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夏風夏鈴がそこにいない場所で
大学生活は、関西で
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レイコさんはボールを地面に置いて、僕の膝を軽く叩いた。「あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかる? そういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」――――『ノルウェイの森』村上春樹
初めてセックスしたのは、大学二年の夏だった。
その時、僕には冬華という名前の恋人がいたが、相手はそのひとではなかった。まったく別のひとつ年上の先輩で、その先輩は同じサークルに所属していた。スポーツ全般を気軽に楽しむサークルで真面目な雰囲気はひとつもなく、大抵どこかで何人かが飲み会をしているだけ、という会だった。実際、僕がそこで何らかのスポーツを楽しんだのは、最初の一ヶ月くらいだ。
飲み会でそこにいた先輩と意気投合して、酔った勢いで、というやつだ。面白みも何もない。酩酊感の中で、あまり気持ちいいものではなかった、という記憶だけが残っている。あとで聞いたのだが、その先輩はサークルの複数の男性と関係を持っていて、結局、異性関係のトラブルで辞めてしまったらしい。僕がサークルを辞めたあとのことだ。タイミングが比較的近かったので、僕は周りから同情されてしまったのだが、別にその先輩とのことは関係ない。だってあの一回以外、会話さえほとんどなかったのだから。たまに僕が頭の中で描いた幻想なのではないか、と考えてしまう時がある。最初からそのうち辞めようと思っていて、タイミングがちょうど似た時期になってしまっただけだ。
二番目の相手が、冬華だった。
冬華との出会いは一回生の時にさかのぼる。僕がサークルのしつこい勧誘に遭っていて、その状況から救ってくれたのが、冬華だった。しつこい勧誘を僕に行ってきたサークルは、政治に対して熱い思想を持ったグループで、その熱さ自体には尊敬する気持ちがないわけでもなかったが、すくなくとも僕が惹かれるものではなかったし、何度断っても威すように勧誘を続けてくる姿は恐怖だった。僕はその時代を知らないのだが、一瞬、三十年くらい前にでもスリップしたのかな、と思ってしまうほどだ。
「ごめんなさい。このひと、私のサークルにもう入ってて、うちは掛け持ち禁止なんです」
と僕が何度目かの勧誘を学内で受けている時に、庇ってくれたのが、冬華だった。
『古典文学研究会』に入っている、と彼らには言っていたが、それは嘘で、冬華はどこのサークルにも所属していなかった。
「ああいうのは、ちゃんと断らないと」
と叱ってくれた冬華は、僕と同級生だった。もちろんそれで勧誘が終わったわけではなかったが、以来、何かと冬華と一緒にいることが多くなったからか、彼らの気勢はそがれて、尻すぼみになっていった。
冬華が僕と同じ文学部だ、と知ったのはそのあとだ。
と言っても、文学の「ぶ」の字も知らずに、なんとなく最近小説を読んでいるな、くらいの感覚で文学部を選んだ冬華と違って、彼女は本当に小説が好きで、ドン・デリーロやらポール・オースターやら、今まで一度も聞いたことのないような海外の作家ばかりを好んでいた。カフカとかヘミングウェイの名前がぎりぎり分かる僕とは大違いだ。
「最近、読んだ小説は?」
と聞かれて、僕は読んだ小説のタイトルを挙げた。
「なんで、ヒロインが死ぬ小説ばっかりなの」
と冬華が笑った。それは別に馬鹿にするような笑いではなく、心底、不思議そうだった。というかタイトルを挙げただけで、よく分かるな、とも思った。
「それなら、『ノルウェイの森』とかいいんじゃない」
と冬華が貸してくれたのが、『ノルウェイの森』だった。そのやり取りにふと、かつての夏風とのやり取りを重ね合わせてしまったのは仕方ないだろう。ただ冬華は、別に夏風には似ていない。もっと静かで、ドライな雰囲気がある。
結局読まないまま、一年間くらい借りっぱなしで、読みはじめたのが二回生の夏だった。
