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1巻
1-1
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プロローグ
「あぁあっ……! そこっ、ひ、ぅっ」
熱い楔がより深い場所へと潜り込んでこようとする。いつもよりも硬い先端が、私のナカの最奥を穿つように貫いていく。弾けそうなほど膨らんだ独特の疼きに下腹がひくりと波打った。
「ッ……締めんなって」
細く整えられた眉が物憂げに歪む。艶のある低音で咎めるような言葉が蠱惑的に響いた瞬間、途方もない快楽が押し寄せ、背中を弓なりに反らせた。
彼の熱い吐息がじりじりと肌を焼く。全身が焼けつくような激しい睦み合いに、繋がっている箇所の輪郭すら溶けてぐずぐずに交じり合ってしまいそうだ。
「ぅ、ん、っ……わ、わた、わたしっ、もう……!」
痺れるようなあの感覚が這い上がってきて、規則的な呼吸ができなくなった私の吐息が更に荒く乱れていく。
ふっと、彼がいつものように口の端をつり上げて笑った、その瞬間。ずん、と一際強く突き上げられあっけなく絶頂を迎えた。甘く眩い感覚が押し寄せる津波のように全身へと広がって行き、脳天へと突き抜けていく。目尻から生理的な涙が滑り落ちていくとともに、くたりと全身が弛緩した。高みへと押し上げられた浮遊感に意識が蕩けていく。
余韻が収まらない中、不意にみっちりと満たされていた隘路から楔がゆっくりと引き抜かれる。目の前の彼に時間をかけて悦い場所も弱い場所も、何もかもを知り尽くされたこの身体。果ててぼやけた思考でも彼のこの先の行動を悟り、びくりと全身が揺れた。
「ま、って、イッたばっかりだからっ、……あああッ!」
力の入らない腕を懸命に動かして伸ばした手は意味を持たず、内壁の浅い粘膜部分に昂りの先端が容赦なく当てられる。執拗に弱い箇所へと摩擦を与えられ、目の奥が白く瞬いた。はくはくと酸素を求めながら大きく仰け反る。
「……っ、く、限界」
いつになく上擦ったような声色とともに、再び最奥に打ち付けるような獰猛な抽送が始まった。
「ゃ、ああっ、ぁ、んぅっ!」
結合部から奏でられる淫らな旋律。耐えがたいほどの婬靡な蜜音に思わずぎゅうと目を瞑る。本能的に収縮する隧道から、蜜がとろとろと零れ落ちていく。
襲い来る陶酔のうねりに溺れてしまわないように右手でシーツをぐっと掴むと、彼の汗ばんだ熱いてのひらが重ねられた。
不思議だ。『愛』と『快楽』はとても近い場所にあるけれど、それでも究極に遠い場所にあるはずなのに。『愛』は自分以外に向けた意識だけど、『快楽』は自分へ向けた意識――だった、はずだったのに。今、彼から与えられている愛と快楽は、どちらも同じ方向を向いたもののように思う。
「すげぇ締まるな、今日……」
掠れた声で紡がれる言葉にそっと目を開けば、視界を占領するのは均衡が取れた引き締まった胸板。吸い寄せられるように視線を上げると、こちらを見つめている彼の瞳に宿る――情欲の光。艶めかしいまでの熱を孕んだ表情にぞくりと全身が総毛立った。胸の奥が否応なしにヒリヒリと灼けついていく。
彼の空いた右手が私の片脚を持ち上げた。途端、結合が深まり甘い吐息と鼻にかかった嬌声が零れ落ちていく。
余裕がなさそうに見える彼が、それでも揶揄うように切れ長の瞳を細め、私の耳元で小さく囁いた。
「今日、いつもより感じてんな? ……初めて、家以外でシてるから?」
「しっ、しらないっ、あぅううっ」
不規則な律動から生み出され、押し寄せる快楽の波。身体も思考も何もかもが乱されて脳内が白く塗りつぶされていく。必死に縋りついていた理性を手放し無我夢中で頭を振ると、汗ばんだ頬に私の髪が纏わりついた。
「それとも……初めての旅行……だから?」
彼の形を記憶して久しいソコは、熱い楔が膨張して内壁が緩やかに押し広げられていく感覚をはっきりと拾い上げる。迫りくる深い絶頂感を堪え切れず自ら腰を浮かすと、それが合図だったかのように白い波が下腹からせり上がってきた。
「んっ、やぁっ……あぁあッ……!」
「……くッ!」
どくんと楔が震えるのと、身体の奥底から押し上げられた感覚が弾けるのは同時だった。
「ちょっと。ここ、禁煙のほうのスイートなんだってば」
白濁の溜まったゴムを手早く片付けた流れで彼が小箱とライターに手を伸ばしたのを見逃さず、整わない呼吸のまま抗議の視線を送る。
視線が絡まったその瞳が、すっと意味ありげに細められた。
「ふぅん。まだ俺に文句つける元気あったんだ。今日はかなり歩き回って疲れてるだろうからと思って手加減したのに?」
「……っ!」
不敵と表現するのが正しいような彼の笑みに経験上の嫌な予感を感じて、再びさぁっと血の気が引く。脳がくらくらするような強い余韻が抜けきれない身体を震わせ、キングサイズのベッドの余白に逃げ場を求めた。
「今日、いつもより感じてたのって、何で? さっき答えてくれなかったけど」
彼の指が露わになったままの私のくびれをなぞる。途端、全身がびくりと跳ねた。それだけで反応してしまう自分が恨めしい。それもこれも、全て目の前の彼のせい。そうに違いない。……だけども。
「……智だって、いつもより激しかった!!」
ベッドに備え付けられた大きな掛け布団を引っ張り、所有痕が盛大に散らばる胸元を隠してダークブラウンの瞳をきつく睨みつける。
今日は私の昇進祝いということで、彼が土日を利用して隣県に一泊二日の小旅行を計画してくれていた。大仏坐像で有名な社寺を回り、たくさんのお店が並ぶ商店街を思う存分食べ歩いて、青く広大な海を見て癒されて。怒涛ながらも、充実した一日だったと思う。
