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決意を固めた夜
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兵藤が京香に初めて出会ったのは、初店舗の販売スタッフ採用の面接時。
自分の店を持つ喜びに沸き立つと共に、慣れない面接や店舗経営に関する準備で右往左往している時でもあった。
美大を卒業したばかりの彼女は就職氷河期でなかなか決まらず、地元でオープンするパン屋の販売員の面接に来たのだった。
黒目がちな京香の瞳に密かな怒りの色を見て、兵藤は衝撃を受けた。
情けない自分に対して。
自分を認めてくれない世間に対して。
静かに秘められた怒りの気持ち。
どんな思いでここに来ているんだろう……
兵藤は思いを巡らせた。
本当は美術関係の仕事で生きて行きたいと思っていたに違いない。
でも、厳しい就職戦線に敗れて、思うような進路に進めずに悔しいのだろう。
パン屋の店員と言う、希望とはかけ離れた職の面接に来ることになってしまったのだから。
だが一方で、京香の瞳に宿る、決して自分のことをあきらめない強い意志のようなものも感じていた。
それはとても尊く、美しい光だった。
その瞳に、囚われた。
そして、一瞬で恋に落ちた……
その光は兵藤の背中をも押してくれる光だったから。
一緒に仕事をするようになって、兵藤は京香の仕事ぶりを良く観察してみた。
京香は毎日、オープンの大分前から店に来て、店内の掃除を丁寧にやってくれる。
食品販売店としては当たり前のことでも、維持管理していくのは意外と難しい。
お客様から見えるところだけでなく、見えないところもきちんと掃除している様子に、彼女の誠実さとおもてなしの心を感じた。
笑顔が得意なタイプでは無い。
でも、いつでもお客様に気持ちよく買い物をしてもらえるようにと、さり気なく気を配る姿は清々しくて、兵藤自身も活を入れられるようで嬉しかったのだ。
やがて兵藤は、お店の宣伝を彼女に任せたいと思うようになった。
彼女の持つ美的センスと、ホスピタリティ精神が、店舗運営に欠かせないと思ったのはもちろんだったが、彼女の芯の強さを、身近で感じていたかったと言うのが本音かもしれない。
自分の傍で支えて欲しい……そんなよこしまな思いが無かったかと問われたら、堂々と否とは答えられないなと自覚している。
でも、彼女は十歳も年下だ。
しかも、まだ社会に出たての新人。
こんなおじさん、目に入るわけ無いよな……
社長の俺が、特別に一人の社員に目を掛けたら……それば逆に彼女の立場を危うくすることにもなりかねない。
折角掴んだ彼女の就職先を、俺の軽率な態度で奪ってはいけない。
彼女の可能性をつぶしてはいけない。
兵藤はそう考えると、自分の立場を決して崩してはいけないと戒めた。
彼女もきっとそのうち誰かと恋をして、結婚するに違いない。
だからそれまで、彼女が少しでも社会の経験をつめるようにサポートしよう。
あの、美しい意志の瞳を曇らせたくないからな。
兵藤はその時から、社員を育てることの大切さを考えるようになった。
そして彼女だけでなく、自分の店の社員全員を育てるために、どんな声掛けをしたら良いのか、どんなチャンスを与えたらいいのかに気を配るようになっていった。
兵藤の予想通り、京香は兵藤が一を言えば十で答えてくれるような頑張り屋だった。
だから京香の成長はわがことのように嬉しかったし、自慢でもあった。
だがそうなるとどんどん、心の中に京香が占める部分が大きくなっていく。
いつまでも彼女に頼っていてはダメだ。
いつか、彼女も巣立っていくのだから、彼女がいなくなった時の覚悟を決めておかなければいけないんだぞ。
兵藤は自分にそう何度も言い聞かせていた。
そんな彼の気持ちを知る由も無く、京香はいっこうに結婚しなかった。
なぜ結婚しないんだ?
