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1巻

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   第一章 地味に出戻り


 運命ってものは、あらかじめ決められたものなんかじゃなく、いつだって自分の意思とは関係なしに変化するものだって気付いたのは、いつの頃だっただろう。
 俺の人生なんてホントろくでもないことの連続で、いくら自分でこうしたいと願って努力をしても、なにひとつ報われることなんてなかった気がする。
 今もある意味重要なに立ってるって言ってもいい状況が訪れてはいるんだけど……
 ――正直、この道を進むの、あんまりどころか、かなり気乗りしないんだよな。


   ◇


「ここが今日からお前が暮らすことになるウィステリア宮だ」

 この台詞をここで聞くのは二度目だな、なんてぼんやりと思いながら、俺は当時とあまり変わっていない質素な造りの建物を見上げた。
 王宮の敷地の隅にひっそりと建てられた、石造りの建物。
 懐かしいという感情はない。
 初めてここに来たのは約七年前。いたのはわずか一年半足らず。
 その間、建物どころか与えられた部屋から一歩も出ることは許されず、この外観を見たのも最初に連れてこられた時の一回のみ。
 しかも出た時は意識がないまま連れ去られるっていう状態だったから、当然記憶なんてあるわきゃないし。
 当時のことを思い出し、思わず吐きそうになった溜息を慌てて呑み込む。
 油断すると過去に引きずられそうな思考を停止し、何事もなかったかのような表情を取りつくろった。

「部屋に案内する。ついてこい」
「……はい」

 すこぶるイケメンなのに愛想笑いのひとつもしない黒髪の男にうながされ、俺は昼間でも薄暗い建物の内部に足を踏み入れる。
 初夏の陽気となっている外からは想像もつかないほどひんやりとした空気が酷く不快で、身体が勝手にブルリと震えた。
 このよどんだ冷気が、かつてここで過ごした過酷な日々を忘れさせまいとしている感じがして、うんざりした気持ちにさせられる。
 自分じゃ結構平気になったと思ってたんだけどなぁ……

おじづいたのか?」

 明らかに足が止まった俺に、男が振り返りろんげな視線を向けてくる。
 俺は本心を悟られたくなくて、わざと明るい声でおどけてみせた。

「んなワケあるか。寒いんだよ。俺、南国育ちだから寒いのダメなんだよねー」
「そんないかにも北方諸国出身というような真っ白い肌で、よく言う」
「生まれは北でも育ちは南だとは思わない?」

 なおも軽口を叩く俺に対する男の答えは、無言のいちべつ
 俺もさすがにこれ以上口を開く気にはなれず、軽く肩をすくめるだけにとどめておいた。

「ここだ」

 男は一番奥まったところにある簡素な造りの扉を開け、俺に先に入るよううながす。
 俺はすくみそうになる足をなんとか動かして中に入ると、初めて訪れたとアピールするため、物珍しげに室内を見回した。

「ここは五年ほど前まで、リンドバルのジェラリア王子が住んでいたところだ。それ以降は誰も使っていない」
「……へぇ、その割にはキレイになってんじゃん」

 俺が住んでた時より遥かに人が住む環境が整ってる室内の状況に、演技じゃなくてもついキョロキョロしてしまう。
 あの時は、明かり取りとして高い位置に設けてあった唯一の窓には、まるで罪人でも囲うかのように鉄格子がまっていたし、扉は内側から開けられないよう外側に鍵がつけられていた。
 今は鉄格子は外され、扉も内鍵に変わっている。壁紙だって薄汚れてないし、床も以前のような冷たい石がき出しになっているのではなく、毛足の長いじゅうたんが敷かれており、調度品も立派なものがしつらえられている。
 狭いながらも併設されている寝室に行くと、ベッドは俺が使ってたシングルサイズの硬いものじゃなく、ちゃんと王族が使うのにふさわしい大きさと柔らかさのものになっていた。

「すごいな……」

 以前とのギャップが。
 その言葉をぐっと呑み込む。
 すると、俺がこの部屋の様相に本気で感嘆の声をあげたと思ったのか、隣に立っていた男の濃い紫色の瞳に一瞬、かげりの色が見えた気がした。
 へぇ、もしかして罪悪感とか持ってたりすんのかな。……笑える。

「……外観はあんなだが、一応王族が住む場所だからな」
「そうだよねー。いくら男とはいえ、王太子様の側室だったんだから、それなりの部屋に決まってるよね。外観があまりに質素だったから、てっきり中もそういう感じかと思ってさー」

