上 下
17 / 22
夏風夏鈴がそこにいない場所で

大学生活は、関西で

しおりを挟む
 レイコさんはボールを地面に置いて、僕の膝を軽く叩いた。「あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかる? そういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」――――『ノルウェイの森』村上春樹


 初めてセックスしたのは、大学二年の夏だった。
 その時、僕には冬華という名前の恋人がいたが、相手はそのひとではなかった。まったく別のひとつ年上の先輩で、その先輩は同じサークルに所属していた。スポーツ全般を気軽に楽しむサークルで真面目な雰囲気はひとつもなく、大抵どこかで何人かが飲み会をしているだけ、という会だった。実際、僕がそこで何らかのスポーツを楽しんだのは、最初の一ヶ月くらいだ。

 飲み会でそこにいた先輩と意気投合して、酔った勢いで、というやつだ。面白みも何もない。酩酊感の中で、あまり気持ちいいものではなかった、という記憶だけが残っている。あとで聞いたのだが、その先輩はサークルの複数の男性と関係を持っていて、結局、異性関係のトラブルで辞めてしまったらしい。僕がサークルを辞めたあとのことだ。タイミングが比較的近かったので、僕は周りから同情されてしまったのだが、別にその先輩とのことは関係ない。だってあの一回以外、会話さえほとんどなかったのだから。たまに僕が頭の中で描いた幻想なのではないか、と考えてしまう時がある。最初からそのうち辞めようと思っていて、タイミングがちょうど似た時期になってしまっただけだ。

 二番目の相手が、冬華だった。
 冬華との出会いは一回生の時にさかのぼる。僕がサークルのしつこい勧誘に遭っていて、その状況から救ってくれたのが、冬華だった。しつこい勧誘を僕に行ってきたサークルは、政治に対して熱い思想を持ったグループで、その熱さ自体には尊敬する気持ちがないわけでもなかったが、すくなくとも僕が惹かれるものではなかったし、何度断っても威すように勧誘を続けてくる姿は恐怖だった。僕はその時代を知らないのだが、一瞬、三十年くらい前にでもスリップしたのかな、と思ってしまうほどだ。

「ごめんなさい。このひと、私のサークルにもう入ってて、うちは掛け持ち禁止なんです」
 と僕が何度目かの勧誘を学内で受けている時に、庇ってくれたのが、冬華だった。

『古典文学研究会』に入っている、と彼らには言っていたが、それは嘘で、冬華はどこのサークルにも所属していなかった。

「ああいうのは、ちゃんと断らないと」
 と叱ってくれた冬華は、僕と同級生だった。もちろんそれで勧誘が終わったわけではなかったが、以来、何かと冬華と一緒にいることが多くなったからか、彼らの気勢はそがれて、尻すぼみになっていった。

 冬華が僕と同じ文学部だ、と知ったのはそのあとだ。
 と言っても、文学の「ぶ」の字も知らずに、なんとなく最近小説を読んでいるな、くらいの感覚で文学部を選んだ冬華と違って、彼女は本当に小説が好きで、ドン・デリーロやらポール・オースターやら、今まで一度も聞いたことのないような海外の作家ばかりを好んでいた。カフカとかヘミングウェイの名前がぎりぎり分かる僕とは大違いだ。

「最近、読んだ小説は?」
 と聞かれて、僕は読んだ小説のタイトルを挙げた。

「なんで、ヒロインが死ぬ小説ばっかりなの」
 と冬華が笑った。それは別に馬鹿にするような笑いではなく、心底、不思議そうだった。というかタイトルを挙げただけで、よく分かるな、とも思った。

「それなら、『ノルウェイの森』とかいいんじゃない」
 と冬華が貸してくれたのが、『ノルウェイの森』だった。そのやり取りにふと、かつての夏風とのやり取りを重ね合わせてしまったのは仕方ないだろう。ただ冬華は、別に夏風には似ていない。もっと静かで、ドライな雰囲気がある。

 結局読まないまま、一年間くらい借りっぱなしで、読みはじめたのが二回生の夏だった。

 僕は二回生の夏までの間に、一度も帰省していなかった。特に帰りたい用事もなかったから、というのが、僕の本音だったのだが、それを口に出すと家族も良い顔をしないので、『アルバイトが忙しい』というのを理由に、帰省せずにいた。

 僕が働いていたのは、二十四時間営業のディスカウントショップの夜勤だった。真面目な学生なら大学との両立を考えて、あまり選ばないのかもしれないが、行ったり行かなかったりを繰り返していた僕にとっては、時給の高さはかなりの魅力だった。

