに上げた。新聞屋の息子らしく強い好奇心をのぞかせた表情は何らかの面白いニュースがあると言外に告げている。
「そうだなあ……」
ハンスはほんの少しだけもったいぶるかのように笑みを深くして、それから視線を左へと向けた。
つられてアリシアもハンスの視線を追えば、小高い丘の上に建つ立派な屋敷が見える。何も知らない人間が見たら、それこそが領主の館だと思うような堂々とした佇まいは王家の所有する別宅だった。
「あの丘の上にある、ずっと無人の大きな家なんだけどさ」
「うん」
アリシアが産まれて間もない頃、管理ができないことを理由に王家へ売り払った土地に三年前になってようやく建てられたものだ。しかし誰かが住んでいたり、季節ごとのバカンスに訪れていたりする様子は今のところない。あの場所は更地だろうが何か建てられようが、結局は放置されてしまう運命にあるようだ。
小高い丘の上と言えば聞こえは良いが実際のところは人が歩くには些か勾配が急で、地面にも固く大きな砂利がたくさん埋まっている。だから父も多少は持て余し気味だったのは事実なのだろう。
別に騙し取られたわけではなく、正統な手続きを以って売却されたのだ。それに王家の手が入ったことで、ずいぶんとましな状態になったとも聞く。
「相変わらず、あの家の話になるとちょっと面白くなさそうな顔するな」
「そんなこともない、けど」
ハンスに茶化され、アリシアは口ごもりながらわずかに顔を背けた。もっとも、これでは図星だと言っているようなものである。
王都からやって来た腕利きの大工職人たちは、一日の仕事が終わる度に王都へ帰るというわけにもいかない。
別邸を建てている間はハプスグラネダ家をはじめとして、近隣の住民たちの中でも部屋に余裕のある家に宿泊することになり、その際の宿代も十分すぎるほど王家から支払われていた。
そのうえ職人たちが持つ技を教えてもらい、あの別宅が一軒建つというだけでハプスグラネダ領の財政は棚ぼた式にかなり潤ったのである。アリシアが不平不服を申し立てることは何もない。
――が、買ったからにはもっとちゃんと活用して欲しいと思ってしまうのだった。
アリシアの心境はさておき、ハンスはさも重要な内緒話だと言わんばかりに顔を寄せ、右手で声を遮断しながら告げる。
「どうやら、あの丘の上の別宅に近々、王都から第三王子がやって来るらしい」
第三王子という単語に頬が引き攣りそうになるのを懸命に堪え、アリシアは目を見張った。
「まさか。どうしてそんなことが分かるの?」
思い通りの反応が得られたのか、ハンスは機嫌が良さそうな表情をする。そして再び丘の上に視線を戻し、どこか自慢気な様子で“種明かし”をした。
「最近、やたら仕立ての良い馬車が何度もあの丘を行き来してるのを見かけたんだよ」
「でもそれじゃあ、第三王子が来るとは限らないじゃない」
今ここで自分が願ったところで現実には何の影響もないと分かってはいる。それでもアリシアは、来るにしてもせめて第三王子以外の誰かでありますようにと、内心で強く願いながら食い下がった。
しかしハンスは幸か不幸か、そんなアリシアの心境には気がつくこともない。さらにとっておきとばかりの種を披露した。
「いーや、馬車を先導する騎馬隊の右腕についてた紋章は、間違いなく第三王子付きの騎士のものだったね。王都で何度か見かけたから間違いないよ」
「そう、なんだ」
ここまで強く断言されてしまってはアリシアも反論のしようがない。それよりも否定を続けることをハンスに訝しがられて余計な詮索をされないよう、必死に表情を取り繕った。
冷静に、冷静に。
嘘をついたり隠し事をしたりする時、自分に何か特定の癖はなかっただろうか。うしろめたさで背中をひんやりとした汗が伝うのにも気がつかない振りを決め込む。
「いずれハプスグラネダ伯爵に挨拶に来るだろうから、ウチの新聞で【第三王子、ハプスグラネダ領に滞在!】のニュースが出せるのはその後だな。アリシアなら大丈夫だとは思うけど、それまでは内密に頼むぜ」
「う、うん」
馬車が今後も行き来するようなら他の住民たちの目に留まって噂になるのも時間の問題のような気がしたけれど、アリシアはそれどころではなかったのであえて指摘しなかった。
何とかこの場を切り抜けた安堵感に一人こっそりと胸をなで下ろした後は、本当に第三王子がやって来るのか、もし来るとしたら一体どれくらい滞在するつもりなのか。いくら考えても埒が明かないことに思考回路がいっぱいになってしまっている。
「――のか?」
だから不意にハンスが告げた言葉も、上手く聞き取れなかった。
「あ、ごめんね、何?」
何か言われたことには気がついて問いかけると、ハンスは「聞いてなかったのかよ」と唇を尖らせた。それから同じ言葉を二度も言う気まずさからか、わずかに視線を反らす。
「……お前もさ、やっぱり王子様が良かったりするのか?」
「えっ」
今度はちゃんと聞こえた。
けれどその代わりと言うべきか、意味が良く分からなかった。
どういうことだろう。
結婚するなら?
