二人の甘い夜は終わらない

藤谷藍

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1巻

1-1

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   1 誕生日とはいえ、こんなことになるなんて


 テンポの良いローヒールの音が、エレベーターの前で止まった。
 横に並んだパンツスーツ姿の女性に気づいた男性が、すっと目線を向ける。そして相手に、緊張気味なのか、やや強張こわばった声で朝の挨拶あいさつをした。

「おはようございます。成瀬なるせ補佐」
「おはよう、山﨑やまざき

 成瀬花乃かのは、いつも通りの短い挨拶あいさつを済ませると、男にニコリと笑いかけた。開いた扉からエレベーターに乗り込み、今日の予定を頭に思い浮かべる。
 そのりんとした姿は、情報システム部のあるフロアにエレベーターが停まっても変わらない。扉が開くと、自分より遅れ気味に歩く部下の前を颯爽さっそうと歩き出した。大きめのモニターが載ったデスクに向かい、通路をコツコツと進む。
 そんな花乃に、先に来ていた部下がスマホから目を離さず挨拶あいさつをしてきた。

「おはようございまーす」
「おはよう、水野みずの。昨日のアップデートは問題なかった?」
「あ~、今からチェックするところ……です」

 花乃の質問でようやく手に持った端末から目を離した水野を横目に、ノートパソコンを社内ネットワークにつなげる。
 花乃の勤務先である花鳥かちょうCRMシステムは、ケミカル・化粧品大手、花鳥グループの子会社である。この会社では、花鳥グループすべてのシステム管理をになっている。
 花乃が属する情報システム部は、会社の中でもっとも忙しい部署だ。毎日システム更新に追われ、一日の始まりがとても早い。
 壁時計を見ると、現在の時刻は午前七時ちょっと前。
 朝番シフトは皆七時出勤なので、周りではすでに半数の社員が出勤していた。
 席についた花乃は早速、仕事に取り掛かる。
 まずは、先ほど倉田くらた主任からスマホに届いた仕事のメールを確認しよう。
 カーソルを動かし花乃が『新規ID作成依頼』という件名のメールを開こうとした瞬間、部下の悲愴な悲鳴が上がった。

「あ~! このアプリ、またコケてるっ! この更新って一体どうなってんだよお~っ」

 まったく、出社したばかりだというのに、朝っぱらからもう問題発生だ。
 机の向こうで悲鳴を上げた後も「なんで途中でリンク切れて……」とぶつぶつ言い始めた部下を見て、今日も忙しい一日になりそうだと小さなため息を一つつく。

「なんです? 成瀬王子は……朝からいやに意味深なため息ついてますね~」

 あくび混じりの間延びした声が、隣の席から聞こえる。

「意味深じゃなくて、諦めのため息よ。――主任ってば、また私にID作成投げて逃げたのよ。それに私の肩書きは、一応主任補佐だからね。なんで王子なのよ」

 ようやく出社してきた部下――高田たかだの軽口に言い返しつつも、花乃はいまだ姿を現さない上司の席をチラリと見やる。いつもひょうひょうとしていてとらえどころのない主任は、またまた遅刻らしい。

「おー、そうでした! ついつい……」

 そう言いながらも、高田の表情は全然すまなそうでない。
 どうしてこの部署には、仕事はできるが扱いにくい人ばかりが集まっているのだろう。だがこれも仕事のうちと、花乃は諦め混じりに悲鳴のぬしもとへと駆けつけた。

「高田は、バックアップのチェック始めて。ほら水野も、突っ伏してないで、さっさとデータ回復!」

 ところが、慣れた様子で花乃が作業をうながした途端に、個性的すぎる発言の数々が返ってくる。

「さてと、ちょっとコーヒーれてきますか」
「あいつ~、また遅番サボったな。俺だってミキちゃんのフィギュアの仕上がり我慢して、居残ったのにぃ」
(こらあ、なんでそんなマイペースなのよ!)

