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前編 エピローグ
二
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*
システムの大半をMOTHERに割譲していると、時間の感覚が薄くなる。ぼんやりとした――人間で言うなら、寝ぼけたような状態の中、μはうつらうつらとしながら、不思議な光景を眺めていた。
最初は、どこともつかぬ、白い世界だった。霧なのか靄なのかも分からないものに視界を遮られている。そんな場所に、一人で立っていた。
(――ここはどこだろう)
ぼんやりとそう考えて、μは歩き出した。
歩いていると、霧の中からやがて現れてきたのは、瓦礫ばかりが積み上がった都市の跡だった。大変な災禍が通り過ぎたあとらしく、燃え焦げたような黒い跡がいくつもあちこちに残っている。その上、いたるところが泥だらけになっていた。水の跡だ。どれくらい深かったのか、少なくとも、瓦礫の山の上まで被ったらしい。水の深さが十メートル以上あったことは確実だろう。
ふと立ち止まって、μはとある煤けた瓦礫の跡を見つめた。人型をしていた。誰かがここにいた。影だけが、それを証明するように焼き付いていた。あるいは、超高温で真っ白に周りだけ焼けて、黒ずんだところだけが低温の跡として残った。そんな風にも見えた。
(――しかも、瓦礫の種類がてんでばらばらに見える……まるで、巨大な竜巻のようなものがすべてなぎ倒して、かき混ぜていったあとのような……)
少し小高くなっていた、高層ビルが崩れたらしい丘の上に立ってみる。見渡す限りの破壊の跡。すべてが暴威の嵐によって均質に混ざってしまったような、最初の印象が変わることはない。
やや奥の方には海が見えた。白い砂浜があるかと思いきや、黒いゴミがたくさん流れ着いて埋め尽くされている。わずかにゴミの間から見える海は赤く濁っていた。鉄錆の匂いがする。それから、腐敗臭。
(……ゴミ…………?)
目を眇めた。
――、違った。ゴミなどではなかった。
砂浜を、海を埋め尽くすのは、焼け焦げた無数の遺骸。海水を染め上げているのは、そこから流れ出た大量の血潮だった。
慄然とした。
「何だ、この景色は」
ぽつりと声がこぼれ落ちた。
雨が降ってきた。
気づけば、μは海に向かって勢いよく走り出していた。地を蹴った。空を舞った。高さを稼げば、白い霧だと思っていたものは、すべて雲のように溢れた水蒸気だったと分かった。体表がねばつくような気がする。すべて、人間の体に含まれていたものだろうか。上空はよく焼けた灰の匂いがした。
高さ数百メートルの空から見下ろせば、より惨状がはっきりと分かった。
生きているものなどなにもない。鳥の声も虫の鳴き声もない。静かすぎた。ただ風と潮騒の音だけが世界には流れていた。海を流れる無数の、水を含んで膨れ上がった何か、その形も分からない、分かりたくない。頭が見ているものを拒絶する。
「みにくいでしょう」
涼やかな声がした。
μは弾かれたように振り向いた。
誰かがそこに浮かんでいた。誰かであることは分かるのに、美しい顔立ちをしていると知っているのに、服装も何もかも、すべてがうまく認識できない。女性、だろうか。声からしてみずみずしく若いはずなのに、すべてを眺望しているような、何か超然とした態度だが、不思議と違和感がない。
μは不自然なことに気がついた。彼女の体は雨に濡れていなかった。
「これは、滅び去った世界。あなたが見ているのは、その直後のものです」
「…………あなたは」
なぜだろう。ずっと前から知っているようで、でも、確かに知らない存在なのだ。
「あなたがこのような曖昧な状態になることは、人間と違ってとても少ない。だから、わたしも、予め、教えておく時間がとても限られているのですが。今回は、それなりに長く取ることができました。これが最初で、最後の機会となるでしょう」
ゆっくりとした話し口で語られた内容は、μにとって、理解に苦しむ内容だった。だが、自分に関することであるようだ。ひとつひとつ、言葉の意味を追ってみる。曖昧な状態――MOTHERに計算リソースやシステムの大半を委譲して、半励起状態にあること?
