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味噌汁ですが、違う味がしました
しおりを挟む走った私は、先を歩く蒼井に追いついた。
渋いオレンジ色のTシャツに、黒の細身のストレートパンツという、着る人を選びそうな服装。でも、このイケメンは、ちゃんと着こなせているから凄い。
蒼井が興味深げに訊ねる。
「さっきの誰だ? 小児科の患者にしては、大きくないか?」
「あれぐらいの年齢の患児もいるわよ。初診が中学生で、そのまま継続治療してる場合とか。今のは違うけど」
「あぁ、そういう場合もあるな。で、誰なんだ?」
珍しく食いついてくる。普段ならサラッと流すのに。
「リク医師の息子さん」
「へぇ。なんで、リク医師の息子と一緒にいたんだ?」
「それは……」
私は言葉に詰まった。泥酔してお世話になったなんて、恥さらしなこと言えない。こんな私でも、職場ではプライドを保ちたい。
私がどう答えるか悩んでいると、蒼井がニヤリと笑った。
「ゆずり先生に春が来たかと思ったが、違ったか」
「だから、柚鈴だって。ん? 春?」
「そういう話題が、さっぱりだからさ。けど、その様子なら違うな」
「年中春の誰かさんと比べたら、誰だって少ないですよ」
実際に少ないけど! でも、そこはデリケートな問題なので、ほっといてほしい!
内心怒ってる私に、蒼井は心外そうな顔をした。
「そんなに春してないぞ。今だってフリーだし」
「泥沼三角関係は解決したの? あれ? 四角関係だっけ?」
「なんで知っているんだ!? それは、この職場に来る前の話だろ!?」
「なんででしょう~?」
私の軽口に蒼井が苦い顔で唸る。
「うーん……あ、谷か! あいつがチクったな!」
「正解。この前、小児科学会があってね。たまたま顔を合わせて、そこで聞いたの」
「クソッ。今度会ったらシメる。それに、あれは若気の至りっていうんだ! 今はフリーだから!」
一生懸命弁明する蒼井に私は思わず笑った。
「なんで、そんなに必死になってるの? それに今だって若いじゃない」
「そうでもないぞ。人生設計について考えないといけない頃だ」
「あら、結婚でも考えてるの?」
「そうだな。次に付き合う相手は、それも視野に入れる」
真面目な回答に私は驚いて蒼井の顔を見た。なに!? 明日は塩サバでも降るの!? それとも……
「腐ったものでも食べた!?」
「おまっ、かなり酷いことを言ったな」
「だって、事実だし」
「おまえなぁ。そういうことを平然と言うところだぞ」
「なにが?」
首を傾げる私を蒼井が見下ろす。黒鷺といい、蒼井といい、なんでみんな背が高いのだろう。私だって、低くないのに。
不満を抱えて見上げると、蒼井が思いもよらないことを言った。
「見た目は良いのに、相手がいないところ」
「私は平凡よ?」
「はい、はい。じゃ、オレは先に病棟に顔を出すから」
「むー」
蒼井がヒラヒラと手を振りながら歩いていく。軽くあしらわれたみたいで気分が悪い。
私は不機嫌な顔のまま、医局に荷物を置いて外来へ向かった。
※※
午前の診察を順調にこなしていく。その途中、処置室の看護師に呼ばれた。
「柚鈴先生、お願いがあるのですが……」
「ちょっと待って」
ゆずりん、ではなく柚鈴と呼ばれる時は、必ず何かある。
私はさっき診察した子どもの処方箋をパソコンに入力して、立ち上がった。
処置室から聞こえる大きな泣き声。看護師が数人がかりで男の子の腕を押さえていた。
でも、それを振りほどく勢いで暴れる男の子。その前で注射針を持って佇む看護師。
(はい、わかりました)
この状況だと危なくて採血が出来ない。だから、私が呼ばれた。
私を呼んだ看護師が隣に来る。
「いつもの、お願いします」
「分かったわ。この子の名前は?」
「直斗君です」
「直斗君ね」
私は泣きわめく直斗に近づいた。四歳ぐらいだろうか。さりげなく両手をポケットに入れる。
「なっおとくーん」
私の声にチラッと反応する。私はその瞬間を見逃さず、右手をポケットから出した。人差し指と中指の間に、青い車がある。
「直斗君は、何色の車が好きかな?」
私が軽く手を振る。すると、指の間にあった車が赤に変わった。そのことに気づいた直斗の動きが止まる。
よし、いい感じ。
「何色の車がいい?」
再び手を振る。今度は青、赤、黄色の車が指の間に現れた。直斗の涙が止まり、ポカンとこちらを見ている。
あと、もう一息。
「さぁて、次は何色の車が出てくるかなぁ?」
「緑!」
押さえられている状況を忘れ、元気な声が返ってきた。
よし! つれた!