 上司から仕事を振られてすぐに席を立つ。はたまたアニメのキャラ名を叫びながら、さらに机に突っ伏す。そんな彼らの姿には慣れきっているものの、時々、根性を入れ直せ! と活を入れたくなる。
 そんな衝動を抑えつつ、花乃は心を一旦落ち着かせようと、ガラス越しに隣接するお客様コールセンターを眺めた。
 そして、よしと気合を入れ直す。

「まだセンター開始まで二時間あるわ。回復させるわよ」

 コンピューターがずらりと並んだコールセンターの静まり返った様子に、焦っちゃダメ、と自分を叱咤しったする。
 そしてようやくノロノロと動き始めた部下たちを見て、自分の席に帰った。
 ふうと一息つくと、先ほどの倉田主任からのメールを開く。
 途端、視界に飛び込んできた名前に、心臓がドクンと飛び跳ねた。
 その二文字を穴があくほど見つめた後、ようやくまぶたがパチパチッと動く。
 近々就任する新社長の下の名前が、なんと初恋の人と同じだったのだ。
 今でも忘れられないその名を見た瞬間、花乃はしばらく固まった。
 続いて、動悸がトクトクと速まってくる。さり気なく胸を押さえ、深く息を吸い込んだ。

(落ち着いて――。一樹かずきなんて、珍しくもない名前なんだし)

 名字が違うのだし、明らかに別人だ。だからなにもここまで動揺する理由はない……そう自分に言い聞かせる。けれど、一旦高まってしまった花乃の心音は、思うように収まってくれない。
 グラグラ揺れ動く心からは〝ただ今仕事中〟の意識が、ぽろりと抜け落ち――思わずポツリとつぶやいた。

「……四歳差なんて、この歳になればないも同然よね……」

 ここしばらくは、仕事に追われて振り返ることもなかった、花乃の大切な宝物のような思い出が心に浮かんでくる。

(私、やっぱりまだ……)

 懐かしさ、愛おしさ、甘酸っぱさプラス、ずきんとくる心の痛み。
 ふと、遠い昔に垣間見た光景と、初恋の人が漏らした本音が脳裏によみがえる。
 友達に囲まれた彼は、冗談であっても花乃をそんな目で見られるわけがないと、顔をしかめていた。あまりにも年下で、なおかつタイプでもないと――そう言い切られたあの誕生日の日……
 キツい、いまだにキツい。
 多感な年頃のファーストラブだったとはいえ、十五年も前のことでズーンと落ち込んでしまいそうになる。
 ――いやいや、この広い世の中、彼だけが男じゃない。
 これまでにも、デートに誘ってくれた人はいた。
 だが、いざ彼らを思い出そうとすると、初恋の人以外の名前が出てこないなんて。
 こんなだから、数回のデートですぐダメになるのだろう。
 そんな自分に付き合って、もはや二十七年――いや、今日で花乃は二十八歳になる。
 花乃の口から思わず、「はあ~」と重いため息が漏れた。
 けれど今は、そんなおセンチな感傷にひたっている場合ではない。ここは気の抜けない仕事場である。
 花乃は、追想を十五秒キッカリで頭の隅へと追いやった。
 よし、上司から依頼されたID作成を、サッサと片してしまおう。
 心中で小さなため息をついた後、頭を切り替え、キーボードを叩き始める。

(えーと、ログイン名とパスワードっと……、権限は――)

 そういえば、懐かしい人と同じ名を持つ社長とは、どんな人なのだろう。
 作業を終えて依頼のメールを処理済みフォルダーへさっさと放り込みつつ、花乃は部下に聞いてみた。

「ねえ、今度うちに来る新社長ってどんな人なの? 何か知ってる?」
「新社長ですか?」

 すると高田は、スクリーンから一瞬顔を上げてこちらを見た。

「あ~、噂の本店エリートですね」

 水野も噂は聞いたことがあると、アプリを操作しながら答える。この会社の親会社である花鳥コーポレーションは、社員の間では本店と呼ばれている。
 部下は二人ともマイペースなくせに、本店とのやり取りも多いせいか、意外にも新社長のプロフィールに詳しかった。

(……アメリカの会社からの引き抜き、かあ。へえ……)

 業務連絡以外は滅多に雑談をしない花乃が興味を示したため、二人とも面白がって次々情報を上げてくる。
 それによると、新社長はイギリスの大学研究室で企業との合同研究が成功して、そのままあちらで就職をした若きエリートらしい。本店にヘッドハントされてからは、経営マネージメントに関わっているそうだ。今回の就任に至るまでの輝かしい功績を、花乃は仕事をしながらふうんと半分聞き流す。
 こうして、花乃の一日はいつも通り仕事に追われる形で始まり、ドタバタと過ぎていったのだった。


