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1巻
1-1
しおりを挟むプロローグ 血まみれ将軍は、跪いて愛を乞う
巨大な狼のような体が目の前に跪き、熱の籠った瞳で見上げてくる。
顔のあちこちに細かな古傷の残る男臭い顔立ち。美形ではあるが決して甘くはなく、よく切れる剣のような鋭さを持った顔だ。
だがその強面の男、サディアス・ハイツィルトの口から出てきた言葉に、メリルは危うくあんぐりと口を開けそうになった。
「あなたに一目会った時から惹かれていた。俺のような武骨な男に迫られても迷惑なだけだろうと気持ちを押し殺していたが、もう我慢できない」
言うや否や、彼はそっとメリルの細い手を取り、手の甲に口付ける。まるで忠誠を誓う騎士のように。
手の甲とはいえ、生まれて初めての柔らかな唇の感触に、メリルの頬にかっと血が集まった。
「どうか、俺の恋人になってもらえないだろうか。……美しい人」
甘く囁かれる熱烈な求愛。堂々とした体躯の美丈夫に、膝をついてこれほど真摯に愛を乞われたら、常人なら心が揺らぐだろう。
だが、メリルは呆然と彼の顔を見つめるしかできなかった。彼にはサディアスの求愛を素直に受け取れない理由があったのだ。
(待ってくれ……嘘だろう。まさか、まさか……こんな)
よろり、と体が揺れる。
サディアスには本当は好きな人がいる。いるはずなのだが、彼は今、メリルだけを見つめて熱に浮かされたように甘い言葉を囁いている。そのサディアスの変化に、メリルは大きな心当たりがあったのだ。
たとえそれが、にわかに信じがたくても。
嘘だ、嘘だと叫びそうになる気持ちを必死で抑える。
ごくり、と唾を呑み込んで、目の前の美丈夫の顔を見つめた。陶酔したような彼の顔を。
(まさかこんなに簡単に、催眠術にかかるだなんて……!)
第一章 催眠術師は苦悩する
「どうぞ、ゆっくり目を開けてください。そのまま深呼吸を」
メリルが静かに声をかけると、長椅子に寝ていた男が目を開く。
文官の着る簡素なウエストコートを身に着けた、三十歳程の男だ。開かれた彼の目は、夢を見ているような、ぼんやりとした色をしている。
その目をじっと見ながら、メリルは彼に重ねて声をかけた。
「どうですか? どこかに痛みを感じる場所はありますか?」
「いや……、どこも痛くない」
男は二度、三度大きく瞬きをすると目を擦る。そして小さく伸びをして、長椅子から身を起こした。
「どうぞ、ゆっくりと立ち上がってください」
「驚いたな……。体が軽い」
彼は立ち上がり、肩を持ち上げたり腰を捻ったりした後、感嘆の声を漏らした。
メリルは柔らかく声をかけ続けつつ、視線では細かく彼の動きを観察する。
どこかに異変はないか。不調を隠しているところはないか。
気が付かれないように一通り文官の体を眺め、それからようやく、彼の言葉が心からのものだと判断した。
「……ちゃんと効いたようで良かったです」
メリルも緊張していた体から力を抜き、安堵の息を吐いた。
もしメリルが普通の治癒魔術師なら、これほど気を揉むことはなかっただろう。だが、彼は毎日、すべての治療にひどく神経を使っている。
何故ならメリルは、――催眠術師だからだ。
催眠術。
それは古代から使われている幻覚魔術の一つ。ごく微量の魔力しか必要ないため、魔力を僅かしか持たない者が多い庶民間での療法として親しまれている。
催眠術師は街角の怪しげな老婆がひっそりと営むような職業で、決して王宮で文官相手に施すものではない。王宮には優秀な治癒魔術師も、薬に魔力を流し込める薬師も沢山いるからだ。
そんな王宮で、メリルは唯一の催眠術師として働いている。
催眠術なんて子供だましだろうと馬鹿にされ、治癒魔術師の使い走りが多いが、それでも正式な王宮付きの役職だ。
「君は治癒魔術師じゃないよな。どうやって治療したんだ?」
