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第1章

16 悍ましき研究

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 加藤は、基礎の基礎である、量子通信の技術を概論化しようとしていた。根本である、時間依存を含めた論展開に、測定されるエネルギーの期待値の、遠隔における座標固定が難しい。そもそもが、定点理論なのである。
 濃い目のコーヒーを流し込むと、脳内で、純粋状態から混合状態への推移を復習した。やはり、整然としていながら、あの世界にある理論に在って現在に無い根源の理論の存在が予想された。
 ———いや、無駄ではない筈。
 最悪、此方で気づいたことをイオに伝えることにより、論の完成を見ることが出来るやもしれぬ。
 当初の数か月はテセウスの、遺跡におけるハッキングやクラッキングを傍観しているだけであった。日々は平和に推移し、加藤には驚きであった侵食獣の群れとの戦闘も、テセウスにとっては日常でしかなかった。
 だが、風雲急を告げ、方舟教会の暴走とアーテナイの滅びの日のあれこれを、テセウスの意識と共有というか混濁した結果、薄氷の上に居ることに気づいた。我ながら呑気だった……。加藤は悄然とした。
 また、テセウスの記憶を大半得たことで、不思議なことに着目するに至った。
 荒野の世界において用いられている人物や土地、都市の名前の多くが、神話や故事、史跡のものばかりであることである。そしてその性格が、殆どの場合、神話などに語られるその名前の持ち主と一致を見せているのであった。厳密には登場する人物、その関係性などに異なる点も多々あり、神話や史実の忠実な再演などではないのだが、ひょっとして、荒野の世界は遠い過去なのだろうか?
 荷造りを終えた室内は、酷く寒々としていた。
 かつてはこの部屋に、安穏と、由紀子と暮らしていた。
 奥のドアの向こうにある洋室は、育児部屋となる予定であった。
 明日にはこの、様々な思いの残る部屋から外界へと、出ていくことになる。
 加藤は黙祷するように瞑目し、過去はすべてここに置いていこうと、決意した。
 
 
 
 「それって、バースト通信方式を使っているのではないの?」
 トマトは果物でなくて野菜よ、とでも言うように、由紀子は答えた。分野外のことであり、考慮にも入れていなかった言葉が出て来て焦る。
 「それに、智行の言う荒野の世界で採用されている量子通信の基礎技術は、一対一のこちらでの量子通信理論とは少し異なって、イーサネットの、ブロードキャスト・ドメインに似た印象を受けるわ。一定範囲のすべての受信可能者に通信を行って、資格者のみがそれを受け取るのよ」
 また新しい用語が出て来た。完全な門外漢という訳ではないが、ITに利用されるべき技術であるのに、ITでの通信方式に関しての考察が足りないことを痛感した。
 量子通信そのものは量子暗号の研究の派生で、既出である。量子テレポーテーションを用いた、気づいてしまえば専門家としては単純な部類の理論でもある。ただし、ラボ内での実証から、民生品までに持ち込むことが非常に難しい内容ではあった。当面は宇宙開発や軍需品としての展開が予測されている。
 量子の重ねと、量子もつれ(エンタングルメント)を用いたそれらは、量子状態の可搬性(ポータビリティ)を判りやすくしたものである。由紀子がいうのは、この手続きを最初に指定してしまい、一括処理しているのではないかということ、受け手の座標を指定するのではなく一定範囲で無差別に同一の通信を配信し、受け手側で受け取るか破棄するかを決めるというものであった。合理的である。そしてまた、魂の理論という、欠けているピースが嵌った時、精神汚染という致命的なバグの実証も出来るのではないかと期待するのである。加藤は知らずと興奮した。
 「驚いた……。盲点だったよ。まだ現役で研究者を名乗れるな」
 「そのまま使えるということではないと思うのよ?でも、類似性は感じてね」
 世はまだ、遠隔でビットを立てたり下げたりという段階なので、ある種、当然ではある。応用技術までに届いていないのである。そしてきっと、魂の理論はそこに関わっている。
 新しいオフィスには関連論文が集められ、現在は持論よりも先に、他者がどこまで論を進めて実証しているのかを確認している。
 まずはERPペア周辺の論文を集めて、再考である。
 まさか、こんなに個人的な理由で研究を進めているとは考えていないだろうが、澄ました由紀子の相貌に、これからの未来を妄想するのであった。
 
 
 
