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漫画家ですが、描きたいものは描けませんでした
しおりを挟む廊下に複数のドアが並んでいる。
どれが黒鷺の部屋だろう? どれか分からないけど、勝手にドアを開けるのは失礼よね。
そう考えた私はそのまま声をかけた。
「黒鷺君、雑炊できたよ!」
すぐ隣のドアが開いた。
隙間から見えた部屋の中は、足の踏み場もないほど、本と紙で埋め尽くされている。もしかして、私の部屋より酷い?
もう少し覗こうとしたら、隠すようにドアを閉められた。もう少し見たかったのに。
「材料がどこにあるか、分かりました?」
「あ、うん。あるもので適当に作ったから」
リビングに戻り、黒鷺が雑炊の前に座る。両手を合わせ、いただきます、と言ってから口をつけた。こういうところは礼儀正しい。
「ど、どう?」
自分が作った料理を食べてもらうのって結構、緊張する。
「……これ、味付けは何を使いました?」
「めんつゆ、だけど……美味しくなかった?」
黒鷺が驚いたように顔を上げる。
(ダメだった!?)
内心バクバクの私に、黒鷺が疑うように確認する。
「めんつゆだけ、ですか?」
「そ、そうよ」
「へぇ……」
黒鷺が黙々と食べる。手と口は止まらない。どうやら不味くはなかったらしい。
私はホッとしながら、テーブルに置いてあったネームを手に取った。
雑な線で描かれた漫画。顔は丸と目と髪型だけ。これだけでも、なんとなくキャラが分かるから不思議。
あとは、棒人間にセリフ、背景は簡単な絵と説明付き。
「これが、あの漫画になるんだぁ」
黒鷺が手を止める。
「汚くて、すみませんね。分からなかったら言ってください。説明しますので」
「違うのよ、ちゃんと分かるから。ただ、これがあの綺麗な絵になるのが凄いなぁ、と思って」
薄い茶色の目が丸くなる。
「綺麗?」
「うん。綺麗で、人の表情が豊かで、生き生きしてて。内容もとても分かりやすくて、驚いたもの」
「そ、そうですか」
黒鷺が再び黙々と食べ始める。でも、その顔はどこか嬉しそう。こういう素直なところは可愛いのよね。
私は黒鷺が雑炊を食べる姿を覗き見しながら、ネームに視線を落とした。
※※
完食した黒鷺が合掌する。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
空になった器に思わず笑みがこぼれる。綺麗に食べてもらえると嬉しい。
私が黒鷺の顔を見ると、プイッと横を向かれた。
「どうしたの?」
「べ、別になんでもないです。それより、ネームはどうでした?」
「あ、ちょっと気になったんだけど、ここの場面。この症状なら、CTの前にエコーをするかな。それと、こういう状況なら地域連携室に依頼して、他の病院と連携を……」
私の説明に黒鷺が頷く。
「……そうなんですね。ありがとうございます。参考になります」
「まあ、絶対っていうわけじゃないから」
「それでも実際の現場を参考にしたほうが、リアリティがあります」
「そう。ところで、リク医師は?」
「父さんは他県へ講演会に行ってます。そのあとは、その隣の県にある病院で手術をする予定ですので、しばらく不在です」
あれだけの腕の持ち主だから、いろんな病院で手術の依頼があるのは当然よね。本来だったら、手術をしてもらえるのは数年待ちだったのかもしれないし。
そのことを黒鷺に聞いてみたら、軽く否定された。
「手術スケジュールは、かなりの余裕をもって作っているので、一件増えたぐらい、なんでもないですよ。こちらとしては、もう少し真面目に仕事をしてほしいです」
「そうなんだ」
「なので、父さんが日本にいる間は、どんどん呼んで、こき使ってください」
「そういえば、漫画の監修をリク医師にしてもらったらダメなの?」
「父さんは家にいない方が多いですし、日本の病院に詳しいわけではないので」
黒鷺が器を持って立ち上がったので、私は慌てて止めた。
「片付けは私がするから、寝ていなさい」
「食洗機に入れるだけですし、これぐらっ!?」
器を持った黒鷺の手に私の手を重ねる。うん、熱っぽい。
「ほら、手が熱い。あ、顔も赤くなってきた。熱が上がってるんじゃない?」
「平気ですからっ! なんでもないです!」
「そう? でも、今日は寝ること。漫画の続きを描いたらダメよ」
私は取り上げた器をテーブルに置いた。
風邪は引き始めが肝心。さっさと休んで、さっさと治す。下手に長引かせると治りが悪くなる。
「ほら。自分の部屋に戻って寝る」
「いや、でも……」
