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しおりを挟む第一章 裏切りには復讐を
「今、なんとおっしゃいました……?」
結婚式の夜。つまりは初夜。
聞き間違いだろうか? いや、そうであってほしい。そう切に願いながら。
私――アルビナは震えそうになる声を必死で押し殺して、愛しい旦那様となったバジル・エルディア公爵に問うた。
いつもはひとつにまとめている黒く長い髪をそのまま流したバジル様は、肩にかかるのがうっとうしいのか気だるげに払う。鋭くも美しい黒瞳をギラリと光らせ、端整な顔立ちは今、とても不快そうに歪んでいる。
そしてバジル様は低く冷たい声で、冷淡に……冷酷に言ったのだ。
「何度も言わせるな。俺はお前を妻と思わないし、愛することもない。だからお前を抱くつもりはない。これからも未来永劫そのような日は来ない。そう言ったのだ。理解したか、アルビナ?」
最後に私の名前を呼んで、しかと私の目を見据えてそう言ったバジル様は、寝台の上で呆然と座り込む私を尻目に部屋を出ていった。
私の肩から茶金の髪がサラリと流れ落ちた。輝くような金髪ならばよかったのに、と何度思ったかわからない半端に濁った髪は、けれど侍女たちの手によって美しく整えられている。
初夜のため、当然そういう行為があると侍女が用意してくれた夜着。それは真っ白で薄い下着のようなもの。裾はヒラヒラとしてレースがあしらわれている。肩紐はとても細い。
ズル……と肩紐がずれるのを気にする余裕もなく。
私は一人残された大きな寝台の上で放心状態のまま、日が昇るまでただただ座り続けたのだった。
* * *
バジル様の存在は知っていた。貴族が通う学園で、彼の噂をたびたび耳にしたのだ。
エルディア公爵家の後継であり、成績優秀で非常に有能。学生時代からすでに父上の片腕として働いておられ、立派に功績を残されている優秀な方。領民からも慕われており、将来は王の片腕となるであろうと言われるほどの逸材。
それが私の知るバジル様だった。
対して私はと言えば、一応侯爵家の娘ではあるものの、家族の中ではミソッカスのような存在だった。
いいえ、家族はたしかに愛してくれた。疑いようもないくらいに愛情を注いでくれた。
けれど両親も、兄も姉も妹も。誰も彼もが私以外はみんな、眉目秀麗・頭脳明晰であったのだ。
家族全員が紫紺の髪と瞳を持つ中で、私一人だけがその色をもたない。輝くような美しさを持つ家族に対し、私だけが平凡でパッとしない容姿。だけど頭脳も冴えない私を馬鹿にするような人は、家族の中にはいなかった。
あくまで家族の中には、の話だが。
家族以外の人間は、そのように私を甘やかすことはしない。いつだって蔑みの言葉や噂話が私の耳に届いた。
――あのように立派で美しく優秀な家系から、どうしてあんな出来損ないが生まれたのか。
貴族からはもちろんのこと、使用人すらそう噂した。その言葉を聞いて、負けるかと奮起して――結局その努力は実を結ばず、涙したことはいったい何度あっただろうか。数えきれない。
そんな私に、バジル様との縁談話が来たときには心底驚いた。
どうしてと。なぜ私なのかと。家柄がちょうどよいと言うのなら、姉や妹がいるではないかと思った。
バジル様は私と同い年なので、姉は年上になる。それに姉には想い合っている結婚間近の婚約者がいた。
また、私よりみっつ下の妹は年齢としてはちょうどいいが、父の親友である侯爵の令息と恋仲になっていたのだ。幼くも可愛らしい恋を邪魔することを、両親はしなかった。となれば。
婚約者がいない私に白羽の矢が立つのは、仕方ないのかもしれない。我が侯爵家の娘三人の中では、たしかに私しかいなかったのだ。
しかし貴族全体で見れば、それこそ山のように条件のよい令嬢がいただろう。バジル様と結婚したいと望み、身分も容姿も知性も、何もかも問題ない……私より秀でた女性がいるはずなのに。
『どうして私なのですか?』
不思議に思ってお父様に問う。
『バジル様が、アルビナと結婚したいとおっしゃっているんだよ。なんでも、学園で見かけて気になっていたとか』
そう言って、お父様はニッコリと微笑んだ。
