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1巻
1-1
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プロローグ
抱き寄せられた瞬間に、自分もただの女でしかなかったのだと思い知る。
「……夏澄」
名前を呼ばないで。そんな聞いたこともないような、甘い声で……
最後の理性も、ためらいも、その声に溶けて消えそうになる。
吐息の重なる距離で見つめ合う。男の瞳に宿る情欲の輝きに、女としての本能が騒ぎ出す。
ずっと憧れだと思っていた。ただの憧れだと思っていたかった。
なのに、今この瞬間に、はっきりと自覚する。
この想いは恋だったのだと――
気づきたくなんてなかった。囚われたくなんてなかった。
近づいてくる唇を避ける術がわからず、夏澄は泣きそうになる。
自覚したばかりの恋が、夏澄の心を惑わせた。
触れた唇の思わぬ熱さに、夏澄は震えるまま瞼を閉じる。
それ以外にどうすればいいのか、わからなかった。
唇に触れる吐息に、鼓動が乱れた。
普段の夏澄なら理性が止めた。
伸ばされた腕を拒んでいたはずだ。なのに、今、夏澄は男の腕の中に囚われていた。
大きな手のひらが夏澄の背中を辿る。それはひどく優しくて、ずっとこの腕の中に囚われていたいとさえ思ってしまう。
そんなことは望めるわけもないとわかっているのに。
じんわりと広がる快感に、肌がざわめく。
唇が離れた瞬間、堪えきれずに涙が流れた。
「何を泣く必要がある? 何も変わらない」
夏澄の涙を見下ろした男が、吐息の重なる距離で囁く。
何も変わらない? 嘘つき……
きっと、あらゆるものが変わってしまう。
この夜を越えた朝。夏澄は自分のすべてが変わってしまう確信があった。
変わらないのはこの男だけ。
ずっとそばで見てきた。この何もかもを手に入れている男が、日ごと夜ごとにその恋の相手をかえて遊ぶさまを――
「夏澄」
名前を呼ばれるたび、心が恋しさに痛んだ。
でも、この男には何も見せない。
今、夏澄が感じている痛みも、明日の朝、夏澄が覚えるはずの絶望も。
絶対に見せない。この男が何も変わらないというのなら、何も変わらない自分でいよう。
秘めやかな決意を胸に、夏澄は笑う。
これは一夜限りの夢だ。流されて、溺れて、我を忘れても、これは夢。
だから、明日の朝には何もかも、跡形もなく消える。消してみせる。
恋をした男の腕の中にいるはずなのに、ひどい寂しさが夏澄の心に忍び寄る。
でもそれは夏澄だけが知っていればいい痛みだ。
蒼く輝く月が二人を照らす。
月明かりに照らされて、愛した男の綺麗な顔が見えた。
そっと指先を伸ばしてその頬に触れると、愛おしいぬくもりが夏澄を包み込む。
愛しさと寂しさの狭間で、夏澄は自分の恋の終わりを感じていた――――
1 雨夜の月
朝一番に出社した夏澄は、今日も広がる社長室の光景に盛大にため息をつきそうになる。
朝の爽やかな日差しが、広い社長室に差し込んでいる。窓の外には、初夏の真っ青な空と高層ビル群。実に気持ちのいい一日の始まりなのに、目の前の光景はその爽やかさを台なしにしていた。
夏澄の目の前――そこにあるのは夏澄の雇い主の執務机。
毎朝、毎朝、夏澄がきちんと片付けているというのに、今日も今日とてその執務机は派手に散らかっている。
「一体……どうしたらこんなに散らかせるのよ?」
毎日のことなのに、思わず呟きたくなってしまう。荒れきった執務机を前に、夏澄はシャツの袖をまくると、気合を入れて掃除を開始した。
嘆いてみたところで社長の散らかし癖が直るわけじゃない。
それは彼に仕えるこの五年で嫌というほど実感した。
社長曰く、『一見散らかっているように見えても、俺なりの法則でものを配置している。ちゃんとどこに何があるかは把握している!!』とのこと。
そのわりにたまに書類やお気に入りの万年筆が見つからずに、机の上をごそごそと探している気がするのだが、指摘すると子どものように拗ねるので、夏澄は大人の優しさで気づかないふりを通している。
無造作に散らばった書類を手早くまとめて、社長がわかりやすいように並べる。
文房具や小物類を手に取りやすい位置に配置し、デスクの上を片付けたら、固く絞った雑巾で、デスク、書類が収められているキャビネット、ソファや応接セット、自分のデスクの順に次々と拭いていった。
拭き掃除が終わったら最後に社長室と、その手前にある自分の秘書室に隅から隅まで丁寧に掃除機をかけて掃除は終了。
この間、約二十分。この五年間、毎日、毎日繰り返してきた日課は、目を閉じていてもできるくらいに、夏澄の体に記憶されている。
綺麗になった室内に満足して、夏澄は珈琲を一杯淹れると自分のデスクにつく。
人気のない静かな社屋に、今はきっと夏澄一人。昼間は活気に満ちるこのビルも今はほとんど人がおらず、まるで微睡から目覚める寸前のような心地よい静けさが満ちていた。
この束の間の朝の静けさが夏澄は好きだった。
贅沢な時間に小さな満足感を覚えて、夏澄は微笑む。
伊藤夏澄。もうすぐ三十歳。
仕事は、日本でも有数の複合企業体、深見グループ社長の第一秘書。