「……人の心というのは、意識の殻に守られています。その殻の中にある無意識こそが、その人本来の心。無意識下……潜在意識に催眠術で働きかけて、疲れの原因を取り払ったんですよ」
「潜在意識?」
「はい。人はみんな潜在意識の中の『思い込み』が体にも影響を与えています。それを取り払うと、必要以上の痛みを感じなくなったり、環境が悪化しても疲れなくなったりします。治癒に関係することは少ないですが、強い催眠術では、幻覚を見せることもできるんです」
文官は仕事で強い心理的圧力を感じていたようで、メリルはその思い込み、つまり「重圧を感じている」という意識を取り去る手伝いをしたのだ。
続けて短い睡眠にいざない、心身の疲労を取る催眠術を重ねてかけた。普段は重圧のせいで眠りが浅くなっていた彼は、久しぶりにしっかりと休めて体が軽くなったのだ。
「へぇ。思い込み……ねぇ」
メリルの説明に、文官は分かったような分かっていないような、中途半端な声で返事をする。
(……潜在意識なんて急に言われても、理解されないか)
催眠術は魔力がほぼいらないために簡単だと思われているが、実は複雑な術だ。
この文官にしても、彼の疲労の原因が仕事からの重圧にあると会話から見抜けなければ、心身を軽くすることはできなかった。気付かれないように彼の心を開き、入り込んでいかないといけなかった。
つまり、催眠術は心を開いていない人間には通用しないのだ。
更に信頼関係がある人間でも、心が緩んでいないと効きにくい。
心までをも操れるものである一方で、あまりにも制約が多く、捕虜や敵には使えないということが、催眠術師が軽んじられる一因であった。
ため息を吐きたくなるのを堪えて、メリルは身支度を整える文官にクラバットを手渡してやる。
「本当に信じられないよ。催眠術なのに効くなんて。また、〝治癒魔術師がいなかったら 〟来てもいいな」
「……いつでもお待ちしています」
自覚していないのか、平然と失礼なことを言う文官の男。
メリルは内心ぴくりと苛立つが、微笑みを浮かべて腰を折った。
数少ない、素直に催眠術にかかってくれる文官だ。ここで嫌な態度をとったら、せっかく好印象を持ってもらったらしいのにまた疎まれることになる。そんな打算的なことを考えながら、文官の後ろ姿を見送った。
軽い足取りで去っていく、その背中からは疲労の色が抜けている。だがメリルの心は、自分の仕事をやり切ったという充実感よりも、どんよりとした暗さで覆われていた。
「治癒魔術師がいなかったら、か……」
仕事に誇りは持っている。催眠術も、薬や医学の知識も、必死に学んできた。催眠術に関しては、自分がこの国で一番だという自負もある。
……だが時折、どうしようもなく心が重たくなるのだ。
メリルは代々続く、治癒魔術を使う一家に生まれた。
王家の筆頭治癒魔術師を輩出してきた名家、ファーディナンド家。はるか昔、竜や魔人が暴れていた頃、勇者と一緒に国を守った治癒魔術師を先祖に持つ家だ。
その家の次男として、メリルは将来を嘱望されて生を受ける。
だが、その人生には一つ、大きな落とし穴が開いていた。
――メリルにはほとんど魔力がなかったのだ。
直系の子に魔力がないというのは、長いファーディナンド家の歴史で初めてのことだった。
ありえない。そんなことあってはいけない、と両親は平静を失う。幼いメリルに無茶な訓練をさせ、神頼みを繰り返し、しまいには治癒魔術を習得させようと、魔力なしであるにもかかわらず魔術学院にも入れた。
五歳になれば、十歳になれば、十五歳になれば、いやもっと厳しい修業をすれば、魔力が体の底からこみ上げるはず。両親はそう信じ、メリルに過酷な圧力をかけ、訓練を課す。
まだ他の子どもは読み書きもできないような年から、外で遊ぶこともさせずに分厚い魔術書を諳んじさせた。本当なら学友と楽しく過ごす時期なのに。