緩やかになりかかっている呼吸に合わせ、海原に揺蕩うような悦楽の余韻を逃がしつつ、改めて今日一日の出来事を振り返る。元来、彼が性欲おばけであることは認識しているけれども。
(まさか……お互いに疲れたと言い合った日まで、なんて)
その上でセックスになだれ込まされたという事実に、思わず眉間に皺が寄った。
「ぼーっとして、何考えてんの?」
不服そうな声色が耳朶を打ち、ハッと現実に引き戻される。大きな手が掛け布団を支える私の手首に触れた。視界に映り込むのは情欲を灯した瞳。
「他のことを考える余裕がある、って……煽ってます? 知香さん」
放たれた言葉とは裏腹に柔らかな笑みが向けられる。彼の口調と声のトーンが、変わった。その事実に再び身体がびくりと大きく跳ねてしまう。
「ち、違っ!」
「答えて?」
有無を言わせぬ空気を纏った問いに、じんと身体の奥に熱が灯った。熱い手に捕らえられたままの手首がゆっくりと力強く引かれていく。トン、と彼の胸元に引き寄せられ、唇に噛みつかれる。
これからのことを想像してじわりと蜜が零れた。それを感じて小さく苦笑する。さっきも散々啼かされたのに。
(まぁ、いいか……)
唇に当てられた熱を感じながら、そっと瞳を閉じた。
今日くらいは――この愛と快楽に溺れてしまおう。
第一章 人生の曲がり角
高校は女子校だった。同級生は思ったよりも大人びていて、そういう話もよく飛び交っていた。ませた友人たちから聞き齧った知識を得て妙に耳年増だった分、セックスに期待をしていた。
だからこそ、大学のインターンシップで出会った初めてのカレとの破瓜の痛みにも耐えられた。回数を重ねて、幸福感は得られた。
けれど、快いと思ったことは正直一度もない。
周りに恥を忍んで聞いてみても、慣れないうちはそうだよと一蹴される。周りがそう言うのだから、きっと快くなるはず。だって私はカレが好きだ。カレも私を好いてくれている。
……そうに決まっている。私たちは未来を約束した仲。これからは身体を重ねるだけでなく、延々と続く未来の日々を重ねていくことになるのだから。
「元カノとの間に子どもができた。別れてほしい」
衝撃的な出来事は、唐突に訪れた。夜景の綺麗なレストランでフルコースを食べ、デザートが並べられカレが居住まいを正した瞬間だった。
はっきりとした言葉はなかった。けれど数週間前に「そろそろ両家に挨拶に行こう」と言われ、そしてその後のデートでは指輪を見に行った。それが何を意味するのかを察せられない訳はない。その上で話があると言われれば、その時が来たのだと思うだろう。交際歴四年、二十七歳のカレと三つ年下の私。
互いに仕事を終え、待ち合わせの時からひどく挙動不審だったカレ。挨拶に行くという言葉が出てきた時点でプロポーズしているようなものだけれど、正式なそれの前に緊張しているのだと思っていた。
「すまない」
食後のコーヒーを前に茫然自失としたまま言葉を紡ぎだせずにいると、カレが苦痛に顔を歪めながら謝罪の言葉を口にした。
「元カノ……なんて、いたんだ」
私の口から初めに溢れた言葉は、あまりにも間抜けなものだった。
「ごめん。付き合ったことはあっても……その、経験がなかった。だから初めてだと言ったんだ。あの時、経験がないとは恥ずかしくて言い出せなかった」
初めて同士だと思っていた。その気持ちも裏切られていた。それだけでなく女性として最大の裏切りを懺悔される。いかにもプロポーズに向いた……こんな夜景の綺麗な場所で。
「本当に悪いと思っている。慰謝料請求するつもりなら受け止める。どんな誹りも受け入れる」
慰謝料請求。その言葉の輪郭だけが脳内に残って、残像のようにぐるぐると回りだす。
(……もう、挨拶の話が出ていたから……)
まるで悪い夢を見ているようだった。自分を取り戻せずにいる私を置き去りに、カレは私たちが選んだ指輪の箱をテーブルの上に置いて言葉を続けていく。
「これは好きにしていい。質屋に入れたって売り払ったっていい。会社で君に合わせる顔がないから、今朝、他の地区へ異動願いを出した。元カノも転居することは了承済みだ。山崎部長と田邉部長にも事情を話しているから。会社で君に迷惑はかけない」
「……え?」
社内恋愛だった、私たち。いつのころからかカレと私の関係は公然のものとなっていた。自ら吹聴したことはなかったけれど、色恋のゴシップは瞬時に駆け回るもの。それ故に私たちのことを知っている人物は多い。もちろんお互いの上司もそうだ。その人たちはすでにこの結末を知らされていた。
それらが示す結論。この場で私が「別れない」と言い出すことは許さない、というカレの意思表示。私に選択肢は用意されていない。別の世界で起こっている出来事のような、目の前の現実を。受け入れるしか、ない。破局は――決定事項。全身から力が抜けていくのを感じたけれど、それでも弱い部分を目の前のカレに見せたくはなかった。
「……指輪はいらないから。あなたのほうで処分して、新生活の足しにして」
泣いて縋るという選択肢すら用意されていない。それに対しても、惨めだとか怒りだとか、そんな感情は一切湧き上がってこなかった。
ただただ淡々と。自分の声に感情を込めず、気丈に振る舞いカレに鋭く言葉を突き返した。
「……すまない」
初めての恋人。初めての体験。初めての……裏切り。これ以上なんと言葉を返して良いかわからなかった。
目の前で悲痛な表情をして……まるで自らが被害者のように、だらんと力なく項垂れるカレに。どんな感情を持てばいいのかすらも――わからなかった。
いつもの朝が来た。なんてことない、月曜日。代わり映えのない日常生活。
普段より空いている電車に乗り、最寄り駅で降りる。地上へ繋がる階段を上るとオフィスビルが見えてきた。一階に入居している開店準備中のカフェの横を通り過ぎ、正面玄関を潜る。