見た目は『社長秘書』という華やかなイメージからはかけ離れていて、自身がモデルか俳優なみの派手な容姿をしている社長曰く『地味!』の一言。
身長一五六センチ。胸元まで伸ばした黒髪をきっちりと一つに纏め、黒目がちの丸い瞳が可愛いと言えば可愛いという程度の平凡な容姿だ。
ローヒールのパンプスに、ベージュや紺、黒等の無難な色のスーツを身に纏う姿は清潔感や清楚さはあるものの、女性らしい華やかさとは無縁だった。
『もう少し身に纏うものを華やかにしろ!』と社長には言われているが、仕事をするのに華美さもセクシーさも必要ないと、右から左に聞き流している。
そもそも忙しすぎる社長の補佐をする身では、見た目よりも動きやすさが優先。目上の人に会う機会も多いから見苦しくないように整えるものの、それで精一杯。今の格好が、おしゃれが苦手な夏澄の限界だと思っている。
珈琲を飲みながらメールのチェックをしたあと、各部署から上がってきている書類、郵便物を確認し、優先順に仕分けして社長のデスクの上に並べていく。
空いたスペースに社長が定期購読している大手全国紙、経済新聞の朝刊の束も置いた。
次にその日の社長のスケジュールを確認して、必要な書類の準備やお昼の手配を済ませる。
ようやく一通りの手配と確認を終え、時間を確認すると九時十分前。
――もうこんな時間か。そろそろ……
外の様子を窺えば案の定、廊下に人の気配を感じて夏澄は立ち上がる。次の瞬間、秘書室の扉がノックもなく開け放たれた。秘書室は、社長室の前室として設らえられているため、社長室に行く人は皆ここを通ることになる。
夏澄は出社した社長を頭を下げて出迎える。
「おはようございます」
挨拶に応えは返ってこない。顔を上げると、夏澄の雇い主でありこの深見グループの現社長である深見良一は、じろりとこちらに視線だけを向け、無言のまま社長室に入っていった。
乱れた歩調と眼差しの鋭さから考えるに、今日の深見はかなり機嫌が悪そうだ。
夏澄は嘆息まじりに天井を仰ぐ。
昨日、帰る時は普通だったのだから、夜の間に何かあったとしか思えない。
確か昨夜は、最近あまり仲のうまくいってなかったモデルの彼女とデートだったはずだ。
――デート中に彼女と何か揉めたかな……
「い、伊藤君……」
どうしたものかと考えていると、入り口から恐る恐るといった感じで、声をかけられた。
振り返ると、開け放たれた秘書室の入り口に、秘書室長が気弱そうな笑みを浮かべて立っている。
「室長。おはようございます」
「お、おはよう。これ、社長に届けに来たんだけどね……」
手に持った書類を振る秘書室長の顔は、かわいそうなほどに引きつっていた。
不機嫌な深見に廊下で遭遇して、その怒気に当てられたのだろう。
「ありがとうございます。今日の重役会議の資料ですか?」
「そう……。そうなんだが……」
夏澄は努めて何でもない顔で室長に歩み寄る。
「社長は、とても怒ってるみたいだったけど、何かあったのかね?」
資料を受け取った夏澄に、室長が声を潜めて、質問してくる。
「さぁ? どうでしょう?」
夏澄は肩を竦めた。
まさか、彼女とのデートが失敗したみたいですとは言えない。
「伊藤君……大丈夫なのかね?」
「何がですか?」
「あんな社長と一緒にいて、怖くないのかね?」
「慣れてますから」
「さすが、深見グループの猛獣使い」
さらりと答える夏澄に、室長が尊敬の眼差しを向けてくる。不名誉なあだ名で呼ばれ、夏澄はがっくりと肩を落とした。
「そのあだ名、いい加減やめてください……私は別に猛獣使いでも何でもありません」
「いやだって、伊藤君くらいのものだよ? あの不機嫌そうな社長に平然と対応できるうえに、機嫌を直せるのは!! 僕、情けないけど、あんな恐ろしい顔をした社長に話しかけるなんてできないよ!」
「そんなことありませんよ」
拳を握って力説され、夏澄は苦笑せずにはいられない。
深見良一。今年三十五歳。経済界の若き帝王と呼ばれ、強烈なカリスマ性を持った経営者として世に知られている彼は、祖父が興した建設会社を現在の複合企業体にまで発展させた。
様々な分野の企業を戦略的事業投資によって次々に傘下におさめ、不況が叫ばれて長い昨今も順調に業績を伸ばしている。
しかも深見は仕事ができるだけなく、一人の男としても魅力に溢れていた。
一八七センチの長身に逞しい体つき。少し癖のある黒髪を後ろに軽く撫で付けており、目鼻立ちのはっきりとした彫りの深い顔立ちは、女が放っておかない色気を宿している。
圧倒的なカリスマ性と強烈な存在感を持つこの男は、当然のようにいつも複数の女性たちに囲まれ、日ごと夜ごと恋人をかえて派手に遊んでいた。
お金、地位、名声、容姿、才能、そして美しく華やかな恋人たち。人が羨むものすべてを手に入れた嫌味な男。それが夏澄の雇い主だった。
普段の彼は、どちらかといえば鷹揚で快活な性格をしているのだが、時に不機嫌なオーラを纏っていることがある。大企業の経営者としてのストレスや、恋人たちとの大小取り混ぜたトラブルなど、理由はその時によってさまざまだが、カリスマ経営者といえど人間。ストレスがたまることも、機嫌が悪くなることもあるだろう。
