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1巻
1-1
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彼の部屋へ足を踏み入れたとたん、妙な気配を察知した。
体術や各種武器の扱いと共に極限まで訓練した、し尽くした私の五感は動物並だと自負している。
敵意、害意、殺意。
そういったものには無条件で反応するように、鍛えぬいてきたつもり。
けれど、何かが違うようだ。
――おかしい、妙だ、とまた思った。
足音を立てぬよう用心しながら、部屋の中へと歩を進めて行く。しかし、身の危険につながるような気配はない。
警戒レベルを少し下げ、それでもまだ緊張は解かずに彼の姿を探す。
誰もいないからといって、彼もいないというわけではない。
玄関ホールから居間へと移動してくる間も、この空間は人の気配に満ちている。
彼――初めての私の恋人は、この部屋のどこかにいるはずだ。
恋人なら出迎えてくれてもいいのにな。
ちょっぴり寂しく思いながら、「でも、一回抱かれただけだったけど」と、私は自嘲気味に口端を上げた。
最後に彼に会ったのは、あの任務に就く前のことだ。
彼と結ばれてすぐ、あの任務のせいで私は激しく落ち込んだ。自分が嫌になって、ふらふらとまるで幽鬼のようにあちこちの町を渡り歩いているうちに、色々あったけれどなんとか立ち直った。
もう大丈夫だと思い、久しぶりに連絡を取ってみたら、そっけない返事と共に日時を指定されたのだ。
きつい暗緑色の瞳、冷たいほどに整った顔。
けれど、私を見下ろす時だけは熱と色を帯びて、それはそれは甘やかなものだったはず。
奇妙な気配への警戒心はようやく少しずつ薄れていった。入れ替わるように、彼と過ごし、眩暈がするほどの幸せを感じた記憶が溢れ出す。
早く会いたい。
たくさん話をしよう。
広いリビングを斜めに横切ると、寝室のドアへとたどり着いた。
閉ざされたドアを一応形式的にノックする。「リヴェア・エミール、参りました」と、うっかり仕事中のように声をかけてから、返事を待たずにドアを開けて、そして。
――立ち尽くした。言葉を失ったまま。
「指定した時間よりも十分早いな。律儀なことだ」
寝台の上の彼は私を振り返り、唇の端だけを吊り上げている。
薄暗い寝室の中でもわかる、冷やかな笑み。裸で、申し訳程度に腰から下を肌掛けで覆っている。
自堕落に横たわった姿勢のまま、私の方へと向き直ったその時、彼の向こうに、人影が見えた。
黒っぽい長い髪。まろやかな体のライン。
――裸の女性が、いた。
「もうちょっと遅く来てくれたらな。帰しておいたんだが」
誰を、なんて。
聞かなくてもわかる。
彼は小馬鹿にしたようにくあっとあくびをした。
「なかなか離してくれなくてな。さっきやっと寝てくれたところだ」
どうして、なぜ?
問い質したい。詰りたい。
それなのに、頭の中を言葉だけがぐるぐる回って、私の喉は引き攣れたように言葉を紡ぐことができない。
眼の前の現実を受け入れたくはないのに、私は極めて冷静にこの状況を理解してしまっている。
彼と、彼以外の人のコロンの香り。汗と、生々しい性の香り。
――彼が、私以外の女性を抱いたのだ。
その後、どうやって自分のホテルまで戻ったのか、私の記憶は抜け落ちている。
きっとタクシーにでも乗ったのだろうけれど、運転手の顔も声も思い出せない。
お金を払った記憶すらないが、ここまで戻ってきているのだからちゃんとお会計は済ませたのだろう。
着替えもせずに、ベッドにダイブした。
ナイフのように私をめった刺しにした彼の言葉と、裸の二人の映像が頭の中をぐるぐる回る。
(お前と同じことをしてやっただけだ)
(どこぞの若僧とお楽しみだったくせに。俺が知らないとでも思ったか)
(淫乱)
呆然としたまま何も言えずに突っ立っているだけの私に苛立ったように、彼は私をひたすら罵り続けた。
よほど疲れているのか、彼の隣の女はぐっすりと眠っているようで起きる気配はなかった。
狸寝入りかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
「どうして、なぜ。……好きだったのに」
今になってようやく、声が出た。
自らのその声を待っていたかのように、どっと涙が溢れてくる。信じられないほどの涙の量だ。
ああ、やっと泣ける、もう泣いていいんだと私は奇妙な安堵を覚えながら目を閉じた。
瞼を下ろしても涙腺は緩んだままで、頬も、顎も、シーツまでもが冷たくなるほどの涙がほとばしる。目と鼻の奥がツンと痛くなってくる。
すべて忘れて、なかったことにしたいな。
私ってば一体いつ、何を間違えてしまったんだろう。
――小さい頃、懐いていた近所のお兄さんがいた。とても優しい人で大好きだったのだけれど、ある日彼は私に悪戯をした。信頼していたからこそ、とてもショックな出来事で……
あの時初めて私は、自らが「女」であることを疎ましく思ったのだった。
そして、その出来事がきっかけで強くなりたいと思い体を鍛え始めた。女子力は皆無になってしまったし、そのせいで寂しい青春時代を過ごしたけれど、面白いほど腕が上がるのが嬉しくて楽しくて、自衛官になろうと思って大学に入った。性別なんて関係ない世界だと思っていたのに、そこでもまた「女性として」たくさん傷ついて傷つけられて、とうとう大学を中退して、語学が得意だったから日本を飛び出して、とある国の外国人部隊に入った。
軍人としての生活は過酷だった。でも、性に合っていたのだろう。
困難な任務を次々に成功させたし、信頼できる戦友たちに恵まれて、初めて本気で好きになった人にも愛されて、この上なく幸せだった。任務で、胸が張り裂けるほど辛い経験もしたけれど、軍隊からは足を洗おうと思ったけれど、何をするにしても彼と一緒なら頑張れる、立ち上がろう、歩き出そうと。そう思ったのに。
「若僧」と浮気したと誤解され、罵られ、目の前で他の女性との情事の名残を見せつけられて……
リセットしたい。何もかも。そう、人間関係もすべて。ゼロスタートしたい。
そんな想いと共に、私は眠りに落ちた。深い、深い眠りに。頬っぺたをつねられても蹴られても起きないくらい深い眠りに。
月光? 夜明けの光? ……最後に覚えているのは、目を閉ざしていても感じるほどに強く、白い光が部屋中に満ちたことだけだった。
* * *
何度目かわからないけれど、寝返りを打ったタイミングで目が覚めた。
はじめはぼんやり、その後だんだん目が慣れてきた。目が覚めても真っ暗だ、と思ったのは気のせいで、柔らかな光がそこかしこの壁龕に灯されている。
繊細な彫刻の施された壁龕、華奢な燭台。視線を巡らせて天井に目を向ければ、素晴らしい嵌め込み細工が見える。天井の全体像が見えないのはベッドに天蓋があるからだ。
と、ここで。
「……天蓋、って、そんなものはあのホテルの部屋には……」
なかったはず、と思ったところで、かすかに椅子のきしむ音がした。誰かいる?