僕は二回生の夏までの間に、一度も帰省していなかった。特に帰りたい用事もなかったから、というのが、僕の本音だったのだが、それを口に出すと家族も良い顔をしないので、『アルバイトが忙しい』というのを理由に、帰省せずにいた。
僕が働いていたのは、二十四時間営業のディスカウントショップの夜勤だった。真面目な学生なら大学との両立を考えて、あまり選ばないのかもしれないが、行ったり行かなかったりを繰り返していた僕にとっては、時給の高さはかなりの魅力だった。
学校もバイトもない暑い夜、突然、電話が掛かってきた。国崎の名前が表示されている。
「もしもし」
『久し振りだな。生きてるか』
「なんとか」
『ということは、元気だな』
「なんで、そうなるんだよ」
『しかし、全然こっちに帰ってこないな。たまには帰ってこいよ。楽しいぞ』
国崎は大学には行かず、フリーターになった。佐野さんと同じ大学を受けたが落ちてしまい、別の大学を受けるのかな、と思っていたが、結局はどこの大学にも入らなかった。浪人生という選択肢も最初からなかったみたいだ。フリーターをしながら、正規で雇ってくれる職場を探しているらしい。僕が知っているのは、そこまでだ。あれから一年以上が経っている。
「もしかしたら帰ってきているかもしれないじゃないか。お前に連絡してないだけで」
『いや、日比野なら、俺に連絡があるはずだ』
その自信はどこから来るのだろう。まぁ合ってるけど。
「色々と忙しいんだよ。バイトとか学校か」
『まぁそうだよなぁ』と意外にも簡単に納得してくれた。『だからこうやって、電話したんだよ。色々こっちのことも聞きたいだろ』
「元気なようで何よりだよ。……今は何を?」
『俺か、工務店の営業をやっているよ。ベテランのひとの下について、色々教えてもらっている、まだ卵みたいなものだけど。……あと』
「あと?」
『前に冗談で言ってたやつ。覚えてるか分からないけど、小説を書きはじめてみたんだ。本当に、な』
「意外だ」
『若いうちは仕事一本に絞れよ、って昔気質のひとには怒られちゃいそうだけど』
「いいじゃないか。言いたいひとには言わせておけば」
『そうだな。あぁそうだ、水野さんが同じ会社で事務をやっているよ。驚くかもしれないけど、俺たち付き合いはじめたんだ』
「えっ、……っていうか佐野さんは」と聞いて、あっ聞いたらまずかったかな、と思った。
『そっか、言ってなかったか。別れたよ。中々遠距離恋愛、ってのも大変だよ。それに彼女は向こうで憧れの先輩と結ばれたらしい。それは喜ばしいことで、元カレとしては笑って送り出してやらないとな』
もしも夏風と僕が同じ状況に置かれたとしたら、僕はこうやって気持ち良く夏風の背中を押せるだろうか。いや無理かもしれない。そう考えて、僕は国崎の強さを感じた。そしてそのあとに罪の意識が襲ってくる。なんで僕は冬華ではなく、夏風で、その想像をしてしまったのだろう。
「色々と変わっていくんだね」
『そうだよ。世界は色々なところで、動いていく』
「僕はたまに、まだ止まったままのような気がするよ。アルバイトをして、学校に行ったり行かなかったりして、それだけ」
『彼女とかはできたか?』
「できたよ、一応」
『そうか、今はフリーじゃないのか。フリーなら、ひとり紹介してやろう、と思ったのに』冗談めかして、国崎が言う。『地元の国立大学に通っている才女なんだけど』
もちろん誰のことかは聞かなくても分かる。
「古傷を抉るなよ」
『俺はまだ古い傷になっているなんて思ってないところがあるんだけど、な』
「とっくになってるよ。もう二年も前の話なんだから」
『この間、駅で見掛けたけど、前よりも、おとなびて魅力的になってたぞ。特に彼氏がいるような雰囲気もなかったし』
「いるよ、きっと。知らないだけで」
仮にいなかったとしても、僕にはもうどうでもいい話だ。
『まぁ、それもそうか』
それ以上、国崎はこの話を広げようとはしなかった。たぶん僕の口調に冷たさが混じったことに気付いたからだろう。
「でも、久し振りに話せて良かったよ」
『でも、本当にたまには帰ってこいよ。たぶんお前はそう敢えて言わないと帰ってこない気がする』
否定はできなかった。
結局、僕が大学で過ごしている間に、地元に帰ったのは片手で数えるほどしかなかった。それもあんまりのんびりするような感じではなく、日帰りで顔だけ見せに帰って、すぐに関西へ戻ることもあった。帰省というものに、どこか気恥ずかしさ、というものを感じてしまうのだ。