機嫌が悪いといってもせいぜい目つきが少し悪くなり、足音が乱れるくらいで、人に八つ当たりをするとか、あからさまに不機嫌な顔を見せるというわけではないのだが、顔が端整で存在感があるだけに威圧感が凄まじいのだ。おかげで周囲の人間はその威圧感に圧倒されて、声をかけることはおろか、傍に近寄ることすらできなくなる。
社長秘書に抜擢された当時は、夏澄も不機嫌な時の威圧感にびくびくと怯えていたものだが、深見が不機嫌さを全開で見せるのは、気を許した人間の前だけだと気づいてからはあまり怖くなくなった。夏澄に対しては時に癇癪を起こすこともあるが、二人でいる社長室の中でくらい素の感情を出してもらって構わないし、それだけ自分があの帝王に信頼されていると思えば嬉しくもあった。
それに、あとで自分の態度を省みて、深見が反省しているのも知っている。
普段は本当に俺様のくせに、そういったところが深見の可愛いところだと夏澄は思うが、室長や他の秘書仲間はやはり不機嫌な時の深見が怖いらしい。
そんな不機嫌な深見に平然と対応し、時に諫め、宥めることもする夏澄は、気づけば深見グループの猛獣使いというあだ名がついてしまった。
「十時からの重役会議までに、社長の機嫌はなんとかなるかね?」
「どうでしょう? やれるだけはやってみますが……」
「伊藤君!! そんな気弱なことを言わないでくれ!! 社長の機嫌は君にかかってる!! どうか、十時までに社長の機嫌を直してくれ!! 頼む!!」
「わ、わかりました……」
自分の父親と同世代の室長に手を握らんばかりに懇願されて、夏澄は思わず一歩後ろに下がって頷く。
「頼む! 頼むよ!! うちの社運は、君にかかってるんだからね!!」
そんな大げさなとは思うが、室長たちにとっては切実な問題なのだろう。
最後まで「どうか頼むよ!! ガンバってくれ!!」と夏澄に発破をかける室長を苦笑しながら見送ったあと、預かった書類を机の上に置き、気持ちを切り替える。
「さて、と」
気合を入れ直すと、夏澄は秘書室の隅に併設されている小さなキッチンで、深見のために珈琲を淹れる準備をする。
出社して一番に深見が求めるのは、美味しい珈琲。
この一杯が気に入らなければ、途端にテンションが下がるため注意が必要だが、この珈琲をうまく淹れられればそれだけで機嫌が直ることもある。
だから、夏澄はこの朝の一杯に非常に気を使っていた。
不機嫌な深見が今日の朝刊を確認し、気持ちを整理するまでの時間を見計らいつつ、夏澄はネルドリップで丁寧に珈琲を淹れた。
不機嫌な時は甘い物を欲しがる深見のために、マドレーヌを二つほど添える。
時間を確認すれば、深見が社長室に入って十五分ほどが経っていた。
ちょうどいい頃合だ。そろそろ深見の頭も少しは冷えているだろう。
夏澄はトレイに珈琲とマドレーヌをセットして社長室に向かった。
扉をノックすると短く不機嫌な低音で「入れ」と応えが返る。
「失礼します。珈琲をお持ちしました」
入室し声をかけると、書類から顔を上げた深見が険しい眼差しでこちらを睨みつけてきた。
――まだ少し早かったかしら?
いまだ不機嫌さ全開の深見に夏澄がそう思った時、彼の眉間に寄せられた皺が、トレイの上に置かれたマドレーヌを認めて少し緩む。
――大丈夫そうね……
かすかに和らいだ深見の表情を確認して、夏澄はいつもの秘書の顔の下に苦笑を隠し、トレイを持って深見のもとへ向かう。
差し出したマドレーヌと珈琲を受け取った深見が、無言のまま珈琲に口を付けた。
――ある意味、この瞬間が一日の中で一番緊張するかも……
珈琲を飲む深見の様子をそっと窺いながら、夏澄は広げたままになっている新聞をきれいに畳んでいく。
カップ半分ほど珈琲を飲んだ深見が大きく息をつき、「すまん」と一言呟いた。
先ほどまで深見が纏っていた不機嫌オーラがかなり穏やかなものになったことを確認した夏澄は、今日も自分が深見を満足させられる珈琲を淹れられたことにホッとする。
そして、こちらの様子を窺うように見る深見に、何も言わずに微笑んだ。
自分の態度を反省している深見に、追い打ちをかけるつもりはない。
「うちの秘書殿は優秀だな。俺の機嫌の取り方をよく知っている」
深見はため息まじりにそう言うと、マドレーヌに手を伸ばし、かぶりついた。大好物にようやく頭が冷えたのか、深見の雰囲気がいつもどおりのものに戻る。
マドレーヌを一つ食べ終えた深見がぼそりと「聞かないのか?」と尋ねてきた。
「何をですか?」
何を聞かれているのかわかっていて、あえて静かに問い返せば、深見が再び小さくため息をつく。
「俺が不機嫌だった理由」
そんなこと聞くまでもない。
深見の行動・思考パターンは、彼の第一秘書として働いてきたこの五年でよくわかっているつもりだ。
昨日、深見がデートしていた相手は、モデルをしているだけあって容姿はとても美しかったが、まだ二十代前半と若いせいかプライドが高く、わがままなところがあった。
最初のうちは、彼女のわがままに付き合っていた深見も、度重なるそれに限界を超えたのだろう。
もしくは深見がもっとも嫌う呪文を唱えたか。
結婚――
その一言を、一瞬でも匂わせると、途端に深見は手のひらを返す。
誰にも囚われたくないこの若き帝王は、束縛を象徴するこの呪文を何よりも嫌っているのだ。
若く自信に溢れていた彼女は、自分であれば大丈夫と思い、その呪文を使ってしまったのかもしれない。