 当時の冷遇具合を知る俺としては、嫌味のひとつも言いたくなったが、あんまり言うと怪しまれそうな気がして、ここは世間一般の人間が抱くであろう感想の範囲にとどめておいた。
 側室どころか人質にしたってあれは本当に酷い扱いだったと思う。
 でもその事実を知っている人間は、今となってはほぼいないだろう。
 俺がそのことを知ってるのは、この身をもって経験してるからなんだけど……
 当時、ここドルマキア王国は、圧倒的な武力で敵対する国を次々と滅ぼし、この大陸の主権を獲得していった。
 俺の祖国であるリンドバル王国は同じ大陸にある小さな国で、そんな国が生き残るためにはドルマキアの属国となるしか道は残されていなかった。
 そしてリンドバルという国を存続させるため、父である国王は王太子の側室という形で俺をドルマキアに差し出した。
 ――それが、ドルマキア側から出された条件のうちのひとつだったから。
 何故王子だった俺が望まれたのかはわからない。男が側室なんてなんの冗談だよって、今でも思う。
 男同士の恋愛に寛容な風潮はあっても、それは世間一般のことであって、王族の婚姻となれば話は別。普通だったら良くてあいしょうにするか、愛人関係を結ぶか。それも多少なりとも相手に好意があってこその話っていうのが前提だ。
 なのに会ったこともない、顔も見たこともない相手をいきなり自分の息子の側室にしようなんて、気まぐれにしてもたちが悪すぎると今も思っている。
 実際そういう扱いされてこなかったからなおさらさー。
 だから、つい皮肉がね。口をついて出ちゃうんだよな。

「こーんな良い暮らししといて、なんでジェラリア王子はいなくなっちゃったんだろうね~」

 ヤベ。思ったより俺、頭にキテるらしくて嫌味が止まんねぇ。

「……それがわかっていたらこんなことにはなっていないし、わざわざリスクを犯してまでお前に身代わりの依頼などしていない」
「ま、そりゃそうだ」
「とにかく。今日からお前にはここでリンドバルのジェラリア王子として過ごしてもらう。概要は依頼の時に話した通りだが、詳しいことはこれからここに来る人間に聞いてくれ。そいつらが三ヶ月間、お前の世話や護衛を務める」
「了解でーす」

 軽い口調で返事をすると、俺のふざけた態度に苛立ったらしい男がわずかに目をすがめる。
 ここで怒鳴り散らしたり、頭ごなしに命令してきたりしないだけマシかもな。
 かつて俺の周りにいた連中は、ソイツが望んだ通りの言葉や態度を返さないと、すぐにしつけという名のようしゃない攻撃を加えてくるようなクズばかりだったからさー。

「今のドルマキアには、どうしてもリンドバルのジェラリア王子という存在が必要だ。幸いジェラリア王子の容姿を知る人間はどこにもいない。お前さえうまく立ち回ってくれれば、何事もなく終わるだろう。──頼んだぞ。どんな人間にでもなりきれる『天才身代わり屋ジェイド』」

 仕事で使っている今の名前で呼ばれ、過去の幻影に囚われて感傷的になっていた俺の気持ちにスイッチが入る。
 俺はもうリンドバル王国のジェラリア王子じゃない。
 ここにいるのは、本当のジェラリアがどんな人間だったかなんてじんも知らないヤツらばかり。
 いつものように依頼された通りの設定の人物を完璧に演じればいいだけだ。
 俺はひとつ深呼吸をすると、割り振られた役柄に入り込むために意識を切り替える。