 その日の夕方。
 技術は超一流だが、その分超マイペースのエンジニアたちを、おどかしつつなだめつつ、何とか無事に業務を終えた。早番であった花乃の終業時間はとっくに過ぎていて、気がつけばもう夜の六時近くだ。
 さすがの花乃もちょっとバテ気味かも……と、ため息をついた。
 だが今日は、花乃がメグと呼ぶ、友人のめぐみと飲む約束がある。
 気の置けない友人との楽しいおしゃべりは、疲れた心の気晴らしにちょうどいい。
 それに今夜は花乃の誕生日だからと、奮発して会社近くの高級ホテルのバーで飲むことになっている。いささか弾んだ調子で主任への報告を済ませた花乃は、会社を出る前に化粧室のドアを押した。

(うわあ、ラッシュアワーに引っかかっちゃったわ~、これ……)

 身だしなみを整えようと、少しだけ寄るつもりが、コールセンターの女性たちの終業時間と重なったようだ。
 鏡の前はヘアブラシを手に持つ人や、化粧直しをする女性で満員御礼状態だった。

「あ! 成瀬王子、お疲れ様です~。今日はどこかへお出かけですか?」
「成瀬さんも、ご一緒しませんか? ちょうど駅前の新しいお店の話をしてて」

 早速、花乃にも週末前の華やかなお誘いがかかる。

「ありがとう。でも、今日は誕生日で約束があるのよ」
「えっ、そうだったんですか! なんだあ、言ってくれれば何か用意したのにぃ」
「そうですよ、一言おっしゃってくれれば……日頃お世話になってるんだし」

 女性たちの驚いた表情には、内心で苦笑いだ。
 彼女たちのパソコントラブルは花乃の業務外ではあるが、ヘルプデスク――パソコントラブルのサポート部が手いっぱいの時は面倒を見ている。女性ばかりのチームなので、扱いには気をつけなければ。
 花乃は女子校育ちではあったが、記念日をみんなで祝う習慣がない。特に、誕生日に関してはあまりいい思い出が……いや違う、全然まったく良い思い出がないため、今日だってもしめぐみに誘われていなかったら、さっさと家に帰っていた。

「この歳になったらもう、祝う気も起こらないのよ。でもありがとう。気持ちはありがたく受け取っておくわ」

 当たりさわりのない言葉と、いつものように気持ちを隠す笑顔で、花乃は気遣いに対する礼を述べた。

「もう、成瀬さんってば、相変わらずクールですね~」
「あ、だったら。あのっ、ぜひ髪セットさせてください!」
「私、新色持ってる! きゃあメイクさせて~」
(え? あ、あの……)

 内心焦りながらどう対応するかを考えているうちに、あっという間に鏡の前に引っ張られていた。
 こうなったらもう、彼女たちに好きにイジらせるしかない……
 どこからか現れた椅子に座らされ、「ありがとう」とニコニコ笑いながら、花乃はいさぎよあらがうのを諦めた。

「ちょっと、誰か、ピン持ってない?」
「こんな感じで、ここはこうよ」

 女性たちがああでもない、こうでもないと言いながら、花乃の髪や顔をセットしていく。
 花乃がこうやっていじられるのは初めてではない。
 女子校出身の定めなのか、演劇部のヒーロー役や文化祭のウェイターなど、やたら飾り付けられる機会が多々あった。女性にしては背が高いこともあり、棚の上の物を取ってあげたりと何かと頼りにされ、学生の頃から王子と呼ばれている。
 そして、こうして女性たちに囲まれていると、なぜだが疎外感を覚えてしまうのもいつものこと。
 何というか、可愛い丸がたくさん集まっている中に、一つだけ三角の自分がポツンと混じっている……そんな感じだ。
 だけど一人は慣れっこだし、今さらそんなことを気にしてもしょうがない。
 気がついた時には、お人形のように髪をくしでとかれていた。そして彼女たちの気が済むまでいじられた後、鏡に映った自分を見てみる。
 するとそこには、いつもとちょっと違う、華やかな感じの大人の女性が映っていた。
 目元メイクは淡いグリーン系で、こんな色使いは今まで試したことはなかったが、いつもよりグッと女らしい感じがする。
 少しくせのあるショートボブは、前髪の分け目からふんわりと流してある。
 さらりと流れてくる髪を耳の後ろにかきあげながら、「うん、とっても気に入ったわ」と周りの女性たちにニッコリ笑いかけた。

「ほんとにありがとうね、メイクも髪型も」

 再度お礼を言って、目的地に向かいコツコツと歩き出した。


 いつものように一人で夕食を済ませた花乃は、待ち合わせの高級ホテルのバーに来ていた。
 初めて訪れたバーは、今風のライトアップと昔ながらの木造りカウンターとがうまくマッチした、とてもお洒落しゃれな店だ。めぐみがぜひにと勧めたのも納得で、上品で落ち着いた雰囲気に花乃の心は安らいだ。

