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1巻
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しおりを挟むプロローグ 妹の婚約解消と代償
サルタニア王国シャルマン子爵家の次男として生を受けてから二十年。
どうも俺には生まれたときから前世の記憶があるらしく、前の世界である日本では、誰かを助けようとして、車に轢かれて亡くなったようだ。
目を覚ましたらシャルマン子爵の次男として生まれ、今まで適当に生きていたんだけど……
今日は珍しく、朝から父が俺を書斎に呼んだ。
実の家族ではあるのだけど、今まで父の自室に呼ばれたことは片手で数えるぐらいしかない。まぁ、前世でも家族との繋がりは希薄だったし、異世界もこんなものだろうと家族の団欒は早々に諦めていた。
「父上、どのようなご用件でしょうか」
久しぶりの実子に目もくれず、背を向けて窓の外を見る父。
書斎はだいぶ前に見たときと変わらず、見栄のために買ったと思われる絵画や調度品が肩身狭そうに置かれていた。
「単刀直入に言うと、リリーがライア公爵様との婚約解消をした」
「え?」
あいかわらずなんだこのごちゃごちゃした部屋は、と思っていたら耳を疑うような言葉が。
「だから代わりにお前がライア様のところに行け」
「はぁ? えっ?」
俺の妹リリーは、プリンシア学園という王室や有力貴族の子供が通う学園で寮生活を送っている。そこで、ライア・ダルトン公爵様と出会い、約一年前に婚約を結んだばかりだ。
なのに婚約解消って……いくらなんでも早すぎない?
「リリーが学園のパーティーで、第一王子のアル・サルタニア様に婚約を申し込まれたのだ。さすが私の娘。公爵家より上の王室から婚約を申し込まれるなんて!」
くるっと俺のほうを振り返って喜ぶ父には申し訳ないが、第一王子にはいい噂を聞かない。裏で闇取引をしているとか、女遊びがひどいとか。
今の情勢は第二王子のルイ・サルタニア様に流れているし、ダルトン公爵家は代々続く由緒ある家柄だ。
俺だったら先行き不安な王子様より、安心安定の公爵様を取るけどなぁ……
でも下手なことを言って、また食事抜き一週間とか言われたらたまったものじゃないので、余計な口は挟まないでおく。
「それで、一方的な婚約解消にライア様がお怒りでな。膨大な違約金を請求してきたんだが……」
父の渋い顔に、心の中で『あーね』と相槌を打つ。なんせ俺の家には金がない。
長男ウェスの大学費用と、リリーの学園費用。家の資産も気にせず豪遊する父。その上、兄と妹を社交界で目立たせるため、教育費や衣服などに膨大な額を投資してきた。
もちろん、俺にはそんな待遇はない。次男の俺は兄のスペアだし、目をかけられるどころか出来損ないと邪魔者扱いされてきた。兄も妹も寮で生活しているから、邪魔者扱いしてくるのは主に父だけど。
だから今は、使用人とほぼ変わらない(なんなら使用人以下)の生活を送っている。学園生活も社交界も、俺には夢のまた夢だ。
「で、ライア様にそんな大金は払えないと断ると『なら算学ができる有能な者を差し出せ』と言ってきた。そこでお前、算学できたよな?」
「え、まぁ、簡単なものでしたら」
「よかったな。役立たずのお前がやっと家族に貢献できるときがきた」
「えっ」
「お前が公爵家に行けば金は必要ない。リリーは王子と結婚でき、わがシャルマン家は安泰だ!」
「えっ、は? で、でも算学できる者なら使用人のブランが最適では?」
「やつがいなくなったらこの家の財務管理は誰がする? お前がいなくなっても誰も困らない。なんなら食いぶちが減って嬉しい限りだな!」
「…………」
呆れて二の句が継げない。使用人代わりに、家族を差し出す貴族なんて聞いたことないけど、今までの扱いからして納得だ。
でも、誰も困らないわけではないだろう。
