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あれはうたかたの日々だったのか?

私たちは見えている世界が違う

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『うたかたの日々』は不思議な話だ。『日々の泡』という別のタイトルもあるが、僕個人としては、この『うたかたの日々』という、さらに儚くなった題が好きだ。今から七十年近く前に、フランスの作家ボリス・ヴィアンによって描かれた、幻想的な恋愛小説だ。分かりやすく内容を説明することが難しい、どこまでも不思議な世界観の中に、一途な恋があって、何よりも僕が印象的だったのは、治療のために、蘭やバラ、カーネーションや椿といった様々な花が、肺に睡蓮が巣食いはじめたクロエの周りを囲むシーンだ。

「儚い恋の日々、って感じだったよ」
 もっと語るべき言葉がありそうな気がするのに、その言葉が浮かんでこない。文句があるなら自分で読んでくれ、と言いたくなってしまうような作品だ。ただの素直なだけの僕の言葉に、夏風が満足そうに笑う。

 僕たちはいま学校の図書室にいる。水野とのあの会話があってから、四日が経っている。六月二十四日。今日は土曜日で、学校自体は休みで、土日でも開放されている図書室に、僕たちは来ていた。周りには、僕たち以外いない。僕たちの様子を司書の先生がめずらしそうに見ているくらいだから、土日も、ほとんど使う生徒はいないのだろう。

「ちゃんと読んでくれたんだ。実は途中で読むの、やめるんじゃないか、って思ってたんだ。だから、私はそれだけで嬉しい。〈大切なひと〉にすすめられて、初めて読んだ時から、私、この作品が気に入ってて。何度か読み返しているんだけど、簡単に、『分かる』って言っちゃいけない気がして、そこが好きなんだ」

 また、〈大切なひと〉だ。誰のことなんだろう。

「分かる。……って、あぁ、いや、作品が分かる、って意味じゃなくて、その感覚が」
「もちろん分かってるよ。ぱっと映像が浮かぶ言葉じゃなくて、読んだひとの数だけ、無数の映像が浮かびそうな感じ。なんだか読んでると、『絶対に尻尾は掴ませないぞ』って強い意志が聞こえてくるんだ。そういう作品、って好きなんだ」
 夏風が『うたかたの日々』の表紙を撫でる。

「確かに全然、尻尾は掴めなかった。なんとなく難しかったし」
「多分、私と日比野くんの脳で描いている絵はまったく違う、と思うんだ。私と日比野くんの見えている景色が、見えている世界が、まったく違うように。それを近付けたいような気もするし、遠ざけたい気もする」
「どういうこと?」
「さぁ」そう言って、夏風が意味ありげに笑う。「……さて、次の課題図書を考えないと。何にしようかなぁ。『うたかたの日々』はもう事前に決めてたけど、今回は何も考えてなかったな」
「って、まだ続くの」
「だって、夏の間は、って約束じゃない。夏は涼しい場所で、読書。暑い日差しを浴びて、爽やかに過ごす夏なんて、私たちには似合わないでしょ」

 何、当たり前のことを聞くのか、とでも言いたげだ。私たち、といつの間にか僕まで含まれている。

「結構、大変なんだよ。感想を考えるのも」
「感想に肩肘張りすぎなんだよ。どうせ私にしか聞かせない感想なんだから。まぁ、日比野くんがブログでもやりたいなら別だけど。書評ブログみたいなやつ。せっかくだから、やってみれば」
「絶対やらないよ。柄でもない」
「なんか、そう答えそうな気がした。……じゃあ、次はこれにしようか。これも、私の〈大切なひと〉が好きだった本で、この前も読んでたんだ。病室で」
 すこし寂し気な表情を浮かべて、夏風が言う。

「読書家なんだね……で、『風立ちぬ』?」
「うん。私の知っている中で、一番の活字中毒。つねに文字を追ってないと、我慢できないタイプなんだと思う。ずっと何か読んでる。飽きないのかな、って不思議になる時もあって。でも、なんでこう、もうすぐ死ぬ、って分かってるのに、こういう本ばかり読むんだろう。しかも結構楽しそうに読んでるし」

 はぁ、と彼女が息を吐く。
 なんと言葉を掛けてか分からず、返答に迷っていると、彼女が続ける。

「私だったら、絶対に嫌だな。こんな暗い共感なんて。病室では絶対に読みたくない」
「そうかな」と僕は返す。

〈大切なひと〉が誰なのか、僕はまったく知らない。聞く度胸もない。もしかしたら夏風自身のことを話しているんじゃないか、と勘繰っているところもある。ただそういったあれこれをいったん置いておいて、僕は〈大切なひと〉の気持ちに共感できる面があった。死に近付けば近付くほど、死を知りたい、とそんな感情になることだってある。特にいまよりも多感だった中学生の頃は。僕だけではなく、それを口に出すかどうかは別として、結構考えている奴は多かったはずだ。