「カクテルをお願いします、今日は誕生日なんです」

 バーテンダーの注文取りにも、上機嫌で答える。
「じゃあ、とっておきのを作りますね」と、しばらくして差し出されたのは、見たこともない華麗な色のカクテルだった。
 淡いピンクから順々に薄い紫、鮮やかな青へと色が変化しているのを見て、花乃は驚いた。
 これはもう芸術品だ。そう思わせるくらい鮮やかな色彩……
 しばらくその美しい色の取り合わせに、うっとり見惚れる。

「うわぁ、綺麗~、なんだか飲むのがもったいない」
「そんなこと言わずに、試してみてください」
「じゃあ、いただきます」
(あぁ、味もすごい美味おいしい)

 喉ごしが良くて、何杯でもいけそうだ。

「見た目より、アルコールがきついですから、ゆっくり味わってくださいね。結構後できますよ」
「そうなんですね、気をつけます。それにしても、とても美味おいしいです。なんというカクテルなんですか?」
「そうですね、『甘い思い出』なんてどうですか?」

 カクテルを作ってくれたバーテンダーは笑って、次の客のカクテルを作り出した。

(甘い思い出、かぁ……)

 今日は朝から、やけに昔のことを思い出す出来事が多いのはなぜ……?
 そんなことをぼんやり考えながら、落ち着いた雰囲気のあるバーでグラスを傾けた。
 金曜の夜だからか、しばらくすると店内は人が増えてきた。カウンター席も徐々に埋まり始める。

(あ、そうだわ、メグの分も注文しておいてあげよう。席を取ってるって分かりやすくもなるし)

 隣には一応バッグを置いているが、どっちみちもうすぐ約束の時間だ。席がどんどんなくなるのを見て、花乃はもう一度バーテンダーに声をかけた。

「すみません、同じカクテルを連れの分もいいですか?」
「はい、少々お待ちください」

 そうやって、もうすぐ来るはずの友人を待っていると、不意に後ろから声がかかった。

「隣、空いていますか?」
(やっぱり、来ちゃったか~)

 カウンター席はもうすでにほぼ満席で、残りは花乃の隣とカップルの横しか空いていない。
 めぐみの席は確保しなければ、と断るために後ろを振り向いた。

「すみませんが、もうすぐ連れが来るので――……っ」
(……えっ? えぇっ⁉ うそ……かずき、さん……?)

 振り向いた先にいたのは、背の高い男性だった。
 柔らかな茶色の髪に、鼻筋の通った端整な顔立ち。意志の強そうな口元に力強い瞳。
 気品のある貴公子のような面差おもざしは、忘れたくても忘れられない初恋の人の顔だ。
 衝撃のあまり、花乃の身体が一瞬にして固まった。
 それほど、目の前の男性は初恋の人――遠藤えんどう一樹をそのまま大人にしたような華麗な容姿だったのだ。
 そのこげ茶の瞳に囚われたように、彼から目が離せない。
 彼は硬直している花乃を見て、ちょっと驚いたように目を見張った。

「ああ、天宮あまみやさん、いつものでいいですか」

 だがすぐに、バーテンダーにかけられた声に、上品に微笑んだ。

「よろしく頼む」
(あ……)

 人違いだ。彼とは別人だった。
 だけど花乃は、長年忘れられない顔の男性から目を逸らすことができない。
 バーテンダーに目を向けていた彼が、花乃の視線に気がついたのだろう、またこちらを見つめてきた。
 二人の目線が交差する。

「天宮さん。こちらにいらっしゃったんですか、探しましたよ」

 後ろから聞こえた華やかな声の方を振り向くと、綺麗な女性がこちらに向かって歩いてくる。

「ああ、すまない、一杯やりたくなって」

 その瞬間、感じた落胆に、自分でも驚いた。

(一瞬目が合っただけなのに、なんでこんなガッカリしてるの……)
「はい、ご注文のカクテルどうぞ。天宮さんも、できましたよ」
「あ、ありがとう……」

 気を取り直してグラスを受け取ったものの、隣の席にカクテルを置く手がかすかに震えた。
 彼はニッコリ笑って「ありがとう」と水割りを受け取ると、連れらしき女性とカウンターを離れていく。目の端で追ったその後ろ姿が消えても、花乃の手はまだ震えている。

(どうしちゃったのよ? 私ったら……)

 けれども、心の底ではこのショックの原因がはっきりと分かっていた。
 初恋の人である遠藤一樹に、あそこまで酷似な人に初めて出会った。だが、花乃の好みのどストライクである先ほどの男性には、すでにお似合いの連れがいたのだ。
 そのことに、大げさなほどガッカリしている。
 一瞬で恋に落ち、次の瞬間失恋したような、そんなしょげた気分になったところに、手元のスマホが光った。
 見ると、めぐみからのメッセージだ。

『ごめん! 旦那からデートに誘われた。悪い、今度おごる。誕生日おめでと~、カンパーイ』
(なっ! なんですってーっ、メグのやつ~!)

