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新 生 (五)

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 一日に二度、兵太郎からの報せがあった。小太郎が佐助の一行を見い出し、佐助と弥右衛門は優華姫とともに無事でいるらしいことも知った。
 そのことを聴いても、飛び上がるほどの嬉しさはこみあげてこなかった。人というのは、本当に身勝手なもので、一方に母のことが頭にあると、他方を同列に置いて考えることはできないものだ。
 それは、わたしの経験のなさということかもしれないけれど、もう何年も会っていない母のことを考えようとしているのは、いままで母のことをなおざりにしてきた罪滅ぼしのようなものであったかもしれない。


 六月になって、さらなる衝撃が襲ってきた。 
 ことは母だけでなく、兄信康の生死にまで関わることであった。

「一大事でござる!」

 昂奮した四郎次郎どのが、すべてを告げてくれた。一連の異変の背後には、やはり、あの織田信長様がおられたようであった。

 順序立ててしるしておこう。
 今年になって、なぜか母に対する毀誉褒貶きよほうへんの噂がし返され、さらにまた、あらたな噂が囁かれ出し、それには、いつかの噂〈岡崎三郎信康は今川氏真の子〉といったようなことまでも含まれていたらしい。
 父は、側近の本多正信、石川数正さまらとはかって、事態の収拾をはかろうとしたのだ。それが、ひとまず母を軟禁することであったらしかった。外部との接触を絶つことで、母におもねる輩たちから母を遠ざけることで様子見をしていたらしいのだけれど、同じ頃、兄嫁、すなわち信長様の娘徳姫さまが、岐阜の信長様に書状を書き送ったのだという。
 それには近況を報せるついでに、母築山殿のことや、それにまつわる噂、さらには、頻繁に、武田勝頼さまから進物が届くこと、兄信康が舞台の観覧中に踊り女を弓で射殺したことなどが延々と書きつらねてあったらしい。
  ……書状を読んだ信長様は、徳川家の重臣おとな酒井忠次さまを呼び寄せ、一つひとつ詰問されたという。それについて、おういなと答えながらも、あらましは真実だと忠次さまが認めたことで、ついに信長様が、
『信康に腹を切らせよ!』
と、命じたということであった。

「ま、まさか、若君までをも亡き者にせんとは……」

 四郎次郎どのの目は血走り、憤っていた。徳川家中でも、親織田派の筆頭格の一人であったかれですら、このときは、信長め!と舌を鳴らし、地団駄じだんだを踏んでいた。
 装っているふうではなく、憤りの矛先を向ける相手がわからずといった、憤懣やるせないていであった。信長様のことを呼び捨てていることからも、かれの胸中は察せられた。

「……築山殿と徳姫様は、仲は良くもござらぬが、そう悪くもなかった。もとより、嫁と姑のいさかいごとぐらいはあったやもしれぬが、どちらも気位きぐらいのお高い方ゆえに、積もり積もったものが、突如として噴出したのかもしれぬ」

 そんなことを云っていたかとおもうと、すぐに怒りの矛先は、酒井さまに向けられた。

「酒井といえば、徳川家の重鎮中の重鎮ぞ!それが、いともたやすく、信長にしてやられるとは、何たる無様ぶざまさ!何のための老臣ぞ!その場でおのが腹をかっさばいて、すべての責めを負えば、それで事済んだこと!酒井忠次は、織田の直臣じきしんになりおったのか!」

 さらには、こんなことまで罵る始末だった。

「……信長は、嫉妬してござるのよ。おのが息子たちは、出来の悪い阿呆揃い。それに比して、岡崎信康君は、武勇武略に秀で、摩利支天にも似たるお方ゆえ、いずれは、信康君の前に、息子たちはひれ伏すことになるかもしれぬと、うらやんでござるのよ」

 次々に耳に届く四郎次郎どのの言葉は、それなりに余人をして説得させるなにものかがあったけれど、わたしは、母の報せを聴いたときほど取り乱しはしていなかった。むしろ頭の中は冴えに冴えていた。武田方への内通というのは、後付けの理由にしかすぎないとおもえてきた。
 わたしは考え、推測してみた。
 なぜ、いま、この時期なのか。
 かくのごとき異変が、なにゆえに今、徳川の家にもたらされなければならないのか。
 安土城の天守閣が成って、まだ間もないという今……。
 ハッとある一点に気づいた。さきほどの〈織田の直臣になりおったか〉ということばも、大きな手掛かりとなった。

「三郎あにさまは?いえ、信康どのは、いま、どうされておられるのですか」
 
 あまりにも冷静な物云いが、さらに四郎次郎どのを驚かせたらしい。
 喰い入るようにわたしを見つめ、地団駄を踏むのを止めて、座り直した。

「若殿は、岡崎の城で謹慎されてござるとのこと」 
「ならば、大丈夫です。まだ、なんとかなりましょう」
「なんとかなると?姫、お気を確かにお持ちなされませ」
「狂ってなぞおりませぬ。いま、ひらめいたことがございます。信長様は、試しておられるのですよ、安土の天守閣が成り、岐阜から移られた信長様は〈これまでの信長にあらず〉ということを、徳川家中に、いや、ちちさまへ、問いかけておられるのだとおもいます」
「これまでの信長にあらず、とは?」
「はい。兄嫁の徳姫様も、おそらくは、信長様にはふみなど送ってはいないのでしょう。すべては、信長様のなぞかけなのですよ。これまでとは違い、これからは〈徳川家康は同盟者にあらず、の臣下たるべし!〉と、そう主張したいのではないでしょうか。つまりは、父さまと重臣たちがこぞって安土へ伺候しこうし、身を低くして信長様に臣下の礼をとれば、やがて兄の謹慎もきっとかれましょう」

 これは思いつきではなく、心底、そうに違いあるまいとおもっていた。
 そのとき四郎次郎どのは、なにか物の怪をみたような顔つきになり、なにかを云いかけては口をつぐみ、何度も吐息を洩らした。

「なるほど、〈これまでの予にあらず〉とな。そうかもしれませぬなあ。姫よ、よくぞ、お気づきあそばされた!目の前に、光明がともりましたぞ……云われてみれば、まさしく、仰せのとおりでござる。ただ、浜松と岡崎に、そこまで思案できる器量人がおりますかどうか、早速、使いをはしらせようぞ。いやわしが直接浜松まで赴きましょう」
「私も参ります。屋敷内を出るなとの厳命でしたけれど、岡崎まで帰り、久しぶりに、母と兄に会うて、じっくり話してみとうなりました」

 瞬息、茶屋四郎次郎どのは動揺したが、火急のときとばかり、同行を許してくれた。わたしは、兵太郎に《先に、桑名、または安祥の陣屋にて待つ》と使者を走らせた翌朝、亀屋の屋敷をあとにした。
 休賀斎の老公、安土にいる詞葉、笹宛の書状を茶屋衆の使い番に託した。
 神立衆、筒井衆と、弥右衛門の家来衆を含めても供は二十人足らずであったけれど、茶屋衆に劣らず早足はやあしの者たちばかりで、わたしと巣鴨は一緒に馬に乗った。
 
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