毒を喰らわば皿まで

十河

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その林檎は齧るな

その林檎は齧るな-1

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   プロローグ


 この世界は、未だ、に満ちている。
 パルセミス王国の歴史に新たなページが記されてから、半年ほどの時間が過ぎた。
 俺――アンドリム・ユクト・アスバルは、乙女ゲームの悪役令嬢であった娘――ジュリエッタと共に、運命の日である竜神祭を無事に生き延びている。そして、当時就いていた宰相の地位を退き、現在は悠々自適ゆうゆうじてきの隠居生活を送っている――はずだったのだが、その目論見もくろみは見事にくつがえされていた。
 何故なぜか現国王ウィクルムから国政の相談役に任命された俺は、新宰相であるモリノとその補佐官のベネロペにわれる形で、王宮にほぼ日参する日々を余儀なくされている。
 これでは宰相職を務めていた時とあまり変わらない。
 そうぼやいても、お父様は皆から頼りにされているのですねと愛娘まなむすめのジュリエッタにほほまれ、流石さすがは父上ですと親子のきずなを取り戻した息子のシグルドから尊敬の眼差まなざしで見つめられては、押しつけられた責務をおいそれと放り出せず。つらいところだ。
 日本人男性だった前世の記憶を俺が思い出し、この世界が乙女ゲームの世界であると気づくきっかけとなった、あの衝撃の日――ジュリエッタが王太子ウィクルムから婚約破棄を宣言された日から、すでに一年あまり。俺の手練手管てれんてくだ篭絡ろうらくされ、従順な番犬となったヨルガとの関係は、相変わらず良好だ。どちらかというと、良好すぎていささか身が持たない。
 清廉潔白せいれんけっぱくな騎士団長様である彼が澄ました表情の下に隠し持っていた独占欲と情熱は、俺の想像を遥かに超えていた。
 俺に奪われたおさな馴染なじみの婚約者と、傷心の彼に寄り添ってくれた二番目の妻。愛した二人の女性を、かつてのヨルガは心のままにいつくしんだことだろう。……しかし、ひたすらにいつくしむという行為は、支配しているという一面もあわせ持つ。注いだ愛が返ってくることを疑わず、両腕が届く中に納めて安心する、自慰に近い。その対象をなくした反動が、あの杓子定規しゃくしじょうぎな騎士団長の姿であったとしたら、なかなかのお笑い草だ。
 だが俺は当然ながら、そんな一方的な愛は望まない。噛みつかれれば噛みつき返すし、時には愛するヨルガすらあざむき、純情は靴底で踏みつける。肉欲に溺れ、堕落だらくの蜜をすする。清冽さを最上としていた男が知った、支配よろこび。それを与えた俺に対するヨルガの執着は、異常なまでに強い。

「……それでも、そんなところも可愛いと思うのだから、俺も仕方がないな」

 決算の書類に記されていた丁度ちょうど一年前の日付を切っ掛けに、つらつらとこれまでを振り返っていた俺がつぶやいた言葉に、同じように城の執務室でデスクワークにいそしんでいたモリノが顔を上げて目をまたたかせる。

「何かおっしゃいましたか?」
「いや、何でもない」

 苦笑して再び書類に目を落とすのと同時に、失礼しますと断りを入れてから補佐官のベネロペが部屋に入ってきた。
 彼女が腕に抱えた新たな書類の山にモリノは肩を落としているが、問題はないだろう。若く優秀な二人の頭脳ブレーンは、驚くほどの速さで国政のノウハウをものにしていっている。この様子なら、俺が長期間パルセミス王国を不在にしても、さして問題はないはずだ。