 親友とその夫は結婚前からラブラブだったが、結婚後も相変わらずだ。
 三年経っても変わらないそのイチャイチャぶりに、思わず諦めの深いため息が出る。
 女の友情は血よりも濃く、恋よりもろい。
 それが通説とはいえ、このに及んでのドタキャンなんて……
 傷心気分の今の自分に、今回のキャンセルはちょっとキツい。

「はぁ、まったく」

 カクテルグラスを勢いよく手に取り、ヤケになって二杯とも続けてゴクゴクと一気飲みした。
 だが飲み干した途端に、目眩めまいのようなクラっとした酩酊感に襲われる。

(あ……これはまずった、かも……)

 カクテルは甘くかろやかな味わいだが、アルコール度数が高いので、ゆっくり飲むよう注意されたことをすっかり失念していた。
 しまった。油断した、と思った時には、すでにクラクラしていた。これはよくない……酔い潰れる前の感覚に、とても似ている。
 ボンヤリしてくる頭の中でまだなんとか働いている理性が、家に帰れと危険信号を送ってくる。

(そうね、早くここを出て、帰らなきゃ……)

 だんだん熱くなってくる身体をゆっくり動かし、にこやかに笑いながらバーテンダーに礼を言って店を出た。
 エレベーターを呼び出すボタンを人差し指で押すと、ふうと壁にもたれ掛かる。

(やっぱり……メグに一言、言ってやらなきゃ、気が済まないわ……)
「この裏切り者!」
「えっ?」

 スマホを片手に送った内容を、知らず知らず声に出していたらしい。メッセージを送った途端、横から戸惑った声が聞こえた。

「あっ……ごめん、なさ……い」

 見ると、先ほどのイケメン様が、いつの間にか側に立っていた。
 花乃が、エレベーターのボタンを押す邪魔になっていたようだ。咄嗟とっさにもたれ掛かっていた壁から、身体をゆっくり起こす。彼の妨げにならないようにと、横に移動した。
 途端にまた、クラッと目眩めまいがしてくる。

「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、です……すみません、ボタン……邪魔でしたね」

 心配そうに声をかけてくれる男性に、申し訳ない、と懸命に謝る。
 すると、いつの間にか彼のたくましい身体に寄りかかっていた。その事実にとても焦りつつも、別のことに驚いていた。
 花乃は女性にしては身長が高い。人から聞かれたら百六十五センチくらいかなと答えているが、正確には百六十九・七センチだ。この公式記録は中学三年の時のもので、日本人男性の平均身長とほぼ同じ百七十には絶対四捨五入しないところがミソである。
 そしてヒール付きのパンプスを履いている今、軽く百七十センチを超えた状態なのに……この男性は、そんな花乃を軽々と超える高身長だった。力が入らない腰を、長い腕でしっかりと抱えてくれている。

「……少し座って、水でも飲まれた方が……」

 耳に心地よい声が頭上から聞こえる。
 普段味わえない経験にジーンと感動していると、エレベーターの到着音がポーンと鳴った。

「ありがとう、ございます……大丈夫ですから」

 無理やり身体に力を入れて歩き出そうとしたのだが、足がもつれてよろめきかけた。

「おっと……やはり休まれた方がいいですよ」
「いえ、いいん……です……」

 彼に、「何階ですか?」と聞かれた。
 定まらない視線の先には、ずらっとボタンが並んでいる。ロビーの文字を探し彷徨さまよっていた手を止めて、彼に答えようとした瞬間に、エレベーターがフワンと動いた。
 その浮遊感に、あ、と思った一瞬後には意識が遠のいていた。

「しっかりなさってください。危ないですよ」

 話しかけてくれる深い声が耳に馴染む。たくましい腕と清潔な匂いのするスーツは、最高に抱かれ心地が良い。
 なぜだか一気に安心感が襲ってきて、男性に抱きついたのが、はっきりとした記憶の最後だった。

「参ったな……」

 ボーッとした頭の上で、深いため息が聞こえた気がした。


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