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第二章 中西真紀

惹き込まれるさや荘

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  気がつくとわたしはさやカフェのカウンターの奥にある事務室のソファに座っていた。

  テーブルの上にはさや荘の間取り図と賃貸借契約書がある。

「どうですか?  さや荘気に入って頂けましたか?」

  森口さんはにっこりと微笑みを浮かべた。

「あ、はい。気に入りました」

  なんてわたしは答えてしまった。どうしてわたしはさや荘に住もうとしているのだろうか?  自分でも分からないけれどさや荘にぐぐーっと心が惹かれる。

「では、中西さん契約書にハンコを押してください」

「……はい」

  わたしは賃貸借契約書に捺印をした。

「うふふ、これで中西真紀さんもさや荘の住人になりましたね。おめでとうございます」

  森口さんはそれはもう嬉しそうに微笑みを浮かべた。

  さや荘は魅力的ではあるけれど、部屋を探していたわけでもないのに賃貸借契約書に捺印しているなんて不思議で仕方がない。

「中西さんどうかしましたか?」

「……いえ、何でもありません」

  わたしは顔を上げて笑顔を作って見せた。

「さや荘へようこそ!」

  森口さんは満面の笑顔を浮かべ両手を広げた。こうしてわたしはあれよあれよという間にさや荘の住人になっていたのだった。


  それから一ヶ月後わたしはさや荘に引っ越してきた。以前住んでいたマンションも気に入っていたのに賃貸借契約の更新をせずさや荘を選んだ。

  どうしてさや荘に心が惹かれたのかよく分からない。森口さんのアーモンド形の綺麗な瞳とキラキラと輝く赤リップが塗られている唇を眺めているとさや荘に住みたい住まなきゃと思ってしまった。

  さや荘の三階の角部屋の二号室がわたしの部屋になった。角部屋なので窓の数も多くて日当たりも良い。

「今日からよろしくね」とわたしは部屋に挨拶をした。すると、カタンと音が鳴った。

  まさか家がわたしに挨拶を返したなんてことはないよね。そんなことを考えるとちょっと怖くなった。きっと気のせいだよねと深呼吸をした。

  部屋は引っ越し業者に荷ほどきもしてもらったので片付いている。

  わたしは落ち着こうとやかんを火にかけお茶の準備をした。湯が沸いたのでティーポットに茶葉を入れて湯を注ぎしばらく待ってからティーカップに注いだ。

  ダージリンの甘くて爽やかな香りが鼻をくすぐる。ティーカップを口に運びダージリンティーを飲む。体がほわほわと温かくなり落ち着く。

  さや荘に引っ越してきて良かったなと嬉しくなりティーカップをカップソーサに置いたその時。



  上の部屋から物音がした。

  ドスンドスンドンドンドスンドスンドンドンと足音がする。ドンドンドスンドスンドンドンドンドンドンドンドーンとジャンプでもして飛び降りているのだろうか?  とにかくうるさいのだ。

  上の階に小さな子供が住んでいるのだろうか?  うるさくて仕方がない。

  ドンドンドンドンドスンドスンドスンとまた足音が鳴り響いてくる。森口さんに苦情でも出そうかなと思うほどうるさいのだ。

  少し様子を見てみるしかないかなと思いわたしは溜め息をついた。

  わたしは気を取り直しティーポットに残っているダージリンティーをティーカップに注ぎ飲んだ。ダージリンティーの爽やかな香りイライラしている心をほんの少し和らげた。
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