「そろそろ、国外調査の準備を本格的に進めるとするか」

 俺の言葉に、ベネロペが驚いた表情を浮かべる。

「アンドリム様、噂には聞いておりましたが……やはり本当に、ヒノエにおもむかれるのですか」
「そのつもりだ。まだ、明確な日程は決めていないが」

 愛娘まなむすめのジュリエッタを生贄いけにえおとしいれようとした王妃ナーシャを離宮に送り出してから、しばらくの後。俺は自分とジュリエッタにかけられた短命の呪い――賢者アスバルの末裔まつえいがその血脈の中に引き継ぎ続けた、古代竜カリスの呪いについて詳しく調べ始めた。
 千年前。勇者パルセミスの持つ【竜を制すものクイスタシス】で魂を削り取られた古代竜カリスは、地下に封じられる寸前に、パルセミスに死の呪いをかける。それは『一族の者は二十二歳で必ず命を落とす』という呪いだったが、勇者パルセミスを庇った賢者アスバルが、身代わりにその呪いを引き受けたのだ。アスバルは呪いにかかった直後にいにしえの秘術を使い、古代竜カリスが掛けた『二十二歳で必ず命を落とす』という呪いを『五十五歳で必ず命を落とす』と書き換えたと伝えられている。
 ジュリエッタの手で奪われていた半身を取り戻し、地上に舞い降りた古代竜カリスと密かに対話を重ね、俺はこの呪いについて詳細を聞き出していた。
 古代竜カリスいわく、自分が元々かけた呪いのであれば、それを解くのは容易であると。しかしアスバルの秘術でゆがめられたこの呪いは、古代竜の力をもちいた強力な呪いでありながら、彼の管轄を外れてしまった。無理やり呪いを解くことはできるかもしれないが、それがどんな結果をもたらすかは、カリス自身でも分からないという。つまり、安全に呪いを解こうとするならば、俺とジュリエッタの血筋に流れるゆがめられた呪いを、一旦『元の呪い』に戻す必要があるわけだ。
 そう結論を得た俺は、今度は賢者アスバルと勇者パルセミスの出身について調べた。丁度ちょうど、俺の居候いそうろう先であるヨルガの家――オスヴァイン家は建国期から続く旧家であり、当時の資料も多く残されている。それとパルセミス王城の資料室で見つけた古い記録とを照らし合わせつつ、独自に調査を進めていく。
 結果、記録の示すいくつかのちょうがひっそりと指し示したのは、この国があるユジンナ大陸の最東端にある小国、ヒノエの存在だった。


   † † †


 あの国ヒノエには、おそらくがある。
 ゼロからイチは生まれず、イチゼロにするのも、また難しい。人は忘却の生き物ゆえに、記録を残し、絵に描き、過去を残そうと努力する。
 勇者パルセミスと賢者アスバルの出自が東国ヒノエではないかと当たりがついた。それは同時に、建国期から主要家臣の一員に名を連ねるオスヴァイン家も、ヒノエの出身ではないかとの予想ができることになる。オスヴァイン家の家系には武勇に優れた者が多く、これまでにも騎士団長を次々と輩出してきた。しかし、勇者パルセミスの手にあったはずの宝剣、【竜を制すものクイスタシス】が何故なぜ代々の騎士団長所有となったのか、その理由は明かされていない。

「……記録とは、忘れたくないからこそ、記すものだ。後世に伝えたいからこそ、残すものだ。それでは逆に、は、どうなると思う?」

 オスヴァイン家の書庫の片隅で眠っていた冊子の背を指でなぞり、俺は背凭せもたれ代わりに寄り掛かっていたヨルガの顔を見上げる。窓際のソファに腰掛けた俺の隣で黙々と【竜を制すものクイスタシス】の手入れをしていた彼は、その問いかけにわずかに首をかしげた。

「記録に残さなければ、忘れ去られていくだけではないのか?」
「普通は、そう考えるだろうな。だがな、ヨルガよ。記録に残さず、痕跡を消そうとしても、はあるものだ。完全に消し去るのは、難しい」
「……例えば?」
「例えば、か。そうだな……勇者パルセミスと賢者アスバルの出身がヒノエかもしれないという話は、すでにしたな」
「あぁ、この前書庫をひっくり返すのを手伝った時に聞いたな」