流石の兵藤も疑問に思い始めた。
仕事の自信と年齢を重ねた深みによって、京香はますます眩しくなっていく。
そこへ落ち着いた色香さえも増してきた。
綺麗になっていく君を見ているのは嬉しい。
でも、辛い……
その輝きは、俺の理性を壊しそうになるんだ。
早く結婚してしまえばいいのに。
そうしたらあきらめも付くのに。
いや、違う。
本当は君を誰にも渡したくない。
俺は君を……独り占めしたいんだ。
ソファ横に跪いて心配気にこちらを見ている京香の視線を感じて、ペットボトル越しに見つめ返した。
長い長い葛藤の末、兵藤はようやく決意した。
出会ってから、既に十年の歳月が流れていた。
自分の店を持つ喜びに沸き立つと共に、慣れない面接や店舗経営に関する準備で右往左往している時でもあった。
美大を卒業したばかりの彼女は就職氷河期でなかなか決まらず、地元でオープンするパン屋の販売員の面接に来たのだった。
黒目がちな京香の瞳に密かな怒りの色を見て、兵藤は衝撃を受けた。
情けない自分に対して。
自分を認めてくれない世間に対して。
静かに秘められた怒りの気持ち。
どんな思いでここに来ているんだろう……
兵藤は思いを巡らせた。
本当は美術関係の仕事で生きて行きたいと思っていたに違いない。
でも、厳しい就職戦線に敗れて、思うような進路に進めずに悔しいのだろう。
パン屋の店員と言う、希望とはかけ離れた職の面接に来ることになってしまったのだから。
だが一方で、京香の瞳に宿る、決して自分のことをあきらめない強い意志のようなものも感じていた。
それはとても尊く、美しい光だった。
その瞳に、囚われた。
そして、一瞬で恋に落ちた……
その光は兵藤の背中をも押してくれる光だったから。
一緒に仕事をするようになって、兵藤は京香の仕事ぶりを良く観察してみた。
京香は毎日、オープンの大分前から店に来て、店内の掃除を丁寧にやってくれる。
食品販売店としては当たり前のことでも、維持管理していくのは意外と難しい。
お客様から見えるところだけでなく、見えないところもきちんと掃除している様子に、彼女の誠実さとおもてなしの心を感じた。
笑顔が得意なタイプでは無い。
でも、いつでもお客様に気持ちよく買い物をしてもらえるようにと、さり気なく気を配る姿は清々しくて、兵藤自身も活を入れられるようで嬉しかったのだ。
やがて兵藤は、お店の宣伝を彼女に任せたいと思うようになった。
彼女の持つ美的センスと、ホスピタリティ精神が、店舗運営に欠かせないと思ったのはもちろんだったが、彼女の芯の強さを、身近で感じていたかったと言うのが本音かもしれない。
自分の傍で支えて欲しい……そんなよこしまな思いが無かったかと問われたら、堂々と否とは答えられないなと自覚している。
でも、彼女は十歳も年下だ。
しかも、まだ社会に出たての新人。
こんなおじさん、目に入るわけ無いよな……
社長の俺が、特別に一人の社員に目を掛けたら……それば逆に彼女の立場を危うくすることにもなりかねない。
折角掴んだ彼女の就職先を、俺の軽率な態度で奪ってはいけない。
彼女の可能性をつぶしてはいけない。
兵藤はそう考えると、自分の立場を決して崩してはいけないと戒めた。
彼女もきっとそのうち誰かと恋をして、結婚するに違いない。
だからそれまで、彼女が少しでも社会の経験をつめるようにサポートしよう。
あの、美しい意志の瞳を曇らせたくないからな。
兵藤はその時から、社員を育てることの大切さを考えるようになった。
そして彼女だけでなく、自分の店の社員全員を育てるために、どんな声掛けをしたら良いのか、どんなチャンスを与えたらいいのかに気を配るようになっていった。
兵藤の予想通り、京香は兵藤が一を言えば十で答えてくれるような頑張り屋だった。
だから京香の成長はわがことのように嬉しかったし、自慢でもあった。
だがそうなるとどんどん、心の中に京香が占める部分が大きくなっていく。
いつまでも彼女に頼っていてはダメだ。
いつか、彼女も巣立っていくのだから、彼女がいなくなった時の覚悟を決めておかなければいけないんだぞ。
兵藤は自分にそう何度も言い聞かせていた。
そんな彼の気持ちを知る由も無く、京香はいっこうに結婚しなかった。
なぜ結婚しないんだ?
流石の兵藤も疑問に思い始めた。
仕事の自信と年齢を重ねた深みによって、京香はますます眩しくなっていく。
そこへ落ち着いた色香さえも増してきた。
綺麗になっていく君を見ているのは嬉しい。
でも、辛い……
その輝きは、俺の理性を壊しそうになるんだ。
早く結婚してしまえばいいのに。
そうしたらあきらめも付くのに。
いや、違う。
本当は君を誰にも渡したくない。
俺は君を……独り占めしたいんだ。
ソファ横に跪いて心配気にこちらを見ている京香の視線を感じて、ペットボトル越しに見つめ返した。
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出会ってから、既に十年の歳月が流れていた。
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