「かしこまりました。精一杯努めさせていただきます。ここまでご案内いただきありがとうございました、ユリウス様」

 表情と口調をガラリと変え、コイツが勝手に抱いているであろうジェラリア王子のイメージを意識して、世間知らずの王子様がするように、ただ優雅に微笑んでみせた。


   ◇


 今は便宜上ジェイドと名乗っている俺、ジェラリア・セレナート・リンドバルは、かつては大陸の北に位置する小国、リンドバル王国の第三王子という身分の人間だった。
 森に囲まれ、女神が生まれたという伝承の残る美しい湖がある自然豊かなその国は、同じ大陸にある大国と比べて目覚ましい発展や便利な暮らしこそないものの、穏やかな時間が流れる平和な国で、俺は表向きそんな国の第三王子として育てられていた。──そう。あくまで表向き。
 俺は確かに王族の血をひいてはいるが、国王の実子じゃない。
 俺の母親はリンドバル国王の妹で、女神の再来とも傾国の美姫ともうたわれたほどのぼうを持つリンドバルの王女。
 月光を集めたような柔らかい金色の髪に、新緑の息吹を感じさせる淡い緑色の瞳、雪の精霊に愛されたかのような白い肌は、まさに女神と呼ぶにふさわしい美しさだったと言われている。
 その王女が産んだのが俺なんだけど……
 俺の母は未婚の身でありながら俺をごもり、それをひた隠しにした挙げ句、相手が誰かを告げぬまま、周囲の猛反対を押し切って城を飛び出し、たったひとり森の中にある小さな屋敷で俺をこの世に産み落としたらしい。
 そしてその直後、なにを思ったのか俺だけを残し、女神の湖にその身を沈め、はかなくこの世を去ってしまった。
 残された俺は伯父に当たる国王の実子として育てられることになり、俺の出自はひた隠しにされたのだ。
 そんな生まれた時から既にケチがついたような俺の人生に用意されていた道は、やっぱり平坦とはほど遠いものだった。
 歳の離れた美しい妹を溺愛していたリンドバル国王は、彼女が自ら命を絶つことになった原因であろう俺をうとみ、避け続けた。
 いくら隠しだてしても、噂と憶測は勝手に流れる。
 実子として公表されたものの、城に住むことは許されず、母親が俺を産み落としたという森の中の小さな屋敷に、数人の使用人と共に留め置かれることになったのだ。
 リンドバルという国は穏やかではあるが閉鎖的で、女性が婚前交渉を持つことはすべきことであり、未婚のまま子供を産むことは罪とされていた。
 そんな罪のかたまりともいえる俺の面倒をまともに見てくれる奇特な人間なんてごく少数しかおらず、王妃様や歳の離れた二人の兄王子がことあるごとに俺の様子を気にかけてくれていなければ、早々に母のところにく羽目になっていただろう。
 他国からとついできた王妃様は俺の母親と仲が良かったらしく、俺の置かれた状況を知って嘆き悲しみ、国王の手前、表だってはなにもできないものの、陰でこっそり助けてくれた。
 二人の兄も俺のことを可愛がってくれ、国王の目をかいくぐっては、上の兄は王族として必要な知識を、下の兄は護身術や剣術、馬術といった武芸全般を教えてくれた。
 生まれた時からそんな環境にいれば、自分を守るために常に大人の顔色をうかがい、空気を読むことにけた、およそ子供らしくない人間ができあがる。
 正直、俺は自分の存在意義を見出せず、生への執着さえ薄かったが、王妃様と二人の兄が大切にしてくれているという理由だけで、自らをはかなむこともなく、それなりに賢く立ち回り、図太く生き抜く人間に成長していった。
 そして俺が十三歳の時。
 当時破竹の勢いで大陸を制覇していたドルマキア王国から、国王ルシウス・ロレアル・ドルマキアの使いを名乗る男がやってきた。
 用件は『リンドバルという国の名を残す気があるか否か、早急に決めろ』という一方的な宣戦布告とも言えるものだった。
 リンドバルの戦力と国力じゃ、拒否すれば一夜にして国が消えることは目に見えている。
 国王は国の名を残すため、ドルマキアの属国になることを即決した。
 でもその属国となるための条件のひとつに、何故か俺をドルマキアの王太子クラウスの側室にするというものがあったことで、その結論を伝えるのに少しだけ時間を要したらしい。
 ま、そりゃそうだよな。
 おおやけには第三王子でも、ろくに王族としての教育を施されてない俺が、大国の王太子の側室なんて務まるはずがない。下手すりゃ国の面子が丸つぶれになる可能性だってあるわけだし。
 しかもいくら俺が傾国の美姫と名高い母親に似てるって言われていても、性別だけはどうやっても変えることができないんだから、そもそも側室に、なんて言い出すほうがおかしい。
 人質って言われるほうがまだ現実味があるけど、国王にうとまれ、罪のかたまりと認識されている俺に人質としての価値があるのかと言われると、それもまたないも同然という状態。
 リンドバル国王が実際なにをどう考えていたのかはさっぱりわからない。だけど、大国の圧力に勝てるはずもない小国の王は、男の身である俺が側室としてドルマキア王国に行くことを承諾し、リンドバルがドルマキアの属国に下ることを決断したのだった。
 ここまで俺の意思はゼロ。
 正直リンドバルや国王がどうなろうと知ったこっちゃないが、お世話になった王妃様や二人の兄のためならば、たとえネズミの伴侶にでもなるつもりだったから、よその国の王太子と結婚するくらい別になんともない。むしろ初めて彼らの役に立つことができて良かったとすら思った。
 こうして俺は誰得なのかさっぱりわからない政略結婚をすることになり、わずか十三歳にして大国ドルマキア王国の王太子の側室となった。
 しかしドルマキア王国で待っていたのは、いくら愛のない政略結婚といえども、ちょっと信じられないくらい過酷な生活だった。