ただその数回の帰省の中で、意外な再会もあって、それは僕にとって思いのほか、嬉しいことだった。
「あれ、日比野じゃないか」
そう言って声を掛けてきたのは、五十嵐だった。
初めてセックスしたのは、大学二年の夏だった。
その時、僕には冬華という名前の恋人がいたが、相手はそのひとではなかった。まったく別のひとつ年上の先輩で、その先輩は同じサークルに所属していた。スポーツ全般を気軽に楽しむサークルで真面目な雰囲気はひとつもなく、大抵どこかで何人かが飲み会をしているだけ、という会だった。実際、僕がそこで何らかのスポーツを楽しんだのは、最初の一ヶ月くらいだ。
飲み会でそこにいた先輩と意気投合して、酔った勢いで、というやつだ。面白みも何もない。酩酊感の中で、あまり気持ちいいものではなかった、という記憶だけが残っている。あとで聞いたのだが、その先輩はサークルの複数の男性と関係を持っていて、結局、異性関係のトラブルで辞めてしまったらしい。僕がサークルを辞めたあとのことだ。タイミングが比較的近かったので、僕は周りから同情されてしまったのだが、別にその先輩とのことは関係ない。だってあの一回以外、会話さえほとんどなかったのだから。たまに僕が頭の中で描いた幻想なのではないか、と考えてしまう時がある。最初からそのうち辞めようと思っていて、タイミングがちょうど似た時期になってしまっただけだ。
二番目の相手が、冬華だった。
冬華との出会いは一回生の時にさかのぼる。僕がサークルのしつこい勧誘に遭っていて、その状況から救ってくれたのが、冬華だった。しつこい勧誘を僕に行ってきたサークルは、政治に対して熱い思想を持ったグループで、その熱さ自体には尊敬する気持ちがないわけでもなかったが、すくなくとも僕が惹かれるものではなかったし、何度断っても威すように勧誘を続けてくる姿は恐怖だった。僕はその時代を知らないのだが、一瞬、三十年くらい前にでもスリップしたのかな、と思ってしまうほどだ。
「ごめんなさい。このひと、私のサークルにもう入ってて、うちは掛け持ち禁止なんです」
と僕が何度目かの勧誘を学内で受けている時に、庇ってくれたのが、冬華だった。
『古典文学研究会』に入っている、と彼らには言っていたが、それは嘘で、冬華はどこのサークルにも所属していなかった。
「ああいうのは、ちゃんと断らないと」
と叱ってくれた冬華は、僕と同級生だった。もちろんそれで勧誘が終わったわけではなかったが、以来、何かと冬華と一緒にいることが多くなったからか、彼らの気勢はそがれて、尻すぼみになっていった。
冬華が僕と同じ文学部だ、と知ったのはそのあとだ。
と言っても、文学の「ぶ」の字も知らずに、なんとなく最近小説を読んでいるな、くらいの感覚で文学部を選んだ冬華と違って、彼女は本当に小説が好きで、ドン・デリーロやらポール・オースターやら、今まで一度も聞いたことのないような海外の作家ばかりを好んでいた。カフカとかヘミングウェイの名前がぎりぎり分かる僕とは大違いだ。
「最近、読んだ小説は?」
と聞かれて、僕は読んだ小説のタイトルを挙げた。
「なんで、ヒロインが死ぬ小説ばっかりなの」
と冬華が笑った。それは別に馬鹿にするような笑いではなく、心底、不思議そうだった。というかタイトルを挙げただけで、よく分かるな、とも思った。
「それなら、『ノルウェイの森』とかいいんじゃない」
と冬華が貸してくれたのが、『ノルウェイの森』だった。そのやり取りにふと、かつての夏風とのやり取りを重ね合わせてしまったのは仕方ないだろう。ただ冬華は、別に夏風には似ていない。もっと静かで、ドライな雰囲気がある。
結局読まないまま、一年間くらい借りっぱなしで、読みはじめたのが二回生の夏だった。
僕は二回生の夏までの間に、一度も帰省していなかった。特に帰りたい用事もなかったから、というのが、僕の本音だったのだが、それを口に出すと家族も良い顔をしないので、『アルバイトが忙しい』というのを理由に、帰省せずにいた。
僕が働いていたのは、二十四時間営業のディスカウントショップの夜勤だった。真面目な学生なら大学との両立を考えて、あまり選ばないのかもしれないが、行ったり行かなかったりを繰り返していた僕にとっては、時給の高さはかなりの魅力だった。