どちらにしろ、深見の不機嫌の原因は、考えるまでもなく昨夜の彼女とのデート。
しかし、珍しいこともあるものだ。女性関係の愚痴を夏澄に言おうとするなんて……
来る者は拒まず、去る者は追わずの典型的なプレイボーイである深見だ。関係が終わった女には拘らないし、愚痴を言うような男でもない。興味がなくなったものに対しては、いっそ見事なまでに関わろうとはしない。
それまで散々甘やかされてきた女たちは、その呪文を唱えた途端に変わる深見の態度に、うろたえて必死にとりなそうとするが、深見はそれまでの態度が嘘のように冷ややかで、取り付く島もない。そして、二度と自分には近寄らせないようにしてしまうのだ。
おかげで、そのしわ寄せはすべて夏澄に回ってきた。
過去どれだけ深見の女性関係のトラブルに巻き込まれ、後処理に手を焼かされたかわからない。
――とはいえ……
女性と揉めたあと、こんな気弱そうな深見の姿など見たことがなかった。
「体調でも悪いんですか?」
思わずそう問いかければ、深見の眉間に深い皺が寄る。
「どういう意味だ?」
「言葉どおりの意味です。そんなことを私に聞かれるなんて、よほどお疲れなのかと思いまして」
睨みつけられて、一瞬、怯みそうになるが、何事もなかったように平然と答える。
必要とあれば愚痴でもなんでも付き合うが、こと恋愛関係において夏澄が深見にアドバイスできることなんて何もない。それは深見もわかっているだろうに……
真顔で問い返した夏澄に、深見がむっつりと黙り込んだ。
束の間の沈黙が二人の間に落ちる。
深見も自分がらしくないことを言ったと自覚したようだった。
「いや、いい……もう終わったことだった。忘れてくれ」
嘆息まじりにそう言うと、深見は気持ちを切り替えるように残りの珈琲を飲み干した。
「わかりました」
答えた夏澄は、深見が自分の顔をじっと見ていることに気づく。
「社長……?」
夏澄の呼びかけに、深見は我に返ったように視線をそらした。
「すまん、女の代わりはいくらでもいるが、優秀な秘書殿の代わりはそうそういないなと思って……」
「何ですか突然?」
いきなりの誉め言葉に喜びよりも不審が先立ってしまい、夏澄の眉間に皺が寄る。
「さあ、何だろうな? まあいい、伊藤。今日の予定は?」
一人何かを納得した様子の深見が話題を変えてくるのを訝しく思いつつも、夏澄もいつもどおりに淡々と今日のスケジュールを告げていく。
そのまま打ち合わせをして多少のスケジュール変更をした夏澄がカップとトレイを下げようとした時、「伊藤」と名前を呼ばれた。
「はい?」
「明日の午後七時から、何か予定は入っていたか?」
問われて夏澄は明日のスケジュールを確認する。
「明日の七時でしたらMN産業の営業部長が会食を希望されていますが?」
「ああ。そうだったか。悪いがその会食はキャンセルして、七時からの時間を空けてくれ。MNの部長との会食は……今週中のどこかで調整してくれ」
「かしこまりました。では明日の七時からの予定はどういたしますか?」
「いつものところを二名で予約しておいてくれ」
告げられたのは六本木にあるフレンチレストラン。さらに、二十代女性に人気のブランドのネックレスと花束の手配を依頼されて、ああ、デートかと思う。
あそこのレストランを使用するということは、最近予定の合わなかった六本木のホステスの同伴だろうとあたりをつける。下手なものを手配すると彼女から嫌味が飛んでくるから面倒だと内心でため息をつきながら、夏澄は頭の中で素早く段取りを考えていく。
「ああ、花で思い出した。レイカの舞台が今週で千秋楽を迎えるはずだ。花の手配はどうなってる?」
本当についでに思い出したように、ここ一年ほど付き合いのある中堅女優への手配を確認される。
「すでに社長のお名前で、レイカ様のお好きな薔薇の花を百本当日に届くよう手配してあります」
「そうか、わかった」
その後も次から次に、女性たちとのデート場所の予約と、プレゼントの手配を依頼される。
間違わないようにメモを取りながら、夏澄はあきれた気持ちが湧き上がってくるのを堪えられなかった。
――さっきまでの態度はなんだったのかしら。心配して損した……
内心で毒づきながらも、体調不良ではなさそうなことにホッとした。
秘書室に戻ってカップやトレイ、珈琲を淹れるのに使ったネルの後片付けをする。その後、夏澄は、自分のデスクに座り、プレゼントのリストを改めて見てため息をついた。
――本当にお盛んなことで……
こうして深見にデートやプレゼントの手配を頼まれるのは初めてじゃない。
これも秘書の仕事と割り切ってはいるが、常に複数いる深見の恋人たちの性格や好みを把握し、それぞれのプレゼントが被らないように配慮しつつ、デートに間に合わせて用意するのは本当に骨が折れる。クリスマスシーズンなんて毎年地獄だ。クリスマスに浮かれた幸せそうなカップルや家族連れで賑わう街中を、彼女たちにプレゼントを届けるために走り回る羽目になる。しかも、せっかくプレゼントを届けてもお礼を言われるわけでもない。それどころか、クリスマスに深見と会えなかった彼女たちから嫌みや文句が飛んでくるのだ。当の深見はその年一番お気に入りの恋人とホテルやレストランでデートを楽しんでいるのだから、やってられないなんてものではない。
