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1巻
1-1
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――ああ、時が巻き戻せるなら。
あの言い伝えが本当なら、どうかこの願いを叶えてほしい。どんなことをしてでも――
灰色のローブで全身を覆う謎の魔術師は、時を遡る術を持つという。
その存在は各国で民話やお伽噺のような形で語り継がれているが、ほとんどの人は信じていない。
それを信じる人は、ごく僅か。そう、絶望の淵に立たされてもなお、ほんの少しの希望を捨てきれずにいる者たちだけだ。
たとえば今、彼の目の前に立つこの人のように――
「……なるほど、それがお前の人生という訳かい」
「……これで、願いごとをしに来た理由に納得したか?」
それまで聞き役に徹していた灰色のローブの男はうっそりと笑うと、左手で空中に何かを描く。
「今度こそ幸せになれ」と言いながら。
すると、突然、何もなかったはずの空間が光を帯び、輝き始める。
ふたりのいる室内が、町が、都市が光で包まれ、そうして時は巻き戻る。
――あの日、あの時の、運命の瞬間へ。
第一章 知らなかった、分かっていなかった
「誓います」
祭壇の前に立つのは、華やかに着飾った新郎と新婦。色鮮やかなステンドグラス越しにきらきらと光が降り注ぐ中、ふたりは愛を誓う。
今日というこのめでたき日、伯爵令嬢である私――ラシェル・シュリンゲンは、武門の誉れ高きバームガウラス公爵家の当主であり、現王国騎士団長でもあるヘンドリックさまに嫁ぐ。十六という若さで、単独で王子を暗殺者から守りきった過去を持つ彼は、王家の覚えもめでたき高名な騎士だ。
純白の花嫁衣裳を纏う私を見た参列者の誰かが、咲き誇る白薔薇のようだと囁いた。そんな賞賛の声は私をよけいに切なくさせる。
……だって、ヘンドリックさまが私に視線を向けることは一生ないと分かっているもの。
今だって、彼はただ不快そうに眉根を寄せて前を見据え、私を見ようともしない。
彼には、心から愛する恋人――アリーさんがいる。彼女は貧民街出身の平民であり、公爵家当主である彼がどれだけ深く愛そうとも、ふたりが公に結ばれることは決して叶わない。彼は高位貴族として、同じ貴族から妻を娶り、後継を儲ける義務があるからだ。アリーさんを妾として囲うことはできても、妻とすることは許されない。そう、それは決して結ばれることのない恋だった。
けれど、ヘンドリックさまは両親による説得に背を向け、今も彼女を手元に置いている。それどころか彼はこう宣言した。
『俺は生涯をかけて、アリーただひとりを愛する。政略のために娶る妻に情を移すことはない。俺にとって妻とは子を産むための道具、その扱いを覚悟で嫁ぐがいい』
歴史ある名家バームガウラスは、公爵位の筆頭に当たる存在、つまり上にあるのは王家のみ。
あんな宣言をしたにもかかわらず、最終的にヘンドリックさまが花嫁を得られたのは、筆頭公爵家としての権力をかざしたからだと囁く人もいる。
でも真実は違う、これは最初から全てを承知した上での婚姻なのだ。
子を産むためだけの形ばかりの正妻の座、愛さない、情けはかけない、大事に扱うことはない、そのことへの文句も言わせない、それらの事項を盛り込んだ文書への署名を求められ、私の父――シュリンゲン伯爵は了承した。
その時の父の心境を私が知ることはないけれど、少なくとも私自身は進んでサインをしたのだ。
――ヘンドリックさまに恋をしていたから。
一年前、私はヘンドリックさまに命を救われた。
慰問先の孤児院で犯罪に巻き込まれ、危うく攫われそうになったところを、ヘンドリックさまに助けていただいたのだ。