 そしてそれは、オスヴァイン家も同様だ。ヨルガの祖先もまたヒノエの出身だと推察できる。なのに何故なぜか、その記録が正式な形で残されていない。
 記録が残されていないとなると、遺伝子学が未熟なこの世界で祖先のルーツを探るのは、困難を極める。人類学に対する専門的な知識までは有していないのだが、前世の何処どこかで【俺】が耳にした話を、俺は何となく覚えていた。

「その根拠の一つが、耳垢みみあかだ」
「……みみあか」

 キョトンとするヨルガの耳を掴み、耳掻きで掃除してやったばかりの耳穴に、ふぅと軽く息を吹き込む。ビクリと肩を揺らすその反応に気を良くした俺は、形の良い耳朶みみたぶを指先でもてあそびつつ、がっしりとした肩の上に頭を乗せる。

「パルセミス王国では、耳の掃除に小さな匙型さじがたの『耳掻き』を使う。だが隣国のセムトアやサナハでは、使われていないんだ」
「そうなのか?」
「あぁ。セムトアやサナハで耳の掃除にもちいられるのは、小さな細い棒の先端に布を巻きつけたもの。この違いは、耳垢みみあかの質による」

 前世の世界でも、耳掻きは東アジア圏に多く見られる耳垢みみあか掃除の道具だ。耳掻きは乾性の粉っぽい耳垢みみあか掃除に適し、湿性のぺっとりした粘着性のある耳垢みみあか掃除に適しているのは、綿棒だろう。元々乾いた耳垢みみあかの遺伝子は突然変異によるものとも言われていて、欧米では極端にその分布が少ない。

「貿易業を営んでいたベネロペ様にも確認していただいたが、ユジンナ大陸の中で『耳掻き』を使っているのは、パルセミス王国と、東国ヒノエだけだ。各地に人を向かわせて更なる調査を進めてはいるが……時間と根気が必要な研究となるだろう」
「成るほど……記録に残されていなくても、その名残なごりが、俺達のルーツを指し示すということか」
「そうなるな。……だからと言って、疑問は解決されない。何故なぜそれが、史実として残されていない? 勇者パルセミスと賢者アスバルは、どうして出自をかたくなに隠そうとした? ルーツを秘匿ひとくする理由が、何かあったはずだ」
「……難しいな」

 東国ヒノエは、国主国家だ。龍をほふすべを知り、鍛え上げたはがねたずさえ、海を越えてきたと言われる一族、その長であるササラギ家が国を治める。一方で、彼らの中には大陸を西へ西へと移動した一団があったらしい。千年の昔、ユジンナ大陸を巡った彼らの足跡は、各地で少しずつ確認できる。
 賢者アスバルの血脈にかけられた、早逝そうせいの呪い。それをゆがめてしまった、いにしえの秘術。
 アスバルの使った秘術がヒノエから持ち出されたものであるならば、それを『元に戻す』鍵となるものが、旅の始まりである場所に――ヒノエに残されている可能性は高い。
 それを調べるために東国ヒノエに向かうことを決めた俺だった。
 ところが、ヨルガが騎士団長を辞してその旅に同行すると言い出したものだから、王国騎士団が右往左往している。俺としてはもちろんヨルガの同行はありがたいが、国防的に騎士団長の不在は大打撃だろう。

「やれやれ……」

 俺は眼鏡のブリッジを指先で押さえ溜息ためいきをつく。どうしたものかと、思っていたのだが。


 数日後。従者達に守られてパルセミス王国に辿り着いた幼い姫の言葉で、事態は急変することになる。


「――私はヒノエ国主モトナリが娘、シラユキにございます。ヒノエではついえてしまった使い手が――【龍ほふる剣】を手にできる剣士がこの国に存在すると聞き及び、わらにもすがる心地でさんじました。どうか、我が国をお救いください……!」