抱き寄せられた瞬間に、自分もただの女でしかなかったのだと思い知る。
「……夏澄」
名前を呼ばないで。そんな聞いたこともないような、甘い声で……
最後の理性も、ためらいも、その声に溶けて消えそうになる。
吐息の重なる距離で見つめ合う。男の瞳に宿る情欲の輝きに、女としての本能が騒ぎ出す。
ずっと憧れだと思っていた。ただの憧れだと思っていたかった。
なのに、今この瞬間に、はっきりと自覚する。
この想いは恋だったのだと――
気づきたくなんてなかった。囚われたくなんてなかった。
近づいてくる唇を避ける術がわからず、夏澄は泣きそうになる。
自覚したばかりの恋が、夏澄の心を惑わせた。
触れた唇の思わぬ熱さに、夏澄は震えるまま瞼を閉じる。
それ以外にどうすればいいのか、わからなかった。
唇に触れる吐息に、鼓動が乱れた。
普段の夏澄なら理性が止めた。
伸ばされた腕を拒んでいたはずだ。なのに、今、夏澄は男の腕の中に囚われていた。
大きな手のひらが夏澄の背中を辿る。それはひどく優しくて、ずっとこの腕の中に囚われていたいとさえ思ってしまう。
そんなことは望めるわけもないとわかっているのに。
じんわりと広がる快感に、肌がざわめく。
唇が離れた瞬間、堪えきれずに涙が流れた。
「何を泣く必要がある? 何も変わらない」
夏澄の涙を見下ろした男が、吐息の重なる距離で囁く。
何も変わらない? 嘘つき……
きっと、あらゆるものが変わってしまう。
この夜を越えた朝。夏澄は自分のすべてが変わってしまう確信があった。
変わらないのはこの男だけ。
ずっとそばで見てきた。この何もかもを手に入れている男が、日ごと夜ごとにその恋の相手をかえて遊ぶさまを――
「夏澄」
名前を呼ばれるたび、心が恋しさに痛んだ。
でも、この男には何も見せない。
今、夏澄が感じている痛みも、明日の朝、夏澄が覚えるはずの絶望も。
絶対に見せない。この男が何も変わらないというのなら、何も変わらない自分でいよう。
秘めやかな決意を胸に、夏澄は笑う。
これは一夜限りの夢だ。流されて、溺れて、我を忘れても、これは夢。
だから、明日の朝には何もかも、跡形もなく消える。消してみせる。
恋をした男の腕の中にいるはずなのに、ひどい寂しさが夏澄の心に忍び寄る。
でもそれは夏澄だけが知っていればいい痛みだ。
蒼く輝く月が二人を照らす。
月明かりに照らされて、愛した男の綺麗な顔が見えた。
そっと指先を伸ばしてその頬に触れると、愛おしいぬくもりが夏澄を包み込む。
愛しさと寂しさの狭間で、夏澄は自分の恋の終わりを感じていた――――
1 雨夜の月
朝一番に出社した夏澄は、今日も広がる社長室の光景に盛大にため息をつきそうになる。
朝の爽やかな日差しが、広い社長室に差し込んでいる。窓の外には、初夏の真っ青な空と高層ビル群。実に気持ちのいい一日の始まりなのに、目の前の光景はその爽やかさを台なしにしていた。
夏澄の目の前――そこにあるのは夏澄の雇い主の執務机。
毎朝、毎朝、夏澄がきちんと片付けているというのに、今日も今日とてその執務机は派手に散らかっている。
「一体……どうしたらこんなに散らかせるのよ?」
毎日のことなのに、思わず呟きたくなってしまう。荒れきった執務机を前に、夏澄はシャツの袖をまくると、気合を入れて掃除を開始した。
嘆いてみたところで社長の散らかし癖が直るわけじゃない。
それは彼に仕えるこの五年で嫌というほど実感した。
社長曰く、『一見散らかっているように見えても、俺なりの法則でものを配置している。ちゃんとどこに何があるかは把握している!!』とのこと。
そのわりにたまに書類やお気に入りの万年筆が見つからずに、机の上をごそごそと探している気がするのだが、指摘すると子どものように拗ねるので、夏澄は大人の優しさで気づかないふりを通している。
無造作に散らばった書類を手早くまとめて、社長がわかりやすいように並べる。
文房具や小物類を手に取りやすい位置に配置し、デスクの上を片付けたら、固く絞った雑巾で、デスク、書類が収められているキャビネット、ソファや応接セット、自分のデスクの順に次々と拭いていった。
拭き掃除が終わったら最後に社長室と、その手前にある自分の秘書室に隅から隅まで丁寧に掃除機をかけて掃除は終了。
この間、約二十分。この五年間、毎日、毎日繰り返してきた日課は、目を閉じていてもできるくらいに、夏澄の体に記憶されている。
綺麗になった室内に満足して、夏澄は珈琲を一杯淹れると自分のデスクにつく。
人気のない静かな社屋に、今はきっと夏澄一人。昼間は活気に満ちるこのビルも今はほとんど人がおらず、まるで微睡から目覚める寸前のような心地よい静けさが満ちていた。
この束の間の朝の静けさが夏澄は好きだった。
贅沢な時間に小さな満足感を覚えて、夏澄は微笑む。
伊藤夏澄。もうすぐ三十歳。
仕事は、日本でも有数の複合企業体、深見グループ社長の第一秘書。
見た目は『社長秘書』という華やかなイメージからはかけ離れていて、自身がモデルか俳優なみの派手な容姿をしている社長曰く『地味!』の一言。
身長一五六センチ。胸元まで伸ばした黒髪をきっちりと一つに纏め、黒目がちの丸い瞳が可愛いと言えば可愛いという程度の平凡な容姿だ。