それとも恋をするなら?
今まで恋人がいたことなんてただの一度たりともなかったけれど、アリシアだって年頃の少女らしく、恋愛というものに対し多少の理想や憧れがないわけでもない。
でも、いつか王子様が……と夢物語を胸に抱けど、その相手が本当に王子様である可能性はないことくらい知っている。
本当の王子様はお話の世界がそうであるように、現実の世界でも本当のお姫様のものだ。だからアリシアを迎えに来ることはない。
「王子様は素敵だと思うけど、私とは縁がない世界だし良いとか悪いとか分からないよ」
伯爵家令嬢であっても、王都に居を構えるならいざ知らず、片田舎の小さな領地を治める程度なのだ。
領地自体は自然に恵まれた自慢の場所でも王子様がやって来る理由がない。
「まあ、そうだよなあ」
ぼんやりとした曖昧な返事しかできなかったが、明確な答えを求めていたわけではなかったのかハンスは何度も頷いた。
挙句には、じゃあまたな、と元気良く走り去って行く。
そんなハンスとは対照的に遠ざかるその背中を見送るアリシアは、丘の上の別邸に第三王子が訪れるという話に溜め息をついた。
本当のことを言えば、アリシアは十一歳の時に王子様を相手に初めての恋を覚えている。
でも、そんな淡い初恋はあっけない形で幕を閉じていた。
家族も、友人も知らない。
アリシアだけの秘密の記憶だ。
今までも。
そして、これからもずっと。
「コォケコッコォォォォー!」
暦の上では春を迎えても未だ冬の気配を残して凛とする空気を引き裂くような鶏の鳴き声を受け、アリシアはゆっくりと榛色の目を開けた。
身体を包む掛け布は薄手で何の飾り気もないけれど、肌触りはこれ以上ないほど滑らかな絹で、中には良質な水鳥の羽毛をたくさん詰めている。雛を守る母鳥にも似た柔らかさに包まれる中、何度も瞬きを繰り返して薄暗い周辺に目を慣らして行った。
今日も目覚め自体は悪くない。
やがて見慣れた部屋の風景が確かな形を持って見えはじめて来ると、両腕を大きく伸ばしてひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
今度は静かに吐き出しながら身体の内側から目を覚まし、ようやく上半身を起こす。自らの体温を含んで心地よい暖かさを帯びた寝具への未練を断ち切るよう、軽く首を左右に振ってベッドから出る。横に置いてあるお気に入りの靴を履き、大きく息を吐いた。
「さ、今日も一日頑張らなくちゃ」
アリシアは独り言ち、また伸びをする。
素朴なワンピースに着替え、寝ている間にほつれた三つ編みを緩く編み直した。それから南側に面した大きな窓に向かうと白いカーテンを勢いよく引き、窓を開け放つ。
さすがに雄鶏が朝を告げる時間帯だけあって、外の景色はまだほのかな夜色に染まっている。東の空には太陽が昇りはじめているのが見えた。この様子なら今日も良い天気になりそうだ。
身体が冷え切ってしまう前に窓を閉め、頬を軽くはたいて自らに気合いを入れる。
出掛ける前に布団を干して行こう。
そんなことを考えながら部屋を出た。
一階に降りると寝起きの身体でも食欲を刺激される良い匂いが漂って来る。
焼きたてのパンの香ばしい香りと、トマトを中心に野菜をハーブで煮込んでいる香りだ。
「おはようアリシア。今日も早いわね」
誘われるままキッチンへ行けば、一人で朝食の準備をしていた母がアリシアの姿に気がついた。
「おはよう、お母さん」
朝の陽ざしさながらに明るい笑顔で声をかけられ、アリシアも笑みを浮かべて挨拶を返す。テーブルの上に置かれた水差しとグラスを取って水を注いで口をつけると、その冷たさに身体の中から目が覚めて行くようだった。
