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1巻
1-1
しおりを挟むプロローグ
うっそだろ、と思わず呟いていた。
目の前の光景が信じられない。
俺は、しがない男爵家の嫡子として生を受けた。しかしその生活にどうにも違和感がぬぐえていなかった。
自分の中に見知らぬ光景がずっとあったし、それが、自分が生まれる前のものだというのも感覚でわかっていた。
けれど、だからどうした、という気持ちだった。
でも、目の前の光景を見て、気付いた。
ここは、前世で最高に熱く滾る時間を過ごしたスマホアプリゲーム『光凛夢幻∞デスティニー』の世界だと。
だって目の前に。
俺が前世、推して推して推しまくった『オルシス様』ショタバージョンが立っているから‼
◇◆◇
『今日も今日とて推しが尊い……』
『わかる……今日は友人ルート無限ループしてた』
『それ、私昨日やった。あの少しだけ頬を染めながらはにかむオルシス様、史上最高』
『はー尊い……』
毎日の癒しである熱いオルシス様討論会のチャット内容を目で追いながら、俺はハー、と息を吐いた。
文字通り、オルシス様は史上最高。
俺の中で至高の推しだ。
オルシス様はSNS内で話題になったスマホアプリ、『光凛夢幻∞デスティニー』という育成シミュレーション乙女ゲームに出てくる攻略対象者の一人だ。
アプリの告知で彼の紹介画像が流れてきた瞬間、彼に俺のハートは撃ち抜かれた。
俺のドストライクだった。
光の加減で薄い水色に見えないこともない、ストレートでサラッサラの銀髪を肩口まで伸ばした彼の、物憂げな表情と冷たい視線。性格はいたってクールで、表情はほとんどない。氷の貴公子というSNS上のあだ名まである。さらに義理の弟を可愛がっている。弟の立ち絵はなかったけれど、実は優しいお兄様だったというその設定だけで胸が躍った。
別に彼を実際に恋人にしたいとかそういうことではない。ただただオルシス様は、まるで絵を描けと言わんばかりの美貌で俺を虜にしたのだった。
そこから沼に堕ちるまでは早かった。
アプリをインストールし、時間があればひたすらやり込み、課金し、絵を描く日々。
本職の会社員はもうおまけのようになっていたけれど、バラ色の人生だった。
設定集もゲットし、ひたすらオルシス様のことをSNSで垂れ流すうちに、いつの間にやらオルシス様至上主義の民がサイトに集まって、毎夜熱い討論会を繰り返していた。
もちろん男の俺がオルシス様推しだとドン引かれそうなので、ネカマである。
趣味で描いていたイラストはオルシス様一色と化し、垂れ流す呟きはオルシス様の考察が八割を占めた。残り二割は本職のちょっとした愚痴である。
その日も、確か俺はオルシス様の情報を集めてネットをさまよっていた。
そして、とある言葉が目についたのだ。
『オルシス様の弟君は、どうやらオルシス様を差し置いて父親に溺愛されていたのではないか』
見たことのない設定に俺は目を瞬かせつつ、反論する。
『でもオルシス様は弟が可愛いって。仲よかったって』
するとすぐに返信が付いた。
『パソストちゃんと読みました? あ、限定ガチャで出てくる私服姿のパソでした。私三万課金でゲットしたんですけど』
「パソスト……え、読んでない」
思わず声が漏れた。その間にも、さらに画面上に返信が連なる。
『すぐにでも読むことをお奨めします! どうやら自分には厳しい父親が後妻の連れ子である弟を可愛がるのが辛かったらしく、物憂げな最高にセクシーな顔で『弟は可愛いけれど、同時にどうしようもなく憎く思うときもあって、その時はそんなことを思う自分自身を消したくなった』って。もう天使かよ』
『天使は同意。これからチャージしてゲットします』
その返信を見た瞬間、俺は返事を打ち込んで、アプリを起動した。流れるように課金画面に給料の半分近くをぶち込みながら、俺はオルシス様の物憂げでエロ……セクシーな顔に思いを馳せる。
どんな顔でも最高。弟を憎んじゃうのも人間味があっていいし、そんな自分を悔やむオルシス様ホント天使。
まだ見ぬオルシス様がいることに憤りを感じつつ、ガチャを回し、何度も回し、ガチャ用のアイテムを溶かし――
◇◆◇
前世の記憶ではっきり思い出せたのはそれくらいだ。
どうやってここに転生したのかは覚えていないし、その後、自分がオルシス様の追加データをゲットしたのかも記憶にない。でももしゲットしていなかったなら、死んでも死にきれなかったと思うから、きっとゲットしたはず。
そして俺はこんな風に、どこぞの男爵家に生まれているわけで……
目の前には、どう考えても小学生くらいのオルシス様がいる。
俺は今四歳の子供として母に手を引かれ、母の再婚相手の家に到着したところだ。
迎え入れてくれたのは、とても綺麗でカッコよくて若い新しい父様と、俺の新しい兄。
それは銀髪に、まるで宝石のような紫色の瞳をキラキラとさせた、最高に美しくて可愛い……
オルシス様でした!