ローヒールのパンプスに、ベージュや紺、黒等の無難な色のスーツを身に纏う姿は清潔感や清楚さはあるものの、女性らしい華やかさとは無縁だった。
『もう少し身に纏うものを華やかにしろ!』と社長には言われているが、仕事をするのに華美さもセクシーさも必要ないと、右から左に聞き流している。
そもそも忙しすぎる社長の補佐をする身では、見た目よりも動きやすさが優先。目上の人に会う機会も多いから見苦しくないように整えるものの、それで精一杯。今の格好が、おしゃれが苦手な夏澄の限界だと思っている。
珈琲を飲みながらメールのチェックをしたあと、各部署から上がってきている書類、郵便物を確認し、優先順に仕分けして社長のデスクの上に並べていく。
空いたスペースに社長が定期購読している大手全国紙、経済新聞の朝刊の束も置いた。
次にその日の社長のスケジュールを確認して、必要な書類の準備やお昼の手配を済ませる。
ようやく一通りの手配と確認を終え、時間を確認すると九時十分前。
――もうこんな時間か。そろそろ……
外の様子を窺えば案の定、廊下に人の気配を感じて夏澄は立ち上がる。次の瞬間、秘書室の扉がノックもなく開け放たれた。秘書室は、社長室の前室として設らえられているため、社長室に行く人は皆ここを通ることになる。
夏澄は出社した社長を頭を下げて出迎える。
「おはようございます」
挨拶に応えは返ってこない。顔を上げると、夏澄の雇い主でありこの深見グループの現社長である深見良一は、じろりとこちらに視線だけを向け、無言のまま社長室に入っていった。
乱れた歩調と眼差しの鋭さから考えるに、今日の深見はかなり機嫌が悪そうだ。
夏澄は嘆息まじりに天井を仰ぐ。
昨日、帰る時は普通だったのだから、夜の間に何かあったとしか思えない。
確か昨夜は、最近あまり仲のうまくいってなかったモデルの彼女とデートだったはずだ。
――デート中に彼女と何か揉めたかな……
「い、伊藤君……」
どうしたものかと考えていると、入り口から恐る恐るといった感じで、声をかけられた。
振り返ると、開け放たれた秘書室の入り口に、秘書室長が気弱そうな笑みを浮かべて立っている。
「室長。おはようございます」
「お、おはよう。これ、社長に届けに来たんだけどね……」
手に持った書類を振る秘書室長の顔は、かわいそうなほどに引きつっていた。
不機嫌な深見に廊下で遭遇して、その怒気に当てられたのだろう。
「ありがとうございます。今日の重役会議の資料ですか?」
「そう……。そうなんだが……」
夏澄は努めて何でもない顔で室長に歩み寄る。
「社長は、とても怒ってるみたいだったけど、何かあったのかね?」
資料を受け取った夏澄に、室長が声を潜めて、質問してくる。
「さぁ? どうでしょう?」
夏澄は肩を竦めた。
まさか、彼女とのデートが失敗したみたいですとは言えない。
「伊藤君……大丈夫なのかね?」
「何がですか?」
「あんな社長と一緒にいて、怖くないのかね?」
「慣れてますから」
「さすが、深見グループの猛獣使い」
さらりと答える夏澄に、室長が尊敬の眼差しを向けてくる。不名誉なあだ名で呼ばれ、夏澄はがっくりと肩を落とした。
「そのあだ名、いい加減やめてください……私は別に猛獣使いでも何でもありません」
「いやだって、伊藤君くらいのものだよ? あの不機嫌そうな社長に平然と対応できるうえに、機嫌を直せるのは!! 僕、情けないけど、あんな恐ろしい顔をした社長に話しかけるなんてできないよ!」
「そんなことありませんよ」
拳を握って力説され、夏澄は苦笑せずにはいられない。
深見良一。今年三十五歳。経済界の若き帝王と呼ばれ、強烈なカリスマ性を持った経営者として世に知られている彼は、祖父が興した建設会社を現在の複合企業体にまで発展させた。
様々な分野の企業を戦略的事業投資によって次々に傘下におさめ、不況が叫ばれて長い昨今も順調に業績を伸ばしている。
しかも深見は仕事ができるだけなく、一人の男としても魅力に溢れていた。
一八七センチの長身に逞しい体つき。少し癖のある黒髪を後ろに軽く撫で付けており、目鼻立ちのはっきりとした彫りの深い顔立ちは、女が放っておかない色気を宿している。
圧倒的なカリスマ性と強烈な存在感を持つこの男は、当然のようにいつも複数の女性たちに囲まれ、日ごと夜ごと恋人をかえて派手に遊んでいた。
お金、地位、名声、容姿、才能、そして美しく華やかな恋人たち。人が羨むものすべてを手に入れた嫌味な男。それが夏澄の雇い主だった。
普段の彼は、どちらかといえば鷹揚で快活な性格をしているのだが、時に不機嫌なオーラを纏っていることがある。大企業の経営者としてのストレスや、恋人たちとの大小取り混ぜたトラブルなど、理由はその時によってさまざまだが、カリスマ経営者といえど人間。ストレスがたまることも、機嫌が悪くなることもあるだろう。
機嫌が悪いといってもせいぜい目つきが少し悪くなり、足音が乱れるくらいで、人に八つ当たりをするとか、あからさまに不機嫌な顔を見せるというわけではないのだが、顔が端整で存在感があるだけに威圧感が凄まじいのだ。おかげで周囲の人間はその威圧感に圧倒されて、声をかけることはおろか、傍に近寄ることすらできなくなる。