エントランスはエレベーター待ちの人でやや混雑していた。周囲の顔触れを見回し安堵の溜息を吐く。鞄をまさぐって社員証を手に持ち、他社の社員たちに混じり到着したエレベーターに乗り込む。
今日はわざと顔見知りがいない時間を狙って出勤した。
あの話がすでに噂になっていたら? ヒソヒソと噂されているのを耳にしたら? 今度こそ、私の全てが崩壊するような気がしていた。
独特の浮遊感で目的の階でエレベーターが止まったことを認識する。開いた扉をすり抜け、足を踏み出したエレベーターホールに置いてあるタイムカードの機械に社員証を翳していく。
「……しまったなぁ」
想定より早く着いてしまった。目の前の機械が表示する時刻は七時五十六分。
始業は九時。今は早朝残業申請が必要な時刻だ。
「でも……この時間に出てくるのも、おかしくはないもの」
機械の前で自分に言い聞かせるように小声で呟き、肩に掛けた鞄に社員証を押し込んだ。
所属している通関部は月曜日と金曜日が非常に忙しい。土日は税関が閉まるため、週明けは特に書類が嵩む。そのため管理職以外の所属社員で月曜日のみ早出勤務担当を割り振っている。今朝の担当は私ではないが、そうした事情から残業申請を出しても矛盾はない。
デスクに積み重なっているはずの書類のこともあり、重い足取りで更衣室に向かう。制服に着替えて社員証を首にかけ、ブラウスの襟元に挟まった髪を一つに纏めていく。いつだったか……腰まで届くこの長さが一番好きだ、とカレは言っていた。そこまで考え、ふと我に返る。
我ながら呆れるほど未練がましい。髪を結ぼうとしただけでカレを思い出すなんて。頭を振って思考から追憶を追い出し、ロッカーに備え付けの内鏡に自分の顔を写し出す。
「ひどい顔」
軽く両頬を叩きロッカーを閉じる。一人きりの更衣室から通関部のフロアへ足を向けた。
フロアに近づくごとに緊張で鼓動が激しくなる。カレが在籍する人事部のブースは一つ上の階。社内で顔を合わせることはほぼない。
カレに、私を踏みにじった平山凌牙に、負けたくない。
散々泣いて休日を潰した。遠方の親に挨拶に行く必要がなくなった連絡をした。ずいぶんと心配された。理由は悔しすぎて、情けなさすぎて……両親には言えなかった。
『事情は聞かないけど、知香が決めたことなら大丈夫よね?』
そう言って優しく電話を切った両親は、いつだって私の意志を尊重してくれる。その優しさが、今はありがたかった。生きているうちにきちんと自立して親孝行したい。
だからもう、過去は振り返らない。私は前を向く。熱い水分で視界が歪んだことに気がつかない振りをして、フロアに繋がる扉を開けた。
「おはようございます」
自らを奮い立たせるように通関部のブース前で一礼をする。足早に行動予定表のボードに歩み寄り、『一瀬知香』のマグネットを『在席』に動かした。
「一瀬、おはよう」
「……おはようございます」
部長席から向けられる、いつもと変わらない田邉部長の穏やかな表情。自意識過剰かもしれないが、それでも少しだけ含みのある目をしているように感じた。ぐっと俯いて自分のデスクに足を運ぶ。椅子に腰を下ろし、積み上げられた書類を淡々と選別していく。運の悪いことに田邉部長の斜め前に私の席がある。妙な沈黙、私に突き刺さる陰伏的な視線。実に居心地が悪い。
「一瀬さん。今度の通関分で仕入書と梱包明細書が違う分があります」
一息ついたころ、後輩の小林くんから助けを求められた。目鼻立ちの整った顔に仔犬が困ったような表情を浮かべている彼は今年の新入社員。今朝の早出担当の小林くんから投げかけられた内容に、少々裏返った声が飛び出ていく。
「ええ!? どこからの依頼?」
「三ツ石商社の分です」
予想外の社名に思わず目が丸くなる。あの会社からの依頼書類に不備な点があったことはあまり経験がない。珍しいこともあるものだと首を捻った。
これでは税関の許可が降りずに依頼されている商品の貿易の流れが止まってしまう。電話かファックスか、はたまたメールが良いか、と不備の訂正の方法を逡巡する。
件の会社は、このオフィスビルの前にある交差点を左に曲がって少し先のビルに入居している。これから徒歩で向かうとしても、あちらの始業時間である八時半には到着できるはず。
含みのある空気感を纏った上司の目の前。居心地の悪さも重なり、不真面目だけれどこの場を抜け出す口実に使わせてもらおうと脳内で結論付ける。
「小林くん、担当者はわかる? どうせだから挨拶に行きましょう。あなたも通関部に配属されて半年経ったし。ついでに不備についても聞いてきましょう」
「ですが……俺、下っ端ですし……」
「『俺』じゃない」
取引先への挨拶という降って湧いたような現実にたじろいだ彼の言葉を遮り、言葉遣いを窘める。社会人になりたての彼は慣れておらず一人称の使い分けがいざと言うときに上手くいっていない。このままでは取引先の前で恥をかくのは彼。それを矯正するのも彼の教育係である私の役目だ。心を鬼にして彼に視線を向けると、黒曜石のような瞳が揺れ動き小さく頭が下げられた。
「……すみません、つい」
「うん、気をつけて」
少し前まで学生だったのだ。社会人として未熟な面は仕方ない。彼も徐々に成長してくれたらそれでいい。小林くんに先方の担当者へ不備と訪問の一報を入れるように指示を送り、持っていた書類を揃えてデスク脇に避ける。
「田邉部長。少し外出します」
「わかった。なるべく九時過ぎには戻ってこい。山崎部長が面談したいと呼んでいたぞ」
告げられた言葉に思わず息を呑む。人事部の部長が私に何の用だろうと考え、即座にその用件に辿り着いた。
