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新 生
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酒の酔いから覚めかけたとき、こんどは別の酔いがわたしを苛んだ。
やわらいだ頭痛のあとには、吐き気と腰痛が同時に襲ってきた。目をあけると腫れた瞼が膿んでいるかのように重く、鼻腔の奥にも、なにか吹き出物ができている感触があった。
鼻の穴に指をいれると血がついている。
前夜の記憶はほとんどないのだけれど、誰か、そう、複数の人間と地酒を飲んでいたらしいことだけは、かろうじて記憶のなかに留まっていた。
目の前に小さな川が流れている。
どこのなんという名なのか、まったく記憶がなかった。
薄闇のなかに、川面に薄く翳った月の輪郭がぼんやりと浮かんでは沈んでいた。風が川面に吹きつけているからだ。汚物の臭いが草の間から立ちのぼっている。
ここは、一体、どこなのだろう。
わたしは、どこにいるのだろう。
そんなことをおぼろに考えながら、重たい頭を、両の掌で抱えた。快楽の余韻だけが、深く鋭く、わたしのからだに刻み込まれていた。
一体どこの誰とまぐわったというのだろう。
舌の上がザラザラしているのは、なにも感覚的なものではない。土が混じっていたのだ。寝ている間に、なにかを詰め込められたのだろうか。わたしの隣にいた男が、ふらりと立ち上がったが、股の筋肉に激痛が走ったのだろうか、前のめりに倒れた。
「だ、誰?わたしに、なにをしたの?」
「・・・・・・・・」
「こっちを見て!誰なの?」
わたしは男の肩をつかんだ。湿地に身を潜め、こちらの様子をじっと窺っていたらしい。
「亀どのには、どうやら酒乱の気がありますな!」
「あっ!こ、こ、小太郎っ!」
こめかみがずきんと疼いた。鈍い痛みが走った。喉の奥がひりひりと焼けるようだった。
「げ、元気だったの?」
「だから、夕べ・・・・」
北嵯峨の大覚寺、清涼寺の奥山は、竹林の翳りに薄光る小道が縦横にひろがっている。少しずつ思い出してきた。
そこは、柊庵の裏手だった。
芦名兵太郎から《小太郎を癒してやれ》と頼まれたのだ。
そうして……やはり、わたしは、まぐわったらしいのだ。
「へ、兵太郎さまは、どこ?てっきり死んだとばかりおもっていたのに、生きていたのね」
ようやく芦名兵太郎が死んではいなかったことを知ったときの衝撃の強さを思い出した。たぶん、いつかのように気を失いかけたのだ。それにしてもわたしはよく気を失いかけるものだ。動揺するたびに卒倒しかけるのは、ほんとうに恥ずかしいかぎりだ。
「兵太郎さまは生きていた……そうですね、そうなのですね」
同じことをなんど問いかけても、小太郎は視線をはずして俯いていた。剃髪したと聴いていたけれど、剃りはなく、髷をもどして切り、髪の毛を短く刈り揃えていた。
その見慣れぬ僧貌に、以前、新城にいた頃とはまったく別人の小太郎がいた。
ようやくおぼろげに昨夜のことを思い出しつたあった。
……わたしが兵太郎から頼まれたのは、なんのことはない、小太郎はまだ女人をしらないし、痺れのために男根も屹立しないようだから、癒してやってほしいということだった。
先の海戦で法衣の上に鎧をつけて、小太郎は参陣したという。ところが酷い敗戦で、船から落ちて、三日三晩も海中を板切れにつかまったままさまよっていたらしい。おそらく、海に落ちた小太郎を、兵太郎と間違えて、《芦名兵太郎、死す》の報が駆け巡ったのだろう。
小太郎は半身が麻痺したまま、柊庵で養生をしていたのだ。
兵太郎から、《おまえにしかできぬ、お亀、頼む!》と何度も請われたとき、一体、わたしはどんな顔つきになっていたろうか。
兵太郎が死んでいなかったことへの嬉しさや小太郎と再会できた懐かしさや、遠からず信長と対決して処罰されてしまうかもしれないという緊張と怖ろしさなどが、それこそ一緒くたになって、地酒を浴びるように飲み、笑い、喋り、それから小太郎と二人で竹林の小径を抜けてきたのだ……。
そのあとのことは、実ははっきりとはおぼえていない。
けれど、信長様に打ち首にされるおのれの姿を想像し、どこかで怯え、おののき、そういった感情を打ち払うようにわたしのほうから小太郎にむしゃぶりつき、喚き、人肌のぬくもりを感じ、小太郎をわたしの内へ迎え入れたような気がする。
……いやむしろ癒してもらったのは、こちらのほうであったかもしれない。
「新城にいた頃から、はや三年近くが経った……刻というものは決して立ち往生することはないのだな」
ぼそりと小太郎が呟いた。
「立ち往生してほしいと?」
「留まることはないと知りながらも、ときには、もそっと、ゆるやかに流れてほしいと願わずにはおられぬこともある」
「さようですか……」
