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第3章 東雲学園編 九重流と文化祭
122 兄と妹と(上)
しおりを挟む急に現れた光一に苗は固まり、光一は対照的に落ち着きない様子だった。
「苗……俺は」
光一は、この場に来てもなお、苗になんと言葉をかけるべきか分からなかった。
しかしそれでも、目の前にいる妹に、一歩歩み寄る。
「近寄らないでっ!」
苗は、反射的に叫ぶ。
光一は初めて聞く苗の『明確な拒絶』にびくりと体を震わせ、足を止めた。
「兄さん、なんで、なんで急に……いままで、散々、私を責めたくせに! 九重でいること、そんなことのために!」
「……それは」
苗に拒絶された光一は、まるで呼吸ができないかのように何度も口を開いては短く息を吸う。
見つめ合う二人の間でいくつもの感情のやりとりが行われるが、その想いは、何も交差しない。
光一と苗にとっては無限に思える数秒の沈黙の後、ソファーに腰掛けていた真也がゆっくりと苗を見上げ、口を開く。
「苗先輩。苗先輩は勘違いしてます。……いえ、『甘えて』ます」
急な言葉に苗は驚いて真也を見た。
これまで自分を守ってくれていた少年の、辛辣とも取れる言葉に「ぅえ……?」という疑問の音が漏れる。
「兄は、妹を守る存在だと、俺は思ってます。でも、それはただ『甘やかす』だけじゃないんですよ。俺だって、まひるに『怒ること』だってあります。……もちろん、怒られることも。
九重先輩は、苗先輩に『兄として』厳しく当たっていたんじゃないですか?
……甘やかされたいだけ。そんなのは、兄に求めることじゃないんです」
「でも……だからって……」
「苗先輩。苗先輩は、『救ってくれない』から……それだけで、九重先輩との関わりを、閉ざしてしまったんじゃないですか?」
「それ、は……」
真也の言葉に、苗はうろたえる。
光一が自分を『見捨てた』のではなく、苗が先に光一を『見限った』のではないか。
そんな真也の指摘は、苗の心に突き刺さった。
真也からの援護を受け、光一はさらに一歩踏み出した。
しかしその一歩は、決意の現れというよりも、今から自分の明かすことを大きな声で言いたくないという様な、縋るような一歩だった。
「苗。俺は……俺は、恐れていた。父を、家を……敗北を。『九重』になって最初の数年は、眠れなかった。
……周りの目が、期待の目が、値踏みの目が、恐ろしくてたまらなかった」
今や、全生徒が『完璧な人間』として憧れる光一の口から出るには、余りにも意外な言葉だった。
『その頃』を思い出しているのか、光一の目は、虚空を見つめていた。
「そんなある日、いきなり妹ができて……苗に会って、俺は……驚いた。陳腐だが、そうとしか表現できないほどの、衝撃だった。
でも、それと同時に『守りたい』とも思えた。思えたはずなんだ。
ずっと独りだった俺に……兄として守るべき存在ができたことは、俺を奮い立たせた。俺と同じ境遇になった苗を……俺は、失いたくなかったはずなんだ。
でも、俺は兄と呼ばれながら……それでも、俺は本当に家族だと思ってくれているのか、不安だった。踏み込めなかった。なんとかしようと、必死に考えた」
光一は、ぐ、と手を握る。
「……でも、気がつけばそれは、苗を『九重家のものらしく』することへとすり替わっていた」
光一は己を嘲る様に一度肩を揺らすと、苗を見つめる。その顔は、自笑から歪んでいた。
「俺は……駄目な、人間だ」
「本当ですよ」
「……ま、間宮?」
再度投げかけられた真也からの辛辣な言葉に光一は驚く。
当の真也はソファから立ち上がると、びっ、と音がなりそうなほど真っ直ぐに、光一へと人差し指を伸ばす。
「いいですか! 妹のためにしていようが、その結果悲しませるなんて兄失格なんです!」
「う……そ、その通り、だ……」
自分の弱さを吐露した光一に対する容赦ない追撃に、苗も驚いて真也を見る。
光一に指を向けていた真也と、バッチリと目があった。
真也は、苗にもまた同様に言葉を放つ。
「二人とも、『兄妹』に、幻を見すぎです!
いきなり『完璧な兄妹』じゃないから、って。そんな虫のいい話がありますか!」
『完璧な兄妹』。真也の指摘に、二人は何も言い返せなかった。
光一は『完璧な兄』を目指して暴走し、苗は『自分に味方はいない』と塞ぎ込んだ。
「二人の境遇について、俺なんかがどうこういうなんておこがましいと思います。どれだけの重圧に晒されていたかなんて、俺には想像できません。
……でも、これだけは言えます」
光一と苗は、真也の言葉を待つ。
二人の視線が集まるのを感じた真也は、まるで政見放送の時のように指を立てて、告げた。
「兄妹は二人でなるもの、です。いきなり完璧な兄妹なんて存在なんてしません。
これから、二人でちゃんと『家族』になればいいじゃないですか」
『これから』、『二人で』。
二人とも、会った時には既に『家族』として言い渡されたから、だから家族なのだと思っていた。
しかし、その考えこそ、二人が嫌う『九重の呪い』に縛られていたのだ。
そのことに気づいた二人は、ちらり、とお互いの顔に目線をやり、感情と、思いが交差する。
「やっと、お互いがお互いのことを知ろうとし始められたんです。
なら、二人はこれから『家族』に……『兄妹』になれますよ。……って、偉そうに言ってみましたけど……俺だって、まだまだ分かんないことだらけですけどね」
自分で言ってから気恥ずかしくなった真也は頭を掻き、そして自分の『家族』へと、思いを馳せる。
「……俺は、妹を一度、失いました」
真也の頭の中に、クローゼットの絶望がフラッシュバックする。
「前の世界で、俺の家は、強盗に遭いました。……連続強盗殺人。犯人はもう捕まりましたけど……それでも、『あの時』の俺は、何もできなかったんです。
なにもできないまま、俺は、家族を失いました」
真也は過去の自分の無力さを嘆き、そして、目の前のふたりへと……未来ある兄妹へと視線を移す。
「だから、『これから』のある2人が、前に進めないなんて、そんなの……悲しすぎ、です」
真也の言葉に、光一も、苗も、言葉を失う。
『兄妹』について、何よりもこだわりのある少年の、過去に。
しん、と静まり返った部屋に居心地の悪さを感じた真也は、あわてて帰る準備をする。
「……すいません、急に変なこと言って! あの、俺、帰りますね!
