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第1章

19 仇という名の形骸

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 はじめに気づいたのはヒトでなく、アクティブソナーだった。街の外周をカバーできるように設置された電磁ソナーは、有効距離が10kmを超えており、地面が球体であることから避けられないデッドポイントまで、隈なく走査出来た。そして、そこに突如に夥しい数の感があった。
 野生動物との区別をするために、敢えて感度をヒステリックにならないように下げたシステムは、即座に緊急時のバッチ処理を呼び出し、街中に警報を鳴らした。
 当初、市民たちは何が起きているのかを理解せず、故障か、訓練かと聞き流していた。だが、壁面の監視所の目視確認担当者が、森から溢れる侵食獣の姿を認めたことで、状況は確定した。
 まだアーテナイの滅びの日の記憶も新たな住民たちは、既定のシェルターに入ることよりも、逃げることを選んでしまった。通りを右往左往する大人たちに子供たちは突き飛ばされ、そこかしこで鳴き声と悲鳴が上がっていた。
 そこに理は既に無かった。
 ただ、混沌が横たわり、人々の狂気を助長した。
 そこかしこに響く悲嘆や絶叫———。或いはそれは怒りでもあったかもしれなかった。周囲に理不尽を垂れ流し、人々は逃げ惑った。
 彼らは気づいていなかった。デネブ市は森に半ば呑み込まれた都市で、半周を侵食獣に囲まれており、残りの門は機甲兵団と警備兵団が閉鎖していたのである。最早、逃げ場はどこにも無かった。
 但し、それでも彼らは幸運であった。
 最も危険な獣は既に都市内に入っており、それを知らなかったこと。
 著名な階層潜行師級の戦力が三人おり、また、デュキスがデネブに帰陣していたことである。
 瞬く間に、都市周囲の草原は侵食獣に埋め尽くされ、外壁に突撃する大型侵食獣の音が太鼓の音のように腹に響いた。市民らは、外壁や正門がギシギシと軋みを上げる度に震え上がり、自暴自棄になった何名かが、外壁より飛び降りて帰らぬ者となった。
 警備隊は火事場泥棒の警戒もしなければならなかった。
 目抜き通り、中央広場は完全に機能が麻痺しており、その間隙を縫って、ゆったりと人波に逆流する影があった。その者は時折考え込むように腕を組むと、虚空を見詰めて、しばらくすると頷いて歩みを再開するということを繰り返していた。
 ———その者の名をアレスという。
 アレスの嘆きは、自分が変わってしまったことではなかった。彼もまた人為的に作られた存在ではあったが、そのことを恨んだことはなかった。それでも強烈に恨んだのは、身体能力が上がってしまったが故に、好敵手ともいうべき存在が居なくなってしまったことであった。彼はそのため、退屈という牢獄に繋がれることになってしまったのである。
 彼を満足させたのはただ一度、アーテナイという都市を攻めた時だけであった。
 女の柔らかい肉を喰った味も憶えている。
 そして、破壊の限りを尽くした解放感———。
 遅れてやってきた軍は思ったよりも弱かったが、部隊長だという男は掛け値なしに強かった。結局は水入りで引き分けたが、あのまま続けていれば初めての敗北を喫することになったであろう。
 ———ただ、あの男から女を搔っ攫ってやって、喰ったのは美味かったな……。
 舌舐め擦りしながら、アレスは通りを横切る。
 閑散とした路地で美味そうな女と行き会ったが、あの、恐ろしく強い存在に免じて見逃した。約束を破って闘争に水を差されても困る———。女は剣帯に青い石のブローチを着けていた。
 アレスは慎重に駐屯地を目指した。
 知らず肉体が漲るのを感じていた。
 堪えても気力が満ちるのを感じた。
 そして次には、壮絶な絶望に突き落とされた。
 
 
 
 テセウスは、ヘパイストスとデュキスの要請で、予備役編入された。
 常ならば抵抗しただろうが、今回は望むところだった。
 アーテナイの滅びの日、それの再演であった。
 
 人知れず腕輪が、凛、と鳴った。
 
 「ヘパイストスは気づいていると思うが、ウチの戦力には非常に強力なゲストが居る。名前は訊くなよ?失礼に当たるからな。あの存在が今回に限り、なんの気紛れか人類に味方をしてくれる。敵対する相手を間違えて攻撃しようものなら、半日と持たずに都市が崩壊するぞ」
 にこやかに脅しを投下し、
 「それと、オレの仇敵が来ているだろう。指揮を執りながらオレはその対策に当たる。なので、デュキス卿、副官を頼む。貴殿にしかそれは出来ん」
 「いいでしょう。今回は不肖の弟子と姪が居ります。決して、アーテナイの滅びの日、繰り返させはしません。存分に闘われるがよろしいかと」
 不敵に目を細めながら言う。
 「爺ぃは民心の掌握を。思っていたよりも、アーテナイの恐怖が蔓延している」
 「よかろう……。ただ、死ぬではないぞ」
 気力に満ちているが、その瞳には個人的な懸念がある。
 ———そうか、この老人は、本心で自分を注視してくれる存在なのだな……。
 「ボケたか、爺ぃ。弱気は似合わんぞ」
 敢えておどけて言葉を紡ぎ、照れを隠した。
 「———次の実験台の確保に困る」
 一瞬、殴り掛りそうになった自分を抑え、配置を決めていく。
 アストライアとペルセウスを、間隔を置いて森側へ、機甲兵をそれぞれに付ける。警備兵は正門から森までを守備範囲とする。警備兵の指揮官はデュキスとする。そしてテセウスは———。
 