少なくとも今まで俺に仕事を押しつけて、遊び呆けているブランは困るんじゃないかな……
「わかったなら、ぼーっとしないで準備しろ。それとも罰を受けたいのか?」
「あ、いえ、すみません」
俺は鞭打ちを避けるためにも、そそくさと部屋を出て、自室に戻る。
幸いにも私物は少ない。
小さなボストンバッグにすべての荷物を入れると、俺は二十年過ごした生家をあとにした。
もちろん、父は見送りなどしなかった。
第一章 次男、公爵家に売られる
公爵家に向かう馬車の車窓からは夏の青空が見える。久しぶりの外の日差しに目を痛めること数時間、やっと公爵邸が現れた。
さすが貴族界トップクラスなだけあって、面積も華やかさも桁違いだ。
「今日からここで生活するのか……それは悪くないかも」
使用人も連れず一人で行かされたから、俺の独り言を聞く者は誰もいない。
「まぁ、捨てられないように頑張るだけか」
ライア様の評判はさまざまだ。若く有能な上に見目麗しいという噂もあれば、ひどく辛辣な性格で能力のない者はすぐにクビ、という悪い評判もある。
できれば捨てられるのは避けたい。実家にも帰る場所はないし。
でもこれといって優秀な能力があるわけじゃないから、捨てられる可能性は高そう。
俺が暗澹たる未来に心を沈ませていると、馬車はすでに公爵邸の玄関前に到着していた。
玄関前に立つメイドさんは、クラシックなロングスカートにまとめ髪をした上品な女性だ。彼女は軽くお辞儀したあと、俺をライア様の執務室まで連れていく。
「ライア様、シャルマン家の方がいらっしゃいました」
「入れ」
緊張しながら中に入ると、初めて見たライア様は紙に埋もれていた。
というのも、大きな窓を背にしたデスクには紙が山のように積んであり、それが邪魔で顔が見えない。デスクの前には来客用のテーブルとソファがふたつあるが、そこも書類で埋め尽くされている。
「初めまして、ジル・シャルマンと申します」
顔が見えないままとりあえずお辞儀すると、紙束の向こうで身動きする気配がした。
「挨拶はいい、まずそこの書類を…………待て、今ジル・シャルマンと言ったか?」
「は、はい」
バサバサと紙の山が崩れる。
と同時に、壮麗な青年が現れた。
鋭い瞳にきらりと輝く真っ赤な虹彩。艶やかな黒髪と白い肌のコントラストは、息を呑むほどに美しい。
初めて目が合ったライア様は、確かに噂に違わぬ、いや、噂以上の美男子だった。
「は、はぁ!? な、なんでお前がここにいる!?」
「あ、えっと、算学のできる者をとのことでしたので」
「おい、お前のところのブランはどうした。あいつなら算学もできるだろ」
すごい。まさか使用人の名前を覚えているなんて。頭がいいというのは本当らしい。
「あー、その父が、使用人のブランはいないと困るが、お前ならいなくなっても困らないと……」
「は? 要は家族より使用人を取って、お前がここに来たと?」
「え、ええ」
そんな人間がいるなんて信じられない、という顔で俺を見るが、俺もまったくの同意見だ。
「じゃあ出来損ないの次男を押しつけたってことか……ちっ、なら金をもらえばよかった!」
本人は小声のつもりかもしれないけど、ばっちり悪口が俺の耳に届いている。
ただ出来損ないなのは事実なので、文句は言うまい。
「はぁ、だが仕方ない。お前、算学はできるんだよな?」
「は、はい」
「見ての通り、今は税収処理の時期でとても忙しい。ここに来たばかりで申し訳ないが、今すぐあそこの紙束ふたつを処理してもらう」
小盛りぐらいの紙の山をふたつ、ライア様は指さす。
「作業する部屋は少し待ってくれ。今から客室を片付けさせる。まさか令息ご本人が来るとは思っていなかったからな……使用人部屋しか用意していなかった」
えっ、と言いそうになるのを、慌てて抑える。
まさかちゃんとした部屋を与えられるのか? 婚約解消の違約金代わりに来たのに?