社長秘書に抜擢された当時は、夏澄も不機嫌な時の威圧感にびくびくと怯えていたものだが、深見が不機嫌さを全開で見せるのは、気を許した人間の前だけだと気づいてからはあまり怖くなくなった。夏澄に対しては時に癇癪を起こすこともあるが、二人でいる社長室の中でくらい素の感情を出してもらって構わないし、それだけ自分があの帝王に信頼されていると思えば嬉しくもあった。
それに、あとで自分の態度を省みて、深見が反省しているのも知っている。
普段は本当に俺様のくせに、そういったところが深見の可愛いところだと夏澄は思うが、室長や他の秘書仲間はやはり不機嫌な時の深見が怖いらしい。
そんな不機嫌な深見に平然と対応し、時に諫め、宥めることもする夏澄は、気づけば深見グループの猛獣使いというあだ名がついてしまった。
「十時からの重役会議までに、社長の機嫌はなんとかなるかね?」
「どうでしょう? やれるだけはやってみますが……」
「伊藤君!! そんな気弱なことを言わないでくれ!! 社長の機嫌は君にかかってる!! どうか、十時までに社長の機嫌を直してくれ!! 頼む!!」
「わ、わかりました……」
自分の父親と同世代の室長に手を握らんばかりに懇願されて、夏澄は思わず一歩後ろに下がって頷く。
「頼む! 頼むよ!! うちの社運は、君にかかってるんだからね!!」
そんな大げさなとは思うが、室長たちにとっては切実な問題なのだろう。
最後まで「どうか頼むよ!! ガンバってくれ!!」と夏澄に発破をかける室長を苦笑しながら見送ったあと、預かった書類を机の上に置き、気持ちを切り替える。
「さて、と」
気合を入れ直すと、夏澄は秘書室の隅に併設されている小さなキッチンで、深見のために珈琲を淹れる準備をする。
出社して一番に深見が求めるのは、美味しい珈琲。
この一杯が気に入らなければ、途端にテンションが下がるため注意が必要だが、この珈琲をうまく淹れられればそれだけで機嫌が直ることもある。
だから、夏澄はこの朝の一杯に非常に気を使っていた。
不機嫌な深見が今日の朝刊を確認し、気持ちを整理するまでの時間を見計らいつつ、夏澄はネルドリップで丁寧に珈琲を淹れた。
不機嫌な時は甘い物を欲しがる深見のために、マドレーヌを二つほど添える。
時間を確認すれば、深見が社長室に入って十五分ほどが経っていた。
ちょうどいい頃合だ。そろそろ深見の頭も少しは冷えているだろう。
夏澄はトレイに珈琲とマドレーヌをセットして社長室に向かった。
扉をノックすると短く不機嫌な低音で「入れ」と応えが返る。
「失礼します。珈琲をお持ちしました」
入室し声をかけると、書類から顔を上げた深見が険しい眼差しでこちらを睨みつけてきた。
――まだ少し早かったかしら?
いまだ不機嫌さ全開の深見に夏澄がそう思った時、彼の眉間に寄せられた皺が、トレイの上に置かれたマドレーヌを認めて少し緩む。
――大丈夫そうね……
かすかに和らいだ深見の表情を確認して、夏澄はいつもの秘書の顔の下に苦笑を隠し、トレイを持って深見のもとへ向かう。
差し出したマドレーヌと珈琲を受け取った深見が、無言のまま珈琲に口を付けた。
――ある意味、この瞬間が一日の中で一番緊張するかも……
珈琲を飲む深見の様子をそっと窺いながら、夏澄は広げたままになっている新聞をきれいに畳んでいく。
カップ半分ほど珈琲を飲んだ深見が大きく息をつき、「すまん」と一言呟いた。
先ほどまで深見が纏っていた不機嫌オーラがかなり穏やかなものになったことを確認した夏澄は、今日も自分が深見を満足させられる珈琲を淹れられたことにホッとする。
そして、こちらの様子を窺うように見る深見に、何も言わずに微笑んだ。
自分の態度を反省している深見に、追い打ちをかけるつもりはない。
「うちの秘書殿は優秀だな。俺の機嫌の取り方をよく知っている」
深見はため息まじりにそう言うと、マドレーヌに手を伸ばし、かぶりついた。大好物にようやく頭が冷えたのか、深見の雰囲気がいつもどおりのものに戻る。
マドレーヌを一つ食べ終えた深見がぼそりと「聞かないのか?」と尋ねてきた。
「何をですか?」
何を聞かれているのかわかっていて、あえて静かに問い返せば、深見が再び小さくため息をつく。
「俺が不機嫌だった理由」
そんなこと聞くまでもない。
深見の行動・思考パターンは、彼の第一秘書として働いてきたこの五年でよくわかっているつもりだ。
昨日、深見がデートしていた相手は、モデルをしているだけあって容姿はとても美しかったが、まだ二十代前半と若いせいかプライドが高く、わがままなところがあった。
最初のうちは、彼女のわがままに付き合っていた深見も、度重なるそれに限界を超えたのだろう。
もしくは深見がもっとも嫌う呪文を唱えたか。
結婚――
その一言を、一瞬でも匂わせると、途端に深見は手のひらを返す。
誰にも囚われたくないこの若き帝王は、束縛を象徴するこの呪文を何よりも嫌っているのだ。
若く自信に溢れていた彼女は、自分であれば大丈夫と思い、その呪文を使ってしまったのかもしれない。
どちらにしろ、深見の不機嫌の原因は、考えるまでもなく昨夜の彼女とのデート。
しかし、珍しいこともあるものだ。女性関係の愚痴を夏澄に言おうとするなんて……