用なんて一つしかない。今回の件の顛末について説明を求められるのだろう。史上最速で課長代理に昇進した優秀な人材が、痴情のもつれを理由に人事部からの異動願いを出しているのだ。
「……承知しました」
何かの重しを乗せられたような重い身体を動かし、私は腰掛けた椅子からゆっくりと立ち上がった。
◆
行動予定表の自分の――小林達樹のマグネットと共に、一瀬さんのマグネットも『外出』に動かした。「ありがとう」と小さな声が耳に届き、俺はそちらに視線を滑らせる。
普段よりも早く出社してきた彼女。メイクで隠しきれていない僅かな隈に、腫れぼったい瞼。涙し、眠れぬ夜を過ごしたのだと想像できるその姿。
あらぬ視線を向けぬよう自分の感情を押さえつけ、エレベーターホールに向かう一瀬さんの背中を追った。彼女が『下』ボタンを押したのを確認し、そっと真横に立ちエレベーターの到着を待つ。
「山崎部長って人事部の部長でしたよね? 来週の……秋の異動の内示でしょうか」
「私、入社してからずっと通関部だし。ありえるわね」
妙な沈黙に耐えきれず声をかけると、彼女はまるで他人事のようにさらりと言葉を発した。視界に映るその横顔は、感情を押し殺したような表情をしているように思えた。よくわからないが、今の彼女は真夏のアスファルトに儚く揺らめく陽炎を連想させる。そんなはずはない、と俺は意識を現実に引き戻すように言葉を続けていく。
「俺の指導はどうなるんスか」
「三木ちゃんに引き継ぐわ。彼女ももう二年目だし、そろそろ下を育てることを考えてもらわないといけないと思っていたから。渡りに船かしら」
先ほどとは違い、『俺』という一人称にも砕けた言葉遣いにも一瀬さんは苦言を呈さない。今だけは先輩後輩でなく会社のために意見を言い合える対等な立場として接してくれているということだ。
一瀬さんの下について半年。この人は俺を一人の社会人、小林達樹として見てくれる。後輩として軽んじるのではなく、社会人の『小林達樹』としてきちんと見てくれる。
入社して二ヵ月の頃。この書類はこうしたら良いのではないかという提案を、根拠を添えて昼食時に何気なく話した。彼女は「仕事に対して合理的な考えをする子は好きよ」と悪戯っ子のような笑みを浮かべながら俺の意見に同意してくれた。田邉部長へ進言する際も、たどたどしい俺の説明を後ろからフォローしてくれた。俺の先輩である三木さんも彼女のことを公私共に慕っており、そう長くはない時間で彼女の人柄を理解できた。
チン、と軽い音がして扉が開く。到着した下りのエレベーターに二人で乗り込んだ。出勤者で騒めく上りは混雑しているが、こちらには誰も乗っていない。
彼女が人事部の平山さんと交際していると知ったのも、そのころだった。彼は『適性を見抜く力』に長けている。彼が採用・配属業務に関わるようになってからこの会社の離職率は大幅に減ったという。
この極東商社は食品を手掛ける商社で多数の部門がある。企業説明会で受けるのは華やかな営業の世界という印象が強いが、実際は正論だけでは生き抜けない世界だ。
他社を出し抜いて成果を勝ち取る者。他者を出し抜いて成果を勝ち取る者。現実と理想のギャップに堪えかねて離職してしまう、厳しい世界。
そんな中、平山は営業に向いた者、商品開発に向いた者、管理業務に向いた者を的確に見抜き、採用から配属までを取り仕切る有能な人材らしい。弱冠二十七歳の彼が会社史上最速のスピードで昇進したというのも頷ける。
ただ、俺は正直なところ彼が苦手だ。『適性を見抜く力』は『不適性を見抜く力』でもある。それは他者を見下す要因になりかねないと知っている。現に、彼と相対すると少しばかり――蔑まれているような、そんな気がするのだ。
二人きりのエレベーター内でそっと彼女に視線を向ける。俺の肩の位置に頭部が来る背丈。不意に、黒髪から覗く薄い耳朶と、低めの位置で一括りされ露わになっている白いうなじに目を奪われてしまった。胸の奥に潜む心臓がどくりと跳ねた感覚に、慌てて目を逸らす。ちらりと映った彼女の焦げ茶色の瞳は、まっすぐに、けれどもぼんやりと操作パネルを見つめていた。
仕事とプライベートをしっかり分ける彼女。平山とは会社でも接点を持たず、飲み会や社内研修でも徹底的に接触を避けている。普段からきちんと線引きをしているはずだというのに、「何かがあった」という空気を隠しきれていない。目の前の光景に身体の奥が騒めいた。
エレベーターの駆動音だけが響く空間に二人きり。何があったのか、思い切って聞いてみようかと口を開きかけた瞬間、独特の浮遊感に包まれて扉が開いた。タイミングを逸し、無言のまま出勤前の人でごった返すエントランスに足を踏み入れる。
「……っ」
正面玄関を目指し、俺の前を俯き気味で歩いていた彼女が何かにぶつかった。ハッと顔を上げると、そこには平山の姿があった。
「なんだ、君か」
投げかけられた言葉に彼女が硬直する。数秒の後に、初めて聴くような硬い声色が響いた。
「……すみません。前を見ていませんでした」
「朝は人が多いから気をつけて」
言葉尻は柔らかいが男の声色も硬い。まるで吐き捨てるように彼女に声を投げつけている。自然と眉間に皺が寄った。不注意は誰にでもあることだ。何もそんな言い方をしなくても、と男を見上げ、俺もびしりと硬直した。
前髪を掻き上げるように動かした男の左手の薬指。そこには、銀色に光る結婚指輪が輝いていた。思考が一瞬で停止する。
目の前の二人は交際中ではなかっただろうか。先ほど書類整理をしていた彼女の左手の薬指には何も無かった。そこから導き出される結論に自分の全身が沸騰するような感覚を抱いた……が。
第三者である俺が抱いて良い感情ではないと気がつき――その光に気がつかなかったふりをした。
◆