「やっと花が咲いたし、実が生るのが待ち遠しくって」
「頑張るのはいいけど無理はしすぎないようにね」
「うん」
アリシアは今、庭の隅に建てられた小さな温室で苺を育てている。早起きをしているのも苺の世話をする為だ。
温室ではかつて、三歳年上の兄がトマトを植えていた。それを手狭になったからと譲り受け、トマトの代わりに苺の苗を植えたのはアリシアが高等学部に上がる前だ。
好きな作物を好きなように育ててみるという、自給自足を尊ぶハプスグラネダ家ならではの教育方針である。
基本的には自分の力だけで試行錯誤しながら育てている苺も、早いもので今年でもう四年目だ。数日前にやっと白く可愛らしい花が咲きはじめたばかりで、今のところは何の問題も見当たらない。今回も順調に成長しているようだった。
そして苺の栽培をするにあたって、これまでより二時間ほど早起きするようになったアリシアを、母は毎朝心配している。
とは言え起こしに来たことは未だに一度もないから、早起き自体に関しては信用してくれているらしい。
「お母さん今年は苺のタルトが食べたいわ」
「あ、いいな! 私も食べたい!」
料理の手を止めないままに出された母の提案にアリシアは頷いた。
大粒で甘酸っぱい自慢の苺をぎっしりと並べたタルトは、どう考えたっておいしいに決まっている。
こんがりと焼けたタルト台に行儀よく収まった真っ赤な果実の宝石が燦然と輝く姿を想像し、ふと思い立ったようにつけくわえた。
「どうせ食べきれなくてジャムや蜂蜜酒漬けにするし、タルト台とカスタードクリームを多めに作ってお裾分けしようかな」
最初のうちは、不慣れな為に試行錯誤の連続で苗を上手く育てられなかった。実が生ったとしても小ぶりだったり酸っぱいだけだったりしたものだ。
それが去年は初めて、たくさんの果実を満足の行く状態で収穫できた。
でも、とても嬉しい反面、それはそれで新たな問題が発生してしまった。小さな温室での栽培とは言え、果実のままおいしく食べるにも量に限度がある。半分以上はジャムや蜂蜜酒漬けに加工せざるをえなかったのだ。
「あら、素敵ね。みんなもきっと喜ぶわ」
「じゃあ今年もおいしい苺をたくさん作らないと」
花が咲いたからと言って、ぼんやりと見ているだけでは果実は生らない。屋外に自生している植物とは違い温室の中なのだ。実が生る為の受粉作業をする必要がある。それにはミツバチを使うから、父か兄に手伝ってもらうつもりだった。
「大変なら無理しないで数を減らすことも視野に入れていいのよ」
「うん。でも楽しいから大丈夫。家で食べきるのに付き合わせちゃうのは申し訳ないけど……」
母の言うように、苗の数を減らすことも何度か視野に入れてはいた。数が多くて大変に思うのは、栽培そのものではなくておいしく食べることだからだ。けれど今はジャムや蜂蜜酒漬けにすることで何とかなっているし、結局そのままの状態を維持していた。
「アリシアが苦にしてないなら好きになさい。ジェームズも、トマト作りに入れ込みすぎて今では特産品の一つにまでしたし」
「ありがとう、お母さん」
兄ジェームズが育てた大量のトマトを手を変え品を変え、必死になって消化していた日々を思い出して、アリシアは母と顔を見合わせて笑う。
ハプスグラネダ領を支える収入源は、兄が成人するまでは大きく分けて二つだった。
一つはアリシアの父を中心とした男手による酪農及び、牛の乳を用いたバターやチーズと言った乳製品の製造であり、もう一つはアリシアの母を中心とした女手による養蚕及び絹織物だ。
そこにトマトの栽培からノウハウと独自の改良を加え、新しく一大産業の仲間入りを果たしたのが、兄がまとめる比較的若い男手による農作物と果実酒作りである。