「誰⁉」
「こちらが聞きたい。ようやく起きたか」
素早く身を起こし、反射的に枕の下に手を入れる。一人で眠る時には常に、枕の下に銃を置いていた。まあいつも一人だったから、それは常のことだったけれど。その、銃がない。
愕然としたのと同時に、ベッドの足元から男が現れた。
武器がなければ目の前の人物から奪うのは軍人としての鉄則だ。とびかかろうとした私を、眼前の男は難なく押さえ込んだ。銃がなくて愕然としたその一瞬があれば、男には容易なことだったらしい。こんな状況なのに、男の動きは優美とさえ言えた。
「ちょっ……⁉ ぐ、うぅ」
「大声を出すな。ちょっとこれを咥えてろ」
小布が口に押し込まれ、両手をとられた。
私はおとなしく、ゆっくりと男を見上げた。
薄暗い室内でも艶めいて輝く金髪が緩いウェーブを描いて白皙を縁取り、幾房か、押さえつけられた私の顔の横にも落ちかかっている。切れ長の、琥珀にも見える金色の瞳。高い鼻梁、きっぱりとした唇。猛烈に美しいけれど甘さはなく、女性的には見えない。実際、白いゆったりとしたシャツの襟元から覗く胸板は、しっかりと鍛えられた男性のものだ。
綺麗な男だな、と思った。
「俺の観察は終わったか」
男はわずかに口の端を上げた。
皮肉っぽい表情だな、お綺麗なばかりじゃなくてイケてるな、と能天気に考える。
すると突然、私を押さえていないほうの手で、男はシャツを脱ぎ出した。素肌に纏っていたらしく、すぐに上半身裸だ。
「……!!!! ……ふぅ、ぐぅ……‼」
「誤解するな! これでも着てろ、ってことだ! ……って、暴れるな‼」
強姦なんて勘弁してほしい! と思って暴れようとしたが、男はそのつもりではなかったらしい。脱いだシャツを私に被せ……
「目の毒だ」
と言って小さく笑みを浮かべた。
「この状況ではさすがの俺も妙な気になってくる……かもしれないからな」
身元不明の女を抱くほど困ってはいないつもりだが、と言いながら、ようやく私の手を放す。
「とにかくそのシャツを羽織れ。そのままがいいなら止めはしないが」
いい眺めだから残念だが、と切れ長の琥珀色の瞳を私に向ける。顔に、それから私の全身に。
「‼ ⁇ ……ふぅ⁉ っぐぅ……!!!!」
シャツを抱きしめ、私は絶叫……はできなかった。布が口に入っているから。
私は、マッパでした。ええ、もう、潔く、一糸纏わぬ全裸でございますよ!