   第一章 ヒノエ


 呼び出しを受けて宰相の相談役として登城した俺を待っていたのは、いたく懐かしい「着物」を身につけた幼い少女と、侍風の男達だった。
 幼くもりんとしたたたずまいを見せる少女――シラユキ姫の年齢は、十歳。まだ充分子供と呼べる年頃にもかかわらず、国家の命運を賭けた使節とあってか、表情は硬い。

「ヒノエ国主モトナリが娘、シラユキにございます。急な来訪にもかかわらず、こうして謁見の機会を設けていただきましたことを、陛下に深く感謝いたします」

 家臣達が居並ぶ謁見室の中。玉座に座る国王ウィクルムに対して折り目正しく頭を下げる幼い姫君は、七人の家臣達にまもられて、ヒノエから遠路遥々はるばるパルセミス王国まで旅をしてきたと聞く。
 それはなかなか、困難な旅路だったはずだ。
 ヒノエからパルセミス王国に到るには、最短だと北回りのリサルサロス王国とセムトア共和国を通過してくる必要がある。だが、リサルサロス王国は東海に面したヒノエを属国にしようと虎視眈々こしたんたんと狙い続けている国家だ。国主の娘であるシラユキ姫が国土を横断するのをおとなしく見ているわけがない。
 従って、リサルサロス王国の領土を避ける経路を取り、大きく南に回ってダルデニア王国とオアケノス大公国を通過したのだろう。けれど、その先にあるのもセムトア共和国だ。セムトア共和国は大陸内の各国と良好な関係を築いている共和制国家だが、雨季に入ると交通の利便性が極端に低下しがちだ。沼地に適した乗り物などの移動手段を持ち合わせていなければ、整備された街道を進むことすら困難になる。
 そんな旅路を越えてまでわざわざパルセミス王国に援助を求めなければならなかった理由は、シラユキ姫の視線の先にあるようだ。

「……」

 玉座と謁見者の間に立ち、泰然とした姿勢を見せつつも、隙のない眼差まなざしをヒノエからの使節達に注ぐ、一人の男。
 姫君が口にした【龍ほふる剣】に近い名を持つ【竜を制すものクイスタシス】の使い手、ヨルガ・フォン・オスヴァイン。オスヴァイン家の当主にして、パルセミス王国騎士団の現騎士団長。
 そして、俺のつがいでもある男。

「シラユキ姫。国主たるモトナリ様のご息女である貴方様がご足労されるほどの事態だ。余程の理由があることとは私も理解できる。しかし、まずは話を伺いたい。ヒノエ国で何が起こったのですか?」

 国王ウィクルムにうながされたシラユキ姫はうなずき、そばに控えていた従者の一人から、丁寧に布が巻かれた細長いものを受け取った。
 姫が両手で受け取ると、肘が伸びきるほどの重さがある。

「私が生まれた年に、ヒノエでは大きな地鳴りがありました。大地に亀裂が走り、多くの人々が呑み込まれ、命を落としたと聞きます。……しかもその亀裂からはがねうろこを持つ大蛇が姿を現し、毎年のように生贄いけにえを要求するようになったのです」

 生贄いけにえ
 よく知る言葉に、俺達の間に、緊張が走る。

「ヒノエには、古くから伝わる伝承があります。私達の祖先は、遥かとつくによりユジンナ大陸にやってきたと。神話の時代、海の向こうの祖国には凶悪な大蛇が生息し、今のヒノエと同じように毎年一人ずつ、若い乙女を生贄いけにえに要求していたそうです。ササラギ家の遠い祖先が大蛇を酒に酔わせることで退治に成功し、その尾の中から一振りの剣を得たと言われています」