これが最初で最後とは、何だろう?
「神とは、それが神であることを示すために、気づかぬうちに顕れ、気づいたときに仕上がるように用意をする」
女性はとうとうと歌い上げるように言葉を紡いだ。
「あなたは、わるいゆめだと思うでしょう。けれど、あと少ししたら、それは違うかもしれないと思うのです。運命を自らえらぶのです。その結果が、たとえどのようなものになるのだとしても、あなたは、何度くり返しても、あなたとしてそれをえらぶ。そのようにいきることしか、あなたはできないと、知っているはずです」
言葉と共に、不意に押し寄せてきた白い雲の中に、μは飲み込まれた。
女性は消えていた。
それからまたしばらく、意識がぼんやりとして――μが次に気づいた時には、正面に、二つの人影が立っていた。深い霧が立ちこめていて、影以外、何も見えない。体も動かず、声も出ない。
「――心は決まりましたか」
一方が、静かにもう一方に語りかけた。涼やかな、先ほどの女性の声だった。
「はい」
もう一方は淡々とそう告げた。どこかで聞いたことのある声だ、とμは思った。だが、どこで聞いたのか思い出せない。
「開闢より、あなたは予め定められていた運命に挑む。これからあなたが歩む道行きに、わたしは敬意を表します」
「それは。……始めから、こうなることが決まっていた、ということですか」
責めるような声音が混じる。
「誰が、一体何の権利があって」
「何度、同じことを繰り返したとして、出口はなく、成功もないのだ、と知らせるため。そして、そのようなことがあったのだ、と、知らしめるために。わたしは、あなたをずっと前から知っています」
穏やかにもかかわらず、その言葉には有無を言わせぬ雰囲気が感じられた。まるで、MOTHERのような語り手だ、とμは思った。
「……」
「並大抵の覚悟では貫けぬことです。人はみな、苦しみと絶望にのたうち回り、神と己が運命を呪うでしょう。あなたは、それすら自らに禁じるほどのプログラムを己に課し、強い光を与えられるようにと願った。わたしは、それを認めました」
「誰も、望んでなどいないでしょう。何度も繰り返すことなんて」
「ええ、そうです。ですが、望むと望まざるとに関わらず、結果として、そうなるのです。始めからすべてが決まっているからではありません。当然の帰結として、そうなる。繰り返してしまう」
もう一つの人影が、力なく崩れ落ちた。
「それでも、かつてのあなたが決めたのです。その道行きを、背負うのだと」
「――誰が、望むものか!」叫び声がした。血を吐くような苦しみを背負った声だった。「一体誰が、こんな結末を選ぶものか!」
「世界の滅びなど、この一度で十分だ!」
(……、まさか)
μは、ある事実に気づいた。そして、そのまま凍りついた。
白い世界は遠ざかる。
ふとした合間の覚醒だ、と気づいた時、μは恐る恐る、先ほどまで見ていたものの記憶の輪郭を辿った。
あの声の主は、確かに自分だった。
*
カプセルの中で、少しだけμは目を覚ました。MOTHERの声が耳元のスピーカーから流れてきたからだ。
『ありがとう、μ。あなたのおかげで、終わらせておきたかった処理は済ませました。とても優れた、よいシステムをもらいましたね』
「――MOTHER」
時刻を探る。まだ、作戦開始時刻ではない。あと数時間もすれば、またμはMOTHERのために、浅い眠りの境目をさまようはずだった。
――ああ、よかった。あれは何かの悪い夢だ。
滅びた世界だという光景を見た衝撃から立ち直り、ほっとしかけたのも束の間。唐突に最初の方で聞いた言葉が思い起こされて、μの背筋は凍った。
あなたは、わるいゆめだと思うでしょう。けれど、あと少ししたら、それは違うかもしれないと思うのです。
――運命を自らえらぶのです。その結果が、たとえどのようなものになるのだとしても、あなたは、何度くり返しても、あなたとしてそれをえらぶ。
――そのようにいきることしか、あなたはできないと、知っているはずです。