驚いた、本当に心底驚いた。縁談話が来たこともだが、誰でもよいわけではなく、私だからこそ選んだということに。
十六歳から十八歳の三年間、貴族のみが通う学園は通常の勉強に社交界でのマナー、貴族としての心構えを学ぶ場だ。それとは別に、出会いの場でもある。学園で良縁があり婚約、結婚に至ったという話はザラにある。
けれど、それは自分には無縁だと思っていた。友人は大勢いたけれど、恋仲になった人も、想い人すらもいなかったのだ。
もちろん、学園で有名なバジル様を何度か見かけたことはあったが、美しい人だなと思っていただけだった。卒業するまで一度も会話したことはなく、彼の存在は私には遠すぎた。
卒業してからも恋愛にはほど遠く、浮いた話ひとつない日々。このまま生涯独身かと諦めかけていたところに、この縁談が降って湧いたのだ。
私を選んでくださったと聞いた瞬間、胸が激しく鼓動した。そのときの胸の高鳴りを忘れることはない。うれしくてうれしくて、泣きそうになって……実際、幸せで涙を流したことを覚えている。
これが恋なのかはわからない。それを判断するには、私は未熟すぎた。
ただ、そうであればいいと願う。これが恋であってほしいと望む。そうしたら、私は恋する人のもとへ嫁げるのだから。
恋に未熟で無知な私は胸を熱くさせたのだった。
それからバジル様とお会いして、正式に婚約した。それまでは、やっぱりやめると言われるのではないかとビクビクしていたけれど、無事に婚約が成立して、また泣いた。
そうして婚約から一年後、私たちは結婚したのだった。
卒業から四年が経過し、二十二歳の秋のこと。
結婚式は派手ではなかったけれど、それでも私には分不相応に美しく豪奢に感じられた。家族や知人の祝福を受け、私は世界で一番幸せな花嫁だと信じていた。幸せに涙した。
それが昨日のこと。
――そう、まだ昨日のことなのだ。それなのに……
初夜に旦那様とどういうことをするのか知識ではわかっていたが、いざその瞬間がやって来ると思ったとき、私は緊張で心臓が飛び出しそうになっていた。
夜着を着て寝台の前で旦那様――バジル様を待つ。
扉が開き、彼が入ってきた瞬間、私は頭を下げて旦那様となる方へ改めて挨拶をしようとしたのだ。
だが、下げた私の頭に降って来たバジル様の言葉は、とても残酷なものだった。
そのまま呆然と、一夜を寝台の上で過ごした。徹夜の目には朝日が厳しく、痛い。何もやる気が起きず、私は動けない。
ただ一晩中、昨夜のバジル様の言葉を反芻し続けていた。
『俺はお前を妻と思わないし、愛することもない』
――なぜ? どうして?
では、私と結婚した意味は、どこにあるというのですか?
ジワリと涙が浮かぶ。うれしくて幸せに涙したのは、つい昨日のことなのに。まさかその翌日に、こんなにも悲しい涙を流すとは思わなかった。
どうすればいいのだろう……
混乱していたら、不意にノックの音がして、慌てて涙を拭う。こんな涙、誰にも見られたくないから。
返事をすると、侍女の声が聞こえた。入室を許可すると、彼女はすぐに入って来て……そして何も言わずに近づいてきた。目の下にクマを作っている私の顔は、きっとひどいものだろう。
「おはようございます、奥様。朝食の用意が整っておりますが、いかがされますか?」
そう問う彼女はわかっているのか。侍女という職務を遂行しようとする彼女の目に、今の私はどう映っているのだろう。
一切乱れのない寝台。夫であるバジル様は不在。
簡単に察することができるであろう状況を見て、彼女は何を思うのか。
けれど彼女は何も言わないし、私も何も言わない。お互いに言えるわけがない。
「まずは湯につかって身を清めたいわ。お願いできる?」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
はぐらかすように要望を伝えると、侍女は頭を下げて準備を始めた。
私はそれを見やってから、窓へ顔を向ける。悲しいくらいに美しい朝の光が飛び込んできて、思わず目を細めてしまう。
侍女は非常に手際よく、テキパキと湯浴みの準備を進め、あっという間に整った。