それでも結局メリルに魔力が宿ることはなく、魔術学院は散々な成績で卒業することとなる。メリルとて家の面汚しにはなりたくなくて必死に勉強をしたが、魔力ばかりは生まれつきのものだ。
たとえ寝ずに魔術書にかじりついても、声が嗄れるほど呪文を唱えようとも、真冬の川に身を浸し泣きながら一晩中祈っても、魔力が湧いてくることはない。
なんでもする。魔力を得て、ファーディナンド家の一員として認められるなら、どんな努力でもする。メリルはそう思い、すべての時間と力を注ぎ込んだ。
だが結局、魔術を習得できなかったメリルを待っていたものは、父からの絶縁だった。
十七歳で格下の分家へ養子に出され、以来十年間、一度も実家に入れてもらえていない。ファーディナンドの姓は取り上げられ、会ったこともないオールディスの姓を名乗っている。
最後に温情としてこの王宮で働けるように口添えしてくれたが……それが果たしてメリルの幸せを願っての行動かと言われたら、首を捻るところだ。
父にとっては、メリルが自分の目の届かない所で恥を晒す真似をしないように、見張っているだけなのかもしれない。
「なんで魔力がないんだろうな……」
もう何百回、いや何万回と考えたことだ。
手入れのされていない、かさついた掌を見てみるが、答えなんてあるわけない。
治癒魔術を使えないのはメリルのせいではないのだ。彼が怠慢で魔術書を勉強しなかったわけでも、悪さをしでかして魔力を封印されたわけでもない。ただ、生まれつき備わっていなかっただけなのだ。
長く過酷な修練の末にメリルが習得できたのは、催眠術のみだった。催眠術はごく微量の魔力しか必要としないため、メリルでも扱えたのだ。
それでも彼にとっては体中の魔力を振り絞らなければならないほど精いっぱいなのだが。
嫌な記憶が脳裏によみがえってきて、すっかり気持ちが暗く沈む。
心なしか、廊下の灯りである魔石の輝きも鈍って見える。
早く家に帰り薬草の資料でも読もうかと思っていたけれど、今日くらいは布団にくるまって早く眠ってしまおうか。いつも自己催眠で疲れをとって勉強してきたが、どれだけ頑張っても厭われる自分が努力するのはひどくむなしい気がした。
「……催眠術だって、人を癒せるのにな」
掌をぎゅっと握りしめ、消えそうな声で呟く。
催眠術なら自分にも使えると知った時は、これで少しは人の役に立てると期待に心が浮き立った。この術を磨き続ければ、きっと誰かに認めてもらえると思って。
だが実際は、いつまで経っても催眠術は軽んじられ、必要とされる機会は少ない。たまに感謝してくれる者もいるが、それはあくまで治癒魔術師がいない場での間に合わせだ。
要らない人間。
メリルは要らない人間だ。
どこへ行っても、必要とされることはない。家でも、王宮でも、誰にも求められず、いないほうがマシだと言われたことすらある。
どれだけ望んでも、どれだけ努力しても、メリルを欲しがる人は誰もいなかった。この世界で一人きり、誰からも顧みられることはない。これまで孤独で、きっとこの先もずっと一人。それがどうしようもなく悲しい。
施術室に鍵をかけ、ため息を呑み込みながら廊下を重たい足取りでのそのそと歩く。
いくらも進まないうちに鋭い声が飛んできて、メリルは驚いて足を止めた。
「メリル!」
どこか棘のある冷たい声。その鋭さにびくりと肩を震わせて振り返ると、廊下の先に細身の男が立っていた。
メリルと同じ、肩まで伸びた銀色の髪に、輝く緑の瞳。しかしその瞳には強い力が籠っていて、自信なげなメリルとは大きく印象が違う青年だ。真っ白な治癒魔術師の衣装に身を包んだ彼は――
「……兄上?」
「兄上と呼ぶなと言っただろう。お前はファーディナンド家の人間じゃない」
予想していなかった彼の出現に思わず兄と呼んでしまい、メリルはピシャリと冷たく訂正された。彼の吊り目が更に鋭く尖っていくのを見て、メリルはしまったと頭を下げる。