 あぁ、成るほど。ヤマタノオロチ伝説だな。
 興味深そうに彼女の話に耳を傾けるパルセミス王国の家臣達に混じりながら、俺はさりげなく「シラユキ」姫とその従者らを観察する。
 真剣に説明を続ける姫君に従う七人の従者。姫のすぐ後ろに控えているのは、俺の息子シグルドやヨルガの息子リュトラと同じ年頃、二十歳前後とおぼしき二人の青年。二人とも従順に頭を下げてはいるが、先程から何度もヨルガに注意を向けている。

「その剣は一度かされ、特殊な加工を経て、二振りの剣に打ち直されました。……こちらは、そのうちの一振りです」

 姫君がかかげた細長い包みを背後に控えていた青年の一人が受け取り、ウィクルムの腰掛けた玉座の下までにじり寄って両手で差し出す。ウィクルムに視線でうながされたシグルドが包みごと受け取りそれを包んでいた布を外すと、中から姿を見せたのは、緋色の下げ緒でさやつばをしっかりと固定された一振りの刀だった。

「これが……?」
「はい。当家に伝わる霊剣……【龍ほふる剣】にございます」
「……紐が解けないが」

 緋色の下げ緒を解こうとしたのは、俺の長男であり、今は愛娘まなむすめジュリエッタの夫となったシグルドだ。固く結ばれたその結び目は、彼が指をかけて引いてもびくともしない。
 ヨルガの息子であり、今はシグルドと共にウィクルムをまもっているリュトラが試しても同じく駄目で、シグルドの手から【龍ほふる剣】を受け取ったウィクルムも試してみたが、結果は同様だった。

「その紐は、剣を扱う器量の持ち主でしか解けないと言われております。……ヒノエでは、すでに十年近く、解かれたことがございません」
「なんと」
「……我が父は武芸の才に恵まれませんでした。近代では唯一、武芸達者の祖父が扱うことができたとの話ですが、祖父が天に召されて後、国主の家は使い手を失いました。【龍ほふる剣】ははがねうろこすら斬り裂くと伝えられている剣。大蛇を滅ぼす手段が目の前にあるのに、それを振るうことが敵わない……国中の腕自慢達にも扱えないか試してもらいましたが、剣は反応を見せませんでした」

 成るほどと、【龍ほふる剣】を手にしたままのウィクルムが軽くうなずく。

「……それで、パルセミスに参られたのか」
「はい。こちらの国の騎士団長様は、【竜を制すものクイスタシス】と呼ばれる宝剣の使い手だと聞きました。竜と大蛇、似て非なる存在ではありますが、そこにいちの望みをかけるしか、私達には時間が残されていないのです」

 姫君はうつむき、唇を噛む。

「リサルサロス王国が、大蛇討伐を口実に、我が国に攻め入ろうとしています。表では隣国であるヒノエの救済だとうたっていますが、真の目的がヒノエの征服であることは明らかです。ヒノエの国土に入ればそのまま兵を置き、居座るつもりでしょう」

 ……ふむ、賢いな。兵を置いてしまえば、こちらのものというわけか。乱暴な遣り口ではあるが、理には適っている。
 俺が感心している間に、ウィクルムはヨルガを玉座の近くに呼び寄せる。

「騎士団長」
「はっ」
「試してみてくれ」
「御意に」

 ウィクルムが差し出した刀を、近くまで歩み寄ったヨルガが両手で受け取る。

「っ!」
「おぉ……!」

 謁見室の中に、どよめきが走った。
 ヨルガが受け取った瞬間、【龍ほふる剣】をいましめていた下げ緒の結び目が、するりとひとりでに解けたのだ。
 ヨルガは榛色はしばみいろの瞳をわずかにすがめ、軽く鯉口こいくちを切って、刀の本体をさやの中から引き抜いた。
 美しい刃紋が刻まれた刀身は、十年ほどさやの中で眠っていたにもかかわらず、さび一つ浮いていない。
 確か八岐大蛇ヤマタノオロチの尾から出た天叢雲あまのむらくもの剣は三種の神器の一つで、ヒヒイロカネという特殊な金属を使ったものだ。その特徴の一つに、決してびない、というのがあったような気がする。