何もないまま薄着で一晩を過ごし、冷え切った体に熱い湯はとても心地よい。
入浴を済ませれば、次は食事。正直食欲なんてないが、かといって何も食べなければ行動することはできないし、倒れてしまう。
渋々食堂へ向かった。
目の前で扉が開かれる。一歩、中に入れば、そこには誰もいないことに気づく。いや、正確には給仕をはじめとした使用人たちがいる。
ただし、大きなテーブルに用意された食事は一人分しかない。考えずともわかる、これは私のためのものだと。私だけに用意された食事がポツンと、大きなテーブルにあった。
つまり、私と一緒に食事をする人はいないということを意味している。
夫となったバジル様は一人息子で、彼のご両親は引退されて領内の端、遠い田舎に隠居されている。必然的にこの屋敷には、使用人を除けばバジル様と私しかいない。唯一の同居人と食事すらともにできないなんて……
賑やかだった実家での食事を思い出しながら、私は小さくため息をついて席に座った。
運ばれる料理は温かく、どれもおいしいものだろうと思われる。
……きっとそうなのだろう。昨夜のショックが大きかった私にはなんら味がしない。
しかし、せっかくの料理を残しては材料を育てた方々に、そして料理を作ってくれた方々に失礼だ。奪われた動物たちの命も報われない。そう教わった私は、どうにか必死で食べ進める。
食欲もないまま、無理に詰め込んだ料理は流れ作業のように私の胃に入っていった。
「ごちそうさま」
本当はおいしかったと言うべきなのだろう。そのひと言があれば、シェフが喜ぶと私は知っている。けれど、そんな何気ない言葉を言う余裕すらない私は無言で立ち上がり、食堂をあとにした。
本来ならばそのまままっすぐ自室に戻るべきなのだろうが、そうはしない。
私は自室とは逆、目的の部屋へ向かう。
それはバジル様の部屋だ。私は昨夜の発言の意図を問うべく、バジル様の執務室へ向かった。まだ慣れない公爵邸ではあるが、夫であるバジル様がいる執務室の場所くらい、わかっている。迷うことなく立派な装飾の扉の前に立ち、一応のノックをしてから返事を待たずに扉を開けた。
「なんの用だ」
ノックはすれど、返事を待たずに扉を開けるという無礼な行為に、バジル様は眉根を寄せる。その表情を見ずとも声だけで不機嫌丸出しだとわかる。側近がハラハラした顔をしているのが、視界の片隅に見てとれた。
バジル様から睨まれるけれど、私は臆することなく前に進み出る。そして作業をしている執務机の前、立派な椅子に座るバジル様を見下ろす形で立つ。
彼の眉間の皺はますます深くなる。
「執務中だぞ。出ていけ」
「用件はすぐに済みます」
バジル様は早々に私を追い出そうとする。
けれど、私も引けないものがあるのですと言わんばかりに、キッと睨むように見る。怒られるかと思ったけれど、何も言わずにバジル様は見返してきた。負けじと私は目を逸らさない。
しばしの沈黙のあと。
私が引かないと思ったのか、諦めたようにバジル様は深々とため息をついて、側近に下がるように命じた。
扉が閉まる音がして、静寂に包まれる。部屋は私とバジル様の二人きりになった。話しやすい状況が作り上げられたのだ。
私は背筋を伸ばし勇気を振り絞るために、スウ……と大きく息を吸ってから口を開く。
「昨夜のお言葉について、お聞きしたいのです」
「話すことなど何もない」
「いいえあります。私たちは夫婦でしょう? 話し合いはとても重要です」
その言葉に、また眉間の皺が深くなった。いったいどれだけ深まるのだろう。
「だから俺はお前を妻と思わないと――」
「理由をお聞かせください」
バジル様の言葉を最後まで聞かないのは失礼かもしれないが、聞いてうれしい内容ではない。だから私は遮るように自分の声をかぶせた。それでお叱りを受けても、致し方ないと思いながら。
バジル様は虚をつかれたように一瞬言葉を失い、そして眉間の皺はそのままに、目を閉じて大きなため息をついた。
「私との縁談は、バジル様かあなたのご両親か……とにかく、エルディア公爵家が申し込んできたものです。姉でも妹でもなく、私をと名指ししていただいて光栄に思います。あっという間に婚約となり、それから一年後となる昨日、私たちは結婚いたしました」