これらは皆、数こそ少ないがその分の品質は国内外問わず高く評価されており、物によっては半年以上先まで予約分の生産予定が埋まっていた。
領主夫妻も跡継ぎも領民に交じってよく働く中で一人娘たるアリシアはと言えば、この春に高等部を卒業して間もない身だった。
今は苺の栽培をしながら、色々と自分に合うものを模索しているところだ。
「やっぱりアリシアのお婿さんになってくれる人は、一緒に苺を育ててくれる人がいいわねえ」
水を飲み終わった後で良かった。
母の言葉に一瞬、息が詰まりかける。何度も咳払いをして息を整えると口を開いた。
「お婿さんだなんて、まだ気が早すぎない?」
「そうかしら。アリシアも今年で十九歳なんだし、好きな人くらいはいないの?」
「好きな人とか、別にいないし……」
今度は頬がみるみる赤く染まって行くのが自分でも分かる。脳裏に具体的なシルエットが浮かび上がりかけた。
でも、それを思い出しては、自覚してはいけない。
アリシアは首を振って淡い金色の記憶を必死で頭から追い払った。
「温室に行って来まーす」
コップを軽く洗い、あからさまに不自然な様子で会話を切り上げてキッチンを出る。
その背に向かって母が「帰りに卵を持って来てね」と声をかけるのが聞こえた。
温室に向かう途中、誘われるように北の方角へと目を向ける。
(――見えるはずもないのに)
どんなに目を凝らしたって、かつて一度だけ足を踏み入れたことのある、あの巨大で荘厳な佇まいの王城は影も形も見えない。
当たり前だ。
昨日見えなかった王城が今日から見えるようになる。そんな奇跡みたいなことがあるはずもない。ただ代わりに、小高い丘の上に建つ立派な邸宅が見えるだけだ。
平穏な領地の城さながらに構えるその邸宅は数年前に建てられた。天気の良い日であれば、その二階から王城が見えることもあると父が言っていたけれど、入ったことがないから真偽のほどは分からなかった。
目を閉じれば昨日のことのように思い出せる。
煌びやかな王城と――凛とした、王子様。
だからこそ、目を閉じて感傷には浸らなかった。
夢のような時間はとうに終わっている。
アリシアも心をときめかせた少女じゃない。
なのに、その向こうに広がっている王城の面影を追いかけてしまう。
自分とは違う世界なのだと改めて実感するだけの行動を、飽きもせず毎日してしまう。
「お城に行ったからって、お姫様になれるわけじゃないのにね」
寂しげな笑顔で独り言ち、アリシアは温室へと歩きはじめた。
温室での作業を済ませたアリシアは毟った雑草を手に、右側にある鶏の飼育舎へと向かった。
入口の横に作られた木棚に並んだバスケットのうちの一つを持って、産み立ての新鮮な卵を丁寧に入れる。
ここで飼っている鶏は雄鶏と雌鶏合わせて十羽しかいない。家で卵を食べるのに困らない分だけだ。
卵が入ったバスケットを一旦棚に置き、手早く飼育舎を掃除する。それから温室でむしった雑草と専用の飼料とを飼育舎内のあちこちにある餌入れの中へ適度に移せば、アリシアの一日の仕事はほぼ完了だった。
苺の成長は順調そのものだ。満ち足りた気分のままバスケットを持って家へ戻る。
「お母さん、はい、今朝の卵」
「今日もお疲れ様。ハンスにもよろしくね」
「うん」
月曜日の今日は、まだもう一つアリシアがやることがあった。母に卵を渡し、玄関を出て表門へ行く。
わずかに門扉を開けて敷地の外に出ると、朝焼けにも似た赤みを帯びた明るい茶色の髪を持つハンスが新聞を片手にやって来るのが見えた。