その輝きを認めた瞬間、喉が凍りついた。数秒遅れて――結婚指輪の意味を。金曜日、カレの上司と私の上司に根回しされた理由を理解した。
私に別れを告げ、その翌日には、あるいは食事の帰りの足で婚姻届の提出をするつもりだったのだろう。授かり婚であれば尚更早めの手続きを求められる。それは元カノの求めなのか、元カノのご両親が求めたのかまでは私は知る由もないけれど。
私が知らない裏側でこのような段取りが組まれていたからこそ、あの場で私が『別れたくない』と言い出せない状況がご丁寧に仕立て上げられたというわけだ。
「あぁあっ……! そこっ、ひ、ぅっ」
熱い楔がより深い場所へと潜り込んでこようとする。いつもよりも硬い先端が、私のナカの最奥を穿つように貫いていく。弾けそうなほど膨らんだ独特の疼きに下腹がひくりと波打った。
「ッ……締めんなって」
細く整えられた眉が物憂げに歪む。艶のある低音で咎めるような言葉が蠱惑的に響いた瞬間、途方もない快楽が押し寄せ、背中を弓なりに反らせた。
彼の熱い吐息がじりじりと肌を焼く。全身が焼けつくような激しい睦み合いに、繋がっている箇所の輪郭すら溶けてぐずぐずに交じり合ってしまいそうだ。
「ぅ、ん、っ……わ、わた、わたしっ、もう……!」
痺れるようなあの感覚が這い上がってきて、規則的な呼吸ができなくなった私の吐息が更に荒く乱れていく。
ふっと、彼がいつものように口の端をつり上げて笑った、その瞬間。ずん、と一際強く突き上げられあっけなく絶頂を迎えた。甘く眩い感覚が押し寄せる津波のように全身へと広がって行き、脳天へと突き抜けていく。目尻から生理的な涙が滑り落ちていくとともに、くたりと全身が弛緩した。高みへと押し上げられた浮遊感に意識が蕩けていく。
余韻が収まらない中、不意にみっちりと満たされていた隘路から楔がゆっくりと引き抜かれる。目の前の彼に時間をかけて悦い場所も弱い場所も、何もかもを知り尽くされたこの身体。果ててぼやけた思考でも彼のこの先の行動を悟り、びくりと全身が揺れた。
「ま、って、イッたばっかりだからっ、……あああッ!」
力の入らない腕を懸命に動かして伸ばした手は意味を持たず、内壁の浅い粘膜部分に昂りの先端が容赦なく当てられる。執拗に弱い箇所へと摩擦を与えられ、目の奥が白く瞬いた。はくはくと酸素を求めながら大きく仰け反る。
「……っ、く、限界」
いつになく上擦ったような声色とともに、再び最奥に打ち付けるような獰猛な抽送が始まった。
「ゃ、ああっ、ぁ、んぅっ!」
結合部から奏でられる淫らな旋律。耐えがたいほどの婬靡な蜜音に思わずぎゅうと目を瞑る。本能的に収縮する隧道から、蜜がとろとろと零れ落ちていく。
襲い来る陶酔のうねりに溺れてしまわないように右手でシーツをぐっと掴むと、彼の汗ばんだ熱いてのひらが重ねられた。
不思議だ。『愛』と『快楽』はとても近い場所にあるけれど、それでも究極に遠い場所にあるはずなのに。『愛』は自分以外に向けた意識だけど、『快楽』は自分へ向けた意識――だった、はずだったのに。今、彼から与えられている愛と快楽は、どちらも同じ方向を向いたもののように思う。
「すげぇ締まるな、今日……」
掠れた声で紡がれる言葉にそっと目を開けば、視界を占領するのは均衡が取れた引き締まった胸板。吸い寄せられるように視線を上げると、こちらを見つめている彼の瞳に宿る――情欲の光。艶めかしいまでの熱を孕んだ表情にぞくりと全身が総毛立った。胸の奥が否応なしにヒリヒリと灼けついていく。
彼の空いた右手が私の片脚を持ち上げた。途端、結合が深まり甘い吐息と鼻にかかった嬌声が零れ落ちていく。
余裕がなさそうに見える彼が、それでも揶揄うように切れ長の瞳を細め、私の耳元で小さく囁いた。
「今日、いつもより感じてんな? ……初めて、家以外でシてるから?」
「しっ、しらないっ、あぅううっ」
不規則な律動から生み出され、押し寄せる快楽の波。身体も思考も何もかもが乱されて脳内が白く塗りつぶされていく。必死に縋りついていた理性を手放し無我夢中で頭を振ると、汗ばんだ頬に私の髪が纏わりついた。
「それとも……初めての旅行……だから?」
彼の形を記憶して久しいソコは、熱い楔が膨張して内壁が緩やかに押し広げられていく感覚をはっきりと拾い上げる。迫りくる深い絶頂感を堪え切れず自ら腰を浮かすと、それが合図だったかのように白い波が下腹からせり上がってきた。
「んっ、やぁっ……あぁあッ……!」
「……くッ!」
どくんと楔が震えるのと、身体の奥底から押し上げられた感覚が弾けるのは同時だった。
「ちょっと。ここ、禁煙のほうのスイートなんだってば」
白濁の溜まったゴムを手早く片付けた流れで彼が小箱とライターに手を伸ばしたのを見逃さず、整わない呼吸のまま抗議の視線を送る。
視線が絡まったその瞳が、すっと意味ありげに細められた。
「ふぅん。まだ俺に文句つける元気あったんだ。今日はかなり歩き回って疲れてるだろうからと思って手加減したのに?」
「……っ!」
不敵と表現するのが正しいような彼の笑みに経験上の嫌な予感を感じて、再びさぁっと血の気が引く。脳がくらくらするような強い余韻が抜けきれない身体を震わせ、キングサイズのベッドの余白に逃げ場を求めた。
「今日、いつもより感じてたのって、何で? さっき答えてくれなかったけど」
彼の指が露わになったままの私のくびれをなぞる。途端、全身がびくりと跳ねた。それだけで反応してしまう自分が恨めしい。それもこれも、全て目の前の彼のせい。そうに違いない。……だけども。
「……智だって、いつもより激しかった!!」
ベッドに備え付けられた大きな掛け布団を引っ張り、所有痕が盛大に散らばる胸元を隠してダークブラウンの瞳をきつく睨みつける。