 
 
 テセウスは駐屯地に残り、行政府の直掩と総指揮であった。ヘパイストスとデュキスは不思議そうな表情を見せたが、直感的に、そこが一番危険なのだと感じていた。アーテナイの滅びの日を直接知る男なのである。また、前線に怖気づくような人物でもない。
 アストライアとペルセウスは、自身が一番の前線に向かうというのに、去り際にテセウスを労い、再会を約束させた。
 二刀の束に手をやり、感触を確かめると、テセウスは駐屯地の演習場中央に、獲物が来るのを待った。
 
 
 
 その頃、イオは思念の分布を調査していた。
 指揮官であるあの者から、どのように一般の侵食獣に指示が出ているのか、それはイオの長年求めていた解に繋がる可能性のある情報であった。イオも、やろうと思えば侵食獣に意図を伝え、従わせることが出来ることを確信していた。おそらく自分は、元々そういうものなのだ。
 伝播する量子通信の形成する《場》を観察すると、それは次第に《界》とも呼ぶべき存在に成長しつつあったが、中心は都市の中をのんびりと歩いていた。そこに接続が見られないことに、若干の疑問を感じる。
 仮説が脳裏に発生した。あの者の持つ場の圧の強さに惹かれて勝手に集まってしまったのではないか……。また、ある一定の異能を持つ者が集合すると、そこに界が発生し、意思を統合したものとなるのではないか……。
 やはり自分が、量子通信の形成する精神汚染の場で自然発生した集合知である可能性、それが高まった。
 イオはあの者の気配を追いつつ、テセウスの元に急いだ。
 
 
 
 その者が演習場に入ったのは偶然であった。
 待ち合わせの場ではあったが、どの施設であるのか、どのような敵手であるのかを知らない。が、闘争の開始を考えれば広い場所が望ましかった。気配は無く、殆どの者が出撃してしまったために、人気がなかった。
 そして、絶望するに至ったのである。
 絶望は二段階であった。
 テセウスを視界に収めた瞬間、その存在の希薄さに敵手として失格と———。
 そしてその直後、膨れ上がった存在感に生還の不可能を悟り絶望するに至った。
 そう、テセウスには判ったのである。あの滅びの日から始まったヒト型侵食獣の探索———。そして、パイドラーを喰ったのもこの者であると、気配から感じたのである。あの日、妻の腕を胸に掻き抱きながら、去っていく侵食獣の気配を忘れじと、記憶に強く、強く焼きつけた。
 怒りが全身を焼いた。自らがカトウの魂を呼ぶのを、完全になろうとするのを感じた。僅かばかりの瑕疵があってもならぬ。逃せば、二度と会えるとは限らないのだ。
 他方、アレスはままならない自らの闘争心の消沈を、必死で制御しようとしていた。こんなはずではなかったと、イオ相手にも感じなかった畏れに、抗っていた。このような場でこそ意気が増すように作られ直したのが自分ではないか———。
 夜の王と、死神と噂される存在よりも恐ろしいとは……。
 容易く挫けそうになる膝を叱咤しながら、敵手の元へ歩む。

 二人は、練兵場の中央にて対峙した。

 テセウスは相手の瞳の奥に怯懦を見た。
 そしてまた、自身の器が満ち、完全になろうとしていることに気づいた。
 
 腕輪がまた、凛、と鳴った。
 
 そしてそれが、自分の体内にじわりと溶けたのを感じた。
 テセウスは、一瞬にして加藤の記憶が混然と溶けて、自らの血肉となっていることを知った。そして、流れ込む———。子と妻を同時に喪ったこと、ふたりの状態を安定させる方法を探していることなどを———。
 心に直接に響く、自分ではない自分の声に従った。

 即ち、因縁をここで断ち切れ、と———。
 
 
 
 一対一ではあったが、それは虐殺であり蹂躙であった。
 アレスの持つ数ある異能の内、肉体再生を用いて対抗したが、彼はこれがパッシブな異能であり、自身で切ることが出来ないことを呪うに至った。
 テセウスの暴虐的な力量は、何度となく再生するそばからアレスを斬り飛ばし、彼は痛みにのたうち回った。強者であった時には気づかなかったが、感覚鋭敏の異能は、傷の痛みをも増幅させた。激痛が何度も繰り返される悪夢に、意気揚々としていた先刻が嘘のように、心が折れていた。
 決してテセウスが甚振っているのではない。アレスが寸でのところで逃げているのである。力量差は見えたが、戦士であるテセウスには、こうした時の油断が致命的であることがよく判っていた。
 アレスとて、逃げたくて逃げているのではなかった。ひと思いに殺して欲しかった。彼の直感の異能が、勝手に避けさせるのである。
 様相は最早、事前にアレスが期待した心躍る闘争ではなく、テセウスからの一方的な狩りであった。或いは、今朝までのテセウスであったら勝てたかもしれない。現実は非情であった。
 イオはその様子を、身を隠しながら観ていた。
 テセウスは、ようやくイオと同じものになった。アレスに似たものになってしまう可能性もあった。危険な賭けであったが、結果は満足できるものであった。
 初めてテセウスを見掛けたのは、彼の知るタイミングではなかった。何のことはない、イオもアーテナイの滅びの日に、その場に居たのである。自分に似たものが侵食獣の群れを率いて都市を襲っていることに興味を受けたのである。それからは、テセウスの行く先々で待ち伏せるだけで良かった。観察の機会には事欠かなかった。
 だが、イオには、テセウスにどうしても秘さねばならないことがあった。アーテナイの滅びの日の後、数日間の出来事である。
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