「先に使用人用の部屋に案内させる。お前の使用人はどこだ?」
「あ、いや、その、使用人はいません」
「は? じゃあ身の回りの世話はどうするんだ」
「家ではひと通り自分でしていたので、そこは大丈夫かと」
「…………」
絶句による沈黙が居心地をより悪くさせる。
使用人のいない貴族は珍しいかもしれないけど、そこまで驚くことか? この世界の次男の扱いってこんなもんでしょ?
「まぁ、いい。なにかあったら、後ろにいるメイドのナティに頼んでくれ」
「はい」
ちらっと振り返ると、ここまで案内してくれたメイドさんが立っている。
軽く会釈したけれど彼女は無表情のままだった。
「説明は以上だ。なにか作業でわからなければ聞け。部屋が整い次第、すぐに作業を始めろ。それまでは応接室で待っていればいい」
「わかりました」
俺は体を前に戻しながら、首を縦に振る。
部屋も使用人も用意してくれるなんて、ライア様は意外と優しい。
口調は厳しいけど、もしかしてすごくいい人なんじゃ……
「最後に。舐めた仕事をしてたら、容赦なくこの家から放り出すからな。子爵の子だからと甘えた態度を取るつもりなら覚えておけ!」
「は、はいっ」
前言撤回! 全然優しくないっ!
もし捨てられたら俺は路頭に迷って死ぬし、実家は支払いができなくて没落……
なんとしても、それだけは避けなければ!
それから応接室で待つこと三十分ほど。
俺はナティさんに呼ばれて、三階にある客室まで案内してもらった。
「ジル様、こちらがお部屋になります。馬車にほかのお荷物が見当たらなかったので、お部屋には入れていないのですが……」
「あ、荷物はこの鞄だけなので大丈夫です」
「えっ」
「え?」
二人で顔を見合わせる。
ナティさんは元から表情に乏しいのか真顔で固まったあと、
「……かしこまりました。書類はテーブルに置いておきます」
と言って、テーブルに紙束を置いた。
「ありがとうございます。あと、挨拶が遅くなってしまいましたが、俺はジル・シャルマンと申します。今日からよろしくお願いいたします」
捨てられるまでの短いお付き合いかもしれないけれど、一応俺をお世話してくれる人だ。念のため頭を下げて、挨拶をする。
でも、ナティさんから返事は返ってこない。
しばらく待っても静かなままなので恐る恐る顔を上げると、ナティさんは微かに目を瞬いていた。
「えっと、どうされましたか?」
「あ、いえ、使用人に頭を下げられる方に初めてお会いしたもので」
ナティさんは動揺を隠すように、表情を元のポーカーフェイスに戻しながら、
「では、私はこれで失礼いたします。なにかご用があれば、扉横の紐を引いてお呼びくださいませ」
と言って、部屋から出ていった。
変なことをしたかな、と少しだけ不安に思いつつも、改めて案内された部屋に目を向ける。
天井は高く、豪奢なシャンデリアがつるされている。椅子と書類が置かれた丸テーブルは見るからに高そうで座るだけでも緊張しそう。
正直、久しぶりの馬車移動に疲れたし、今すぐ天蓋付きのベッドに飛び込みたい。
でもそれより、テーブルに置いてある書類をどうにかせねば。
「うわ、意外と量あるな。寝ずにやれば終わるかな?」
かなりあるように見えても、俺に任された書類は執務室にあるほんの一部。公爵領は広いから仕事も膨大だ。すべての作業を七月の間に終わらせると考えると残り三週間といったところか。
「執務室にあるあの量を、残り三週間って……本気?」
途方もない作業に意識が飛びそうになる。
「と、とりあえず、任された分は終わらせないと」
鞄からペンと紙を取り出して、一枚一枚捌いていく。作業としては単純で、黙々と手を動かしているうちにあっという間に時間が流れていった。
途中、日が暮れたころにナティさんから夕食の差し入れをもらい――ご飯がついてくるんですか!? と言ったら、また不思議そうな顔をされた――深夜にさしかかるあたりでトイレに立った。