今日は私の昇進祝いということで、彼が土日を利用して隣県に一泊二日の小旅行を計画してくれていた。大仏坐像で有名な社寺を回り、たくさんのお店が並ぶ商店街を思う存分食べ歩いて、青く広大な海を見て癒されて。怒涛ながらも、充実した一日だったと思う。
緩やかになりかかっている呼吸に合わせ、海原に揺蕩うような悦楽の余韻を逃がしつつ、改めて今日一日の出来事を振り返る。元来、彼が性欲おばけであることは認識しているけれども。
(まさか……お互いに疲れたと言い合った日まで、なんて)
その上でセックスになだれ込まされたという事実に、思わず眉間に皺が寄った。
「ぼーっとして、何考えてんの?」
不服そうな声色が耳朶を打ち、ハッと現実に引き戻される。大きな手が掛け布団を支える私の手首に触れた。視界に映り込むのは情欲を灯した瞳。
「他のことを考える余裕がある、って……煽ってます? 知香さん」
放たれた言葉とは裏腹に柔らかな笑みが向けられる。彼の口調と声のトーンが、変わった。その事実に再び身体がびくりと大きく跳ねてしまう。
「ち、違っ!」
「答えて?」
有無を言わせぬ空気を纏った問いに、じんと身体の奥に熱が灯った。熱い手に捕らえられたままの手首がゆっくりと力強く引かれていく。トン、と彼の胸元に引き寄せられ、唇に噛みつかれる。
これからのことを想像してじわりと蜜が零れた。それを感じて小さく苦笑する。さっきも散々啼かされたのに。
(まぁ、いいか……)
唇に当てられた熱を感じながら、そっと瞳を閉じた。
今日くらいは――この愛と快楽に溺れてしまおう。
第一章 人生の曲がり角
高校は女子校だった。同級生は思ったよりも大人びていて、そういう話もよく飛び交っていた。ませた友人たちから聞き齧った知識を得て妙に耳年増だった分、セックスに期待をしていた。
だからこそ、大学のインターンシップで出会った初めてのカレとの破瓜の痛みにも耐えられた。回数を重ねて、幸福感は得られた。
けれど、快いと思ったことは正直一度もない。
周りに恥を忍んで聞いてみても、慣れないうちはそうだよと一蹴される。周りがそう言うのだから、きっと快くなるはず。だって私はカレが好きだ。カレも私を好いてくれている。
……そうに決まっている。私たちは未来を約束した仲。これからは身体を重ねるだけでなく、延々と続く未来の日々を重ねていくことになるのだから。
「元カノとの間に子どもができた。別れてほしい」
衝撃的な出来事は、唐突に訪れた。夜景の綺麗なレストランでフルコースを食べ、デザートが並べられカレが居住まいを正した瞬間だった。
はっきりとした言葉はなかった。けれど数週間前に「そろそろ両家に挨拶に行こう」と言われ、そしてその後のデートでは指輪を見に行った。それが何を意味するのかを察せられない訳はない。その上で話があると言われれば、その時が来たのだと思うだろう。交際歴四年、二十七歳のカレと三つ年下の私。
互いに仕事を終え、待ち合わせの時からひどく挙動不審だったカレ。挨拶に行くという言葉が出てきた時点でプロポーズしているようなものだけれど、正式なそれの前に緊張しているのだと思っていた。
「すまない」
食後のコーヒーを前に茫然自失としたまま言葉を紡ぎだせずにいると、カレが苦痛に顔を歪めながら謝罪の言葉を口にした。
「元カノ……なんて、いたんだ」
私の口から初めに溢れた言葉は、あまりにも間抜けなものだった。
「ごめん。付き合ったことはあっても……その、経験がなかった。だから初めてだと言ったんだ。あの時、経験がないとは恥ずかしくて言い出せなかった」
初めて同士だと思っていた。その気持ちも裏切られていた。それだけでなく女性として最大の裏切りを懺悔される。いかにもプロポーズに向いた……こんな夜景の綺麗な場所で。
「本当に悪いと思っている。慰謝料請求するつもりなら受け止める。どんな誹りも受け入れる」
慰謝料請求。その言葉の輪郭だけが脳内に残って、残像のようにぐるぐると回りだす。
(……もう、挨拶の話が出ていたから……)
まるで悪い夢を見ているようだった。自分を取り戻せずにいる私を置き去りに、カレは私たちが選んだ指輪の箱をテーブルの上に置いて言葉を続けていく。
「これは好きにしていい。質屋に入れたって売り払ったっていい。会社で君に合わせる顔がないから、今朝、他の地区へ異動願いを出した。元カノも転居することは了承済みだ。山崎部長と田邉部長にも事情を話しているから。会社で君に迷惑はかけない」
「……え?」
社内恋愛だった、私たち。いつのころからかカレと私の関係は公然のものとなっていた。自ら吹聴したことはなかったけれど、色恋のゴシップは瞬時に駆け回るもの。それ故に私たちのことを知っている人物は多い。もちろんお互いの上司もそうだ。その人たちはすでにこの結末を知らされていた。
それらが示す結論。この場で私が「別れない」と言い出すことは許さない、というカレの意思表示。私に選択肢は用意されていない。別の世界で起こっている出来事のような、目の前の現実を。受け入れるしか、ない。破局は――決定事項。全身から力が抜けていくのを感じたけれど、それでも弱い部分を目の前のカレに見せたくはなかった。
「……指輪はいらないから。あなたのほうで処分して、新生活の足しにして」
泣いて縋るという選択肢すら用意されていない。それに対しても、惨めだとか怒りだとか、そんな感情は一切湧き上がってこなかった。
ただただ淡々と。自分の声に感情を込めず、気丈に振る舞いカレに鋭く言葉を突き返した。
「……すまない」
初めての恋人。初めての体験。初めての……裏切り。これ以上なんと言葉を返して良いかわからなかった。
目の前で悲痛な表情をして……まるで自らが被害者のように、だらんと力なく項垂れるカレに。どんな感情を持てばいいのかすらも――わからなかった。