どこからどう見てもオルシス様のショタバージョン!
え、待って。俺、弟?
オルシス様の弟になれるの?
どんなボーナストラック?
それとも俺、昇天して今天国に来ている?
もしかして死んだの?
目の前のオルシス様は、動かない俺に心配そうな視線を向けている。
その視線すら尊い。目の前の最推しのあまりの天使さに目の前がクラリと回る。
「……っ」
あまりにも現実離れしたこの現実に頭がパニックを起こしたのか、心臓はバクバクし始めて、呼吸することが困難になった。
肺がギュッと押されて、心臓が痛いくらいに跳ねて、ゲホッと咳が出る。
推しが目の前にいることで、どれだけ動揺してるんだよ、俺。
「アルバ⁉」
「アルバ君!」
「――きみっ」
母と新しい父の声。それに、ああ、推しが俺に手を伸ばしてくれている。
あの手を取ったらもう何も思い残すことはない。
ビバ、転生。もう、死んでもいい。
まるで喘息のように咳が止まらず、呼吸が出来なくなる。
あれ、俺、目の前に推しがいたから心臓がバクバクしているんじゃなくて、これは病気の発作が起きているんじゃ……
ようやく自分が発作に襲われているんだと気付いたのは、泣きそうな顔で俺の身体を抱き締める母と、焦ったような顔で俺の顔を覗き込む新しい父親と、俺の手を遠慮がちに握る推しの顔を見てからだった。
ああ、オルシス様、そんな心配そうな顔も最高。俺、ショタには萌えないはずだったのに。オルシス様は俺の性癖まで簡単に叩き壊してくれるんだね。どんなオルシス様でも最高と思える俺が最高。オルシス様がいると俺いつでも前向きになれるよ。
息が出来ずに苦しくなりながら、抜けていく身体の力を振り絞って、繋がれているオルシス様の手を堪能する。
俺、生まれ変わってよかった! って今まさに死にそうだけど!
一、最推しの義弟になりました
目が覚めると、とてもふわふわなベッドの上だった。
目を開けた瞬間「アルバ!」と母の声が聞こえる。
「母様……」
そちらに顔を向けると、母が俺を見つめていた。
ああ、最初の挨拶でやっちまったと悟り、目を瞑る。
深呼吸して、咳が出ないのを確認してから、今回もちゃんと生き永らえたことにホッとする。
俺は『ラオネン病』と呼ばれる、先天性の病持ちだ。
生命と直結する魔力を枯渇させてしまうこの病は、後天的には罹らない、らしい。俺もあんまり詳しくは知らないけれど。
『神の気まぐれ』という意味の名を持つこの病は、発作が起こると喘息に似た症状が現れる。その酷い咳によって吐き出される呼気と共に、普段は身体の中を巡っているはずの魔力が外に排出されてしまう病だ。病名の由来は、心地良い魔力を持って生まれてくる子供の魔力を神が気ままにいただいてしまうから、というもの。
気まぐれで魔力をいただかれる度に死にそうになるなんて、たまったモノじゃない。
この世界では、魔力がなくなると命まで削られる。
普通に魔法を使った場合は使用する魔力の量を自分で調整できる。しかし、ラオネン病の場合は身体から出ていく魔力を自力では留めることが出来なくなり、最終的に魔力が枯渇し死に至る、というわけだ。
俺はまだ四歳だけど、何度脳内の大河を渡ろうとしたかもう覚えていないほどだ。
対処法は、魔力回復の薬を服用することだけど、薬もピンからキリまであって、安価な薬ではその場限りの応急処置にしかならない。
効果の高い薬もあるけれど、平民やあまり裕福ではない貴族では高価すぎて手が届かない。
俺が生まれついた男爵家がそうだった。というよりもそこまで裕福ではなかったけれど一応体裁を保っていた男爵家が、俺が生まれたことでより貧乏になってしまったと言ったほうが近い。