廊下の窓からは明かりのついた執務室が見える。ライア様も寝ずに作業をしているらしい。
そういえば、初めて会ったとき目の周りに少しくまがあったような……それでも非常に美しく見えたけれど。
ライア様は妹のリリーと同じく十八歳だ。きっと今は、高等部三年の履修が終わって九月から始まる四年次までの夏休み期間だろう。
うーん、公爵位を継いでいるとはいえ、若いのに無理して大丈夫なのだろうか? それに、ほかに手伝う人がいないのも気になる。
「まぁ、そんなことより目の前の仕事を終わらせないと、か」
急いで用を足し、部屋に戻って残りの書類を片付ける。
すべてが終わるころには、空がうっすら明るくなっていた。
早速扉横の紐を引っ張って、ナティさんを呼ぶ。
すると十分もしないうちに、ナティさんが部屋に現れた。
「失礼いたします。ジル様、いかがされたでしょうか」
「あ、すみません、早朝に。書類が片付いたので、ライア様に提出お願いできますか?」
「はい、かしこまりました」
と、ナティさんが書類を一掴み分しか持っていかないもんだから、俺は慌てて「あ、もう一山、忘れていますよ」と声をかけた。
「え?」
「え? この山ふたつ、全部ですよ、ね?」
だんだん自分で言ってて自信がなくなってきた。もしかしてほかにもあったんだっけ?
「これ、全部終わったんですか?」
「は、はい。早朝までかかってしまいましたが」
も、もしかして、昨日の夕方までに終わらすはずの量だった、とか?
だとしたらやばい、全然間に合っていない!
「かしこまりました。ライア様にお渡ししてきます」
ナティさんは微かに目を見開いたまま、大量の書類を抱えて出ていく。
もし、もしもだ。これが昨日の夕方までに終わらせるはずの書類だとしたら……
「お、終わった! 昨日の今日で絶対に捨てられる!」
となると、こんな豪華な部屋を堪能できるのも今日が最後だ。
なら今からベッドで寝ておくか!? それとも窓から外に逃げるべき!?
ばっばっとベッドと窓に視線を走らせていると、
「ジル様、ライア様がお呼びです。至急とのことで」
扉の外からナティさんの声が聞こえてきた。
え、捨てる判断するの早すぎない? もうお役御免?
背中に冷や汗をうっすらかきながら、でも、それはそうだよな、と自分に言い聞かせる。
使えないやつは、捨てられるのが世の常識。出来損ないの自分には、居場所なんてない。
諦めて大人しく従おうと執務室へ向かったら、ライア様は俺が作業した書類に目を通していた。
「……貴様、これはどういうことだ」
「も、申し訳ございません!」
とりあえず頭を下げる。そしたら捨てられはしても、痛みのある罰は免れられるかもしれない。
「謝罪はいらないっ! 誰にこの書類を見せた、ブランか!? それともほかの者に手伝わせたのか!?」
「も、申し訳……えっ?」
誰に見せた? ほかの者に手伝わせた?
「シラを切る気か? ただの納税書だとしてもこれは公爵領の資料だ。それを無許可で外部の者に見せてただで済むと思うなよ!」
「え、ま、待ってください! お、俺は外部と連絡なんて!」
てっきり『作業が遅い!』と怒鳴られると思ってたのに。
怒られる理由が予想外すぎて、顔を上げる。
「嘘をつくな! 三日はかかる処理が昨日今日で終わるわけないだろっ! 誰かに手伝わせたことは明白だ!」
バンッ! とライア様がデスクを叩きつける。
「誰に見せたか今すぐに言え! じゃないとあとで後悔するぞ!」
「そ、そんな! お、俺は、ずっと朝まで一人で作業を……!」
「何度も言わせるなっ! 出来損ないの次男にできるはずがない!」
ライア様はそう言って、勢いよく俺の胸ぐらを掴む。
ぎゅっと首が締まり、息ができなくなった。
「ラ、ライアさ、まっ!」
ど、ど、どうしよう! 全然話を聞いてくれない!