いつもの朝が来た。なんてことない、月曜日。代わり映えのない日常生活。
普段より空いている電車に乗り、最寄り駅で降りる。地上へ繋がる階段を上るとオフィスビルが見えてきた。一階に入居している開店準備中のカフェの横を通り過ぎ、正面玄関を潜る。
エントランスはエレベーター待ちの人でやや混雑していた。周囲の顔触れを見回し安堵の溜息を吐く。鞄をまさぐって社員証を手に持ち、他社の社員たちに混じり到着したエレベーターに乗り込む。
今日はわざと顔見知りがいない時間を狙って出勤した。
あの話がすでに噂になっていたら? ヒソヒソと噂されているのを耳にしたら? 今度こそ、私の全てが崩壊するような気がしていた。
独特の浮遊感で目的の階でエレベーターが止まったことを認識する。開いた扉をすり抜け、足を踏み出したエレベーターホールに置いてあるタイムカードの機械に社員証を翳していく。
「……しまったなぁ」
想定より早く着いてしまった。目の前の機械が表示する時刻は七時五十六分。
始業は九時。今は早朝残業申請が必要な時刻だ。
「でも……この時間に出てくるのも、おかしくはないもの」
機械の前で自分に言い聞かせるように小声で呟き、肩に掛けた鞄に社員証を押し込んだ。
所属している通関部は月曜日と金曜日が非常に忙しい。土日は税関が閉まるため、週明けは特に書類が嵩む。そのため管理職以外の所属社員で月曜日のみ早出勤務担当を割り振っている。今朝の担当は私ではないが、そうした事情から残業申請を出しても矛盾はない。
デスクに積み重なっているはずの書類のこともあり、重い足取りで更衣室に向かう。制服に着替えて社員証を首にかけ、ブラウスの襟元に挟まった髪を一つに纏めていく。いつだったか……腰まで届くこの長さが一番好きだ、とカレは言っていた。そこまで考え、ふと我に返る。
我ながら呆れるほど未練がましい。髪を結ぼうとしただけでカレを思い出すなんて。頭を振って思考から追憶を追い出し、ロッカーに備え付けの内鏡に自分の顔を写し出す。
「ひどい顔」
軽く両頬を叩きロッカーを閉じる。一人きりの更衣室から通関部のフロアへ足を向けた。
フロアに近づくごとに緊張で鼓動が激しくなる。カレが在籍する人事部のブースは一つ上の階。社内で顔を合わせることはほぼない。
カレに、私を踏みにじった平山凌牙に、負けたくない。
散々泣いて休日を潰した。遠方の親に挨拶に行く必要がなくなった連絡をした。ずいぶんと心配された。理由は悔しすぎて、情けなさすぎて……両親には言えなかった。
『事情は聞かないけど、知香が決めたことなら大丈夫よね?』
そう言って優しく電話を切った両親は、いつだって私の意志を尊重してくれる。その優しさが、今はありがたかった。生きているうちにきちんと自立して親孝行したい。
だからもう、過去は振り返らない。私は前を向く。熱い水分で視界が歪んだことに気がつかない振りをして、フロアに繋がる扉を開けた。
「おはようございます」
自らを奮い立たせるように通関部のブース前で一礼をする。足早に行動予定表のボードに歩み寄り、『一瀬知香』のマグネットを『在席』に動かした。
「一瀬、おはよう」
「……おはようございます」
部長席から向けられる、いつもと変わらない田邉部長の穏やかな表情。自意識過剰かもしれないが、それでも少しだけ含みのある目をしているように感じた。ぐっと俯いて自分のデスクに足を運ぶ。椅子に腰を下ろし、積み上げられた書類を淡々と選別していく。運の悪いことに田邉部長の斜め前に私の席がある。妙な沈黙、私に突き刺さる陰伏的な視線。実に居心地が悪い。
「一瀬さん。今度の通関分で仕入書と梱包明細書が違う分があります」
一息ついたころ、後輩の小林くんから助けを求められた。目鼻立ちの整った顔に仔犬が困ったような表情を浮かべている彼は今年の新入社員。今朝の早出担当の小林くんから投げかけられた内容に、少々裏返った声が飛び出ていく。
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「小林くん、担当者はわかる? どうせだから挨拶に行きましょう。あなたも通関部に配属されて半年経ったし。ついでに不備についても聞いてきましょう」
「ですが……俺、下っ端ですし……」
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「……すみません、つい」
「うん、気をつけて」
少し前まで学生だったのだ。社会人として未熟な面は仕方ない。彼も徐々に成長してくれたらそれでいい。小林くんに先方の担当者へ不備と訪問の一報を入れるように指示を送り、持っていた書類を揃えてデスク脇に避ける。
「田邉部長。少し外出します」
「わかった。なるべく九時過ぎには戻ってこい。山崎部長が面談したいと呼んでいたぞ」
告げられた言葉に思わず息を呑む。人事部の部長が私に何の用だろうと考え、即座にその用件に辿り着いた。
用なんて一つしかない。今回の件の顛末について説明を求められるのだろう。史上最速で課長代理に昇進した優秀な人材が、痴情のもつれを理由に人事部からの異動願いを出しているのだ。
「……承知しました」
何かの重しを乗せられたような重い身体を動かし、私は腰掛けた椅子からゆっくりと立ち上がった。
◆
行動予定表の自分の――小林達樹のマグネットと共に、一瀬さんのマグネットも『外出』に動かした。「ありがとう」と小さな声が耳に届き、俺はそちらに視線を滑らせる。
普段よりも早く出社してきた彼女。メイクで隠しきれていない僅かな隈に、腫れぼったい瞼。涙し、眠れぬ夜を過ごしたのだと想像できるその姿。