……気が遠くなりそうだ。
でも、マッパのままで気が遠くなるのはもっと嫌だ。
どんなにうろたえても、わずかに冷静。我を忘れる、ということができない自分が悲しい。
シャツを羽織って、口の中から布を取り出し、やたらに広いベッドから這い出た。何人で寝るつもりなのか。複数利用前提か? 若いのに金髪、いいご身分だな! と妙なテンションで考える。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。時間の観念がない。
昨日? 夜? 恋人と会う約束をして、彼の部屋へ行ったはずだった。彼は居間にはいなくて、寝室にいて、そして。
(他の女性を引っ張り込んでいて、おまけに理不尽に罵倒されまくったんだっけ。私が若僧となんとかかんとか)
奥手もいいところだったから男性経験は彼だけだった。それも、初めて思いを交わして、抱かれたのが半年以上前。知り合ってから二年は経っていた。
恋愛経験に乏しいため、想いが通じてもその先の行動がわからない。忙しいのに誘ったら非常識かな? メールしてもいいかな? うるさがられる? とかなんとか考えているうちに、二回目の行為も清いデートもないまま半年過ぎて。
(なのに、嫉妬されたのかな、あれ。だからって、わざと私に見せつけるように女を呼ぶなんて)
「若僧」とあの人が呼んだ男は、確かに彼よりは年下だから間違ってはいないのだけれど、でも、そんなに若いわけではない。今年で三十、と言っていたと思う。
フェンシングのオリンピック選手で、実力と美貌で鳴らした男だ。
あの任務が終わった後、心が折れて、お気に入りだった世界遺産と紺碧の海で有名なリゾート地を旅していた時、その男、「若僧」と知り合った。
彼はとても遊び慣れていて、私に対しても一夜の誘いを投げかけたが、恋人もいるし傷心の私は当然お断りした。すると彼はかえって面白がって、その後もごはんにドライブにと、一人旅とは名ばかり、ほとんどホテルに引きこもりだった私を連れ出してくれたのだ。
彼に下心がなかったとは思わない。けれど、私たちはあの人が想像するような関係ではなかった。
それに、彼のような世慣れた男だからこそ、男あしらいに不器用な私を無理やりにでも引っ張り出して、まともにしてくれたのだと思う。
彼はスポーツ界のセレブだったから、一緒にいた私も知らないうちにあれこれ写真を撮られ、拡散されて、そこからあの人に誤解されたらしい。確かに、恋人がいる女としては不用心だったのだろう。
でも、問答無用で罵倒し、報復とばかりに私を呼びつけた上で他の女と絡んでみせるなど、あんまりじゃないだろうか。それにあそこまで激烈に責め立てられるほど、そもそも私とあの人は深く結びついていただろうか? 恐る恐る送ったメールも、二回に一回はスルー、返信が来ても一言二言だったのに。
今思うと私はいつも、彼の顔色を窺っていたように思う。嫌われないように、馬鹿にされないように。
あの人も私の顔色を窺っていたというが、私があまり色事に興味がないと思い込んでいたらしい。だから、二回目に誘うタイミングを計り損ねたのだと。節穴過ぎて泣けてくる。
本来は言われ放題をよしとする私ではない。いくらショックだったとはいえ、一方的な弾劾に反撃することもなく言葉を失って突っ立っていたのは、愛した人の節穴っぷりに落胆した、というのが最大の理由だろう。
まあ何を言ったところで、無意味ではあったろうが。こちらの言葉に聞く耳を持つ様子は激高した彼にはなかったし、目の前に私ではない女性と彼との既成事実がある以上、踵を返してその場を去る以外、私に何ができただろう。
四つん這いでもぞもぞとベッドから這い出ながら、私はそんなことをとりとめなく考えていた。
(で、泣いて泣いてそのまま寝ちゃって……、起きたらどこですか、ここは)
ようやく広すぎるベッドの端にたどり着き、私は金髪美形のシャツの中で体操座りをした。身頃はたっぷりしているが丈が微妙で、「シャツ」として羽織ると微妙なところや足の大半が見えそうなのだ。
初心なふりをするつもりはないが、初対面の人に見せびらかすものではない。たとえ、すべてを見られた後だとしても。女性の嗜みってものだ。
あらためて、金髪美形のほうを見やる。
眩い金髪。整った顔立ち。私にシャツを貸してから、ソファにかけてあったらしいひざ掛けを無造作に羽織ったようだが、それさえもまるで舞台衣装のように華やいで見える。
「君は何者だ? なぜ、ここにいる? 間諜や暗殺者の類いではなさそうだしな」
「どうして断言できますの?」
思わず、聞き返してしまった。
しつこいようだけれど私は軍人なのだ。だった、と過去形にするべきか。
どちらにせよ、多くのゲリラ戦にも身を投じてきた私としては、間諜だ暗殺者だと言われたほうがしっくりくる。それを、そんなものではないと断言されるとむしろもやもやする。
荒事からは足を洗うつもりだったのに、複雑な心境だ。
「そりゃ、全裸で襲撃はしないだろう。色仕掛けならわかるが」
そうでした。私、マッパでしたね。失礼致しました。
金髪美形は含み笑いをした。
「色仕掛けに来た挙句、標的が現れる前に熟睡するというのもありえんな」
それもそうですね。
「では、名乗ってもらおうか。どこの者か。名は何という?」
琥珀色の瞳が、鋭く光った。
(……まあ、当然の質問ね)
思考はまとまらないままだったが、私は一つ頷いて、
「……リヴェア・エミール」
と、とりあえず名乗った。
一瞬、詰まりかけたが、やはり私はこれでいい。
両親がくれた、「画数で決めた」「縁起の良い」正式な名前もあるが、それは私が覚えていて、大切にしていればいいだけのことだ。日本から出た時に決めたこと。その後は誰にも言っていない……とはいえ彼は調べ上げていたようだけれど、今はこの名前でいい。何年も、ずっとこの名前で通してきたから。
「リヴェア・エミール」
男がゆっくりと反芻した。形のよい唇から丁寧に紡がれる私の名は、大層なものに聞こえてくるから不思議だ。
「君はどこから来た? 何をしに来た?」
「それが、わからなくて。……あ、どこから、というのぐらいは言えますが」
私は滞在していたホテルの名前と都市名、国を正直に言った。嘘をつく意味などない。
もとより、私自身が、ここはどこで、男が何者なのか、自分がなぜここにいるのか、そのすべてを聞きたくて仕方がないのだ。