そこで一度言葉を切る。
だがバジル様は何も言わない。それを確認して、私は言葉を続けた。
「だというのに、私を妻とは思わない、とはどういう意味でしょうか? 私が気に入らないのであれば、結婚しなければよかったのに。婚約期間は一年もあったのだから、解消だってできたでしょう? なのにどうして……」
「それに関しては、申し訳ないと思っている」
矢継ぎ早に私が述べていると、申し訳なさそうにバジル様が告げた。眉間の皺は消えている。困ったような顔をされては、なんだか私が一方的に、理不尽に責めている悪者みたいではないか。
「何か理由があるのですか?」
「それは……言えない」
その言葉に少なからず苛立ちを感じる。
「どうしてですか? 私たちは夫婦でしょう?」
「だから、俺はお前を妻とは認めないと……」
「ではなぜ結婚したのですか!」
まったくの堂々巡りだ。なんの進展もない会話に頭が痛くなる。執務机を殴りたい衝動を必死で抑えながら、どうにか冷静を保ちつつバジル様の顔を見た。
そして、言葉を失った。
なぜ、彼は泣きそうな顔をしているのだろうか。
実際に涙は浮かんでいないけれど、今にも泣いてしまいそうな顔をしているのだ。苦しいような悲しいような寂しいような……
「バジル様……?」
理不尽なことを言われているのは私だというのに、どうして彼のほうが辛い顔をしているのか。それこそが何より理不尽だ。
「説明しないと納得できないか?」
「できません」
「それでキミが苦しむことになってもか?」
「それでも……知らないよりはマシです」
何も知らずに拒絶される。それがどれだけ悲しいことか、きっとあなたにはわからないでしょうね。
けれど優秀な家族に囲まれ、周囲からあざけりと拒絶を受け続けた私はもうこれ以上、耐えようとは思わないのだ。隠れて泣いていた子ども時代は終わった。
だから私は、真実を知る勇気を持つのだ。
「理由を教えてください」
まっすぐに見つめる私を、彼は見つめ返し、その決意を理解したのだろう。もう何度目とも知れぬため息をついて、バジル様は口を開いた。
「俺は……俺には、愛する人がいるのだ」
突然の告白に息を呑む。
それは予想外の言葉。愛する人……それが私でないことは、すぐに理解できた。
その予想は、すぐに結果として出る。
「俺は……エリシラを愛している」
そう残酷な告白を、バジル様の口から告げられたのだ。
「エリ、シラ……エリシラ……? それは……」
「まぎれもなく、キミの妹のエリシラだ」
目の前で何かが崩れ落ちた気がした。これまで信じてきたものが、すべて崩壊していく。たしかにその音が聞こえた気がして、脚が震えた。
「エリシラには……妹には婚約者のランディがおります」
「そんなことは知っている」
絞り出した私の言葉に対し、苛立たし気なバジル様の返答。そう、彼はわかっている。その事実を知りながらなお、エリシラを愛していると言うのか。
「俺がキミを愛せないのは、単純な片想いゆえではないのだ」
バジル様の言葉は続く。
聞きたくないという思いが心を支配する。しかし、聞いたのはまぎれもなく私だ。苦しむことになってもよいのかとバジル様は尋ねたのに、それでも知らないよりはマシと言った。私にはバジル様の告白を最後まで聞く義務がある。
バジル様は私から視線を外すと、うつむくようにして言った。
「エリシラと俺は……褥をともにしたことがあるのだ」
瞬間、私は崩れ落ちた。いや、実際には体は動かず、氷のごとく固まってしまっている。まるで私の足元が崩れ落ち、深い闇へ落ちる。そんな錯覚に陥ったのだ。
「我慢できなかったのだ」
暗闇に落ちた私の耳に、バジル様のとんでもない告白は続く。見るのを拒絶するかのように、私の目の前は真っ暗だ。
「学園でキミを見かけて、結婚相手にと思ったのは本当だ。いろいろ吟味し、よく考えた結果、キミがよいと思ったのだ。卒業してからも婚約していないキミを、俺はたしかに伴侶として望んだ。そのときはまぎれもなく本心から、そう思ったのだ」
だが、とバジル様は苦し気に眉根を寄せた。
「だが、キミと正式に婚約してから初めてエリシラを見た。その瞬間、心臓が高鳴るのを抑えることができなかった。あんな気持ちは初めてだった」