『俺、人生は十八歳までで良いかな。それ以降はなんだか、惰性にしかならないような気がするんだ』

 中学三年の時、クラスメートにそんなことを言う奴がいた。卒業以来、一度も会っていない。確か桜花高校に入ったはずだ。あそこは県内で一番の進学校だ。彼はもうすぐ十八歳になるか、あるいはもうなっているはずだ。まだ生きているのだろうか、とふと思った。いや多分、生きているはずだし、仮に死んだら、僕の耳に入ってくるような気がする。ただもしかして、そんな暗い感情が脳裏を掠める。

「何、考え事?」
「あぁ、いや、ふと、中学の時の同級生について思い出してた」
「なんで。……でも、日比野くんの中学時代かぁ。いったい、どんな中学生だったの」
「普通の、っていうか、いまと変わらないよ。目立たない生徒Aだよ」
「Bじゃないんだ」
「もしかしたらCだったかもしれない」
「ということは、Dだね」
「どういう理屈だよ」僕は思わず笑ってしまった。「まぁ、そのどれでもいいんだけど、そういう中学生だよ」
「部活とか入ってなかったの」
「一瞬だけ、ブラスバンド部に入ってた」
「へぇ、意外。音楽とか興味なさそうなのに」

 夏風の言葉を聞いて、僕のどこに音楽に興味がなさそうな要因があるのだろうか、と不思議な気持ちになってしまった。でも、彼女の言葉は決して間違ってはいない。僕は音楽にそんなに興味もなくて、すぐに辞めてしまったからだ。元々入りたかったわけでもない。

「小学校の時からの友達で、ブラスバンド部に入りたがっていた男子がひとりいて、そいつに誘われたんだ。『頼む! 体験入部だけでもいいから一緒に来てくれ』って。ほら、男女比率が女子に偏ってるだろ。興味があっても中々、足は踏み入れづらかったんだと思う」
「へぇ」
「体験入部だけのつもりだったけど、そのままずるずると。断るのが苦手なんだ」例えばいまのたったふたりの読書会のように。これ自体は、そんなに嫌なわけじゃないから、僕自身、そんなに断りたいわけではない。「結局」
「三年間、やり遂げたんだ」
「いや、一年間だけ」
「日比野くん、っぽいね。あっ、ごめん。それはさすがに失礼だったね。でも、どうして辞めちゃったの。最後までやれば良かったのに。って、これも、ごめんね。たいして事情も知らないくせに」

 僕は、僕自身のことをあまり理解できていないので、どこが、っぽい、のかよく分からなかった。

「いや、全然たいした事情じゃないよ。ただ僕を誘ってくれたその友達のほうが先に辞めちゃって。半年くらいで。なんか悔しいから、そこから半年近くねばってみたけど、惰性で続けてる感じしかしなかったから。もういいや、って辞めたんだ」
「止められなかった?」
「止められた」
「それは断れるんだね」
「たぶん向こうも、女子ばっかりの環境って大変だろうなぁ、って思ってはくれたんじゃないかな。たぶん、だけど。だから、そんなに強引でもなかった。『もし良かったら、もうちょっと続けてよ』って優しい感じだった」
「そっか。なら、良かった。ちなみに私とのこの活動は、もし辞めるなんて言い出したら、強引に引き止めるつもりだから、途中で辞めるのは許さないよ」
 いつの間にか、活動になっている。彼女の表現に思わず笑ってしまう。

「……まぁ、とりあえずは続けるよ」
「ありがとう」と夏風が嬉しそうな表情を浮かべる。「そう言えば、水野さんのことだけど。日比野くん、仲良いの?」
「えっ」
「いや、この前、いきなり『仲良いんだね』って言われて。ほとんど話したことのない水野さんから、いきなり声を掛けられて、びっくりしちゃった」
「あぁ、えっと。水野は幼馴染なんだけど……」

 どう答えるか、僕は迷ってしまった。たぶん水野は嫌味のつもりで言ったのだろう。ただ普段、嫌味も言い慣れてないから、嫌味と受け取ってさえもらえなかったのだろう。感情を出すのも、話術も下手だから。特に僕のような付き合いの長い相手以外には。

「もしかして、好きなんじゃない。水野さん。日比野くんのこと」
 と夏風は勘違いして、さらに応援するよ、とまで言い出した。僕はこの場にいない水野に同情してしまった。

 昼過ぎに学校を出て、僕たちは別れる。
 家に帰ると、僕は夏風から渡された『風立ちぬ』を読みはじめて、そして途中で寝落ちしてしまった。

 僕は夢を見た。
 細かい内容は起きたと同時に忘れてしまった。だから漠然と一部が記憶の中に残っているだけだ。いまの夏風との日々が急に終わりを告げる。終わってしまったあとに、僕は途方に暮れてしまう。泡が弾けてしまって、僕はようやく気付く。この日々が続くことを、僕は願っていたのだ、と。まぁそういう夢だ。

 これは恥ずかしいので、もちろん誰にも言ってないのだが、起きた時、僕のほおに涙のつたった跡があった。

『風立ちぬ』の表紙を見ながら、
 正夢にならないといいな、と僕は祈りたいような気持ちになった。
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