質問に質問で返すのは失礼な気がして、さらに言い募る。
「何しに来た、なんて、わかりません。ぐっすり眠って、目が覚めたらここにいて」
「そんな街も国も、聞いたことがない。その上、何をしに来たかもわからないとは。それを、俺に信じろと?」
「信じていただくしかありません。あなたがおっしゃったんですよ。こんなあられもない姿でぐうぐう寝てる女の目的なんて想像ができますか? 目的なんてなさそうでしょう?」
「わからんから聞いている」
「私はもっとわからないんですよ! 服を着たまま寝たはずなんですから!」
「全裸は趣味ではないのか」
この男、品のよい顔をしてなんてことを言うのだ。
「趣味ではありません!」
「俺は寝る時は全裸だぞ」
「聞いてませんそんなこと‼」
場にそぐわない男の茶々に思わず声を荒げてしまい、私は少し頭を冷やした。
「……とにかく、妙齢の女性が、知らない男性のベッドで一糸纏わず眠りこけることはめったにないですよね?」
「まずないだろうな」
「そうですとも! 私は別に記憶をなくしてもいません。ちゃんと、正気です。……リヴェア・エミール、年齢は二十、ン歳……」
まあそれ以上の話は後にしよう、と私は思った。
不審者だが危険人物ではないようだとせっかく思ってくれているらしいのに、自分から「職業は軍人です」などとキナ臭い話をする必要はない。
今は初対面のこの美形に、悪意を持たれないようにすることが第一だ。
私は少々ぎこちなく、にっこりと、でも、あえて不安そうに笑ってみせた。
眼前の金髪男は面白そうに口の端を上げて、その瞳を変わらず私に向けている。私が多少不安がってみせたところで簡単には乗ってくれなさそうではあるが、それでも剣呑な光は少し和らいだように感じた。
「これが夢でなければ、私にとっては異世界転移のようなものです。正気なのに、自分のこと以外何もわからない。ご不審なのは承知ですが、私自身は何しろ不安で不安で」
……不安なのは本当だ。頭の中がクリアなようでそうではない。「リアルな夢だ」と思う自分と、「どこか違う世界に飛ばされた」と認識する自分が同時に存在している。
私の不安、怯えにも似た感情は伝わったらしく、男は真面目な顔をした。
真剣な表情は男の顔立ちが整っているのをより一層際立たせる。美形っぷりが跳ね上がりすぎて、こんな状況だというのに目が潰れそうになった。
「……不安なのは嘘ではなさそうだな」
「不安、以外は嘘だと?」
「名前など、どのようにでも言える」
おっしゃる通り。
「年齢も、まあそんなものだろう。それよりも、君は今〝異世界転移〟と言ったな」
「言いました」
「ありえなくない。というか、信じるしかなさそうだ。というのも」
男は、長い脚を持て余したように組み替えた。
「ここは俺の寝室。この国で、ここ以上に厳重に守られている場所はない。城の最上階、扉の前には衛兵。窓の下にも衛兵。天井裏にも備えがいる」
「備えがある、のではなく、〝いる〟ですか」
護衛が配されているのだろう。忍びとか、軒猿みたいなのが。
男は表情を変えなかった。私の言葉はスルーだ。
「……どこからも、入ることはできない。君は、どこからも来ていない。君自身に説明ができなければ、誰にも説明はできない」
「あの、この世界に魔法ってありません? 瞬間的にぱっと消えたり現れたり」
「ないな、そんなもの」
一刀両断だ。異世界ときたら魔法、とちょっとだけ期待したのだけれど。
「それに、星見の塔の奴らが面白いことを言っていたのを思い出した。関係があるかどうかは知らんが」
星見。天文学だろうか。お綺麗なネーミングだ。
「昨晩、よくわからないがいくつかの星が一直線に並んだらしい。極めて強い重力や、熱源を持つ星ばかりがな。重力の強い星は互いに強く引き合い、光さえ飲み込んで暗黒を増し、輝く星々は互いを照らしまばゆいばかりに煌めいたとか。煌めいた、といっても数秒のことだったがな。昨晩はその瞬間を城の庭園で楽しむ宴があって、俺もそれを見ていたのだが」
男は言葉を切って、わずかに肩をすくめた。
「笑っても構わないが、星見の塔の者が言っていた。常ならぬことが起こっておかしくはないと」
「常ならぬ、こと?」
「例えば、君の言う〝異世界転移〟」
笑っても構わない、などと言う男自身の目は、まったく笑ってはいなかった。
もちろん、私も笑うどころではなかった。
〝異世界転移〟。そういう類いの小説も映画も好物だが、自分は安全圏にいることを無意識に確信しているからこそ楽しめるものだろう。
けれど、それがまさか。自分に起こるなんて。
「……ま、考えても仕方のないことだと思うぞ、俺は。一応、ありえない状況下に君がいるという理由付けをしてみただけだ。〝異世界転移〟が稀有なことだとしても、一度発生したことはもう一度発生するかもしれないしな。そうしたら君は帰れるのかもしれんぞ」
とりなすように、男は言った。
思わず、私は男を睨む。
「星が一列に並んだとかいう事象。星見の塔が騒ぎ、宴を催すほど稀な出来事なのでしょう?」
「まあな」
「以前、同じことが起きた記録は」
「ないらしい」
「次に、同じことが発生する確率は?」
「……ナントカ十億の一千乗年後、とか、まあそんなもんだ」
「それ、ありえない、って言葉に置き換えたほうが正確では?」
「かもな」
しれっと男は言い、表情を消して私を見る。私はせいぜい彼を睨むことしかできない。
金髪男は居ずまいを正した。
「いいかげんなことを言ったのは悪かったが、俺の部屋に現れたからには、先のことは助力しよう。というか、助力せざるを得ないだろう。君を不審者として摘み出したら、多数の人間の首が文字通り飛ぶ。警備、危機管理、あらゆる点においてグラディウス家の沽券に関わるからな」
「グラディウス家?」
「……ああ。俺の一族だ。そしてここは、俺の城の一室」
体術や各種武器の扱いと共に極限まで訓練した、し尽くした私の五感は動物並だと自負している。
敵意、害意、殺意。
そういったものには無条件で反応するように、鍛えぬいてきたつもり。
けれど、何かが違うようだ。
――おかしい、妙だ、とまた思った。
足音を立てぬよう用心しながら、部屋の中へと歩を進めて行く。しかし、身の危険につながるような気配はない。