それだけ云うのが精一杯で、留まることができるのならば、さびたる遊山と讃えられたこの地で、小太郎としずかに愉しく過ごすことができればとおもわぬこともなかった。
やわらいだ頭痛のあとには、吐き気と腰痛が同時に襲ってきた。目をあけると腫れた瞼が膿んでいるかのように重く、鼻腔の奥にも、なにか吹き出物ができている感触があった。
鼻の穴に指をいれると血がついている。
前夜の記憶はほとんどないのだけれど、誰か、そう、複数の人間と地酒を飲んでいたらしいことだけは、かろうじて記憶のなかに留まっていた。
目の前に小さな川が流れている。
どこのなんという名なのか、まったく記憶がなかった。
薄闇のなかに、川面に薄く翳った月の輪郭がぼんやりと浮かんでは沈んでいた。風が川面に吹きつけているからだ。汚物の臭いが草の間から立ちのぼっている。
ここは、一体、どこなのだろう。
わたしは、どこにいるのだろう。
そんなことをおぼろに考えながら、重たい頭を、両の掌で抱えた。快楽の余韻だけが、深く鋭く、わたしのからだに刻み込まれていた。
一体どこの誰とまぐわったというのだろう。
舌の上がザラザラしているのは、なにも感覚的なものではない。土が混じっていたのだ。寝ている間に、なにかを詰め込められたのだろうか。わたしの隣にいた男が、ふらりと立ち上がったが、股の筋肉に激痛が走ったのだろうか、前のめりに倒れた。
「だ、誰?わたしに、なにをしたの?」
「・・・・・・・・」
「こっちを見て!誰なの?」
わたしは男の肩をつかんだ。湿地に身を潜め、こちらの様子をじっと窺っていたらしい。
「亀どのには、どうやら酒乱の気がありますな!」
「あっ!こ、こ、小太郎っ!」
こめかみがずきんと疼いた。鈍い痛みが走った。喉の奥がひりひりと焼けるようだった。
「げ、元気だったの?」
「だから、夕べ・・・・」
北嵯峨の大覚寺、清涼寺の奥山は、竹林の翳りに薄光る小道が縦横にひろがっている。少しずつ思い出してきた。
そこは、柊庵の裏手だった。
芦名兵太郎から《小太郎を癒してやれ》と頼まれたのだ。
そうして……やはり、わたしは、まぐわったらしいのだ。
「へ、兵太郎さまは、どこ?てっきり死んだとばかりおもっていたのに、生きていたのね」
ようやく芦名兵太郎が死んではいなかったことを知ったときの衝撃の強さを思い出した。たぶん、いつかのように気を失いかけたのだ。それにしてもわたしはよく気を失いかけるものだ。動揺するたびに卒倒しかけるのは、ほんとうに恥ずかしいかぎりだ。
「兵太郎さまは生きていた……そうですね、そうなのですね」
同じことをなんど問いかけても、小太郎は視線をはずして俯いていた。剃髪したと聴いていたけれど、剃りはなく、髷をもどして切り、髪の毛を短く刈り揃えていた。
その見慣れぬ僧貌に、以前、新城にいた頃とはまったく別人の小太郎がいた。
ようやくおぼろげに昨夜のことを思い出しつたあった。
……わたしが兵太郎から頼まれたのは、なんのことはない、小太郎はまだ女人をしらないし、痺れのために男根も屹立しないようだから、癒してやってほしいということだった。
先の海戦で法衣の上に鎧をつけて、小太郎は参陣したという。ところが酷い敗戦で、船から落ちて、三日三晩も海中を板切れにつかまったままさまよっていたらしい。おそらく、海に落ちた小太郎を、兵太郎と間違えて、《芦名兵太郎、死す》の報が駆け巡ったのだろう。
小太郎は半身が麻痺したまま、柊庵で養生をしていたのだ。
兵太郎から、《おまえにしかできぬ、お亀、頼む!》と何度も請われたとき、一体、わたしはどんな顔つきになっていたろうか。
兵太郎が死んでいなかったことへの嬉しさや小太郎と再会できた懐かしさや、遠からず信長と対決して処罰されてしまうかもしれないという緊張と怖ろしさなどが、それこそ一緒くたになって、地酒を浴びるように飲み、笑い、喋り、それから小太郎と二人で竹林の小径を抜けてきたのだ……。
そのあとのことは、実ははっきりとはおぼえていない。
けれど、信長様に打ち首にされるおのれの姿を想像し、どこかで怯え、おののき、そういった感情を打ち払うようにわたしのほうから小太郎にむしゃぶりつき、喚き、人肌のぬくもりを感じ、小太郎をわたしの内へ迎え入れたような気がする。
……いやむしろ癒してもらったのは、こちらのほうであったかもしれない。
「新城にいた頃から、はや三年近くが経った……刻というものは決して立ち往生することはないのだな」
ぼそりと小太郎が呟いた。
「立ち往生してほしいと?」
「留まることはないと知りながらも、ときには、もそっと、ゆるやかに流れてほしいと願わずにはおられぬこともある」
「さようですか……」
それだけ云うのが精一杯で、留まることができるのならば、さびたる遊山と讃えられたこの地で、小太郎としずかに愉しく過ごすことができればとおもわぬこともなかった。
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