   ◇


『ここが今日からジェラリア殿下にお過ごしいただきますウィステリア宮でございます』

 ドルマキアに到着してすぐ、城の侍従らしき人に連れてこられたのは、ひと目見て歓迎されてないのがありありとわかる、質素な石造りの建物だった。
 俺の部屋だというところに案内され足を踏み入れると、かろうじて簡単な掃除くらいはしてあるものの、おおよそ王太子の側室が住む場所とは思えない有り様に絶句した。
 贅沢ぜいたくができると思ってたわけじゃない。今までだって国王にうとまれ、使用人たちにも邪険に扱われしいたげられ、王族の暮らしとはほど遠い生活をしていた。
 でも兄上たちが時々訪れるおかげで、一応表面上はそれなりの体裁が整えてあったのだ。
 ──ここはその体裁すら見当たらない。
 なにも置かれていないき出しの石の床。ところどころがれた汚れた壁紙。天井近くに設置された明かり取り用の小さな窓はめ殺しで、おまけに鉄格子がまっている。
 それ以外に窓などないこの部屋はろくに換気されていないのか、明らかに空気がよどんでいた。
 唯一の外との接点である部屋の扉は見るからに頑丈そうで、ちょっとやそっとの衝撃ではビクともしなそうだ。しかもその扉は内側から開けられないよう外側にしかドアノブが付いておらず、俺をこの部屋から自由に出すつもりはない、ってことがしっかり伝わってきた。
 一見しただけでわかるこの国での俺の扱い。
 必要なものはドルマキア側が用意すると言われ、とりあえず必要最低限の荷物とこの身ひとつで連れてこられたが、この様子じゃ今後もここに物が増える予定はなさそうだった。
 最初に一言発したきり無言を貫き通している侍従は、俺がなにか聞こうと口を開きかける度、暗になにも喋るなと言わんばかりに鋭いいちべつをくれるだけで、なにひとつ必要な情報を伝えてはくれない。
 この現実をどう受け止めたらいいのかわからず困惑する俺に構うことなく、その侍従は形ばかりの礼をしてそそくさと部屋から立ち去っていく。ガチャリという音が聞こえたので、外側から鍵をかけられたんだということだけはしっかり伝わってきた。
 どうしたらいいのかわからずに、しばらくその場に立ち尽くし、小さな窓から少しだけ見える青い空をぼんやり見つめる。
 座ろうにもここには椅子のひとつすら置かれていない。
 やがて諦めの境地に至った俺は、狭いながらも独立した部屋になっている寝室に移動し、ここで唯一座れる場所であるベッドに腰を落ち着けた。
 本来、馬車で二週間はかかる道のりを昼夜問わずに走り続けて、わずか一週間という短期間で移動してきたせいか、座った途端にどっと疲れがやってくる。
 こんなところに連れてこられて、俺、ホントに王太子の側室になるんだろうか……?
 リンドバルでドルマキア国王のぎょく入りの婚姻証明書にサインさせられたのだから、間違いなく書類上はそうなったんだろうけれど、この様子じゃそれが実態を伴うものなのか、ぜん怪しくなってきた。
 一応王族としての教育の一環で、上の兄からねやの教育を受けてはいるが、男相手にそれを実践できる気がしない俺としては、実態を求められても困る。けど、こんなとこで監禁され続けるのも困るというのが正直なところだ。
 それに考えれば考えるほど、この政略結婚によるドルマキア側の利がさっぱりわからない。
 座っていることすらしんどくなって、硬いベッドにそっと身を横たえる。
 そうしているうちに、明らかに不穏な状況だとわかっていても、いつもの通りなにもできはしないのだということを思い出し、もう考えることすら無駄だと諦め、静かに目を閉じた。
 数刻後。
 再び訪ねてきた侍従によって、俺のまどろみはさまたげられた。