警戒レベルを少し下げ、それでもまだ緊張は解かずに彼の姿を探す。
誰もいないからといって、彼もいないというわけではない。
玄関ホールから居間へと移動してくる間も、この空間は人の気配に満ちている。
彼――初めての私の恋人は、この部屋のどこかにいるはずだ。
恋人なら出迎えてくれてもいいのにな。
ちょっぴり寂しく思いながら、「でも、一回抱かれただけだったけど」と、私は自嘲気味に口端を上げた。
最後に彼に会ったのは、あの任務に就く前のことだ。
彼と結ばれてすぐ、あの任務のせいで私は激しく落ち込んだ。自分が嫌になって、ふらふらとまるで幽鬼のようにあちこちの町を渡り歩いているうちに、色々あったけれどなんとか立ち直った。
もう大丈夫だと思い、久しぶりに連絡を取ってみたら、そっけない返事と共に日時を指定されたのだ。
きつい暗緑色の瞳、冷たいほどに整った顔。
けれど、私を見下ろす時だけは熱と色を帯びて、それはそれは甘やかなものだったはず。
奇妙な気配への警戒心はようやく少しずつ薄れていった。入れ替わるように、彼と過ごし、眩暈がするほどの幸せを感じた記憶が溢れ出す。
早く会いたい。
たくさん話をしよう。
広いリビングを斜めに横切ると、寝室のドアへとたどり着いた。
閉ざされたドアを一応形式的にノックする。「リヴェア・エミール、参りました」と、うっかり仕事中のように声をかけてから、返事を待たずにドアを開けて、そして。
――立ち尽くした。言葉を失ったまま。
「指定した時間よりも十分早いな。律儀なことだ」
寝台の上の彼は私を振り返り、唇の端だけを吊り上げている。
薄暗い寝室の中でもわかる、冷やかな笑み。裸で、申し訳程度に腰から下を肌掛けで覆っている。
自堕落に横たわった姿勢のまま、私の方へと向き直ったその時、彼の向こうに、人影が見えた。
黒っぽい長い髪。まろやかな体のライン。
――裸の女性が、いた。
「もうちょっと遅く来てくれたらな。帰しておいたんだが」
誰を、なんて。
聞かなくてもわかる。
彼は小馬鹿にしたようにくあっとあくびをした。
「なかなか離してくれなくてな。さっきやっと寝てくれたところだ」
どうして、なぜ?
問い質したい。詰りたい。
それなのに、頭の中を言葉だけがぐるぐる回って、私の喉は引き攣れたように言葉を紡ぐことができない。
眼の前の現実を受け入れたくはないのに、私は極めて冷静にこの状況を理解してしまっている。
彼と、彼以外の人のコロンの香り。汗と、生々しい性の香り。
――彼が、私以外の女性を抱いたのだ。
その後、どうやって自分のホテルまで戻ったのか、私の記憶は抜け落ちている。
きっとタクシーにでも乗ったのだろうけれど、運転手の顔も声も思い出せない。
お金を払った記憶すらないが、ここまで戻ってきているのだからちゃんとお会計は済ませたのだろう。
着替えもせずに、ベッドにダイブした。
ナイフのように私をめった刺しにした彼の言葉と、裸の二人の映像が頭の中をぐるぐる回る。
(お前と同じことをしてやっただけだ)
(どこぞの若僧とお楽しみだったくせに。俺が知らないとでも思ったか)
(淫乱)
呆然としたまま何も言えずに突っ立っているだけの私に苛立ったように、彼は私をひたすら罵り続けた。
よほど疲れているのか、彼の隣の女はぐっすりと眠っているようで起きる気配はなかった。
狸寝入りかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
「どうして、なぜ。……好きだったのに」
今になってようやく、声が出た。
自らのその声を待っていたかのように、どっと涙が溢れてくる。信じられないほどの涙の量だ。
ああ、やっと泣ける、もう泣いていいんだと私は奇妙な安堵を覚えながら目を閉じた。
瞼を下ろしても涙腺は緩んだままで、頬も、顎も、シーツまでもが冷たくなるほどの涙がほとばしる。目と鼻の奥がツンと痛くなってくる。
すべて忘れて、なかったことにしたいな。
私ってば一体いつ、何を間違えてしまったんだろう。
――小さい頃、懐いていた近所のお兄さんがいた。とても優しい人で大好きだったのだけれど、ある日彼は私に悪戯をした。信頼していたからこそ、とてもショックな出来事で……
あの時初めて私は、自らが「女」であることを疎ましく思ったのだった。
そして、その出来事がきっかけで強くなりたいと思い体を鍛え始めた。女子力は皆無になってしまったし、そのせいで寂しい青春時代を過ごしたけれど、面白いほど腕が上がるのが嬉しくて楽しくて、自衛官になろうと思って大学に入った。性別なんて関係ない世界だと思っていたのに、そこでもまた「女性として」たくさん傷ついて傷つけられて、とうとう大学を中退して、語学が得意だったから日本を飛び出して、とある国の外国人部隊に入った。
軍人としての生活は過酷だった。でも、性に合っていたのだろう。
困難な任務を次々に成功させたし、信頼できる戦友たちに恵まれて、初めて本気で好きになった人にも愛されて、この上なく幸せだった。任務で、胸が張り裂けるほど辛い経験もしたけれど、軍隊からは足を洗おうと思ったけれど、何をするにしても彼と一緒なら頑張れる、立ち上がろう、歩き出そうと。そう思ったのに。
「若僧」と浮気したと誤解され、罵られ、目の前で他の女性との情事の名残を見せつけられて……
リセットしたい。何もかも。そう、人間関係もすべて。ゼロスタートしたい。
そんな想いと共に、私は眠りに落ちた。深い、深い眠りに。頬っぺたをつねられても蹴られても起きないくらい深い眠りに。
月光? 夜明けの光? ……最後に覚えているのは、目を閉ざしていても感じるほどに強く、白い光が部屋中に満ちたことだけだった。
* * *
何度目かわからないけれど、寝返りを打ったタイミングで目が覚めた。
はじめはぼんやり、その後だんだん目が慣れてきた。目が覚めても真っ暗だ、と思ったのは気のせいで、柔らかな光がそこかしこの壁龕に灯されている。
繊細な彫刻の施された壁龕、華奢な燭台。視線を巡らせて天井に目を向ければ、素晴らしい嵌め込み細工が見える。天井の全体像が見えないのはベッドに天蓋があるからだ。
と、ここで。
「……天蓋、って、そんなものはあのホテルの部屋には……」
なかったはず、と思ったところで、かすかに椅子のきしむ音がした。誰かいる?