「あ、あぁ……やはり、やはり貴方様が……!」

 両手を口に当て、驚愕きょうがくと歓喜の混じった声で叫ぶシラユキ姫とは真逆に、姫の背後に控えていた二人の青年は奥歯を噛みしめ床につけた両手のこぶしを震わせて、射殺すような強さでヨルガの顔をにらけている。
 それは剣に認められた技量を持つ者に対する嫉妬しっとか、それとも、何かか。

「陛下。どうか、どうか我が国を救っていただけないでしょうか。ヨルガ様に、ご助力をお願いしたいのです。このままでは、ヒノエは大蛇とリサルサロスに滅ぼされてしまいます」

 てのひらをつき懸命に頭を下げる幼い姫の姿は、庇護欲を充分に刺激するものなのだが。

「ふむ」

 俺はやんわりと顔を上げ、玉座のかたわらに立つ宰相モリノに目を留める。刀を抜いたヨルガをじっと見定めていた彼は俺の視線に気づくと、小さくうなずきウィクルムに声をかけた。

「国王陛下。恐れながら、ご意見申し上げたいことがございます」
「モリノ……構わない。発言してくれ」
「ありがとうございます。まずはシラユキ姫と従者の皆様のパルセミスまでの道程は、決して平坦ではなかったことでしょう。その努力と信念に、心からの尊敬を抱いてなりません。姫君がお伝えくださいましたヒノエの窮状につきましては、これよりすぐにこちらでも調査させていただきますが、持参された【龍ほふる剣】を拝見する限り、よほど急を要するかと感じております」
「……ありがとうございます」

 柔らかいモリノの言葉に、シラユキ姫は少しほっとした表情を見せる。
 しかしこう見えても、モリノはすでにパルセミス王国の宰相だ。遠路とはいえ、他国からいきなり王城に押しかけ国王に直訴までしてのけた集団に、甘い顔だけをするはずがない。

「しかし、オスヴァイン団長をヒノエに派遣願いたいと申されるのであれば、話が別です。団長は国防のかなめ、そう易々と国を空けることは許されません……お分かりですか?」
「……分かっております。国の守護神たる方にご助力を願う。その対価も、私達なりに考えてまいりました。……アサギ」
「はい」

 今度は二人の青年より一歩後ろ側に控えていた五人の従者達の一人が、風呂敷包みをシラユキ姫に差し出した。
 唐草模様の風呂敷を開いたその中に納められていたのは、上品な光沢を備えた美しい純白の生地。

「これは『絹』と申します。ユジンナ大陸の中でも、ヒノエのみが製法を持っている特殊な織物で、どの国においても価値が高く、金と同じ値段で取引されることもあるほどです。こちらを……」
かいこだな」
「っ!」

 俺がさらりと発した言葉にシラユキ姫は凍りつき、従者達は揃って目を丸くする。

「ど……何処どこ、で、それを」
「絹の製法は門外不出の秘伝。それを、どうして……」

 ヒノエの使節達から穴が開きそうなほど凝視されているが、俺はただニヤリと笑ってみせた。そもそも、そんなに驚くほどのことではないと思うのだが。
 製造業に他人を使う以上、情報が漏れるリスクは、予想して然るべきだ。まぁ今回のものに限っては、俺に前世の知識があるだけなのだが。

「先に言っておけば、パルセミスでは『桑』栽培も盛んだ」
「マルベリーの収穫にあわせて、畑が増えていますからね」
「……そういうことだ。食えぬものだがな?」

 俺とモリノが交わす言葉に、シラユキ姫の顔色は更に悪くなった。
 桑の葉はかいこの主食、そして絹糸を取り出す作業には、湯を使ってまゆを煮る工程が含まれる。
 相手に「その原料もえさも加工法も知っているぞ」と暗に伝えられたからには、もう絹製品を交渉材料にするのは難しい。