そもそもラオネン病に罹って今まで完治した人はいないらしいし、大人になった患者もいないそうだ。そのせいで自分の子供がラオネン病を患って生まれた平民は投薬すら諦めるくらいだと聞く。
効き目の薄い薬だって安くはない。それもあって、母は義父との再婚を決めたのだ。ここまで生き永らえさせてもらったことが、本当にありがたい。
また倒れてしまってごめんなさい、と言おうとして呼吸が止まった。
母の隣には、新しい父となる公爵と最推し――オルシス様が立っていたからだ。
視界にオルシス様が入ってくると、俺の視線はそこから動かせなくなった。
流石美ショタ。心配そうに眉尻を下げているその顔もとても尊い。
心配そうなレア顔、ゲット。このころはまだ、表情筋は元気だったんだね……
あれ? 俺はもしかして、とんでもないレアシーンに立ち会っているのではなかろうか。
だって、ゲーム内のオルシス様を落としても、好感度マックスにしてオルシス様から告白してもらっても、彼の表情筋は動かなかったもの。ただただほんの少しだけ頬を染めるその顔が尊い以外の言葉が出なかったけれど。
周回しまくった友人エンドルートの最後のスチルだけは、オルシス様が仄かに口もとを上げて、「あ! 今、笑った……のか?」っていう微妙な表情を見せてくれる。
それを最初に見た時はガチで涙が出た。笑えたんだね。ほんとによかったね、って気持ちで。
そんな最推しが、俺に向かって心配そうに眉尻を下げているなんて、やっぱりさっき昇天してしまったのかもしれない。
「アルバ君、大丈夫かい? 辛いところは? 薬は飲めるかい?」
硬直していると、義父が俺の顔を覗き込んで優しい声をかけてくる。
その言葉にも興奮でうまく言葉が出てこない。
この声、ゲームのオルシス様とそっくりだ。よく見ると顔も似ている。……この義父、オルシス様にすごく似ている! うおお、母はなんて男を捕まえたんだありがとうございます! これだけで俺的幸福度は満たされます。そして、義兄オルシス様によって天国にいます。
「もう、大丈夫?」
状況をうっとりと堪能していたけど、オルシス様の心配げな言葉でハッと我に返った。
「だいじょうぶ……です」
ずっと咳をしていたから喉がガサガサで、声が掠れた。
するとこれを飲みなさい、と義父がカップを差し出した。母がスプーンでその中の液体を掬って、俺の口まで運んでくれる。
温かくて甘い飲み物だった。喉がスッとするからハーブティーのような何かかもしれない。
今まで住んでいた貧乏男爵家では水しかもらえなかったから、甘いお茶がとても美味しく感じる。こういうところに家の格を感じるよね。世知辛い。
「……ぜんぜんごあいさつできなくて、ごめんなさい」
「いいんだよ。これからはちゃんと薬を用意するからね、安心して暮らしなさい」
少しだけ滑らかに出るようになった声で二人に謝ると、義父とオルシス様はまったく同じ表情で目を細めた。そのそっくりな仕草で、超ド級のキュンに萌え殺されそうになる。やめて、ようやく一命をとりとめたのに。
「ありがとう、ございます」
寝たままで申し訳ないと思いながらお礼を言うと、義父は「いいんだよ」と極上の笑顔を俺にくれた。
そこでようやく、簡単な自己紹介をしてもらった。義父の名前はハルス・ソル・サリエンテ。
そしてやっぱりというかなんというか。
「オルシス・ソル・サリエンテです。今日から僕は君のお兄さんだから、辛くなったらすぐに教えてね」
「お……し……」
ああ、本当に推しだ……。思わず呟くと兄様は極上の笑顔を俺にくれた。
「そう、オルシス」
笑顔、笑顔!