「誰⁉」
「こちらが聞きたい。ようやく起きたか」
素早く身を起こし、反射的に枕の下に手を入れる。一人で眠る時には常に、枕の下に銃を置いていた。まあいつも一人だったから、それは常のことだったけれど。その、銃がない。
愕然としたのと同時に、ベッドの足元から男が現れた。
武器がなければ目の前の人物から奪うのは軍人としての鉄則だ。とびかかろうとした私を、眼前の男は難なく押さえ込んだ。銃がなくて愕然としたその一瞬があれば、男には容易なことだったらしい。こんな状況なのに、男の動きは優美とさえ言えた。
「ちょっ……⁉ ぐ、うぅ」
「大声を出すな。ちょっとこれを咥えてろ」
小布が口に押し込まれ、両手をとられた。
私はおとなしく、ゆっくりと男を見上げた。
薄暗い室内でも艶めいて輝く金髪が緩いウェーブを描いて白皙を縁取り、幾房か、押さえつけられた私の顔の横にも落ちかかっている。切れ長の、琥珀にも見える金色の瞳。高い鼻梁、きっぱりとした唇。猛烈に美しいけれど甘さはなく、女性的には見えない。実際、白いゆったりとしたシャツの襟元から覗く胸板は、しっかりと鍛えられた男性のものだ。
綺麗な男だな、と思った。
「俺の観察は終わったか」
男はわずかに口の端を上げた。
皮肉っぽい表情だな、お綺麗なばかりじゃなくてイケてるな、と能天気に考える。
すると突然、私を押さえていないほうの手で、男はシャツを脱ぎ出した。素肌に纏っていたらしく、すぐに上半身裸だ。
「……!!!! ……ふぅ、ぐぅ……‼」
「誤解するな! これでも着てろ、ってことだ! ……って、暴れるな‼」
強姦なんて勘弁してほしい! と思って暴れようとしたが、男はそのつもりではなかったらしい。脱いだシャツを私に被せ……
「目の毒だ」
と言って小さく笑みを浮かべた。
「この状況ではさすがの俺も妙な気になってくる……かもしれないからな」
身元不明の女を抱くほど困ってはいないつもりだが、と言いながら、ようやく私の手を放す。
「とにかくそのシャツを羽織れ。そのままがいいなら止めはしないが」
いい眺めだから残念だが、と切れ長の琥珀色の瞳を私に向ける。顔に、それから私の全身に。
「‼ ⁇ ……ふぅ⁉ っぐぅ……!!!!」
シャツを抱きしめ、私は絶叫……はできなかった。布が口に入っているから。
私は、マッパでした。ええ、もう、潔く、一糸纏わぬ全裸でございますよ!