その時に私が連れていた護衛はひとりだけで、対する相手は七人。
多勢に無勢で護衛はすぐに満身創痍になり、倒されるのも時間の問題だった。私は怖くて声すら出せず、ただ泣きながら物陰で震えていた。
そこに颯爽と現れたのが、ヘンドリックさまだった。
非番で街に出ていたという彼は、子どもたちの悲鳴を聞き、通報を受けた騎士たちよりも早く駆けつけた。一瞬で三人を倒し、残る破落戸たちもじきに拘束。電光石火の早業でことを収束させたものの、彼は感謝を告げる間もなく立ち去ってしまう。
それきりヘンドリックさまと会う機会はなかったけれど。
――私は彼のことが忘れられなかった。
ヘンドリックさまが貧民街出身の平民と恋に落ちた話は有名で、私の耳にも当然その話は届いていた。けれど、それくらいで私の想いは変わらない。
だから、バームガウラス夫妻がヘンドリックさまの結婚相手を探していると聞いて、喜んで受けた。
彼に愛されなくても、子を産む道具の扱いだとしても構わない。あの方の妻になりたい。側にいられるだけで幸せになれると思った。
だって、知らなかったから。
愛する人に愛されない苦痛を、人ではなく道具として扱われる意味を、そしてヘンドリックさまの狂気にも似たアリーさんという女性への執着を。
たとえ私にそのつもりがなくても、アリーさんを押しのけて正妻として嫁ぐことがヘンドリックさまの目にどう映るかなんて、この時の私は考えもしなかった。
「お前を愛するつもりはない。初夜だからとお前を抱くこともない」
結婚したその日、私はヘンドリックさまから『お前』と呼ばれる存在に成り果てた。
冷たい眼差し、不機嫌そうに寄せた眉、固く引き結ばれた口元。彼は全身で私が不快だと告げる。
「お前は子を産むための道具として嫁いだのだ。孕みやすい日を医者に算出させた後、その夜だけ子種を注ぎに来る」
それだけ言うとヘンドリックさまは出ていき、私はひとり、初夜の床に残されたのだった。
翌日には医者に診察され、子どもができやすい日を知らされる。そうして、ヘンドリックさまは前夜の宣言通り、その算出日になるまで私の前に現れることはなかった。
……仕方ないわ。
この時の私は、まだヘンドリックさまの心を思い遣る余裕があった。
アリーさんを愛するヘンドリックさまを愛したのは私で、それでもいいと了承の上で嫁いだのも私。
たとえヘンドリックさまが普段滞在するのが平民街に用意した彼女がいる家だとしても、式からずっと夫の姿を見ることが叶わなくても、正妻として彼の役に立てるならそれで十分だなんて。
すぐに愚かな夢だと思い知るとも知らず、ただ無邪気に彼のことを想っていた。
医者が算出した日のひとつ目が近づくにつれ、私の中で本当の初夜を迎える緊張と期待が高まっていく。片想いだとしても私からすれば恋する相手との行為、やっと願いが叶うと心は歓喜に震える。
だが、夢の終わりは呆気なかった。
約一ヶ月ぶりに現れたヘンドリックさまは嫌悪の表情を露わに、ベッドの端っこで所在なく座っていた私をいきなり押し倒す。愛のささやきどころか挨拶すらなく、夜着もそのままで裾だけを捲り上げて、私の太腿を露わにした。
驚きで声が出ない私の目の前で、ヘンドリックさまはトラウザーズの前部分だけを寛げ、雄を取り出したのだ。
「ヘンド、リックさ」
「静かにしろ」
愛撫も口づけもない。それどころか、まだ名前すら一度も呼ばれていない。ただ鋭い視線だけを向けられ、思わず私の体がぶるりと震える。
これが初夜? そう思うのに、ヘンドリックさまは気にする様子もない。
彼は黙って私の下穿きをずり下ろすと、両足を掴んで乱暴に広げる。
まさかこのまま……?