俺が欲してやまなかったその顔は、とんでもない破壊力で俺の涙腺を刺激した。
全俺が、あまりの尊さに泣いた。
「……~~っ!」
「あ、アルバ……⁉」
さらに名前を呼ばれる追撃に俺の涙腺はまったく耐えられず……また、意識を失ってしまった。
いきなり泣き出した俺に、そこに居た全員、使用人までが慌てたということは、目覚めた後に母から聞いた。
ちなみに、母は再婚をするつもりはなかったそうだ。
俺から見ても、母と俺の実父の仲は良好だったし、ちゃんと愛し合っているのがわかっていた。
そもそも実父は男爵家の三男で、女の子一人しか生まれなかった母の元に婿養子に来た。同じ男爵家だから気兼ねもなく、本当に仲がよかったらしい。
でも、長男として生まれた俺が『ラオネン病』を患っていたせいで、領地が狭く元々そこまで裕福じゃなかった我が家の家計はさらに苦しくなっていった。
実父はなんとか家を存続し、俺を生き永らえさせようとしてくれた。それで働いて働いて、領地の見回りを続けた結果、ある日、酷使し続けた馬車の車輪が壊れる事故で俺より先に儚くなった。
――そして今から一年ほど前のことだ。
俺の薬代と実父の死、二つの心労が重なって塞いでいた母を少しでも気晴らしさせるため、と、祖父母が綺麗なドレスを無理して贈り、夜会に出した。そこで母は義父に見初められた。
フワフワのミルクティー色の髪と、ピンクがかった蜂蜜のようなまん丸の瞳を持つ母はとても可愛らしく、義父のドストライクだったらしい。
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最推しのお母さんが既に亡くなっていたのは、ゲームの知識で知っている。
家族仲は悪くはなかったようだけれど、お母さんが亡くなってからは、嫡男だからとただただ厳しいだけのしつけと勉強を強いられて、最推しと義父の仲は冷え切ってしまっていたというのが、最推し――兄様の持つ背景だ。
「アルバ、今日は元気そうで何よりだよ」
「ありがとう、ございます」
――だから、今目の前にいる義父は優しい顔をしているけど、俺は騙されない。最推しを無表情にするほど厳しい義父なんかにはほだされないぞ。声はちょっと好きだけども。顔も最推しそっくりだから、き、嫌いじゃないけれども。
「これも食べるかい?」
「ありがとうございます……」
義父はこんな厄介な子供を抱えることになったとは知らず、ようやくベッドから降りられるようになった俺を膝の上に抱き上げて、おやつを食べさせている。
サクサクのクッキーなんて、家ではめったに食べられなかったからついつい進んでしまう。
ハッとして顔を上げると、兄様がこちらを見ていた。
ちょっと兄様、そんなドン引きした顔を俺に向けないでください。そんな顔も最高に可愛いけれども、悲しい!
思わず義父の膝の上から落ちそうになったところを、義父の手で支えられる。
義父は、母そっくりな俺を母と同じように愛してくれるようだ。デロデロな顔で俺を膝に乗せている。
それはとってもありがたいのだけど、目の前の最推しショタオルシス様の視線が痛い。それにいい大人が子供を差別するなよ、と、ちょっとだけイラっとする。
これか、これが、前世仲間内で推測されていた『父は実の息子であるオルシスには厳しく、義理の息子だけを溺愛していた』ということか。アレは真実だったのか。
なんということだ。このままずっと義父に溺愛されていたら、一番好かれたくて、一番仲よくなりたいオルシス様には憎まれてしまう。
そ、そんなのいやだ。
その思いを込めて潤んだ瞳で兄様を見つめると、兄様は溜息をひとつついて、口を開いた。
「父上。アルバが困っているので、そろそろ膝から下ろしてあげてください」
俺の目には、兄様が救世主に見えた。最推しが救世主、ここは天国です。
兄様の言葉に喜んで振り向くと、義父がスッと表情を変えた。
まさに劇的な変化だった。同じ人だとわかっているのに、違う人なんじゃないかと思ったくらいに、義父の瞳は冷たかった。
「オルシス。お前はそろそろ家庭教師の来る時間ではないか。準備をしなさい」
「……わかっています」
義父の冷たい口調に、兄様が小さく溜息をついて立ち上がる。
……こういうことが積み重なるから、ダメなんじゃないか⁉
慌てて義父の膝から飛び降りて、兄様の元に走り寄る。
「兄様! 僕が困っていたと気付いてくださってありがとうございました! これからお勉強ですか?」
出て行こうとする兄様のズボンをガシッと掴んで見上げると、兄様はうっすらとした作り笑いを浮かべて、俺の頭を撫でた。
あーー! 頭撫でてもらった! 今日は頭洗わない!