『こちらをお飲みください』

 それ以上なんの説明もなく差し出されたのは、小指の先ほどの大きさの赤い丸薬と水。絶対にヤバいものだとわかるのに飲む以外の選択肢がなかった俺は、黙ってそれを飲み干した。
 それから三日三晩、俺は謎の高熱に見舞われた。
 一日に一回様子を見に来る侍従は、水差しの水を補給する以外なにもせず、基本放置。
 四日目の朝、ようやく熱が下がった俺に告げられたのは、あの丸薬が体内で子種を作る機能を失わせるためのもので、万が一にもドルマキア王家の血統に他国の血が混ざらないようにするための重要なだと説明された。
 この時の俺は、幼い頃から続く使用人たちによる職務放棄のせいで満足に食事もらせてもらえなかった影響から、同年代の男子に比べて格段に成長が遅く、まだ精通を迎えていなかった。
 男としての活動を開始する前に、不本意な形でその機能を停止させられてしまうという結果になったものの、まだ男としての快感を知らなかった俺は、男の身で側室になるということはこういうことなのだろうと思うことにした。男としての機能がなくなればここから出してもらえるかもしれない。そんな淡い期待すらしていたのだが……
 そんな扱いをされても、結局俺がここから出してもらえることはなく、かといって逃げ出すこともできずに監禁生活は続いた。
 食事は一日に一食。時々毒入り。
 兄たちに言われてあらゆる毒に身体を慣らしておかなかったら、早い段階であっさり命を落としていたに違いない。
 なかなかしぶとい俺に業を煮やしたのか、たまにやたらとヒステリックなオバサンがやってきて、俺をののしり、怒鳴り散らし、わけのわからないことを言いながらむちで打ちつけてきた。
 俺の白い肌はみるみるうちに生傷が絶えない状態となり、栄養状態が悪いせいで治りも遅く、そのせいで高熱が出ることもしばしばだった。
 おかげで傾国の美姫とうたわれた母親に似た俺の容貌は、リンドバルにいた時以上に見る影もなくなっていった。
 あとから知ったことだが、あのオバサンはドルマキアの王妃で、多忙な国王と、最前線で軍の指揮をとっている王太子に代わり、新しく側室としてドルマキア王室の一員となった俺の教育を一任されていたらしい。
 それ以外にこの部屋を訪れるのは、相変わらず無駄なことは一切喋らない侍従ひとりだけ。
 結婚したはずの王太子の顔すら知らず、国の情勢どころかすぐ外でなにが起きているかもわからず、ただ毎日死線ギリギリに立たされた状態で、俺はなんとか生きていた。
 唯一のなぐさめは、壁に空いた小さな穴から時々顔を出すネズミ。
 リンドバルの王妃様や二人の兄のためならばネズミの伴侶にもなる決意をしていたが、たぶんそうなったほうが幸せだったんじゃないかとすら思えるみじめな結婚生活だった。
 そんな生活を一年半ほどいられたある日。
 俺は祖国の滅亡と、伯父でありおおやけには父であったリンドバル国王の処刑を知らされた。
 さらにその日の夜、突如俺の部屋をおそった暴漢にさらわれる形で、このドルマキアでの最悪な結婚生活に終止符を打ったのだった。
 ――これが思い出したくもない俺の過去。
 その舞台となった場所になんか、死んでも戻りたくないって思ってたのになぁ……


   ◇


 さかのぼること一週間前。

「酷いわ、ジェイド! 私というものがありながら、こんな女と一緒にいるなんて!」

 目の前にいるのは、怒りで顔を真っ赤にして俺を責める女。
 ちなみに責められている俺の隣には別の女がいたりする。彼女は目の前の女に見せつけるように、その腕を俺の腕に絡ませて優越感たっぷりといった風に微笑んだ。
 この光景。誰がどう見てもじょうのもつれ的な場面だと思うだろう。俺も他人事だったら絶対にそう思う。
 当事者である俺は、ここからどうなんのかな、なんてぼんやり考えながら、いつものようになりゆきに任せる以外の選択肢を選ばなかった。

「あら、自分がもう飽きられてることにも気付いてないなんて可哀想ねぇ。だったら察しが悪い人間にもはっきりとわかるように教えてあげるわ。ジェイドはもうアンタのとこには戻らないって!」