掴む手の力の強さに思わず顔が歪み、頭から血の気が引く。
行為そのものは、もちろん初めてだが無知ではない。貴族令嬢として、閨の教育はちゃんと受けている。
だからこそ分かる、今から夫がしようとしていることは。
「ヘンドリック、さま。あの」
「黙っていろ。すぐに終わる」
懇願のように零れた言葉は、すぐにあっさりと遮られる。
ヘンドリックさまはそのまま、処女の固く秘された箇所を解すことなく、その猛々しい昂りを無情にも突き立てる。
「……っ!」
それまで誰も触れたことのない、きつく閉じられていた秘所。太く硬い昂りを押しつけられても、すんなりと入るはずはない。
身を引き裂くような痛み。あまりの苦痛に私の目から涙が零れ、ついに叫び声が上がる。
それでもヘンドリックさまは、構うことなく雄をねじ込もうと腰を動かす。無表情のまま容赦なく昂りを奥へと進め、腰を打ちつけた。
そうして、ことは半刻もかからずに終わる。
「孕んでいなければ、またひと月後だ」
そんな言葉だけを残し、ヘンドリックさまは部屋を出た。
血が滲むシーツの上に横たわったまま、私は呆然と天井を見上げる。無理矢理に開かれた秘所は、体を動かそうとするだけでひどく痛む。
『俺は生涯をかけて、アリーただひとりを愛する。政略のために娶る妻に情を移すことはない。俺にとって妻とは子を産むための道具、その扱いを覚悟で嫁ぐがいい』
今になって、やっと私はその言葉の意味を知ったのだった。
バームガウラス公爵家の後継を産み、ヘンドリックさまに喜んでもらえればそれで良い。あの方を支えることができれば、それだけで幸せだから……なんて。
私は、そんな言葉に酔っていただけなのね。
膨らみ始めたお腹を見つめ、過去の私を自嘲する。
六回にわたる子作り作業の後、私は妊娠した。診察でその事実を知った時、これでようやくあの苦行から解放されると心から安堵したことに、我ながら笑ってしまう。
心から慕う男性であるヘンドリックさまとの閨は、もはや拷問と同じだった。彼の凍てつく眼差しで睨まれながら、体を引き裂かれるような痛みに耐える。十分足らずで終わる行為の翌日は、最低でも半日は痛みで体が動かせない。
そんな時間は肉体的にも精神的にも疲弊するもので、行為を予定した日が近づくだけで、私は食事もろくに取れなくなるほどだった。
「あんなに嫁ぐ日を待ち焦がれていたのが嘘みたい。……でも、ようやく」
小さな呟きと共に、お腹をそっと撫でる。
この国は、男女ともに相続の権利が認められている。だからどちらが生まれても、バームガウラス家の後継問題は解消するはずだ。
知らず、お腹をさする手に力がこもる。
無事に子どもが生まれたら、ヘンドリックさまの態度は変わるだろうか。彼が公爵家の主としての責任を果たすことに貢献できたら、愛はなくても、せめて私を妻として認めてくれるだろうか。
そんな希望に縋りかけ、ああまただわ、と自嘲する。
分かっている、きっとそんな日は来ない。
ヘンドリックさまの恋人への執着は有名で、私の父は愛娘の行く末をひどく心配し、無理に縁を結ばなくていいと言った。
それでも嫁ぐと言ったのは他でもない私。なんて滑稽で世間知らずの愚かな娘だったことか。愛されないことの意味を知らず、幸せになれると理由もなく信じ込んで。
「……本当、馬鹿みたい、ね」
もうとっくに気付いているのに、それでもまだ報われない恋心を弔えずにいるなんて、本当に私は愚か者に違いない。
産みの苦しみは想像以上に壮絶で、三日三晩続く陣痛に意識が何度も遠のきかける。
長引くお産に母子共に命が危ないと医師から言われ、駆けつけた義両親や義弟は相当慌てたらしいが、当事者の片割れであるヘンドリックさまは、その時まだ屋敷に来てもいなかった。
陣痛が始まってすぐにヘンドリックさまに使いを出したが、彼が到着したのはそれから半日経った夕刻の頃。しかし、生まれる気配がないと言って、彼の両親や弟が引き止めたにもかかわらず、来て一時間足らずで帰ってしまったそうだ。