心の中で絶叫してから、そうじゃない、とハッとする。
こんなふうに嫌われていきたくなんてない。立ち去ろうとする兄様のズボンをそのまま掴んでいると、兄様が怪訝そうにこちらを向く。
同時に慌てたように義父が立ち上がった。
「あ、アルバ、困っていたのかい? 父様の膝の上は座り心地が悪かったのかい?」
「いいえ、父様。僕も兄様のように立派になりたいので、今からお勉強がしたいです」
兄様のズボンを掴んだまま振り返ってそう言うと、義父は眉尻を下げた。
「オルシスは我がサリエンテ公爵家の後継だから、しっかりと学ばないといけないんだよ。アルバはまだ幼いだろう。暇なら父様と遊ぼう」
「兄様はいつもしっかりと学ばれています。とてもえらいです。父様は兄様のような素晴らしい後継がいて、誇るべきです。そんな兄様をもっと褒めるべきです。兄様はポンコツな僕とは違って、本当に素晴らしいんですから」
「……オルシスを、褒める……?」
俺の言葉に義父と兄様は動きを止めて、ぽかんとした顔で俺を見た。
その顔が目に入り、あ――――と心の中で変な声を上げ、思わずその場で丸まって悶えてしまう。
兄様の呆けたお顔が! 可愛いが過ぎる! その顔最高なんですけど!
いつものきりっとした隙のない表情からは考えられないちょっとおまぬけな顔は、心の中のアルバムに、レア顔第二位として登録された。
ひとしきり悶えてから冷静になる。兄様のお顔に見惚れていてスルーしてしまうところだったけれど、どうして兄様を褒めるという選択肢が義父の中にないんだろう。これだけ立派なんだから、たくさん褒めるところはあるだろうに。
我に返ると、まるで猫を持ち上げるように兄様に身体を持ち上げられていた。小さいのに力持ちなの、素晴らしい。
思いがけず近づいた美麗な顔に息を止めると、兄様はほっとしたように息を吐いた。
「発作が起きたのかと思った。……ああ、いや、アルバ、僕はやらなければいけないことをやっているだけで、素晴らしくなんてない。まだまだだよ。それに、アルバはポンコツなんかじゃないよ」
そう言って俺を抱き上げる兄様の手は、とても温かかった。
ええ、この状況で丸まった俺のことを心配してくれてたの⁉
こんないい子を褒めずして、誰を褒めろというのか義父よ。
そしてこんなに表情豊かな兄様の表情筋を殺す奴はもう万死に値するんじゃなかろうか。
犯人は誰だ。俺だ。俺と義父だ。死んで詫びなきゃ……
俺は顔を上げて、必死に声を絞り出した。
「僕は、すぐに寝込んでしまうポンコツです。でも兄様は違います。父様が兄様を褒めないのでしたら、僕が兄様を褒める栄誉をいただいてもいいでしょうか。毎日何度まで褒めてよろしいですか? 朝から晩まで褒め倒す自信があります。そんなことをする僕を兄様は迷惑に思いませんか」
ギュッと握りしめたせいで、兄様の肩口に皺が寄っているのに気付いて慌てて離す。
ああ、兄様のとてもカッコいい洋服が皺になってしまった。あとでアイロンを借りなければ……ってそうだった。この家はそういう雑事を全部メイドの人がやってくれるんだった。ありがたい。
そんな余計なことを考えるのはやめて、俺は兄様の目を見つめる。
「僕は兄様の弟になれて、無上の幸福を味わっています。兄様は本当に素晴らしい人です。僕は兄様が他の人以上に努力しているのを知っていますし、その努力がそのうち必ず開花し、この国で最上の方になるのもわかっています。たまには疲れる時があると思いますが、兄様はそんな状態でもとても頑張るいい子です。そして他人の機微を感じ、フォローもしてくださるとてもお優しい方です」
目の前の兄様の目が、見開かれていく。まっすぐ俺を見ているとても綺麗な紫の瞳に勢いづいて、俺はさらに言葉を続けた。
「兄様は毎日たくさん褒められるべきです。兄様はすごくいい子です。僕は口が下手なので上手な褒め方をすることが出来ませんが、兄様はとても素晴らしいです。これは兄様本人でも否定させません。僕は兄様が本当に、大好きで」
驚いたように俺を見る兄様に、俺はもしかして意味が通じてなかったのかと言葉を重ねる。
だって、本当にオルシス様は努力家で凄いんだ。十五歳で既に氷の上級魔法をしっかりと身につけていたんだよ。これは本当に努力をしないと出来ないことだから、それだけでもオルシス様のそれまでの努力の片鱗がわかる。