 俺がなにも言わないのを良いことに、隣の女は俺にしなだれかかり、目の前にいる女を挑発する。
 途端に俺を責めていた目の前の女の怒りの矛先が変わった。

「なによ! 一回彼と食事したくらいで彼女気取り!? 私はジェイドと一緒に暮らしてるのよ!!」
「だ~か~ら~。アンタのとこに帰りたくないからここにいるわけ。わかる? それに暮らしてるって言っても単に空いてる部屋に彼を住まわせてるだけじゃない。それで彼を囲ってるつもり? お金くらいしか取り柄がない年増が、本気でジェイドに愛されてるとでも思ってるの?」

 どの言葉が気に障ったのか、目の前の彼女の顔色が変わる。

「あ~ら。お金がないからって他人のものをかすめ取ろうとするなんて、せんな人の考えることはさすがよねぇ。囲うだなんて好色家みたいな発想、私には考え付きもしなかったわぁ!」

 明らかな負け惜しみの言葉に対し、俺にしなだれかかる女が追い討ちをかけた。

「よく言うわよ。年増女がこんなに若くて美しいジェイドに本気で相手にされるわけないでしょ? それがわかってるから、こんなとこまでやっになって彼をつけ回して監視してるくせに! 残念だったわねぇ。彼はあなた自身には全く興味ないんですって」

 どっちも興味ないけど……
 口には出さないものの、俺はひっそりと心の中でそう呟いた。
 俺を挟んでキャットファイトを繰り広げる二人の女性。
 ひとりは二週間ほど前に知り合って、よかったら家に来ないかと誘ってくれたので、断るのも面倒でそのまま住まわせてもらってる金持ちの未亡人。
 もうひとりはたまに行く居酒屋の女給で、今日はたまたま街で出会い、食事でもどうかと誘われて、やはり断るのが面倒で一緒に食事をしただけの人。
 ちなみにどちらともまだ深い仲にはなっていない。
 そして今は女給の彼女と食事を終えた店の前。偶然なのかそれとも意図したことなのか。店を出たところで俺を住まわせてくれている未亡人と鉢合わせし、何故かこんなことになっている。
 あれから五年。
 はたから見れば立派にろくでなしになり果てた俺の名前はジェイド。
 一応平民ってことになっているから姓はない。
 職業は役者。このドルマキア王国の王都でも人気のある劇団に所属している。
 五年前、死にかけていたところをたまたま通りかかったこの劇団の団長に助けてもらったのがきっかけで役者という道を選んだものの、諸々の事情からいまだに舞台に起用されたことはない。
 役者とは名ばかりで、団長のかなり個人的な雑用係をしてるってのが実際のところ。
 でも俺はその待遇に不満はない。
 の髪に淡い緑色の瞳。抜けるような白い肌は男らしくないという人もいるだろうが、それが中性的な顔立ちとよくマッチして魅力的らしく、男女問わずによくモテる。
 表面上だけだけど愛想はいいし、基本、性格は穏やかで優しい。来る者こばまず去る者追わずで、誘われれば断らないし、こっちからすり寄ることも、しつこくすることもない。
 そういうの最低だってよく言われるけど、それでもいいって言ってくれる人は結構いるし、おかげで売れない役者という無職同然の身だって公言してても、今のところ寝るところにも食うものにも困っていない。……まあ、今みたいに少々困った事態になることはしょっちゅうだけど。
 だから所属している劇団のボスからも度々苦言を呈されている。
 でも今のところなるようになっているので、特に自分の行動を改める気はない。
 だって、これは俺のろくでもない人生に用意された悪路をそこそこ通れる道にするために、俺が身に付けたすべだからさー。
 ──うん、でもさすがにこれはマズいかな……
 店の前でいきなり始まった言い合いは、明らかに営業妨害になっている。
 申し訳ないなと思いつつ先ほどまで食事をしていた店内に視線をやると、給仕をしていた男がこちらに向かってくるのがわかった。店内に数人いた客も皆一様に何事かとこちらをうかがっている。
 そうこうしてる間に続々と野次馬が集まり始め、なにげに注目度はうなぎ登りだ。
 これ、なりゆきでどうにかなるかな……。なんて悠長に考えていたら。