「申し訳ありません、ジューダス様」
ジューダス・ファーディナンド。ファーディナンド家の長男で、この国でも有数の治癒魔術師。そして血の繋がりだけでいうならば、メリルの二歳年上の兄だ。
彼はファーディナンド家の汚点であるメリルをひどく嫌っているのに、王宮内で声をかけてくるだなんて、一体どうしたのだろうか。
「ご無沙汰しております」
呼びとめたくせに、居丈高に睨みつけるだけのジューダス。彼と会うのは久しぶりだ。王宮の式典でも、位が違いすぎるため姿を見ることは滅多にない。言葉を交わすなんて、それこそこの数年では一度もなかったはずだ。
何か彼が気に入らないことでもしでかしてしまったのか、とメリルは頭の中であれこれ考えるが、何も心当たりがない。
すると黙っていたジューダスがちらりと辺りを窺い、それからメリルに一歩近づいた。
「相変わらず、灰色のドブ鼠のように辛気臭いな」
馬鹿にしきった、氷のように冷たい声だ。
ファーディナンド家直系の人間は、みんな同じ銀髪に緑の瞳を受けついでいる。それはメリルもジューダスも同じ。やや細身な体型や背の高さも似ているが、強い魔力があるという自信を纏っているジューダスが近づいてくると、メリルはすっかりくすんでしまう。いつも自信なげに視線を下としているせいで、メリルの瞳の色を知る人はあまりいなかった。それに、よく手入れのされたジューダスの輝く銀髪に比べると、メリルの髪の毛は灰を被っているようだ。
加えてジューダスが「ドブ鼠」と言ったわけはもう一つある。
「その薄汚いローブも本当にみすぼらしい。ただでさえ地味な顔にお似合いではあるがな」
治癒魔術師は真っ白なローブ、黒魔術を操る魔術師は黒いローブを、それぞれ国から支給される。
だがメリルはそのどちらでもなく、使い走りや下男と同じ、灰色のローブを支給されていた。治癒魔術師のなりそこないだと言って回っているような色だ。そのことを指摘されて、メリルは羞恥にカッと頬が染まる。
「せっかく父の執り成しで王宮に入ったっていうのに、鼠が餌を探して嗅ぎ回っているように見えるぞ。出来損ないが」
久しぶりに会ったというのに、愛情の欠片もない言葉の数々にメリルは下を向く。爪先を見つめ、ぎゅう、と手を強く握る。そうしていないと震えてしまいそうだった。体を固くして黙り込むメリルに、ジューダスはふんと鼻で息を吐く。
「まぁいい。それよりメリル、よく聞け。俺は今、マリアローズ王女殿下の治癒魔術師をしている」
「それは……さすがでございます」
周りに誰もいないのにもかかわらず、ジューダスは声を落としてひそひそと囁く。その内容にメリルは驚いた顔をした。
彼の口から出てきた名前は、この国の末の王女のものだ。二十九歳というジューダスの若さで王女に気に入られたのなら、それは大層名誉なことだろう。おもねるわけではなく、心からそう思っての言葉にも、兄は冷たい目を眇めただけだ。
「お前なんぞからの世辞はいらん。本題はこれからだ」
「本題、ですか?」
「王女がお前をお呼びだ」
「え? ……マリアローズ王女が、ですか? 私を?」
「ああ。ついてこい」
更に目を丸くするメリルに頷くと、ジューダスは素早く歩き出してしまう。すぐに見失いそうなほどの早足に、メリルは慌てふためいた。
体は疲れ果てているし嫌な予感がするが、マリアローズに呼ばれているのが真実なら、彼の後を追わないわけにはいかない。
ほんの少し躊躇した後、メリルは頭に疑問符を乗せたまま、仕方なしに駆け出した。
今まで立ち入ったことのない、王宮の奥深く。長い廊下を通り抜けた先に、マリアローズの住む部屋があった。
ふかふかの分厚い絨毯が敷き詰められた、目が眩むほど華美な部屋だ。天井からはシャンデリアが吊り下がり、重厚な机の上には溢れんばかりの生花。漂ってくる甘い匂いからも、部屋の主の華やかな性格が窺える。その部屋にメリルはひっそりと通された。