はあ、と出されるのは、重いため息。
「俺はこれまで誰かを愛したことがなかった。恋愛なんて、自分とは無縁のものだと思っていたんだ。愛はなくとも好意は持てたから、キミとなら平和に過ごせると思った。学園でも努力を重ねていたキミを好ましく思ったし、きっとキミとなら……そう、思ったんだ」
私の心は激しく動揺する。
好意なんて、家族でも友人でも持つ感情ではないか。父から『バジル様がアルビナと結婚したいとおっしゃっている』と聞いて、喜んでいた自分を殴りたい。
私がショックを受けているとも気づかずに、バジル様は淡々と残酷な言葉を続ける。
「あのときまで……エリシラと会うまでは、たしかにそう思っていた」
けれど違った。現実はそうではなかったのだ。
「俺は知らなかった。恋とはこんなにも胸を焦がすものだと、こんなにも苦しくなるものだと。俺は……知ってしまったんだ」
気づいてしまった恋心をとめることはできず、侯爵家でエリシラに会うたびに、その思いは大きくなったのだとバジル様は言う。
「キミに会いに来たというのはすべて口実で、俺はエリシラの姿をひと目見たくて、足しげく侯爵家に通った」
バジル様は頻繁に侯爵家に来ていた。それこそ私が勘違いしてしまった一番の理由だろう。私と一緒にいるとき、話しているとき、彼は私を通りすぎて、妹を見ていたというのか。なんて残酷な……あまりにも人を馬鹿にした行為に絶望を感じ……次いで怒りがわき上がるのを感じた。
知らず知らずのうちにギュッと手に力が入る。
「もちろん最初は諦めようと思ったんだ」
当たり前だが、私との婚約はすでになされている。解消できるだろうが、したところでどうなるというのか。
だって妹には……エリシラには、ランディというれっきとした婚約者がいるのだから。当時はまだ婚約前だったが、もう直前の時期。それに婚約がなされていなくとも、二人は愛し合っている。
どう望んでも、バジル様はエリシラを手に入れることはできない。
「どうしても諦められなかった。思いは増すばかりで、とめることなどできなかった」
なぜ、そんなに……と思ってしまうのは当然だろう。
「なぜエリシラなのですか? たしかに彼女は美しいですが、どんな子かもわからないのに。容姿の美しさで言うなら、お姉様もまた美しい人です」
「エリシラだけだ」
私の疑問にバジル様は即答する。フッと顔を上げた彼の瞳を見た瞬間、言い知れぬ何かを感じて私はゾッと身震いした。
「あんなに美しく妖艶で、俺を魅了するのは、エリシラだけだ」
妖艶? もう十九歳になる妹は、たしかに可愛いから美しい女性に変わってきた。だがいまだ幼さの影を残す彼女には、およそ似つかわしくないその表現に、私は内心首をかしげた。
そんな私に反して、エリシラについて話すバジル様の顔は徐々に熱を帯び始める。
「エリシラは美しいだけではない、私の心を焦がす、言い知れぬ魅力を持っている。あの瞳に見つめられるだけで俺は動けなくなるし、ずっと見てほしいとも思う。その目に俺だけを映し、誰の存在も忘れて、ただただ俺だけを――」
その目が徐々に細められ、もとより黒い瞳がますますどす黒くなり、濁った闇をまとう。
「俺は知らなかった、恋とはこんなにも胸を焦がすものだとは。こんなにも苦しくなるものだとは。こんなにも幸せになれるものだとは。俺は知らなかったのだ!」
これは誰? 目を見開き、唾を飛ばし、ただただエリシラしか視界に入らぬ眼前の男。
彼はもう私の知るバジル様ではなかった。彼はいつだって落ち着いていた。公爵家当主としてトラブルに際したときも、取り乱すことはなかった。
なのにどうだ、今の彼は別人のようではないか。
「エリシラは美しい、エリシラを愛している、彼女をずっと見ていたい、自分を見てほしい」
彼は血走った目で言い続ける。
「俺は悟った、エリシラこそが俺のすべて、彼女なしの人生など無意味! 彼女こそが俺の運命の相手であり、エリシラこそが俺と結ばれるべき伴侶なのだと! わかるか、アルビナ!」
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