「ジェイドはどうしたいの!?」

 いきなり話の水を向けられて戸惑った。
 隣の彼女が上目遣いで俺を見つめている。
 その表情には、なにかを期待するような色が透けて見える。
 どうしたいって言われても……。全く聞いてなかったし。
 どう答えようか迷っていると。

「私のこと好きだって言ったわよね!?」

 目の前の彼女が余裕のない表情で俺に迫ってくる。
 だから俺はいつものように、「優しくしてくれる人はみんな好きだよ」という紛れもない本音を、彼女が好きだと言ってくれた微笑み付きで答えてみた。
 しかし彼女はお気に召さなかったらしい。バチン! という音と共に俺の頬にそれなりの威力の衝撃が走る。その直後、叩いた彼女が俺の前から走り去った。
 もちろん追いかけるような真似はしない。
 隣の彼女は一瞬喜びを隠せないといった表情をしたものの、すぐに俺を心配するように眉尻を下げ、なぐさめるように俺の頬に手を添えた。

「あら、野蛮ねぇ……。大丈夫? ジェイド。ここじゃ騒がしすぎるから、よかったらうちに来ない? ──たっぷりなぐさめてあげるわ」

 最後の一言だけ俺にしか聞こえないように喋った彼女の視線は明らかに俺にびるもので、俺は苦笑いしながらもそれをこばみはしなかった。ところが。

「悪いがソイツは俺が既に予約済だ。諦めてくれ」

 まだ残っていた野次馬の中から、ひとりの男が歩み寄ってくる。
 黒髪に、濃い紫色の瞳。ちょっと無愛想な感じがするけど、その見た目はすこぶるイケメン。
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 何故か盛り上がる野次馬。呆然とする彼女。公衆の面前で男に抱き締められている俺。そして。

「『身代わり屋ジェイド』。お前の裏の顔をバラされたくなかったら、俺と一緒に来い。いいな?」

 今までで一番物騒な口説き文句を耳元でささやく男。
 そんなカオスな状態に終止符を打つために、男に身体を預けたまま黙って頷く以外、俺に選択肢はなかった。


   ◇


 やや強引ともいえるやり口で連れてこられたのは、男が宿泊しているという高級宿。
 ここは宿側が利用客を選べる代わりに、客のプライバシーが完全に守られることで有名なところで、間違ってもヒモまがいの生活をしている売れない役者の俺なんかが足を踏み入れていい場所じゃない。
 ……たぶんここ、この宿で一番良い部屋だよな?
 見るからに高級感たっぷりの部屋にちょっとひく。
 宿屋のはずなのに、今いる部屋にベッドは見当たらず、その代わり無駄に広々とした空間の中央にやたらと豪華なソファーセットが鎮座している。下に敷かれた毛足の長い白いラグなんて、土足で踏むのが申し訳なくなるようなほどフッカフカ。さりげなく部屋全体に視線をやると、どれもこれも普通に生活していたらまずお目にかかれないような代物で揃えられているのがよくわかる。
 この部屋の奥にある重厚な造りの扉が、きっとベッドルームに続くものだろう。
 こんなところに泊まれる時点で、コイツが特権階級の中でも相当特別な地位にいる人間だってことがうかがえた。
 そんな人間が俺に用事があるとかさ。厄介事の気配しかしないんだけど。
 しかも俺が『身代わり屋』だってわかってて声をかけてきたあたり、話っていうのは関係のことだろうし。
 ここで逃げたらどうなるかなぁ、なんて考えていると。

「いつまでそこに突っ立ってるつもりだ?」

 それまで俺の様子なんてまるで気にかけることなく、さっさと赤いビロード張りのソファーに座っていた男が、不機嫌さを隠そうともしない声で言い放った。
 席を勧められたわけじゃないから立ってただけなのに文句言われるなんて、理不尽すぎでしょ……
 でもそれを口に出して言うわけにもいかず、俺はとりあえず愛想笑いを浮かべておいた。
 街で声かけられて宿屋に直行とか、普通だったら甘くて色っぽい展開を想像するもんなんだろうけど、ここにはそんな雰囲気はじんもない。
 まあ、口説き文句がアレだったし、俺もはなからそんなこと期待してないけどさー。もうちょっと雰囲気良くできないもんかねぇ。
 内心うんざりしながらも、とりあえず話を聞くだけ聞いたらさっさと帰ろうと心に決めて、若干重い足取りで男の向かい側にある三人掛けのソファーに向かった。


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