部屋の主であるマリアローズは、寝椅子に体を預けて気怠そうにメリルに視線を投げる。
夜遅い時間だが、その顔にはまだ白粉がべったりと塗られて、髪も結い上げられたまま。服はコルセットを外しゆったりとしたものを着ているものの、それだって繊細な刺繍がふんだんに施されていて重たげだ。とてもくつろげるものには見えない。
十八歳になる末の王女マリアローズは、可憐な美貌からこの国の花とも、春の妖精とも呼ばれている。そんな美しい少女はメリルを冷ややかな視線で見据えると、口を開いた。
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たらりとメリルの額に汗が流れる。本来なら一生に一度だって言葉を交わすことがないような人だ。しかもマリアローズは、激しい気性と我儘で知られていた。王も手を焼いていると密かに噂されてもいる。もちろん、その高貴な身分と美貌のために、誰も表立っては言わないが。
そんな人の私室に呼ばれるなんて、何が起こったのだろう。
心当たりがなくて視線を彷徨わせているメリルに、彼女は声を張り上げた。
「そんなかしこまった挨拶はいいわ! ジューダスからあなたのことは聞いているもの。隠しているけど、本当はジューダスの弟なんでしょう? ファーディナンド家に生まれたのに、魔術を全く使えない落ちこぼれなんですってね?」
細く高い美声による、棘が生えたような辛辣な言葉が次々と飛んでくる。
メリルを馬鹿にしきった、嘲笑交じりの声だ。
言葉の針に刺されて、メリルはちらりとジューダスを覗き見る。だがジューダスも彼女の言葉に同意しているのだろう。汚物でも見るような視線に睨み返されるだけだ。
不意にマリアローズがパチン、と音を立てて扇を畳み、寝椅子から体を起こした。
「ジューダスも可哀そうよね。弟が落ちこぼれなんて。銀の髪も緑の瞳も同じなのに、暗くて見た目がぱっとしないし……わたくしだったら恥ずかしくてしょうがないわ」
「ええ。〝これ〟はファーディナンド家の恥でございます」
ふふ、と愛らしい顔で笑いながら、彼女はまるで品定めするようにメリルを見る。それに呼応するようにジューダスが頷いた。
「でもそんな役立たずなあなたに、わたくし、大きな役目を与えようと思うの。優しいでしょう?」
「お役目、でございますか?」
メリルを馬鹿にした様子を隠しもしないマリアローズが、唇の端を吊り上げて笑みの形を作る。美しい、形の良い唇なのに、背筋が寒くなる笑みだ。
「ええ。あなた、治癒魔術が使えない代わりに、催眠術を学んだそうじゃない。その催眠術で、血まみれ将軍をあなたの虜にしてきてほしいの」
「………………は?」
その手に持った扇で、メリルを指すマリアローズ。ぴたりと真っすぐに指し示されてはいるが、メリルには彼女の言葉が理解できない。思わず間抜けな声を上げた。
「へ、あ、その、おっしゃっていることが……」
「お前は言われたことにただ頷けばいいんだよ、愚図が」
分かりません、と言おうとするのを、ジューダスに遮られる。しかし、さすがに何も分からないまま応とは言えなくて、メリルは食い下がった。
「で、ですが、申し訳ありません。その、理解ができなくて……血まみれ将軍というのは、あのザカリア領のサディアス・ハイツィルト将軍のことでしょうか?」
「そうよ。あの一人で千人の敵兵を屠った鬼とも熊とも言われている、あの男よ!」
サディアス・ハイツィルト将軍。国の南に位置するこの王都から馬で十日は離れた北の土地、ザカリア領をまとめる領主兼、北の軍隊を束ねる将軍だ。
度重なる敵国の侵攻を一人で薙ぎ払い、その鉄壁の守りから英雄と呼ばれる男。滅多にこの王都にはやってこないが、その名前だけはよく聞いている。先程マリアローズの言ったように、一人で千人を屠っただとか、敵将の頭蓋骨を素手で握りつぶしただとか、流れ矢を受けても笑っていただとか、その血にまみれた豪傑としての噂は街でも王宮でも囁かれていた。