新聞と言っても週に二度、月曜と木曜にハプスグラネダ領内にだけ出回るごく身内的な物だ。各種の農作物の収穫に関する情報が主な内容で、あまり話題のない冬場に至っては近所の些細なニュースが書かれる。
けれど住民たちには貴重な情報源であり、新聞のおかげで識字率も高い数値を誇っているという重要な物でもあった。だから地方の小さな発行物でありながら四か月に一度、内容が適切なものであることを証明する為に王都の検閲を受けに行っていた。
「よう、お姫様。今朝も新聞をお持ち致しました」
「お姫様って言わないで」
そんなある種名誉ある新聞作りを代々担う家系の跡取り息子のハンスは、アリシアと同い年ということもあって親しい友人の一人だ。付き合いは友人たちの中で最も古く、かれこれ十四年ほどになる。
慣れ親しんだ間柄であるからこそ、髪と同じ色の目をいたずらっぽく輝かせてハンスは気取った様子で声をかけた。
いつもはこんなことを言ったりしないのに、今日に限ってどうしたのだろうか。言われ慣れないお姫様扱いに何とも据わりの悪い気持ちになる。戸惑いで眉尻がわずかに下がるのが自分でも分かった。
一方のハンスは悪びれた様子もなく、四つ折りにした新聞を差し出して言葉を続けた。
「でもご先祖様は本当にお姫様だったんだろ?」
「お父さんの話だとそうみたいだけど、私自身はお姫様じゃないもの」
「いや、そんなこともないし……」
「ないない。領主の娘だからってみんな大げさに考えすぎなのよ」
アリシアは“本当のお姫様”の姿を知っている。
だから自分はお姫様じゃないし、お姫様になれない。
そう思うとほんの少しだけ痛む胸に気がつかない振りをして、笑ってみせた。
家名だけは立派なハプスグラネダ家は父曰く、遡ること二百年ほど昔、王宮の騎士勤めをしていた祖先が大きな武勲を挙げた際、恋仲にあった第七王女を娶ると共に伯爵位を授かったのがはじまりらしい。
その際に領地候補としていくつか挙げられた中で自ら志願して王家より正式に授かったのが、当時まだ開拓の計画が立てられたばかりで全くと言っていいほど手つかずの状態のこの辺り一帯の土地だということだ。
ただ適当なことを並べ立てているようでも、領土の取得や他ならぬ王族の輿入れなど、さしたる力も後ろ盾もなく片田舎で暮らす弱小貴族が騙るにはあまりにも過ぎた内容である。
「すごいよな。武勲を挙げた騎士が姫君を娶って爵位をもらうって、作り話みたいなことが本当にあるんだもんな」
一応、王家が所有する家系図や歴史書を見れば、事実であることの証明自体はできるという話だ。
とは言え権力争いや派閥と言った貴族間の争いごととは一切無縁であり、基本的に領地に籠ってひっそりと暮らし続けているので、現在の王族との個人的な接点はないに等しい。むしろそこまで来ると最早、血縁関係などあってないようなものだった。
この程度のつながりで良いのなら、国内外を問わず多くの貴族たちが王家の縁者に相当すると言えるだろう。地位こそ貴族階級に属さないが、それなりの歴史と地位を持った中流階級以上に位置する家柄の中にもいたとして、何らおかしいことはない。
もっとも、アリシアの父をはじめ、歴代のハプスグラネダ家当主も血筋を辿れば王家へと連なる由緒ある家柄と自慢しているというわけでもなく、単なる話のタネの一つとして伝わっている程度だった。
「しかもそんなに強い騎士だったのに何の未練もなく畑仕事をはじめたんだろ?」
「そうみたいね」
やけに詳しいハンスに、アリシアは思わず感心しながら頷いた。
実際、当の祖先は力のある騎士でありながら、剣を振るうのはあまり好きではなかったらしい。妻となった王女共々、実に慎ましく牧歌的に開拓生活を楽しむ様子を記した文献が、倉庫の隅に何のありがたみもなく転がっている。