……気が遠くなりそうだ。
でも、マッパのままで気が遠くなるのはもっと嫌だ。
どんなにうろたえても、わずかに冷静。我を忘れる、ということができない自分が悲しい。
シャツを羽織って、口の中から布を取り出し、やたらに広いベッドから這い出た。何人で寝るつもりなのか。複数利用前提か? 若いのに金髪、いいご身分だな! と妙なテンションで考える。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。時間の観念がない。
昨日? 夜? 恋人と会う約束をして、彼の部屋へ行ったはずだった。彼は居間にはいなくて、寝室にいて、そして。
(他の女性を引っ張り込んでいて、おまけに理不尽に罵倒されまくったんだっけ。私が若僧となんとかかんとか)
奥手もいいところだったから男性経験は彼だけだった。それも、初めて思いを交わして、抱かれたのが半年以上前。知り合ってから二年は経っていた。
恋愛経験に乏しいため、想いが通じてもその先の行動がわからない。忙しいのに誘ったら非常識かな? メールしてもいいかな? うるさがられる? とかなんとか考えているうちに、二回目の行為も清いデートもないまま半年過ぎて。
(なのに、嫉妬されたのかな、あれ。だからって、わざと私に見せつけるように女を呼ぶなんて)
「若僧」とあの人が呼んだ男は、確かに彼よりは年下だから間違ってはいないのだけれど、でも、そんなに若いわけではない。今年で三十、と言っていたと思う。
フェンシングのオリンピック選手で、実力と美貌で鳴らした男だ。
あの任務が終わった後、心が折れて、お気に入りだった世界遺産と紺碧の海で有名なリゾート地を旅していた時、その男、「若僧」と知り合った。
彼はとても遊び慣れていて、私に対しても一夜の誘いを投げかけたが、恋人もいるし傷心の私は当然お断りした。すると彼はかえって面白がって、その後もごはんにドライブにと、一人旅とは名ばかり、ほとんどホテルに引きこもりだった私を連れ出してくれたのだ。
彼に下心がなかったとは思わない。けれど、私たちはあの人が想像するような関係ではなかった。
それに、彼のような世慣れた男だからこそ、男あしらいに不器用な私を無理やりにでも引っ張り出して、まともにしてくれたのだと思う。
彼はスポーツ界のセレブだったから、一緒にいた私も知らないうちにあれこれ写真を撮られ、拡散されて、そこからあの人に誤解されたらしい。確かに、恋人がいる女としては不用心だったのだろう。
でも、問答無用で罵倒し、報復とばかりに私を呼びつけた上で他の女と絡んでみせるなど、あんまりじゃないだろうか。それにあそこまで激烈に責め立てられるほど、そもそも私とあの人は深く結びついていただろうか? 恐る恐る送ったメールも、二回に一回はスルー、返信が来ても一言二言だったのに。
今思うと私はいつも、彼の顔色を窺っていたように思う。嫌われないように、馬鹿にされないように。
あの人も私の顔色を窺っていたというが、私があまり色事に興味がないと思い込んでいたらしい。だから、二回目に誘うタイミングを計り損ねたのだと。節穴過ぎて泣けてくる。
本来は言われ放題をよしとする私ではない。いくらショックだったとはいえ、一方的な弾劾に反撃することもなく言葉を失って突っ立っていたのは、愛した人の節穴っぷりに落胆した、というのが最大の理由だろう。
まあ何を言ったところで、無意味ではあったろうが。こちらの言葉に聞く耳を持つ様子は激高した彼にはなかったし、目の前に私ではない女性と彼との既成事実がある以上、踵を返してその場を去る以外、私に何ができただろう。
四つん這いでもぞもぞとベッドから這い出ながら、私はそんなことをとりとめなく考えていた。
(で、泣いて泣いてそのまま寝ちゃって……、起きたらどこですか、ここは)
ようやく広すぎるベッドの端にたどり着き、私は金髪美形のシャツの中で体操座りをした。身頃はたっぷりしているが丈が微妙で、「シャツ」として羽織ると微妙なところや足の大半が見えそうなのだ。
初心なふりをするつもりはないが、初対面の人に見せびらかすものではない。たとえ、すべてを見られた後だとしても。女性の嗜みってものだ。
あらためて、金髪美形のほうを見やる。
眩い金髪。整った顔立ち。私にシャツを貸してから、ソファにかけてあったらしいひざ掛けを無造作に羽織ったようだが、それさえもまるで舞台衣装のように華やいで見える。
「君は何者だ? なぜ、ここにいる? 間諜や暗殺者の類いではなさそうだしな」
「どうして断言できますの?」
思わず、聞き返してしまった。
しつこいようだけれど私は軍人なのだ。だった、と過去形にするべきか。
どちらにせよ、多くのゲリラ戦にも身を投じてきた私としては、間諜だ暗殺者だと言われたほうがしっくりくる。それを、そんなものではないと断言されるとむしろもやもやする。
荒事からは足を洗うつもりだったのに、複雑な心境だ。
「そりゃ、全裸で襲撃はしないだろう。色仕掛けならわかるが」
そうでした。私、マッパでしたね。失礼致しました。
金髪美形は含み笑いをした。
「色仕掛けに来た挙句、標的が現れる前に熟睡するというのもありえんな」
それもそうですね。
「では、名乗ってもらおうか。どこの者か。名は何という?」
琥珀色の瞳が、鋭く光った。
(……まあ、当然の質問ね)
思考はまとまらないままだったが、私は一つ頷いて、
「……リヴェア・エミール」
と、とりあえず名乗った。
一瞬、詰まりかけたが、やはり私はこれでいい。
両親がくれた、「画数で決めた」「縁起の良い」正式な名前もあるが、それは私が覚えていて、大切にしていればいいだけのことだ。日本から出た時に決めたこと。その後は誰にも言っていない……とはいえ彼は調べ上げていたようだけれど、今はこの名前でいい。何年も、ずっとこの名前で通してきたから。
「リヴェア・エミール」
男がゆっくりと反芻した。形のよい唇から丁寧に紡がれる私の名は、大層なものに聞こえてくるから不思議だ。
「君はどこから来た? 何をしに来た?」
「それが、わからなくて。……あ、どこから、というのぐらいは言えますが」