強く冷酷な軍神。国の北端を守る、死神すら恐れない男。それがサディアス・ハイツィルト将軍だ。
そんな英雄だというのに、王女は嫌悪に顔を顰め、再び扇を開いて顔を覆う。
「ああ、あの男の名前を口に出すのもおぞましい! よく聞いてちょうだい。そんな卑しい獣が、……わたくしに求婚したのよ! 王女の可憐さに一目惚れしたって!」
「求婚、でございますか?」
マリアローズは花盛りの十八歳で未婚だ。許嫁もいないはず。
一方、サディアス将軍はたしか三十歳を一つか二つ過ぎたところ。やや年の差はあるが、別に珍しいことではない。英雄なら、美しい王女を妻にと望んでもおかしくはなかった。
「それは、おめでとうございます」
メリルが思わずそう言うと、ジューダスが胸倉を掴んで怒鳴りつける。
「めでたいわけあるか! 王女はこの国の花と呼ばれているんだぞ! それをあんな極寒の土地の熊が、図々しくも妻にと願っているんだ!」
「す、すみません」
国の英雄に対してあまりにも酷い言葉なのに、マリアローズも同じ意見のようだ。扇に隠していた顔を見せると、憎々しげに顔を歪めている。彼女がよろりとその体を長椅子に倒れかけさせてみせると、ジューダスは掴みかかっていたメリルを突き飛ばし、慌てて駆け寄り支え起こした。
「無礼な求婚と撥ね除けてやりたいところだけど、相手は英雄でしょう。王の覚えもめでたくて、わたくしが直接断ることができないの」
「マリアローズ王女、おいたわしい……」
ジューダスに支えられて呟くマリアローズ。その芝居がかった口調に、ジューダスが心底悲痛な声を出す。
王族は国の宝と大事にされる一方、庶民では想像もできないような複雑な決まりがいくつもある。彼らの人生は、国のためにと深く搦め捕られているのだ。結婚なんてその最たるもの。個人の意見よりも国の利益が優先されるのだろう。
もし王が「サディアス将軍との結婚は利益がある」と判断したら、彼女が泣こうが喚こうが関係なく婚姻は結ばれる。我儘で有名な彼女であっても、それは覆せない。
まだ若いマリアローズに少し同情しかけたその時、彼女の肩を抱いていたジューダスが、ぐるりと首を回してこちらを振り返った。
「そこでメリル。お前の出番だ」
「は?」
「お前は、心を操るな」
「操る、といえば、はい。そうですが……え、まさか」
「そうだ。催眠術で、将軍の心を奪ってこい」
さっきマリアローズに言われたのはこのことだったのか。
息を呑んだメリルを、ジューダスが更に追い詰める。
「簡単なことだ。ザカリアの砦に潜り込み将軍に催眠術をかけろ。お前を恋人と思い込ませるなり、惚れさせるなりして、求婚を取り下げさせればいい。幸い、王が返事をするまでまだ少し時間がある。血まみれ将軍を骨抜きにしてこい」
この国の女性が結婚する時は、持参金などの条件を決定する婚姻協議の時間が設けられた。それは数日程度で終わるものではなく、下級の貴族の場合ですら一月はかかる。王女への求婚なら、その倍以上は時間がかかるだろう。
いや、時間があるからといって頷けるようなことではない。
「待ってください! ほ、他に、……他にもっと適任の者がいるのではないでしょうか!? 私は男でございます! それに催眠術は、強い効き目があるものではございません!」
「女で誘惑することも考えて貴族の娘を何人か送り込んだが、全員送り返されてきた。熊のくせに選り好みが激しいのか、正攻法では陥落しない。黒魔術師も考えたが、将軍は魔術耐性があるうえに砦の中で黒魔術なんて使ったら側近が飛んでくる」
「ですが、私が行くのは不自然ではないですか!?」
「安心しろ。来月、治癒魔術師団をザカリアに派遣する。それにお前も一員として潜り込め。俺も治癒魔術師の筆頭として同行するから、見張りもできる」