私はどうにか黒鷺を部屋にまで押し込んだ。ここまで、ごねるなら仕方ない。少しだけ譲歩しよう。
「なら、ひと眠りしたら、漫画を描いてもいいから。とにかく、一回寝なさい。ほら、寝る、寝る」
「わかりましたよ。寝ます」
観念した黒鷺がベッドに入る。私は腰を下ろして頭を撫でた。
「えらい、えらい」
「……あの、子どもじゃないんですけど」
つい患児と同じ感覚で対応してしまった。この年齢で子ども扱いは、さすがにマズい。
「ごめん、ごめん。つい、ね」
「僕なんて子どもと変わらないんでしょうけど」
「いや。さすがに、それは……」
「別にいいですよ。気にしていませんから」
黒鷺が薄手の布団に潜り込む。いや、思いっきり気にしてるじゃない。でも、子ども扱いした私も悪い。
(これは、なんとかしなければ)
私は慌てて周囲を見た。足元に一枚の絵が落ちている。
「このドラゴンの絵だって、凄いじゃない。子どもには描けないわ」
「……」
「こっちの剣も。いろんなデザインがあるけど、全部カッコいい」
「……ますます子ども扱いされている気がするんですけど」
「やっぱり?」
布団から目だけを出した黒鷺に睨まれる。
だって、いつも子どもの相手ばかりだし、いざ大人の相手となると感覚が分からない。
そのことを正直に言うと、黒鷺は布団から顔を出した。
「職業病ですか?」
「そうかも」
「仕方がないので、お医者さんの言う通り寝ます」
「なんかトゲがある言い方ね」
「気のせいですよ」
私は憮然としながら、紙に描かれた絵に視線を落とした。
剣をかまえた青年。その背後には、翼を広げたドラゴン。
「でも、本当に綺麗だし、カッコイイ」
「そうですか?」
「そうよ。私だと、こんなの思いつかないもの」
「……本当はファンタジー漫画が描きたかったんです」
「え?」
視線をベッドに向けると、黒鷺は真っ直ぐ天井を見上げていた。諦めたような表情だけど、その目はどこか悔しそうで。
「始めはファンタジー漫画を描いていました。でも、たまたま描いた医療漫画のほうが受賞しちゃって。そのまま、連載することになったんです」
「そうなの……あの、ちょっと聞くんだけど、ファンタジーって魔法とか剣が出てくる話のこと?」
私の質問に黒鷺が吹き出した。
「本当に漫画を読まないんですね」
「興味がなかったから」
今度は私が拗ねて顔を逸らす。どうせ、私は無趣味人間ですよ。
「そこは、人それぞれですから。読まないのが悪いってわけではないです」
「でも、漫画も読まない面白くない女って言われたことがあるわ」
「それは相手の見る目がなかっただけですよ」
「え?」
黒鷺がふわりと笑う。
年下のはずなのに、見透かされているような、余裕を含んだ笑み。思わず胸が跳ねる。
「面白い人ですよ。ゆずりん先生は」
「だ、だから、柚鈴だって! いま……ワザと言ったわね?」
「どうでしょう?」
「もう! ……でも、黒鷺君が描いたファンタジー漫画なら、読んでみたいかも」
「え?」
私はもう一度、絵を見た。
描いた本人は生意気だけど、絵は魅力的で惹きつけられる。
「この絵が、どう漫画になるのか。どういう話になるのか。気になるし、読んでみたいわ」
「……気が向いたら描きます」
「待ってる」
私は床に散乱している絵を集め、机に置いた。机にはパソコンとキーボードと、なんかの板とペンがある。あとはマグカップが一つ。
これで、どうやって漫画を描いているのだろう?
素朴な疑問は置いといて、今必要な質問を黒鷺にした。
「食器は食洗機に入れたらいい?」
「はい。あ、使った鍋とか包丁も入れてください」
「じゃあ、やっておくから寝てて。私はそれをしたら帰る……って、鍵をどうやって閉めよう……」
「そうでした」
黒鷺が起き上がり、机の引き出しから鍵を取り出すと、無造作に渡してきた。
「これ、家の合鍵です。しばらくは監修をしてもらうようになるので、持っていてください。来るたびにチャイムを鳴らされて出るのは面倒なので」
喧嘩を売るような言い方だけど、顔を見れば照れ隠しだと分かる。その証拠に、恥ずかしそうにそそくさとベッドに潜った。
口はひねくれているけど、根は悪くないのよね。
「わかったわ。じゃあ、ちゃんと寝るのよ」
廊下に出た私は、右手の中を見た。そこには、キーホルダーもなにも付いていない、シンプルな鍵が一つ。だけど、なんかちょっと嬉しい。
「それだけ信用されてるってことよね。さぁて、片付け、片付け」
私は軽い足取りで階段を下りた。
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