私は滞在していたホテルの名前と都市名、国を正直に言った。嘘をつく意味などない。
もとより、私自身が、ここはどこで、男が何者なのか、自分がなぜここにいるのか、そのすべてを聞きたくて仕方がないのだ。
質問に質問で返すのは失礼な気がして、さらに言い募る。
「何しに来た、なんて、わかりません。ぐっすり眠って、目が覚めたらここにいて」
「そんな街も国も、聞いたことがない。その上、何をしに来たかもわからないとは。それを、俺に信じろと?」
「信じていただくしかありません。あなたがおっしゃったんですよ。こんなあられもない姿でぐうぐう寝てる女の目的なんて想像ができますか? 目的なんてなさそうでしょう?」
「わからんから聞いている」
「私はもっとわからないんですよ! 服を着たまま寝たはずなんですから!」
「全裸は趣味ではないのか」
この男、品のよい顔をしてなんてことを言うのだ。
「趣味ではありません!」
「俺は寝る時は全裸だぞ」
「聞いてませんそんなこと‼」
場にそぐわない男の茶々に思わず声を荒げてしまい、私は少し頭を冷やした。
「……とにかく、妙齢の女性が、知らない男性のベッドで一糸纏わず眠りこけることはめったにないですよね?」
「まずないだろうな」
「そうですとも! 私は別に記憶をなくしてもいません。ちゃんと、正気です。……リヴェア・エミール、年齢は二十、ン歳……」
まあそれ以上の話は後にしよう、と私は思った。
不審者だが危険人物ではないようだとせっかく思ってくれているらしいのに、自分から「職業は軍人です」などとキナ臭い話をする必要はない。
今は初対面のこの美形に、悪意を持たれないようにすることが第一だ。
私は少々ぎこちなく、にっこりと、でも、あえて不安そうに笑ってみせた。
眼前の金髪男は面白そうに口の端を上げて、その瞳を変わらず私に向けている。私が多少不安がってみせたところで簡単には乗ってくれなさそうではあるが、それでも剣呑な光は少し和らいだように感じた。
「これが夢でなければ、私にとっては異世界転移のようなものです。正気なのに、自分のこと以外何もわからない。ご不審なのは承知ですが、私自身は何しろ不安で不安で」
……不安なのは本当だ。頭の中がクリアなようでそうではない。「リアルな夢だ」と思う自分と、「どこか違う世界に飛ばされた」と認識する自分が同時に存在している。
私の不安、怯えにも似た感情は伝わったらしく、男は真面目な顔をした。
真剣な表情は男の顔立ちが整っているのをより一層際立たせる。美形っぷりが跳ね上がりすぎて、こんな状況だというのに目が潰れそうになった。
「……不安なのは嘘ではなさそうだな」
「不安、以外は嘘だと?」
「名前など、どのようにでも言える」
おっしゃる通り。
「年齢も、まあそんなものだろう。それよりも、君は今〝異世界転移〟と言ったな」
「言いました」
「ありえなくない。というか、信じるしかなさそうだ。というのも」
男は、長い脚を持て余したように組み替えた。
「ここは俺の寝室。この国で、ここ以上に厳重に守られている場所はない。城の最上階、扉の前には衛兵。窓の下にも衛兵。天井裏にも備えがいる」
「備えがある、のではなく、〝いる〟ですか」
護衛が配されているのだろう。忍びとか、軒猿みたいなのが。
男は表情を変えなかった。私の言葉はスルーだ。
「……どこからも、入ることはできない。君は、どこからも来ていない。君自身に説明ができなければ、誰にも説明はできない」
「あの、この世界に魔法ってありません? 瞬間的にぱっと消えたり現れたり」
「ないな、そんなもの」
一刀両断だ。異世界ときたら魔法、とちょっとだけ期待したのだけれど。
「それに、星見の塔の奴らが面白いことを言っていたのを思い出した。関係があるかどうかは知らんが」
星見。天文学だろうか。お綺麗なネーミングだ。
「昨晩、よくわからないがいくつかの星が一直線に並んだらしい。極めて強い重力や、熱源を持つ星ばかりがな。重力の強い星は互いに強く引き合い、光さえ飲み込んで暗黒を増し、輝く星々は互いを照らしまばゆいばかりに煌めいたとか。煌めいた、といっても数秒のことだったがな。昨晩はその瞬間を城の庭園で楽しむ宴があって、俺もそれを見ていたのだが」
男は言葉を切って、わずかに肩をすくめた。
「笑っても構わないが、星見の塔の者が言っていた。常ならぬことが起こっておかしくはないと」
「常ならぬ、こと?」
「例えば、君の言う〝異世界転移〟」
笑っても構わない、などと言う男自身の目は、まったく笑ってはいなかった。
もちろん、私も笑うどころではなかった。
〝異世界転移〟。そういう類いの小説も映画も好物だが、自分は安全圏にいることを無意識に確信しているからこそ楽しめるものだろう。
けれど、それがまさか。自分に起こるなんて。
「……ま、考えても仕方のないことだと思うぞ、俺は。一応、ありえない状況下に君がいるという理由付けをしてみただけだ。〝異世界転移〟が稀有なことだとしても、一度発生したことはもう一度発生するかもしれないしな。そうしたら君は帰れるのかもしれんぞ」
とりなすように、男は言った。
思わず、私は男を睨む。
「星が一列に並んだとかいう事象。星見の塔が騒ぎ、宴を催すほど稀な出来事なのでしょう?」
「まあな」
「以前、同じことが起きた記録は」
「ないらしい」
「次に、同じことが発生する確率は?」
「……ナントカ十億の一千乗年後、とか、まあそんなもんだ」
「それ、ありえない、って言葉に置き換えたほうが正確では?」
「かもな」
しれっと男は言い、表情を消して私を見る。私はせいぜい彼を睨むことしかできない。
金髪男は居ずまいを正した。
「いいかげんなことを言ったのは悪かったが、俺の部屋に現れたからには、先のことは助力しよう。というか、助力せざるを得ないだろう。君を不審者として摘み出したら、多数の人間の首が文字通り飛ぶ。警備、危機管理、あらゆる点においてグラディウス家の沽券に関わるからな」
「グラディウス家?」
「……ああ。俺の一族だ。そしてここは、俺の城の一室」
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