ジューダスはふん、と鼻を鳴らして告げる。全く安心なんてできないのに、まるで聞く耳を持たない様子だ。
「別に死ぬまでザカリアにいて、将軍と添い遂げろと言っているわけじゃない。求婚を取り下げさせたら、王都に戻っていい」
「ですが、そんな……」
「治療でもなんでもいい。理由を付けて傍に寄り、隙をついて催眠術をかけろ。簡単なことだろ」
簡単なわけがない。何しろ催眠術は、相手が心を開いていないとかけられないのだ。あまたの戦場で死線を越えてきた血まみれ将軍が、そう簡単に心を開くわけがなかった。
それに味方とはいえ、軍を束ねる将軍にそんな催眠術をかけるなんて、もし企みがバレたら叩き斬られてもおかしくない。あまりにも無謀な計画だ。命を賭するには分が悪すぎる。こんな話、とてもじゃないが受け入れられない。
そんなメリルの心の裡を読んだかのように、ジューダスは酷薄そうな目を細めた。
「頑張れよ、メリル。これに成功したら父上だってきっと喜ぶ」
「……父上? 父上は、このことを知っているのですか?」
「ああ。魔力なしのお前がようやく役に立つとおっしゃっていたぞ。期待している、とも。成功したら、ファーディナンドの家に戻してもらえるかもな」
ジューダスの声が、まるで狡猾な蛇のように耳に滑り込んでくる。
役立たずはいらないとメリルを切って捨てて遠縁の家に押しつけた、もう二度と声も聞けないと思っていた父。ずっとメリルを軽んじ、最後には自分の子ではないとまで言っていた父。
「父上、が……期待……」
メリルがジューダスの言葉を呑み込もうとしていると、パチンと扇の音がした。
「メリル、ジューダス。いつまでごちゃごちゃ話しているのかしら?」
これまで口を噤んでいたマリアローズが、美しい顔を不愉快そうに歪めて見ている。
「わたくしが『催眠術をかけろ』と言っているのよ? まさか断るなんてこと、考えているわけじゃないでしょうね? 治癒魔術師から落ちこぼれた催眠術師風情が」
「い、いえ……」
冷たく言い捨てられて、メリルはその迫力に気圧されるように一歩後ろへ下がる。
あまりにも無茶な命令。だがもう逃げられないのだ。それを突き付けられたようだった。
「とんでもないことです……すべて仰せのままに」
メリルがそう言うと、「それでいいのよ」とマリアローズが酷薄そうに微笑む。そんな彼女を見て、ジューダスも嬉しそうに笑った。
「もし将軍にバレたら、『彼に懸想して、つい催眠術をかけてしまった』って言いなさいね。叶わない恋に落ちた、と。くれぐれもわたくしに累が及ばないように」
「大丈夫ですよ、王女。俺が傍で厳しく見張っていますからヘマはさせません。たとえ出来損ないでも」
二人の笑い声が、まるで悪魔の声のように部屋に響く。
――ああ駄目だ。逃げられない。ここには誰も助けてくれる人はいない。
メリルの命なんて彼らにとっては石ころと同じ。たとえ自分が失敗して処刑されても、二人の心は少しも痛まないのだろう。
どれだけ自分の存在は軽いのだろう。絶望に目の前が暗くなっていく。
自分なんて誰も求めない。誰も気にかけることがない。
頭の中がぐらぐらと揺れ、倒れそうになるのを足を踏ん張ってなんとか堪える。下唇を噛みしめ、細く細く息を吐きながら、心が冷えて固まっていくのを感じた。
第二章 ザカリアの砦
「おい! そこの灰色のあんた! 退いてくれ!」
「すみません!」
「治癒団の方! どなたか止血用の薬を貰えませんか!」
「わ、私が出します!」
広いはずの医務室に、ひっきりなしに兵士が飛び込んでくる。荒々しい足音に怒鳴り声。それから乱暴に扉を開け閉めする音が朝から晩まで部屋中に響き渡り、メリルは目が回りそうだった。
ザカリア領は国の最北端だ。一年の半分近くを雪に閉ざされているが、昔から狩猟が盛んで、質の高い毛皮がとれると有名だった。他にも魔石が採掘され、この地を潤わせている。