妻ひと筋の愛妻家で有名な前公爵の義父――シャルマン・バームガウラスさまは、貴族社会において愛人の存在は珍しくないことは理解していたが、出産に際してなお愛人を優先させるヘンドリックさまに大いに失望したらしい。私たちの結婚を機に義父とともに領地に引っ込んでいた義母――ルイスさまも、実際に彼の行動を目の当たりにして落胆する。
これについては、ヘンドリックさまに関して何も報告しなかった私にも非はあるのかもしれない。
けれど、貴族令嬢として厳しく躾けられた私には、家の内情や心情を他者に打ち明けることなどできなかった。その行動がより私を追いつめることになるとしても、無言を貫く以外の選択肢はなかったのだ。
やがて、長く続いた陣痛の末に、私は男の子を産み落とす。小さなベッドですやすやと眠る赤子を眺めていると、出産の疲れからか、強烈な眠気に襲われる。
朦朧とする意識の中、生まれたばかりの赤子を視界の端に映しながら、正妻としての責務を果たせた喜びとふわふわとした幸福感に促され、らしくもなく思ったままを呟く。
「無事に生まれて嬉しいわ。……あの方は、私を褒めてくださるかしら」
くしゃくしゃの顔、上げる産声は小さいのに意外にも逞しい。夫にそっくりの黒色の髪に赤い眼で、顔立ちも夫に似ていると言われ、ああやり遂げたと、誇らしくなる。
けれどヘンドリックさまは現れず、ベッド脇にいるのは彼の両親と弟だけ。もちろん彼らは後継の誕生を喜んでくれているものの、父親不在の現状に不安を抱いているのは明らかだ。
それでも子どもが生まれたことで何かが変わる、あの人だって自分によく似たこの子を見たらきっと変わってくれるだろう、と、そう思っていたのだ。
翌朝、目を覚ますと、待ちわびた夫が赤子の傍らに立っていた。
待望の後継者、そう思っていたのは私だけだったのだろうか。そんな不安に駆られるくらいヘンドリックさまは無表情のまま赤子を見つめていた。抱こうともせず、手を伸ばすことすらしない。
「男だそうだな」
「はい」
私は僅かな期待を込めて頷きを返す。
「名付けは、父上に頼むつもりだ。貴族の血を引く跡取りを望んだのは両親だからな」
「……そうですか」
願っていたものとは違う夫との会話に、少し落胆した。
「あの、ヘンドリックさ……」
「これでようやく安心できるな」
それでも勇気を出して会話を続けようとした時、ヘンドリックさまが安堵の声を漏らす。
役に立てたと口元が綻ぶ。けれど、後に続く言葉で一瞬の歓喜は打ち砕かれた。
「これで、もう無理してお前を抱かずに済む」
ひゅっと喉が鳴る。
「……え?」
今、この人はなんて言ったの?
「もう月に一度、ここを訪れる必要もない……本当に良かった」
淡々と告げられる残酷な言葉に、私はついに理解する。私の努力も苦労も、閨の拷問のような苦痛に耐えたことも全て、この人にとって何の意味もなかったのだ、と。
「未来のバームガウラス公爵となる子だ、しっかりと育てるように。騎士団で訓練が受けられる年齢になった時に、またここに来る」
くらくらと目眩がする。きっと私の顔は青ざめているだろう。
出産を終えたばかりの妻に労りの言葉ひとつもないまま、ヘンドリックさまは踵を返す。
静まり返る部屋の中、ひとり残された私は、目の前ですやすやと眠る我が子を見下ろした。
「……ああ、疲、れた……」
堰を切ったようにぽろぽろと涙が零れ落ちる。
生まれてきた時、愛しいと、大切な我が子だと、確かにそう思ったのに。どうしてなの、もうそんな風に思えない。
零れ落ちる涙がシーツを濡らす。私の側に涙を拭ってくれる人はいない。
きっと、あの書類にサインをして彼と婚約を結んだ日から、私の恋心にはひびが入っていたのだ。
壊れかけていたものが砕け散るのは簡単で、むしろ、ひび割れたものを大事に持ち続けるほうが大変だった。気を遣って、神経をすり減らして、そうして頑張った挙句、結局元には戻らない。
けれど、この恋心は砕けた後も私を解放してくれなかった。手放すのが遅すぎたのだろう。恋心だけでなく、私の心そのものも踏みにじられ、歪んでしまった後では。