「じゃあ、緑の車が出てくるか、よぉーく見ているんだよ?」
「うん!」
こちらに気を取られているうちに、他の看護師が直斗の腕に針を刺す。直斗が痛みに身をよじる。
「やだぁ!」
やっぱり泣くよね。私は注意を引くように、大きく手を振った。指の間に緑の車が現れる。
「すごぉーい! あたったよ! 緑の車だ」
大げさに驚くと、直斗の意識がこちらに戻った。
よし、よし。予防接種に比べたら、痛いのは針を刺した時だけ。あとは、再びこっちに意識を向けさせれば……
「次は何色かな? 黒かな、白かな、オレンジかな?」
「白!」
「どうかなぁ……何色かなぁ……」
私は採血の量を見ながら焦らす。あと少しで必要量が取れる。
……よし、取れた!
私は手を振った。
「白でした!」
「やったぁ!」
喜ぶ直斗の腕から注射針が抜かれる。素早く絆創膏を貼って終了。私は直斗の短い髪を撫でた。
数種類のシールを直斗の前に出す。
「注射を頑張った子には、ご褒美のシールをプレゼント。どれがいい?」
「電車!」
直斗は迷うことなく電車のシールを取った。車じゃないのね……
「ありがと!」
手を振り母親とともに処置室から出て行く。私も手を振って見送ると、看護師が声をかけてきた。
「ありがとうございます。助かりました」
「じゃあ、診察に戻るわね」
「はい」
これもいつものこと。診察室に戻ろうとしたら、話し声か聞こえた。
「さすが、ゆずりん先生よね」
「あの手品は助かるわ」
「子どもたちは夢中になるから、その間に処置ができるのよね」
ヒソヒソ声だけど、ばっちり聞こえている。助かると思うなら、みんな手品をすればいいのに。
そんなことを考えながら、私は次の患者を呼んだ。
※※
午後からは病棟へ。
パソコンで担当患児のバイタルサイン(体温、血圧、脈、呼吸など)や症状を確認。あと、病棟看護師から報告を聞いて病室へ。
四人部屋に入ると、ベッドを仕切っているカーテンに赤いシミが見えた。しかも、現在進行形でそのシミが増えている。
「まさか!?」
私は慌ててカーテンを開けた。
そこには、点滴のチューブをカウボーイのロープのごとく振り回している、十か月の赤ん坊。しかも、接続部が外れているため、血液が逆流しており、そこから血が飛び散っている。
私は即座に赤ん坊が振り回している点滴チューブの先側を折り曲げた。これ以上、血が飛び散らないようにして、ナースコールを押す。
『どうされました?』
「アルコール綿を持ってきて」
『え?』
「点滴の接続部を外しているの。シーツとカーテンが、血だらけだから」
『わかりました!』
すぐに手袋をした看護師がやってきた。
傷害事件でもあったかのような惨事に看護師が苦笑いする。まぁ、そうなるわね。慣れてるけど。
そこに赤ん坊の母親が帰ってきた。
「佳那ちゃん!?」
血だらけで笑う我が子を見たら、とりあえず叫ぶよね。
私は点滴の処理を看護師に任せて、母親に説明した。
「点滴の接続を外したことで、血が逆流して飛び散っただけです」
「すみません。寝たから大丈夫と思って、少しトイレに……まさか、こんなことになるなんて」
母親が必死に頭を下げる。あぁ、もうそんなに頭を下げないでほしい。
「気にしないでください。よくあることなので」
「ですが……」
「本当に気にしないでください。子どもは目を離した時に、イタズラをするものですから。それに、イタズラするだけの元気が出てきたってことですよ」
入院してきた時は小腸の一部が詰まっていて、飲めず食べれず。しかも、痛みで定期的に泣き叫んでいた。
それが、点滴の接続部を止めているテープを剥いで、笑顔で振り回すまでに……
うん、早く退院ができるように検査の日程を繰り上げよう。
点滴を繋ぎ直し、血を拭き取った看護師が母親に声をかける。
「お母さん、佳那ちゃんの着替えありますか?」
「はい」
これから床の掃除と、シーツとカーテンの交換と……私がここにいても邪魔になるだけ。
「また後で来ますね」
私は次の病室へ移動した。
※※
「はぁー、疲れた」
陽がどっぷりと沈んでから家に帰った私は、ソファーで体を伸ばした。
あれから、家族への病状説明やら、カンファレンスやら、急患の診察やら。
その合間に、静香へ栄養療法の本と、その治療をしている病院をメールで教えた。あとは静香次第。
いろいろ疲れたけど……
「でも、今日は癒しのコレがあるもんね」
帰りのコンビニで買ったインスタントの味噌汁。ポットから湯を注ぐと、味噌が溶けて具のワカメが浮かんだ。
「いっただっきまーす!」
ズズッと味噌汁を啜る。
「………………あれ?」
味噌の味がするし、誰が食べても立派な味噌汁。
でも、違う。
黒鷺の味噌汁は全身に染みる美味しさがあって、疲れが抜けるような感じがした。けど、この味噌汁には、それがない。
「どうしてかしら?」
私は一人、首を傾げた。
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