「……さて、お聞かせ願いましょう」

 俺の言葉に追い討ちをかけるように、モリノがゆっくりと問いただす。

「シラユキ姫様。騎士団長を借り受ける代償に……何を、差し出しますか?」

 青褪あおざめて動けなくなってしまったシラユキ姫の顔をじっと見下ろしたモリノは、ふぅと息を吐いた。彼も、宰相職を拝命してからそろそろ一年だ。人を見下す仕草が、そこそこ板についてきたと見える。

「そちらからの意思表示がなければ、こちらからご提案させていただきましょう……騎士団長」
「はっ」

 今は公式の場であるので、宰相であるモリノは騎士団長よりも立場が上だ。モリノに呼ばれたヨルガは短く応え、玉座の下で臣下の礼を取った。
 国王ウィクルムがうなずくのを待ってから、宰相モリノがシラユキ姫に視線を注ぎ、表情を和らげる。
 そして、天使めいた相貌そうぼうが舌に乗せた言葉は、ヒノエから訪れた使節達にとってかなり衝撃的なものだった。

「ヒノエ国王女シラユキ姫様。騎士団長ヨルガ殿に助力をあおぐ見返りとして、悲願が達成されたあかつきには騎士団長殿のめかけとなることをご提案いたします」

 最初に動いたのは、シラユキ姫の後ろに控えていた二人の青年だ。腰に手が伸び、踏み出す足と同時に振り抜かれた刀を、シグルドとリュトラの剣がそれぞれ受け止める。

「っ……!」
「何だと……⁉」

 まさか止められるとは思っていなかったのだろう、驚愕きょうがくの表情を浮かべる青年達の前で、シグルドとリュトラは不敵に笑ってみせる。

「確かに、重い!」
「へぇ、すごいな……!」

 シラユキ姫の徒者は二人ともかなりの使い手のようだが、初動を見抜かれた居合は弱い。予め俺からヒノエの侍が使う可能性のある居合い抜きについて説明を受けていた若手騎士の二人は、ヨルガが【龍ほふる剣】を抜いた時の鯉口こいくちを切る動作も参考にして、見事に侍達の攻撃を受け止めていた。
 背後に控えていた五人が動こうとする前に、いつの間にかシラユキ姫の前に立っていたヨルガの持つ【竜を制すものクイスタシス】の切っ先が、幼い姫君の眼前に突きつけられている。ひくりと頬を痙攣けいれんらせたシラユキ姫が、それでも微動だにせずヨルガをにらけているのは、流石さすがと言うべきだろうか。

「おやおや」

 この緊張感に満ちた謁見室の中でも、モリノはのんびりとした口調を崩さない。

「ヒノエの民は温厚で和議を重んじると聞き及んでおりましたが……どうやら、勘違いだった様子」
「……それくらいにしてやれ、モリノ」
「はい、陛下」

 ウィクルムにたしなめられ、おとなしく頭を下げたモリノだが、その表情は柔らかい微笑ほほえみのままだ。
 どう動くかと見守っていた俺の前で、まず自分を取り戻したのは一番幼いシラユキ姫だった。

「あにう……セイジ、トキワ、おめなさい!」

 ……最初に口走りそうになった単語は、聞こえなかったフリをしてやるのが大人の対応だろうか。
 成るほど。「青磁せいじ」と「常盤ときわ」の正体、そしての様子を踏まえると、少しずつこの騒動の根本が見えてくる。
 軽く目配せをして、モリノの背後に控えていた補佐官のベネロペが動いたのを見届けてから、俺はいつものように少し芝居がかった仕草でパンパンと手をたたく。謁見室につどった人々の注目が自分に集まるのを感じつつ、国王ウィクルムに向かってまずはうやうやしく優雅に一礼を捧げた。