さらには少女の好むような脚色を加えて恋愛小説の形にしたものが図書館に所蔵されてはいるから、中には読んだ住民もいるだろう。ただ、ハンスもその中の一人であるのなら正直意外だ。
そうして新天地を求めて集った民と一緒に、剣を農具に持ち替えて第二の人生を歩んだ彼らの血脈は代々受け継がれ、今現在に至る。
世間一般的なイメージでの貴族の生活とはおよそかけ離れているとは言え、決して貧しいわけでもない。けれど王都に立派な屋敷を構える商人の方がよほど贅沢な生活をしているだろう。
「家のことより、今日は何か面白いニュースある?」
話題を変えるべく話を振ると、ハンスは唇の端をわずかに上げた。新聞屋の息子らしく強い好奇心をのぞかせた表情は何らかの面白いニュースがあると言外に告げている。
「そうだなあ……」
ハンスはほんの少しだけもったいぶるかのように笑みを深くして、それから視線を左へと向けた。
つられてアリシアもハンスの視線を追えば、小高い丘の上に建つ立派な屋敷が見える。何も知らない人間が見たら、それこそが領主の館だと思うような堂々とした佇まいは王家の所有する別宅だった。
「あの丘の上にある、ずっと無人の大きな家なんだけどさ」
「うん」
アリシアが産まれて間もない頃、管理ができないことを理由に王家へ売り払った土地に三年前になってようやく建てられたものだ。しかし誰かが住んでいたり、季節ごとのバカンスに訪れていたりする様子は今のところない。あの場所は更地だろうが何か建てられようが、結局は放置されてしまう運命にあるようだ。
小高い丘の上と言えば聞こえは良いが実際のところは人が歩くには些か勾配が急で、地面にも固く大きな砂利がたくさん埋まっている。だから父も多少は持て余し気味だったのは事実なのだろう。
別に騙し取られたわけではなく、正統な手続きを以って売却されたのだ。それに王家の手が入ったことで、ずいぶんとましな状態になったとも聞く。
「相変わらず、あの家の話になるとちょっと面白くなさそうな顔するな」
「そんなこともない、けど」
ハンスに茶化され、アリシアは口ごもりながらわずかに顔を背けた。もっとも、これでは図星だと言っているようなものである。
王都からやって来た腕利きの大工職人たちは、一日の仕事が終わる度に王都へ帰るというわけにもいかない。
別邸を建てている間はハプスグラネダ家をはじめとして、近隣の住民たちの中でも部屋に余裕のある家に宿泊することになり、その際の宿代も十分すぎるほど王家から支払われていた。
そのうえ職人たちが持つ技を教えてもらい、あの別宅が一軒建つというだけでハプスグラネダ領の財政は棚ぼた式にかなり潤ったのである。アリシアが不平不服を申し立てることは何もない。
――が、買ったからにはもっとちゃんと活用して欲しいと思ってしまうのだった。
アリシアの心境はさておき、ハンスはさも重要な内緒話だと言わんばかりに顔を寄せ、右手で声を遮断しながら告げる。
「どうやら、あの丘の上の別宅に近々、王都から第三王子がやって来るらしい」
第三王子という単語に頬が引き攣りそうになるのを懸命に堪え、アリシアは目を見張った。
「まさか。どうしてそんなことが分かるの?」
思い通りの反応が得られたのか、ハンスは機嫌が良さそうな表情をする。そして再び丘の上に視線を戻し、どこか自慢気な様子で“種明かし”をした。
「最近、やたら仕立ての良い馬車が何度もあの丘を行き来してるのを見かけたんだよ」
「でもそれじゃあ、第三王子が来るとは限らないじゃない」