成績にしても、テストのときは必ず上位五名の中に名を連ねる。というか、何らかの条件で他の人がトップに躍り出ない限りほぼ一位を独占していたはず。ということは座学も今までずっと頑張ってきたってことだ。
剣が取り柄だけど魔法は苦手な攻略対象者、魔法は抜きんでていても剣があまり得意ではない攻略対象者もいた中で、オルシス様は本当にオールマイティだった。
それってかなり凄いことだよ。奇跡と言われてもいい。
とはいえ、ゲーム内のオルシス様は性格に難あり人物だったんだけどね。死滅した表情筋とバカ高い理想の壁。クスリとも笑わないし、ほぼデレがない。少しでも失敗すると、途端に好感度が下がるクールすぎる性格。
でもその理由は分かった。義父が兄様の上位互換みたいな存在だったからだ。そして兄様に自分のようであれと、幼いうちから強要する人だったからだ。
兄様に対する態度以外は問題なさそうだけど、義父は兄様にだけ冷たい。
「父様も、それは知っているのではありませんか!」
俺に手を差し出そうとしている義父に視線を向ける。
確かに義父は俺に対してとっても優しい。甘すぎると言ってもいいぐらいだ。
でも俺にとって一番ポイントが高くなる、推しを一緒に愛でるというところでダメダメなのでダメなんだ。これで俺と一緒に兄様を褒めて褒めて褒めまくれるような義父なら最高だと思うのに。一番大事なポイントがダメだ。
すると、父はハッと我に返り、慌てたように弁明した。
「私だってオルシスの努力は認めているよ。でもね、公爵位を継ぐというのはとても大変なことだ。そのことを忘れてほしくなくて、私は」
「大変なことをするときは褒めてはいけないと誰が決めたんですか。父様がそんなだから将来兄様の表情筋が死滅してしまうのです。そんなことにはさせません。僕が兄様の笑顔を守ります。もう父様には期待しません!」
「オルシスの、表情……なんだって?」
プイ、と横を向くと、義父がとても困惑した表情をした。それを見た兄様は、義父を見て、俺を見て、ふと、「ふは」と声を漏らした。
こ、こ、声を出して笑っただとおおおお?
耳元でのかすかな笑い声に、うぐぐ、と変な声が出そうになって必死で耐える。
また丸まりそうになった俺の背を優しく叩いて、兄様は義父に視線を戻した。
「ふふ、失礼しました。父上がそこまで動揺するのを初めて見ましたので」
「あ、ああ……まあいい。それよりアルバ、オルシスの『ヒョウジョウキン』というものがどうしたと?」
こほん、と咳をして表情を正した義父は、声を出して笑う兄様に信じられないような顔を一瞬だけ見せてから、俺に問いかけた。
表情筋なんて言葉はこの世界にはないらしい。義父が戸惑っているのが分かる。
俺は少しだけ考えてから、口を開いた。
「兄様はこのまま大きくなると、父様と仲たがいしてまったくお顔の筋肉が動かなくなってしまいます。お顔の筋肉が動かないと感情を表すことが出来なくなって、まるで人形のようになっちゃうんです。兄様はとても綺麗なので、それはそれで眼福なのですが、そうなってしまう理由が僕と父様のせいなのはいやです。僕は兄様のこの尊い笑顔を死守したいと思っているのです!」
ノンブレスで言い終えてから、感情が駄々洩れてしまったことに気付いた。
尊いとか言ってしまった。ヤバいヤバいドン引かれそうだ。
「すみません、言いすぎて……ないけど、言いすぎました」
これ以上何かを言うとさらに引かれてしまいそうな気がしたので、驚いた顔の兄様を恐る恐る確認してから、俺は口を噤んだ。
一日三回兄様を褒めようという目標を自分に課しながら。
そうでもしないと際限なく兄様を褒めちぎり崇め奉り、兄様にさらにドン引きされて距離を置かれてしまいそうだ。
義父は少しだけ視線を巡らせたあと、盛大に溜息をついた。
「つまりアルバは、私がオルシスから笑顔を奪ってしまうと言いたいのかい?」
俺がはっきりと頷くと、義父は少しだけ眉を寄せてから、「わかった、善処しよう」と呟いた。どう善処するのか、徹底的に見張らせてもらうとしよう。
俺は兄様の腕の中でキリッと義父を見上げた。
義父はまだ苦笑気味だったけれど、俺の頭を撫でて、それからわずかに躊躇ってから兄様の頭を撫でた。義父の行動に兄様の瞳が大きくなる。
その光景にちょっぴりホッとした。
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