 学校もバイトもない暑い夜、突然、電話が掛かってきた。国崎の名前が表示されている。

「もしもし」
『久し振りだな。生きてるか』
「なんとか」
『ということは、元気だな』
「なんで、そうなるんだよ」
『しかし、全然こっちに帰ってこないな。たまには帰ってこいよ。楽しいぞ』
 国崎は大学には行かず、フリーターになった。佐野さんと同じ大学を受けたが落ちてしまい、別の大学を受けるのかな、と思っていたが、結局はどこの大学にも入らなかった。浪人生という選択肢も最初からなかったみたいだ。フリーターをしながら、正規で雇ってくれる職場を探しているらしい。僕が知っているのは、そこまでだ。あれから一年以上が経っている。

「もしかしたら帰ってきているかもしれないじゃないか。お前に連絡してないだけで」
『いや、日比野なら、俺に連絡があるはずだ』
 その自信はどこから来るのだろう。まぁ合ってるけど。

「色々と忙しいんだよ。バイトとか学校か」
『まぁそうだよなぁ』と意外にも簡単に納得してくれた。『だからこうやって、電話したんだよ。色々こっちのことも聞きたいだろ』
「元気なようで何よりだよ。……今は何を?」
『俺か、工務店の営業をやっているよ。ベテランのひとの下について、色々教えてもらっている、まだ卵みたいなものだけど。……あと』
「あと?」
『前に冗談で言ってたやつ。覚えてるか分からないけど、小説を書きはじめてみたんだ。本当に、な』
「意外だ」
『若いうちは仕事一本に絞れよ、って昔気質のひとには怒られちゃいそうだけど』
「いいじゃないか。言いたいひとには言わせておけば」
『そうだな。あぁそうだ、水野さんが同じ会社で事務をやっているよ。驚くかもしれないけど、俺たち付き合いはじめたんだ』
「えっ、……っていうか佐野さんは」と聞いて、あっ聞いたらまずかったかな、と思った。
『そっか、言ってなかったか。別れたよ。中々遠距離恋愛、ってのも大変だよ。それに彼女は向こうで憧れの先輩と結ばれたらしい。それは喜ばしいことで、元カレとしては笑って送り出してやらないとな』

 もしも夏風と僕が同じ状況に置かれたとしたら、僕はこうやって気持ち良く夏風の背中を押せるだろうか。いや無理かもしれない。そう考えて、僕は国崎の強さを感じた。そしてそのあとに罪の意識が襲ってくる。なんで僕は冬華ではなく、夏風で、その想像をしてしまったのだろう。

「色々と変わっていくんだね」
『そうだよ。世界は色々なところで、動いていく』
「僕はたまに、まだ止まったままのような気がするよ。アルバイトをして、学校に行ったり行かなかったりして、それだけ」
『彼女とかはできたか?』
「できたよ、一応」
『そうか、今はフリーじゃないのか。フリーなら、ひとり紹介してやろう、と思ったのに』冗談めかして、国崎が言う。『地元の国立大学に通っている才女なんだけど』
 もちろん誰のことかは聞かなくても分かる。

「古傷を抉るなよ」
『俺はまだ古い傷になっているなんて思ってないところがあるんだけど、な』
「とっくになってるよ。もう二年も前の話なんだから」
『この間、駅で見掛けたけど、前よりも、おとなびて魅力的になってたぞ。特に彼氏がいるような雰囲気もなかったし』
「いるよ、きっと。知らないだけで」
 仮にいなかったとしても、僕にはもうどうでもいい話だ。

『まぁ、それもそうか』
 それ以上、国崎はこの話を広げようとはしなかった。たぶん僕の口調に冷たさが混じったことに気付いたからだろう。

「でも、久し振りに話せて良かったよ」
『でも、本当にたまには帰ってこいよ。たぶんお前はそう敢えて言わないと帰ってこない気がする』

 否定はできなかった。

 結局、僕が大学で過ごしている間に、地元に帰ったのは片手で数えるほどしかなかった。それもあんまりのんびりするような感じではなく、日帰りで顔だけ見せに帰って、すぐに関西へ戻ることもあった。帰省というものに、どこか気恥ずかしさ、というものを感じてしまうのだ。

 ただその数回の帰省の中で、意外な再会もあって、それは僕にとって思いのほか、嬉しいことだった。

「あれ、日比野じゃないか」
 そう言って声を掛けてきたのは、五十嵐だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

校長先生の話が長い、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。 学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。 とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。 寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ? なぜ女子だけが前列に集められるのか? そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。 新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。 あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

処理中です...