そして何より、この土地は敵対する隣国からの守りの要所。その砦は、メリルが想像していたよりもずっと大きく堅牢な要塞だった。
小山のような砦が敵国を迎え撃つようにそびえ立ち、この土地を侵略する者がいないかと睨みつけている。灰色狼に似たくすんだ色をした堅固な石造りの砦は、すべて見て回ると半日はかかりそうなほど広い。戦いのための見張り台や門塔だけでなく、高い塀の内側には兵士や使用人の住む棟、訓練場や厩舎もあった。
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のらねことすていぬ
BL
神子として異世界トリップしてきた元サラリーマン呉木(くれき)。この世界では神子は毎年召喚され、必ず騎士に「貰われて」その庇護下に入る、まるで結婚のような契約制度のある世界だった。だけど呉木は何年経っても彼を欲しいという騎士が現れなかった。そんな中、偶然美しい少年と出会い彼に惹かれてしまうが、彼はとても自分には釣り合わない相手で……。
※年下王子×おじさん神子
悪役令息を引き継いだら、愛が重めの婚約者が付いてきました
ぽんちゃん
BL
双子が忌み嫌われる国で生まれたアデル・グランデは、辺鄙な田舎でひっそりと暮らしていた。
そして、双子の兄――アダムは、格上の公爵子息と婚約中。
この婚約が白紙になれば、公爵家と共同事業を始めたグランデ侯爵家はおしまいである。
だが、アダムは自身のメイドと愛を育んでいた。
そこでアダムから、人生を入れ替えないかと持ちかけられることに。
両親にも会いたいアデルは、アダム・グランデとして生きていくことを決めた。
しかし、約束の日に会ったアダムは、体はバキバキに鍛えており、肌はこんがりと日に焼けていた。
幼少期は瓜二つだったが、ベッドで生活していた色白で病弱なアデルとは、あまり似ていなかったのだ。
そのため、化粧でなんとか誤魔化したアデルは、アダムになりきり、両親のために王都へ向かった。
アダムとして平和に暮らしたいアデルだが、婚約者のヴィンセントは塩対応。
初めてのデート(アデルにとって)では、いきなり店前に置き去りにされてしまい――!?
同性婚が可能な世界です。
女性も登場しますが、恋愛には発展しません。
※ 感想欄はネタバレを含みますので、お気をつけください‼︎(><)
嫌われ者の僕はひっそりと暮らしたい
りまり
BL
僕のいる世界は男性でも妊娠することのできる世界で、僕の婚約者は公爵家の嫡男です。
この世界は魔法の使えるファンタジーのようなところでもちろん魔物もいれば妖精や精霊もいるんだ。
僕の婚約者はそれはそれは見目麗しい青年、それだけじゃなくすごく頭も良いし剣術に魔法になんでもそつなくこなせる凄い人でだからと言って平民を見下すことなくわからないところは教えてあげられる優しさを持っている。
本当に僕にはもったいない人なんだ。
どんなに努力しても成果が伴わない僕に呆れてしまったのか、最近は平民の中でも特に優秀な人と一緒にいる所を見るようになって、周りからもお似合いの夫婦だと言われるようになっていった。その一方で僕の評価はかなり厳しく彼が可哀そうだと言う声が聞こえてくるようにもなった。
彼から言われたわけでもないが、あの二人を見ていれば恋愛関係にあるのぐらいわかる。彼に迷惑をかけたくないので、卒業したら結婚する予定だったけど両親に今の状況を話て婚約を白紙にしてもらえるように頼んだ。
答えは聞かなくてもわかる婚約が解消され、僕は学校を卒業したら辺境伯にいる叔父の元に旅立つことになっている。
後少しだけあなたを……あなたの姿を目に焼き付けて辺境伯領に行きたい。
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