あらぬ視線を向けぬよう自分の感情を押さえつけ、エレベーターホールに向かう一瀬さんの背中を追った。彼女が『下』ボタンを押したのを確認し、そっと真横に立ちエレベーターの到着を待つ。
「山崎部長って人事部の部長でしたよね? 来週の……秋の異動の内示でしょうか」
「私、入社してからずっと通関部だし。ありえるわね」
妙な沈黙に耐えきれず声をかけると、彼女はまるで他人事のようにさらりと言葉を発した。視界に映るその横顔は、感情を押し殺したような表情をしているように思えた。よくわからないが、今の彼女は真夏のアスファルトに儚く揺らめく陽炎を連想させる。そんなはずはない、と俺は意識を現実に引き戻すように言葉を続けていく。
「俺の指導はどうなるんスか」
「三木ちゃんに引き継ぐわ。彼女ももう二年目だし、そろそろ下を育てることを考えてもらわないといけないと思っていたから。渡りに船かしら」
先ほどとは違い、『俺』という一人称にも砕けた言葉遣いにも一瀬さんは苦言を呈さない。今だけは先輩後輩でなく会社のために意見を言い合える対等な立場として接してくれているということだ。
一瀬さんの下について半年。この人は俺を一人の社会人、小林達樹として見てくれる。後輩として軽んじるのではなく、社会人の『小林達樹』としてきちんと見てくれる。
入社して二ヵ月の頃。この書類はこうしたら良いのではないかという提案を、根拠を添えて昼食時に何気なく話した。彼女は「仕事に対して合理的な考えをする子は好きよ」と悪戯っ子のような笑みを浮かべながら俺の意見に同意してくれた。田邉部長へ進言する際も、たどたどしい俺の説明を後ろからフォローしてくれた。俺の先輩である三木さんも彼女のことを公私共に慕っており、そう長くはない時間で彼女の人柄を理解できた。
チン、と軽い音がして扉が開く。到着した下りのエレベーターに二人で乗り込んだ。出勤者で騒めく上りは混雑しているが、こちらには誰も乗っていない。
彼女が人事部の平山さんと交際していると知ったのも、そのころだった。彼は『適性を見抜く力』に長けている。彼が採用・配属業務に関わるようになってからこの会社の離職率は大幅に減ったという。
この極東商社は食品を手掛ける商社で多数の部門がある。企業説明会で受けるのは華やかな営業の世界という印象が強いが、実際は正論だけでは生き抜けない世界だ。
他社を出し抜いて成果を勝ち取る者。他者を出し抜いて成果を勝ち取る者。現実と理想のギャップに堪えかねて離職してしまう、厳しい世界。
そんな中、平山は営業に向いた者、商品開発に向いた者、管理業務に向いた者を的確に見抜き、採用から配属までを取り仕切る有能な人材らしい。弱冠二十七歳の彼が会社史上最速のスピードで昇進したというのも頷ける。
ただ、俺は正直なところ彼が苦手だ。『適性を見抜く力』は『不適性を見抜く力』でもある。それは他者を見下す要因になりかねないと知っている。現に、彼と相対すると少しばかり――蔑まれているような、そんな気がするのだ。
二人きりのエレベーター内でそっと彼女に視線を向ける。俺の肩の位置に頭部が来る背丈。不意に、黒髪から覗く薄い耳朶と、低めの位置で一括りされ露わになっている白いうなじに目を奪われてしまった。胸の奥に潜む心臓がどくりと跳ねた感覚に、慌てて目を逸らす。ちらりと映った彼女の焦げ茶色の瞳は、まっすぐに、けれどもぼんやりと操作パネルを見つめていた。
仕事とプライベートをしっかり分ける彼女。平山とは会社でも接点を持たず、飲み会や社内研修でも徹底的に接触を避けている。普段からきちんと線引きをしているはずだというのに、「何かがあった」という空気を隠しきれていない。目の前の光景に身体の奥が騒めいた。
エレベーターの駆動音だけが響く空間に二人きり。何があったのか、思い切って聞いてみようかと口を開きかけた瞬間、独特の浮遊感に包まれて扉が開いた。タイミングを逸し、無言のまま出勤前の人でごった返すエントランスに足を踏み入れる。
「……っ」
正面玄関を目指し、俺の前を俯き気味で歩いていた彼女が何かにぶつかった。ハッと顔を上げると、そこには平山の姿があった。
「なんだ、君か」
投げかけられた言葉に彼女が硬直する。数秒の後に、初めて聴くような硬い声色が響いた。
「……すみません。前を見ていませんでした」
「朝は人が多いから気をつけて」
言葉尻は柔らかいが男の声色も硬い。まるで吐き捨てるように彼女に声を投げつけている。自然と眉間に皺が寄った。不注意は誰にでもあることだ。何もそんな言い方をしなくても、と男を見上げ、俺もびしりと硬直した。
前髪を掻き上げるように動かした男の左手の薬指。そこには、銀色に光る結婚指輪が輝いていた。思考が一瞬で停止する。
目の前の二人は交際中ではなかっただろうか。先ほど書類整理をしていた彼女の左手の薬指には何も無かった。そこから導き出される結論に自分の全身が沸騰するような感覚を抱いた……が。
第三者である俺が抱いて良い感情ではないと気がつき――その光に気がつかなかったふりをした。
◆
その輝きを認めた瞬間、喉が凍りついた。数秒遅れて――結婚指輪の意味を。金曜日、カレの上司と私の上司に根回しされた理由を理解した。
私に別れを告げ、その翌日には、あるいは食事の帰りの足で婚姻届の提出をするつもりだったのだろう。授かり婚であれば尚更早めの手続きを求められる。それは元カノの求めなのか、元カノのご両親が求めたのかまでは私は知る由もないけれど。
私が知らない裏側でこのような段取りが組まれていたからこそ、あの場で私が『別れたくない』と言い出せない状況がご丁寧に仕立て上げられたというわけだ。
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