これじゃ無傷で捨てられるどころか、生きていられるかも怪しい。
どうしたらライア様は信じてくれる? それとも犯してない罪を認めたほうがいい?
酸欠で視界が狭まり、思考が乱れる。
とりあえず、す、すみません! と謝ろうとしたとき、
「ライア様、失礼ながら私の発言を許していただけないでしょうか?」
凛と静かなナティさんの声が、執務室に響いた。
「ナティ、今は取り込み中だ」
ぎりぎりまで目を動かすと、てっきり部屋から出ていったと思っていたナティさんが扉の前でライア様を見つめている。
「ライア様、ジル様は外部と接触していません。ジル様のいたお部屋は三階ですし、夜間は外に通じる扉も閉まります」
「それだけじゃ証拠にならん!」
「夜、何度かトイレに立つジル様を見た、という使用人もいます。彼らを呼んできましょうか?」
「…………」
「ライア様もお気づきなのではないですか。ジル様に不正は不可能だと」
「ちっ」
ライア様は舌打ちをしながらも、俺を締め上げていた手を離す。
急に支えがなくなった体は床に倒れ、通りがよくなった喉からは咳が出た。
「じゃあ、どうやってこの量を終わらせたのか。ナティ、お前はどう説明するつもりだ?」
「それはジル様にお聞きするのがよろしいかと」
ナティさんは数秒俺に目線を落とすと、あとは知りませんとでもいうように、一礼して部屋を出た。
「お前、本当に一人でやったのか」
「けほっ、は、はぃっ……」
さっきからそう言ってるじゃん! 全然話聞いてないなこの人!
「信じられん。今ここで証明してみせろ」
「……!」
冷たい声音とともに、一枚の書類とペンが俺の目の前に落ちてくる。
俺は床に四つん這いのまま、震える手でペンを握りしめると、必死に帳簿の計算を始めた。
この世界の簡単なルールはブランから聞いていた。
父から食事抜きの罰を受けている間、パンをもらう引き換えにブランの仕事をしていたのだ。そのときの通りにやれば、きっと大丈夫。
なぜかわからないけど、ナティさんがくれた救済措置。
絶対無駄にはできない。
「っと、これが、これで……は、はい、終わりました……っひ!?」
床に向けていた視線をもち上げると、思っていたよりも近距離にライア様のお顔があって小さな悲鳴が出る。
「ラ、ライア、様」
「お前、この方法はどこで学んだ?」
「え? あ、えっと、き、基礎知識はブランで、す」
目をまん丸くさせた貴公子に間近で見つめられて、美しさにドキドキする。
「じゃあ、ここと、ここの計算式もか?」
「あ、いや、そこは俺が自分で考えたというか」
ライア様が指したのは、俺が前世の知識を頼りにこの世界に合うよう編み出した独自の計算式のところだ。
「独学で、ということか?」
「そ、そうですね?」
なにか気になる部分でもあったのだろうか?