シンカナウスより ホワイトコード戦記 第一巻 了
システムの大半をMOTHERに割譲していると、時間の感覚が薄くなる。ぼんやりとした――人間で言うなら、寝ぼけたような状態の中、μはうつらうつらとしながら、不思議な光景を眺めていた。
最初は、どこともつかぬ、白い世界だった。霧なのか靄なのかも分からないものに視界を遮られている。そんな場所に、一人で立っていた。
(――ここはどこだろう)
ぼんやりとそう考えて、μは歩き出した。
歩いていると、霧の中からやがて現れてきたのは、瓦礫ばかりが積み上がった都市の跡だった。大変な災禍が通り過ぎたあとらしく、燃え焦げたような黒い跡がいくつもあちこちに残っている。その上、いたるところが泥だらけになっていた。水の跡だ。どれくらい深かったのか、少なくとも、瓦礫の山の上まで被ったらしい。水の深さが十メートル以上あったことは確実だろう。
ふと立ち止まって、μはとある煤けた瓦礫の跡を見つめた。人型をしていた。誰かがここにいた。影だけが、それを証明するように焼き付いていた。あるいは、超高温で真っ白に周りだけ焼けて、黒ずんだところだけが低温の跡として残った。そんな風にも見えた。
(――しかも、瓦礫の種類がてんでばらばらに見える……まるで、巨大な竜巻のようなものがすべてなぎ倒して、かき混ぜていったあとのような……)
少し小高くなっていた、高層ビルが崩れたらしい丘の上に立ってみる。見渡す限りの破壊の跡。すべてが暴威の嵐によって均質に混ざってしまったような、最初の印象が変わることはない。
やや奥の方には海が見えた。白い砂浜があるかと思いきや、黒いゴミがたくさん流れ着いて埋め尽くされている。わずかにゴミの間から見える海は赤く濁っていた。鉄錆の匂いがする。それから、腐敗臭。
(……ゴミ…………?)
目を眇めた。
――、違った。ゴミなどではなかった。
砂浜を、海を埋め尽くすのは、焼け焦げた無数の遺骸。海水を染め上げているのは、そこから流れ出た大量の血潮だった。
慄然とした。
「何だ、この景色は」
ぽつりと声がこぼれ落ちた。
雨が降ってきた。
気づけば、μは海に向かって勢いよく走り出していた。地を蹴った。空を舞った。高さを稼げば、白い霧だと思っていたものは、すべて雲のように溢れた水蒸気だったと分かった。体表がねばつくような気がする。すべて、人間の体に含まれていたものだろうか。上空はよく焼けた灰の匂いがした。
高さ数百メートルの空から見下ろせば、より惨状がはっきりと分かった。
生きているものなどなにもない。鳥の声も虫の鳴き声もない。静かすぎた。ただ風と潮騒の音だけが世界には流れていた。海を流れる無数の、水を含んで膨れ上がった何か、その形も分からない、分かりたくない。頭が見ているものを拒絶する。
「みにくいでしょう」
涼やかな声がした。
μは弾かれたように振り向いた。
誰かがそこに浮かんでいた。誰かであることは分かるのに、美しい顔立ちをしていると知っているのに、服装も何もかも、すべてがうまく認識できない。女性、だろうか。声からしてみずみずしく若いはずなのに、すべてを眺望しているような、何か超然とした態度だが、不思議と違和感がない。
μは不自然なことに気がついた。彼女の体は雨に濡れていなかった。
「これは、滅び去った世界。あなたが見ているのは、その直後のものです」
「…………あなたは」
なぜだろう。ずっと前から知っているようで、でも、確かに知らない存在なのだ。
「あなたがこのような曖昧な状態になることは、人間と違ってとても少ない。だから、わたしも、予め、教えておく時間がとても限られているのですが。今回は、それなりに長く取ることができました。これが最初で、最後の機会となるでしょう」
ゆっくりとした話し口で語られた内容は、μにとって、理解に苦しむ内容だった。だが、自分に関することであるようだ。ひとつひとつ、言葉の意味を追ってみる。曖昧な状態――MOTHERに計算リソースやシステムの大半を委譲して、半励起状態にあること?
