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未知の知はつらいよ(´;ω;`)ウッ…

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 翌日の月曜日、ツバサは遅刻しそうになって、懸命に校門めがけて駆けた。
 昨夜、久しぶりの母の帰郷で、父子そろって|律子のもてなしに夜ふかししてしまった。
『あんた、変わったわね』
 開口一番、律子はそれだけ翼に言うと、あとはことばを濁して微笑んだだけだ。

『かあさんが勤めていた会社を買収したやつら……もしかして、片岡グループも狙っているのかなあ?』

 突然、そんなことを切り出したツバサの顔を喰い入るように見つめた律子は、
『その噂、聴いたことがあるけど、あのK財閥をそっくり買収する話じゃないとおもうわよ』
と、答えた。
 まさかツバサが、M&Aのことに関心を持っているなど、律子には驚き以外のなにものでもなかったようだった。隣で幸雄はにんまりとしている。
『……翼は、最近、片岡財閥の御曹司とつるんでいるらしいんだ』
 ぼそりと言った幸雄のことばに、律子はさらに驚いて、目を見張った。

『あら、そうなの……でも、あそこのグループ会社すべてが買収の対象となっているわけじゃないみたいよ。もともと、いまの社長のお父さんの時代から、多くの会社を傘下さんかに組み入れてきたから、ちょうどいまの時期は、スクラップ・アンド・ビルドが必要なんじゃないかしら?』
『スクラップ……?』
『ま、いらないものはスクラップにして、売り払い、これからの成長に必要なものを残すってことかしら。ごく簡単に言えばね』

 それから律子は、競争優位とか、収益モデルの再構築……といった経営用語をわかりやすくツバサに説明しだした。まさか、ひさしぶりに家に戻ってきた途端、息子に経済や経営についての話を披露するはめになるとは考えもしていなかったようだ。
 ふんふんと黙って聴きながら、ツバサはすこぶる興味を持った。なにか読む本を貸してほしい……とツバサが言ったとき、驚きながらも律子は嬉しげに幸雄を見やって、目配せをした。どうやら、この二親りょうしんはツバサの内面のちょっとした変化を微笑ましくおもったようである。
 そんなことは露知らず、ツバサは、
(イサムのやつも父親の会社のことで大変なんだ……さしずめ、どの部門を売って、どれを残そうかと悩んでいるんだろうなあ)
と、そんなことを考えていた。
 律子は市長杯の弁論の内容についても、県大会の寸芸だしものについても何もたずねようとはしなかった。
 関心が無かったのではなく、へんなプレッシャーを与えてはいけないといった親心であったろう。ツバサにもそんな母の心持ちが伝わってきて、また、父との約束もあって、いま、必死で練習している内容についてもあまり詳しくは告げなかった。

 ……そんなこんなで月曜日早々に遅刻しそうになったのだ。
 駆けていくツバサのうしろから、誰かが追いかけてきていた。
 一人ではない。
 複数の……というべきか、老若男女の群れが、ツバサを追っかけながら、わいわいガヤガヤとはしゃぎながら、まるでお祭り騒ぎのような喧騒である。

(ええっ……? ど、どういうこと?)

 そうおもったツバサだが、どういうこともこういうこともない、かれのチョンマゲを一目見ようと群がってきているのだ。なかには、駆けながら翼に向かって両手を合わせて拝んでいる年配者もいたほどである。

(ひゃあ、な、なんでこうなる?)

 結局、ツバサは遅刻してしまい、閉まった正門から中に入れず、顔見知りの用務員から手招きされて側門から中へ入れてもらった。

「大変だね、そりゃ、惚れ惚れするチョンマゲ、なにか御利益があるかも……と、みんな、拝みたいんじゃよ」

 そんなふうに用務員から讃えられて、よけいにツバサは気恥ずかしくなった。

「ま、これも、一種の有名税みたいなもんだな」

 そんなことを言われると、かえって返答のしようもない。そのまま教室には入らず、一時限目はパスすることにして、ツバサはひとまず植栽園で時間を潰すことにした。
 すると、そこにも待ち構えていた女子がいた。
「あ……!」
 互いに驚いた。
 とすれば、どうやらツバサを待っていたのではなかったようだ。
「あ、きみは……!」
 相手の女子生徒には見覚えがあった。前に、かれのことを、鋭く睨んだ女子だ。ルイの友だちの一人だろう。
「あ、大野さん」
「この前会ったね……」
「あ、ごめんなさい。私たち、か、勘違いしていたの」
 というが、そこに居たのはたった一人。
「日向……さんの、友だちだね」
 急にツバサの口調が柔らかくなった。

「まだ、会えていないんだ。彼女と話したいことがあって……」
「あ、ルイも同じこと言っていました。謝りたいので、お手紙を書くって。あの、住所教えてくれませんか? ルイに渡しておきます」
「あ、そう」

 カバンからメモを取り出し、書いてからツバサはそれを千切って手渡した。

「日向さん……大丈夫なのかなあ。病院には行ったけど、結局、会えなくって……」
「ええ、いまはもう、大丈夫。一時期、大変だったんです。盲腸で入院して、でも、子宮の……」
「えっ……?」
「なんかややここしいものが見つかって、放っておいたら子どもが産めないからだになるって……」
「ええっ?」
「いえ、手術が成功したので、もう大丈夫なんです。でも、あのとき、ルイ、突然のことで、悩んで苦しんで……だから、この街に越してきた小学生の頃、同じクラスになった、大野さんのこと、ずっと気になっていたみたいなんですけど、ほら、大野さん、チョンマゲになって、見違えるようになっちゃって、だんだん遠い人になってしまうという不安と、病気の不安が重なって、ルイ、つい、大野さんと付き合って妊娠した……みたいな妄想を口にしてしまったようで……」
「はあ……」
「そ、それを真に受けて、わたしたちも、大野さんのことを睨んで……」

 しどろもどろになりながらも、きちんと説明してくれたおかげて、ようやく、ツバサにも事の背景が漠然ながらも呑み込めてきた。

「そうだったんだ……でも、、まずは、よかった」
 ツバサはそう告げ、さらに冗談めかして、
「あのと結託して、おれを大会に出さないように裏で画策しているんだと、勘違いしてたんだぞ」
と、続けた。
 ところが、それはジョークとして相手に通じなかったようで、
「ひゃ、そ、そんなことは……そんなことをするルイじゃないです。本当です」
と、今にも泣きそうになってしまった。

「いや冗談だよ、冗談」
 慌ててツバサは弁解した。

「お詫びのしるしに、わたしたち、最後まで応援しますから」
「あ、それは……ありがと」
「わたし、宮本といいます。宮本智恵……」
「あ、おれ、大野翼……」

 いまさら自己紹介するまでもないのに、ツバサはそう言ってしまってから、ハハハと声を立てて笑った。世の中には笑ってごまかすことも、煙にまくこともたまには必要だ。最近、ツバサはそんなふうにおもえるようになっていた。
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