学校もバイトもない暑い夜、突然、電話が掛かってきた。国崎の名前が表示されている。
「もしもし」
『久し振りだな。生きてるか』
「なんとか」
『ということは、元気だな』
「なんで、そうなるんだよ」
『しかし、全然こっちに帰ってこないな。たまには帰ってこいよ。楽しいぞ』
国崎は大学には行かず、フリーターになった。佐野さんと同じ大学を受けたが落ちてしまい、別の大学を受けるのかな、と思っていたが、結局はどこの大学にも入らなかった。浪人生という選択肢も最初からなかったみたいだ。フリーターをしながら、正規で雇ってくれる職場を探しているらしい。僕が知っているのは、そこまでだ。あれから一年以上が経っている。
「もしかしたら帰ってきているかもしれないじゃないか。お前に連絡してないだけで」
『いや、日比野なら、俺に連絡があるはずだ』
その自信はどこから来るのだろう。まぁ合ってるけど。
「色々と忙しいんだよ。バイトとか学校か」
『まぁそうだよなぁ』と意外にも簡単に納得してくれた。『だからこうやって、電話したんだよ。色々こっちのことも聞きたいだろ』
「元気なようで何よりだよ。……今は何を?」
『俺か、工務店の営業をやっているよ。ベテランのひとの下について、色々教えてもらっている、まだ卵みたいなものだけど。……あと』
「あと?」
『前に冗談で言ってたやつ。覚えてるか分からないけど、小説を書きはじめてみたんだ。本当に、な』
「意外だ」
『若いうちは仕事一本に絞れよ、って昔気質のひとには怒られちゃいそうだけど』
「いいじゃないか。言いたいひとには言わせておけば」
『そうだな。あぁそうだ、水野さんが同じ会社で事務をやっているよ。驚くかもしれないけど、俺たち付き合いはじめたんだ』
「えっ、……っていうか佐野さんは」と聞いて、あっ聞いたらまずかったかな、と思った。
『そっか、言ってなかったか。別れたよ。中々遠距離恋愛、ってのも大変だよ。それに彼女は向こうで憧れの先輩と結ばれたらしい。それは喜ばしいことで、元カレとしては笑って送り出してやらないとな』
もしも夏風と僕が同じ状況に置かれたとしたら、僕はこうやって気持ち良く夏風の背中を押せるだろうか。いや無理かもしれない。そう考えて、僕は国崎の強さを感じた。そしてそのあとに罪の意識が襲ってくる。なんで僕は冬華ではなく、夏風で、その想像をしてしまったのだろう。
「色々と変わっていくんだね」
『そうだよ。世界は色々なところで、動いていく』
「僕はたまに、まだ止まったままのような気がするよ。アルバイトをして、学校に行ったり行かなかったりして、それだけ」
『彼女とかはできたか?』
「できたよ、一応」
『そうか、今はフリーじゃないのか。フリーなら、ひとり紹介してやろう、と思ったのに』冗談めかして、国崎が言う。『地元の国立大学に通っている才女なんだけど』
もちろん誰のことかは聞かなくても分かる。
「古傷を抉るなよ」
『俺はまだ古い傷になっているなんて思ってないところがあるんだけど、な』
「とっくになってるよ。もう二年も前の話なんだから」
『この間、駅で見掛けたけど、前よりも、おとなびて魅力的になってたぞ。特に彼氏がいるような雰囲気もなかったし』
「いるよ、きっと。知らないだけで」
仮にいなかったとしても、僕にはもうどうでもいい話だ。
『まぁ、それもそうか』
それ以上、国崎はこの話を広げようとはしなかった。たぶん僕の口調に冷たさが混じったことに気付いたからだろう。
「でも、久し振りに話せて良かったよ」
『でも、本当にたまには帰ってこいよ。たぶんお前はそう敢えて言わないと帰ってこない気がする』
否定はできなかった。
結局、僕が大学で過ごしている間に、地元に帰ったのは片手で数えるほどしかなかった。それもあんまりのんびりするような感じではなく、日帰りで顔だけ見せに帰って、すぐに関西へ戻ることもあった。帰省というものに、どこか気恥ずかしさ、というものを感じてしまうのだ。
ただその数回の帰省の中で、意外な再会もあって、それは僕にとって思いのほか、嬉しいことだった。
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