実家ではなにも言われなかったし、特に大きな間違いをしたわけじゃない。
お互いしゃがんだまま、無言で床の書類を見つめること数秒。
不安で心臓が爆発しそうなとき、ライア様は片手を胸に置いて頭を下げた。
「ジル殿、先ほどは疑ってすまなかった。こんなに早くできる方法があるとは知らず、ひどく失礼な態度を取ってしまった……許される行為ではない。本当に申し訳ない」
「……っ!? ラ、ライア様っ! お、お顔を上げてください! 俺も税収処理はブランの代わりにやっていただけで……」
急な謝罪に慌てていると、ライア様は訝しむような表情で顔を上げた。
「待て、ブランの代わりだと? じゃあシャルマン家領地の税収管理はジル殿がやっていたのか?」
「え、あ、えっと……そ、そうなりますかね?」
家にいたときは、ブランの仕事をやる代わりに食事をもらっていた。だからずっと黙っていたけど、もう実家に帰れるわけでもない。
ブランの事実が知られようと、俺が路頭に迷うことに変わりはないのだ。
なら正直に言っても差し障りないだろう。
「じゃあブランはなにをしていたんだ? 聞いていた話とだいぶ違うな……」
「はぁ、そうなんですか」
ライア様が先に立ち上がったので、俺も立ち上がりながら返事をする。
「どういうわけで次男が使用人の仕事をしているのか、聞きたいことはたくさんあるが……それより、今は早急に人手が必要なんだ。見ての通り、八月に王室へ提出する予定の領地報告書が終わりそうもない」
ライア様がばつが悪そうに執務室の資料を見渡す。
確かに、ライア様一人で到底終わる量ではないのは明らかだ。
「俺以外に、誰か手伝う使用人とかは?」
「それが、本来はセバスという執事がいるのだが、彼の姉が危篤との知らせがあってな。私が領地に帰らせたのだ」
「そういうことだったのですね……」
「こんな忙しい時期に人手を減らすなど、馬鹿な領主だと思っただろう?」
自嘲気味に笑うライア様に、俺は思わず「そんなことありません」と口から出していた。
「先ほどのナティさんの話も最後はちゃんと聞いてくださいましたし、ライア様のようにお若くて、下を思いやれる領主はそういませんよ」
前世でも今世でも、部下を気遣える上司はそう多くはない。
若くしてそれができるライア様は、公爵家の立派な領主になるだろう。
今はまだ、余裕がなさそうだけど。
「……そうだろうか」
「ええ……あっ! も、申し訳ございません! 出すぎた発言をお許しください!」
あまり納得していないような、神妙な顔つきをするから慌てて謝罪を申しあげると、
「ははっ、ジル殿、許しを請うのはこちらだ。誠に申し訳ないことをした」
ライア様は少し微笑んでから、また頭を下げる。
その一瞬の笑みがあまりに柔らかくて心臓が変な動きをした。
「……ライア様、もう謝らなくて大丈夫ですよ。それに俺のことは殿などつけず、ジルとお呼びください」
冷静に考えれば、今まで終わるかも怪しい作業を一人でしてたんだ。そんなの、誰だってカリカリするだろう。ライア様は若いのに頑張ってるし、今までのことは水に流そう。
まぁ、これが大人の余裕ってやつ? 二歳しか違わないけど。
「ありがとう、じゃあジルと呼ばせてもらおう。早速仕事の話だが、申し訳ないことに今はジルと賃金や待遇について契約を交わす時間も惜しい。だが、絶対に王室報告作業が終わり次第、話し合いの場を設けると約束する」
え、賃金っ!? てことはお金が出るの!?
衣食住の保障だけじゃなくて、お賃金まで!?
テンションがぐっと上がる。
でも期待して裏切られるのが怖いから、賃金は仕事をさせるための嘘だと思っておくことにした。
「口約束で不安だろうが、ジルにしか頼めない仕事だ。引き受けてくれるか?」
ライア様は不安げに、俺に向けて手を差し出す。
婚約解消の代償でこっちは来ているんだ。それを盾にすれば俺は逆らえないのに。
この人はちゃんと、俺の意思を聞いてくれる。
そんな優しい公爵様に答える返事は、ひとつしかない。
「はい、ライア様。俺でよければ、改めてよろしくお願いいたします」
「ありがとうジル。こちらこそ、よろしく頼む」
昨日はなかった握手を交わし、正式に今日から公爵家の仕事をすることになった。
そうこうしている間に、公爵家に来てから早三日。
ナティさん経由でライア様から仕事を受け取り、自室で作業する日々が続いている。まだまだ執務室には書類があるそうだけど、わずかに減ってきているらしい。
怒涛の仕事続きでも俺という人員が増えたことにより、ライア様は寝る時間が少しは確保できたようだ。この前深夜に廊下を通ったときには、執務室の明かりが消えていて安心した。
別で気になるのは、ナティさんのこと。
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