今ここで自分が願ったところで現実には何の影響もないと分かってはいる。それでもアリシアは、来るにしてもせめて第三王子以外の誰かでありますようにと、内心で強く願いながら食い下がった。
しかしハンスは幸か不幸か、そんなアリシアの心境には気がつくこともない。さらにとっておきとばかりの種を披露した。
「いーや、馬車を先導する騎馬隊の右腕についてた紋章は、間違いなく第三王子付きの騎士のものだったね。王都で何度か見かけたから間違いないよ」
「そう、なんだ」
ここまで強く断言されてしまってはアリシアも反論のしようがない。それよりも否定を続けることをハンスに訝しがられて余計な詮索をされないよう、必死に表情を取り繕った。
冷静に、冷静に。
嘘をついたり隠し事をしたりする時、自分に何か特定の癖はなかっただろうか。うしろめたさで背中をひんやりとした汗が伝うのにも気がつかない振りを決め込む。
「いずれハプスグラネダ伯爵に挨拶に来るだろうから、ウチの新聞で【第三王子、ハプスグラネダ領に滞在!】のニュースが出せるのはその後だな。アリシアなら大丈夫だとは思うけど、それまでは内密に頼むぜ」
「う、うん」
馬車が今後も行き来するようなら他の住民たちの目に留まって噂になるのも時間の問題のような気がしたけれど、アリシアはそれどころではなかったのであえて指摘しなかった。
何とかこの場を切り抜けた安堵感に一人こっそりと胸をなで下ろした後は、本当に第三王子がやって来るのか、もし来るとしたら一体どれくらい滞在するつもりなのか。いくら考えても埒が明かないことに思考回路がいっぱいになってしまっている。
「――のか?」
だから不意にハンスが告げた言葉も、上手く聞き取れなかった。
「あ、ごめんね、何?」
何か言われたことには気がついて問いかけると、ハンスは「聞いてなかったのかよ」と唇を尖らせた。それから同じ言葉を二度も言う気まずさからか、わずかに視線を反らす。
「……お前もさ、やっぱり王子様が良かったりするのか?」
「えっ」
今度はちゃんと聞こえた。
けれどその代わりと言うべきか、意味が良く分からなかった。
どういうことだろう。
結婚するなら?
それとも恋をするなら?
今まで恋人がいたことなんてただの一度たりともなかったけれど、アリシアだって年頃の少女らしく、恋愛というものに対し多少の理想や憧れがないわけでもない。
でも、いつか王子様が……と夢物語を胸に抱けど、その相手が本当に王子様である可能性はないことくらい知っている。
本当の王子様はお話の世界がそうであるように、現実の世界でも本当のお姫様のものだ。だからアリシアを迎えに来ることはない。
「王子様は素敵だと思うけど、私とは縁がない世界だし良いとか悪いとか分からないよ」
伯爵家令嬢であっても、王都に居を構えるならいざ知らず、片田舎の小さな領地を治める程度なのだ。
領地自体は自然に恵まれた自慢の場所でも王子様がやって来る理由がない。
「まあ、そうだよなあ」
ぼんやりとした曖昧な返事しかできなかったが、明確な答えを求めていたわけではなかったのかハンスは何度も頷いた。
挙句には、じゃあまたな、と元気良く走り去って行く。
そんなハンスとは対照的に遠ざかるその背中を見送るアリシアは、丘の上の別邸に第三王子が訪れるという話に溜め息をついた。
本当のことを言えば、アリシアは十一歳の時に王子様を相手に初めての恋を覚えている。
でも、そんな淡い初恋はあっけない形で幕を閉じていた。
家族も、友人も知らない。
アリシアだけの秘密の記憶だ。
今までも。
そして、これからもずっと。
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