あとはお二人で話し合ってください。俺にできることは、全部、終わりましたから。きっと、お二人なら大丈夫ですよ!」
真也はカバンを担ぎ上げ、いそいそと出口へと向かう。
「間宮!」
真也は背後からかけられた大声に足を止めた。
光一は真也の背に向かって、言葉を続ける。
「『全部終わりました』だと? ……いいや、違うな」
光一の言葉に真也は振り返りそうになるが、それでも、『二人の門出に相応しくない今の表情を見せるわけにはいかない』と、立ち止まるだけだった。
足を止めたものの振り返らぬ真也の背に、光一は『真也の弱点』を投げかける。
「俺が兄になるために、どうすればいいのか……俺はまだまだ、分からない事だらけだ。
だから、これからも……不甲斐ない俺を、『助けて』くれないか?」
苗は驚いて光一を見る。彼女は、人生で初めて『誰かに助けを求める兄』を目撃した。いつも完璧で、誰の助けも借りない兄。そんな兄の『誰かを頼る』言葉に衝撃を受けた。
しかし同時に、光一に抱いた感想が、苗が他人から自身が向けられているものと同じだと気づく。
そして苗は『光一もただの人間なのだ』と頬を綻ばせ、光一の隣へと足を運ぶ。
「そうですよ、真也さん。『お兄ちゃん』が、しっかりとこの人を教育してください! こんな『兄さん』、頼りなさすぎます!」
「苗!?」
苗の言葉に光一は驚き、横にいる苗の顔を見つめる。
苗は光一に微笑み、それから恥じるように目を背ける。
「……いままで私、妹になるんだ、って……『家族』になるんだ、なんて、きちんと考えたこと、無かった……。
ただただ『お兄ちゃんが欲しい』なんて、確かに最低です。私自身が恥ずかしい……」
苗は恥じた顔を俯ける。
しかし、今回はいつもと違い、すぐに光一の方へと視線を上げ直した。
「いままで、ごめんなさい。兄さん」
苗からの謝罪に、光一はゆっくりと頷く。
謝罪を受け取るような身分ではないとも思えたが、しかしそれでも、妹からの気持ちを、光一はしっかりと受け止めた。
「間宮さん。私も、ちゃんと兄さんと向き合います。妹になれるように。家族になれるように。
……でも、相談くらい、させてくれませんか?」
光一はぎこちないながらも隣に立つ妹の肩に手を回し、そして真也へと向き直す。
「間宮。お前は過去『救えなかった』のかもしれない。だが、どうかそれを気に病まないでくれ。『それ』は俺も同じだ。でも、今やっと前を向けた。
……だから、俺を前を向けるようにしてくれたお前がそんな風では……俺は……」
光一は言葉に迷い歯切れが悪くなる。それでも、真也に向かって思いの丈を伝える。
「俺は、いやだ」
頭脳明晰な光一の余りにも幼い言葉に、真也は身体を一つ震わせ、口からは短い笑いが溢れる。
「……ふ、ふふ。なんですか、それ」
「い、嫌なものは、嫌なのだ!」
自分の想いを表す言葉を見つけられなかった光一は顔を赤くしながら、それでも、強引にもう一度告げた。
隣の苗の肩すら小刻みに震え始め、その振動を手のひらに感じた光一は誤魔化すように指で眼鏡を上げる。
「……だから、俺が間宮のために出来ることがあるなら、助けよう。いつでも、なんでも言ってくれ。俺は、お前の味方だ」
光一の言葉に、苗は先ほどまでと違う理由で零れた涙を拭きながら、笑いを伴った言葉を添える。
「もう、何言ってるんですか。俺たち、ですよ。兄さん。私だって、真也さんの力になりたいです」
「……ああ、そうだな」
二人のくすぐったい言葉に、真也は頬が緩む。
真也は、心のどこかで『おこがましい』とは思いながら、二人を救うつもりでいた。
二人が今後、兄妹として向き合ってくれれば、それで真也は満足だった。
でも、まさか、こんな風に自分に返ってくるとは。
「……ありがとうございます。お二人が味方だなんて、すごく、心強いです」
真也は振り返る。
彼の顔は、喜びと、安堵と、感謝と、そしてちょっとの羞恥から、歪ながらも満面の笑みを湛えていた。
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