 遠くに剣戟の甲高い音が響き、アストライアは飛びずさった。
 「これは、難物ね———。と言うか、夜の王はなんで、問題なく扱えているのよ!!」
 「アストライア嬢、それは慣れと、場が見えているかいないかの差だね!!」
 鼻歌混じりに侵食獣と踊るイオに、アストライアが恨めしそうな視線を投げる。彼女は侵食獣を斬ろうとしては、鈍器で殴るような手応えが帰って来て、渋い表情を浮かべていた。例の、《界》というか場というかの境界が見えず、励起した装備の発動タイミングが掴めずにいるのだ。
 「それにしても、流石にテセウスは器用ね……」
 アストライア、ペルセウス、テセウスの中では、テセウスだけが新装備の活用に成功していた。イオのように、瞬間的な発動が出来ている訳ではない。侵食獣を煽って突進させ、その力を利用して、押しつけながら斬っているのである。
 「……これは便利だな。もしかすると、遺跡の隔離エリアもこれで突破可能かもしれない。アレと侵食獣の異能とほぼ同種だからな」
 一行は、最も遠い方舟教会の拠点から潰しに掛かっていた。互いに情報連携をさせて隠滅されるようなことがないように、点と点を繋いだ方角から襲撃を掛け、個別撃破を狙っている。
 残念ながらまだ、施設まで辿り着けてはいない。
 思いの外、侵食獣の数が多く、連携が取れていた。特別なことではない。ただ、群れを構成するのが単一の種族であるため、強さのヒエラルキーで、自然と連携されているだけである。だがそれが、単純なだけに厄介だった。そして、新装備の慣熟を兼ねている為、殲滅速度が常よりも落ちていることも大きい。
 「キリがないな……」
 「テセウスさん、先行してもらえますか?どの程度、侵食獣をコントロール出来ているのか不明ですが、このままだと逃げられます」
 「そうね、ロクデナシ汚名を返上してきなさい」
 アストライアも乗り、テセウスは先行して施設に突入することとなった。
 行き掛けに、アストライアに飛びかかろうとしていた大型のネコ科の獣を斬り伏せる。
 「イオ、このふたりなら大丈夫だろう。先行するぞ」
 行き掛けにイオに声を掛ける。
 「いいけど、なんで私?」
 「きっと、イオでないと見落としが発生する。ヤツらの小汚い技術の解析ができるのは、今回はイオだけだ。アイツらが宛てになるのは戦闘だけだ」
 「了解!!テセウスに頼られると気分がいいね!!」
 ふたりは中央から右翼の方に進路をずらし、そのまま突破した。イオがボスと思われる個体の首を刈り、走り抜ける。もう、ここしばらくは例の陽炎を纏っていない。このチームになら、素顔でもよいと思っているのかもしれない。
 
 
 
 施設には継ぎ目がなく、何処が入り口化も判然としなかった。
 地表に出ているのは半球状のドームで、そこに四角い大きな突起が左右に出ている。
 「これは、我々が来たのは正解だったね!!ここの鍵は、量子暗号だよ!!」
 「なんとまぁ、厄介な———」
 「気にしなくていいよ。先日渡した鍵のデータキューブがあるでしょ?アレにアーカイブしてある。どれかは合うよ」
 ギョッとして、思わずイオの表情を確かめる。そんな簡単に入手できるものでもなく、またシステム適合しているかどうか、対応もまちまちなので、用意するのが非常に困難なのであった。
 「———普通の鍵にしか見えなかったが?」
 「木の葉を隠すなら樹々に中に、ってね!!」
 悪戯が成功したような表情をして、イオはオリジナルのデータキューブをモノリスに嵌めた。そして、フォアコネクタで壁面を走査する。
 「うん、ここだね。まだ逃げてないよ!!」
 開錠を終えると、壁面に緩いカーブを描いたスライドドアが現れた。
 イオの拠点の様な、欺瞞技術が採用されているのかもしれない。
 中に入ると居住区と思しきエリアがあり、外から見えた方形の突起は階段であった。ふたりは警戒を解かずに、下へと降りた。
 これほどの大掛かりな施設の割には、設置されている計測機器等は小さく、リアクターとエネルギー供給施設のみが巨大であった。また、材質は不明だが透明な仕切りがされている区画があり、実験設備と思われた。
 「通常はインプラントされているから医師くらいしか見たことないだろうけど、ここの機器は大型化された量子通信機だねぇ……。で、あの隔離区画に、それらを無差別に照射するようになっている———」
 精神汚染を人為的に起こせないかを試していたということか……。結果、中途半端な侵食獣が量産されたと———。
 階下にあるシェルターへのアクセスも至極簡単に行い、イオはドレインタッチで全員を昏倒させてしまった。そして無造作に担ぎ、階上に運んで行く。
 「イオ、その腐れた荷物はオレが運ぶ。それよりも、こいつらが何をしていたのかを明らかにできる資料が欲しい。研究データを根こそぎサルベージしてしまってくれ」
 ブランクのデータキューブを有るだけ渡し、その上で、外部ストレージのアクセスキーもそれに含める。
 テセウスは、既に戦闘を終えたアストライアとペルセウスを呼び、キャリアまでのピストン輸送を頼んだ。この者たちには、デネブで色々と囀って貰わねばならない。
 地獄が望みとなるまで、彼らは絞られることだろう。
 それだけのことを仕出かしていたのだ。
 
 
 
 色々と言われており、諸説あるが、実は精神汚染の原因が量子通信であると断言した資料は少ない。関連性そのものも証明されておらず、本来ならば都市伝説の類である。だが、多くの研究者や採掘師、階層潜行師がそれを信じているのは、根本に魂の理論があるからである。
 個であった存在が認識を共通化させるプロセスは、魂に肉体が追従し、魂に見合った肉体を形成することに親和性が高い。特徴の先鋭化とでも言えばいいか。例としては、群れる動物は群れを堅牢に再集結し、連携力を高めて危険度を増す。そして、本来は持ち得なかった智慧を手にするのである。
 階層潜行師は、その資格としての戦闘能力を異能で得ている者が多く、魂の理論の核心に、最も近いところに居る存在なのであった。
 イオは、量子通信による精神汚染の場で、自然発生的した集合知ではないかと、自分自身を分析している。どのようにして肉体を持つに至ったのかはまるきり不明なのだが、肉体と言いつつも実は不定形であり、多少ならば身体のサイズや容姿を弄ることもできる。性別すらも、実は定まっていない。自身の容姿は美しいとされているが、それさえも、集合知の中から理想形を抽出した結果ではないかと思っているのである。
 ただ、最近ではその容姿について、好ましいのであれば良かったと、テセウスを見ていて思うのである。
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