来る者は拒まず、去る者は追わずの典型的なプレイボーイである深見だ。関係が終わった女には拘らないし、愚痴を言うような男でもない。興味がなくなったものに対しては、いっそ見事なまでに関わろうとはしない。
それまで散々甘やかされてきた女たちは、その呪文を唱えた途端に変わる深見の態度に、うろたえて必死にとりなそうとするが、深見はそれまでの態度が嘘のように冷ややかで、取り付く島もない。そして、二度と自分には近寄らせないようにしてしまうのだ。
おかげで、そのしわ寄せはすべて夏澄に回ってきた。
過去どれだけ深見の女性関係のトラブルに巻き込まれ、後処理に手を焼かされたかわからない。
――とはいえ……
女性と揉めたあと、こんな気弱そうな深見の姿など見たことがなかった。
「体調でも悪いんですか?」
思わずそう問いかければ、深見の眉間に深い皺が寄る。
「どういう意味だ?」
「言葉どおりの意味です。そんなことを私に聞かれるなんて、よほどお疲れなのかと思いまして」
睨みつけられて、一瞬、怯みそうになるが、何事もなかったように平然と答える。
必要とあれば愚痴でもなんでも付き合うが、こと恋愛関係において夏澄が深見にアドバイスできることなんて何もない。それは深見もわかっているだろうに……
真顔で問い返した夏澄に、深見がむっつりと黙り込んだ。
束の間の沈黙が二人の間に落ちる。
深見も自分がらしくないことを言ったと自覚したようだった。
「いや、いい……もう終わったことだった。忘れてくれ」
嘆息まじりにそう言うと、深見は気持ちを切り替えるように残りの珈琲を飲み干した。
「わかりました」
答えた夏澄は、深見が自分の顔をじっと見ていることに気づく。
「社長……?」
夏澄の呼びかけに、深見は我に返ったように視線をそらした。
「すまん、女の代わりはいくらでもいるが、優秀な秘書殿の代わりはそうそういないなと思って……」
「何ですか突然?」
いきなりの誉め言葉に喜びよりも不審が先立ってしまい、夏澄の眉間に皺が寄る。
「さあ、何だろうな? まあいい、伊藤。今日の予定は?」
一人何かを納得した様子の深見が話題を変えてくるのを訝しく思いつつも、夏澄もいつもどおりに淡々と今日のスケジュールを告げていく。
そのまま打ち合わせをして多少のスケジュール変更をした夏澄がカップとトレイを下げようとした時、「伊藤」と名前を呼ばれた。
「はい?」
「明日の午後七時から、何か予定は入っていたか?」
問われて夏澄は明日のスケジュールを確認する。
「明日の七時でしたらMN産業の営業部長が会食を希望されていますが?」
「ああ。そうだったか。悪いがその会食はキャンセルして、七時からの時間を空けてくれ。MNの部長との会食は……今週中のどこかで調整してくれ」
「かしこまりました。では明日の七時からの予定はどういたしますか?」
「いつものところを二名で予約しておいてくれ」
告げられたのは六本木にあるフレンチレストラン。さらに、二十代女性に人気のブランドのネックレスと花束の手配を依頼されて、ああ、デートかと思う。
あそこのレストランを使用するということは、最近予定の合わなかった六本木のホステスの同伴だろうとあたりをつける。下手なものを手配すると彼女から嫌味が飛んでくるから面倒だと内心でため息をつきながら、夏澄は頭の中で素早く段取りを考えていく。
「ああ、花で思い出した。レイカの舞台が今週で千秋楽を迎えるはずだ。花の手配はどうなってる?」
本当についでに思い出したように、ここ一年ほど付き合いのある中堅女優への手配を確認される。
「すでに社長のお名前で、レイカ様のお好きな薔薇の花を百本当日に届くよう手配してあります」
「そうか、わかった」
その後も次から次に、女性たちとのデート場所の予約と、プレゼントの手配を依頼される。
間違わないようにメモを取りながら、夏澄はあきれた気持ちが湧き上がってくるのを堪えられなかった。
――さっきまでの態度はなんだったのかしら。心配して損した……
内心で毒づきながらも、体調不良ではなさそうなことにホッとした。
秘書室に戻ってカップやトレイ、珈琲を淹れるのに使ったネルの後片付けをする。その後、夏澄は、自分のデスクに座り、プレゼントのリストを改めて見てため息をついた。
――本当にお盛んなことで……
こうして深見にデートやプレゼントの手配を頼まれるのは初めてじゃない。
これも秘書の仕事と割り切ってはいるが、常に複数いる深見の恋人たちの性格や好みを把握し、それぞれのプレゼントが被らないように配慮しつつ、デートに間に合わせて用意するのは本当に骨が折れる。クリスマスシーズンなんて毎年地獄だ。クリスマスに浮かれた幸せそうなカップルや家族連れで賑わう街中を、彼女たちにプレゼントを届けるために走り回る羽目になる。しかも、せっかくプレゼントを届けてもお礼を言われるわけでもない。それどころか、クリスマスに深見と会えなかった彼女たちから嫌みや文句が飛んでくるのだ。当の深見はその年一番お気に入りの恋人とホテルやレストランでデートを楽しんでいるのだから、やってられないなんてものではない。
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