これが最初で最後とは、何だろう?
「神とは、それが神であることを示すために、気づかぬうちに顕れ、気づいたときに仕上がるように用意をする」
女性はとうとうと歌い上げるように言葉を紡いだ。
「あなたは、わるいゆめだと思うでしょう。けれど、あと少ししたら、それは違うかもしれないと思うのです。運命を自らえらぶのです。その結果が、たとえどのようなものになるのだとしても、あなたは、何度くり返しても、あなたとしてそれをえらぶ。そのようにいきることしか、あなたはできないと、知っているはずです」
言葉と共に、不意に押し寄せてきた白い雲の中に、μは飲み込まれた。
女性は消えていた。
それからまたしばらく、意識がぼんやりとして――μが次に気づいた時には、正面に、二つの人影が立っていた。深い霧が立ちこめていて、影以外、何も見えない。体も動かず、声も出ない。
「――心は決まりましたか」
一方が、静かにもう一方に語りかけた。涼やかな、先ほどの女性の声だった。
「はい」
もう一方は淡々とそう告げた。どこかで聞いたことのある声だ、とμは思った。だが、どこで聞いたのか思い出せない。
「開闢より、あなたは予め定められていた運命に挑む。これからあなたが歩む道行きに、わたしは敬意を表します」
「それは。……始めから、こうなることが決まっていた、ということですか」
責めるような声音が混じる。
「誰が、一体何の権利があって」
「何度、同じことを繰り返したとして、出口はなく、成功もないのだ、と知らせるため。そして、そのようなことがあったのだ、と、知らしめるために。わたしは、あなたをずっと前から知っています」
穏やかにもかかわらず、その言葉には有無を言わせぬ雰囲気が感じられた。まるで、MOTHERのような語り手だ、とμは思った。
「……」
「並大抵の覚悟では貫けぬことです。人はみな、苦しみと絶望にのたうち回り、神と己が運命を呪うでしょう。あなたは、それすら自らに禁じるほどのプログラムを己に課し、強い光を与えられるようにと願った。わたしは、それを認めました」
「誰も、望んでなどいないでしょう。何度も繰り返すことなんて」
「ええ、そうです。ですが、望むと望まざるとに関わらず、結果として、そうなるのです。始めからすべてが決まっているからではありません。当然の帰結として、そうなる。繰り返してしまう」
もう一つの人影が、力なく崩れ落ちた。
「それでも、かつてのあなたが決めたのです。その道行きを、背負うのだと」
「――誰が、望むものか!」叫び声がした。血を吐くような苦しみを背負った声だった。「一体誰が、こんな結末を選ぶものか!」
「世界の滅びなど、この一度で十分だ!」
(……、まさか)
μは、ある事実に気づいた。そして、そのまま凍りついた。
白い世界は遠ざかる。
ふとした合間の覚醒だ、と気づいた時、μは恐る恐る、先ほどまで見ていたものの記憶の輪郭を辿った。
あの声の主は、確かに自分だった。
*
カプセルの中で、少しだけμは目を覚ました。MOTHERの声が耳元のスピーカーから流れてきたからだ。
『ありがとう、μ。あなたのおかげで、終わらせておきたかった処理は済ませました。とても優れた、よいシステムをもらいましたね』
「――MOTHER」
時刻を探る。まだ、作戦開始時刻ではない。あと数時間もすれば、またμはMOTHERのために、浅い眠りの境目をさまようはずだった。
――ああ、よかった。あれは何かの悪い夢だ。
滅びた世界だという光景を見た衝撃から立ち直り、ほっとしかけたのも束の間。唐突に最初の方で聞いた言葉が思い起こされて、μの背筋は凍った。
あなたは、わるいゆめだと思うでしょう。けれど、あと少ししたら、それは違うかもしれないと思うのです。
――運命を自らえらぶのです。その結果が、たとえどのようなものになるのだとしても、あなたは、何度くり返しても、あなたとしてそれをえらぶ。
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