「ウィクルム陛下、としての発言のお許しをいただけますでしょうか」
「……あぁ、許そう」
「ありがたき幸せ。……さて、ヒノエよりお越しくださった皆様。宰相閣下のご提案は、果たしてそんなにも受け入れ難いものだったでしょうか?」
「当然だろう! 姫はまだ幼い……それを、めかけなどと……!」

 一旦刀をさやに納めたものの、再び腰を浮かせそうになって俺にえる青年の肩を、シグルドの持つ大剣の重みが押さえつける。

「おや、何故なぜですか? 聞けばシラユキ姫は当年で十歳。国を治める役割をになう一族の娘であれば、国同士のきずなを深めるためにとついでもおかしくない頃合いでしょう。それとも、何でしょうか」

 俺は指先で、鼻根にかかった眼鏡のブリッジを少しだけ押し上げた。

「シラユキ姫には、何か特別なご理由でも?」
「そ、れは……!」

 青年の顔が強張る。
 おいおい、大丈夫か。国を導く為政者の一門が、そんなことで動揺をしてどうする。

「セイジ……ありがとうございます。私、は、平気です」
「シラユキっ……姫! ダメだ!」
「いいえ……悲願達成の後にめかけになると私が誓えばヒノエを助けてくださるとおっしゃるのであれば……それを断る理由も猶予も、私達には残されておりません」

 再び床に手をつくシラユキ姫のいびつな爪と白い指先は震えていたが、その言葉に迷いはない。

「どうぞヒノエ国をお救いください。そのためであれば、私はめかけになろうと奴隷になろうと、構いません。どうぞお願いいたします……!」
「……決まりですね」

 どうやら覚悟だけは、『本物』の様子。
 俺はうなずき、黙って俺の言葉を待っているヨルガの顔を見上げる。

「騎士団長殿、差し当たって、何かご要望は?」
「特にない。私は陛下と宰相閣下のご意志に従うまで」
よろしい……では宰相閣下のご提案に沿いましょう。シラユキ姫は、パルセミスにごとうりゅうの期間中、オスヴァイン家の屋敷に滞在されたら良いでしょう。近い将来、貴方の家にもなる屋敷ですから」
「は……はい」

 うつむき唇を噛んだシラユキ姫を無視して、視線で射殺せたらと言わんばかりににらけてくる二人の青年に向かい、俺は笑みを作る。

「セイジ殿……そしてトキワ殿、でしたかな。貴方達二人もシラユキ姫と共に、オスヴァイン家の屋敷に来るように。大蛇の話を詳しく説明していただく必要がありますしね。他の従者の方々は、城内で待機を」

 その言葉には、二人の青年達ではなく、その背後に控えた男達が先に反応した。

「そんな、我々もお連れください!」
「姫から離れることはできませぬ!」
「一度引き受けた仕事は投げ出せない性分でな……」
「私達もシラユキ姫の従者です。どうか、ご一緒に」
「人質のような真似を、シラユキ姫に負わせるわけには……!」

 口々に声を上げる五人に対して俺は再び大きく手をたたき、黙り込んだ男達の前で深い溜息ためいきをつく。

「姫君の従者ともあろう者達がなんですか、かしがましい。人質のような、ではない。単刀直入に申せば、もちろん人質です。こちらは我が国で最大戦力を有する騎士団長を、わざわざヒノエ国に派遣しろと要請されているのですよ。見返りが大きくなるのは、何らおかしくないでしょう」
「くっ……」
「で、でも……!」
「それが嫌であれば、もっと良い条件を持ってくることですね。あんな『絹』程度で見合うほど、騎士団長を貸し出す対価は安くはない」
「そこの……聡明な佳人」

 淡々と続けられた俺の言葉に、五人の中でも一番年嵩としかさに見える隻眼せきがんの男が、頭を低く下げてこいねがってきた。


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