なのに、まだ私はそれに気付かない振りをしている。
未だ止まらぬ涙に、不安ばかりが募っていった。
生まれた子は、お義父さまにより「ランスロット」と名付けられた。
ランスロット――それは、この国の有名な童話の主人公である英雄の名前だ。お義父さまは照れくさそうに由来を話してくれたのに、私はヘンドリックさまが名付けを断ったことが悲しくて、あまり喜ぶことができなかった。
そうして、出産の翌日に顔を見せたきり、ヘンドリックさまは義務を果たしたとばかりに、一切屋敷に戻らなくなったのだった。
その行動に、彼の両親はさらに失望を膨らませる。義両親は私に改めて謝罪し、ランスロットの育児環境を整えるため、不在の息子に代わってできる限り援助すると申し出てくれた。
それに謝意を示しつつも、私は何も望まず、そのまま領地へと帰ってもらうことにした。
誰かに頼るなんて公爵夫人として恥ずかしいことで、正妻ならば愛人の存在を寛大な心で許さなければいけない。
それから私は乳母を募集し、マーガレットという名前の女性を選出し、子どもの世話を彼女に任せた。そして私自身は、不在の夫に代わって当主としての執務をこなし始める。ランスロットが三歳になると同時に、家庭教師を付け、緻密な教育プログラムを組み、厳格に授業に当たらせた。
『未来のバームガウラス公爵となる子だ、しっかりと育てるように』
夫にかけられた最後の言葉が、呪縛のように意識の中に沈み込む。
「……分かっておりますわ、ヘンドリックさま」
今や強迫観念に名を変えた親としての責務しか、私には縋るものがない。
ランスロットのスケジュールは、日を追うごとに厳しく、分刻みになっていく。子どもらしく遊ぶ時間など不要と考え、彼の自由時間は全て削らせた。食事の時間もマナーチェックの場と化し、緊張の中でランスロットは料理を口に運ぶ。
ランスロットが六歳の時、堪りかねたマーガレットが、地獄のような彼の教育スケジュールを少しだけでも緩和できないかと願い出た。
……ランスロットの教育を誰にも邪魔させる訳にはいかない。
そう思った私は、すぐさまマーガレットに暇を出した。
その日を境に、ランスロットの教育はより一層厳しいものになっていく。母子で顔を合わせる時間など必要ない。ランスロットはお腹を痛めて生んだ息子というよりも、ヘンドリックさまから養育を命じられたバームガウラス公爵家の後継者だった。
そんな日々の中でも、夫の弟であるキンバリーさまは月に一度、バームガウラス邸を訪れてくれた。彼はランスロットを肩車して連れ回すのが好きらしく、よく肩に乗せては庭園を歩き回っていると報告を受けている。
とても和やかな光景らしいが、生憎と私にそれを眺める暇はない。何度か偶然、執務室の窓から見えたことはあったけれど。
ランスロットは利発な子どもだ。賢く、大人しく、従順で、無口。
屋敷に父の姿がない理由も、母である私と滅多に顔を合わせない理由も、他者から説明されずとも理解しているように見える。聞き分けがよく、過密な教育スケジュールにも黙々と従う。
ランスロットが無垢で従順な子どもでいる限り、私の心はまだ辛うじて平静を保つことができていた。
けれど、子どもはいつまでも子どものままではいられない。時と共に成長するもので、ランスロットもまた然り。子どもから少年になり、いつか男性であると証明される。
そして、ある夏の朝、唐突にその日はやってきた。ランスロットが精通し、それを偶然に私が知ったのだ。
……駄目よ、そんなことは許せないわ。
『しっかりと育てるように』
ヘンドリックさまの言葉が頭の中で木霊し、血の気が引く。結果、私は鞭を手に取った。
「色欲に負けてはなりません。ランスロットはバームガウラス公爵家の後継者。常に清廉かつ潔白でなければならないのです」
そんな、私の口から吐き出された呪いの言葉は、ランスロットを更なる地獄へと突き落とす。
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