叛雨に濡れる朝(あした)に

海善紙葉

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 ともの数はことのほか少なかった。弥右衛門が率いる旧天満屋牢人衆が十八人、あとは嘉兵衛と手代たち、それに、巣鴨と筒井衆の女人らがいた。
 も連れていくつもりであったけれど、老公から止められた。さすがに余計な波風を立てるのは得策とはいえまい。侍女らにの世話とことばの伝授を頼んだ。
 少ない人数だけれど、それでも氏真公の供揃いよりは多くなり、さらに服部半蔵さま配下の伊賀衆が、前となく後ろとなく警護の隊形をとっているようであった。
 休賀斎の老公の姿はなかった。
 ぜひにと懇願したのだけれど、夫の近辺が慌しくなって、老公はひとまず残留を決めたのだ。いずれ合流すると云っていたけれど、それがいつの日でどの地になるのかは判らない。いわば老公の代わりが、弥右衛門と嘉兵衛であった。

 半蔵さまは相変わらず終始無口で、こちらが何をたずねても、うんともすんとも発しない。わたしが翁狐の城でのことを一切口には出さないことを薄気味悪がっているようであった。
 聴きたいことは山ほどあったけれど、つまるところいいようにはぐらかされるだけのことだろうとおもい、こちらも無言の抵抗を続けていただけのことだ。それに、半蔵さまがたまになにかを喋ると、あまりにも短すぎてこちらがその意味を判じがたいことも多いのだ。
 あるいは、氏真公とわたしという二人の大きな厄介者を背負い込んだ重圧と闘っていたのかもしれない。
 そうかと思えば、突然、
「秀華姫が、お亡くなりになられたようでございます」
と、意外なことを告げるのだった。

「いましがた、茶屋どのの密偵がしらせて参りました。あの彦左衛門が、最期まで看取みとったとのこと」

 すでに秀華姫は落命していたので、そのことだろうとおもっていたが、まさか本当にかれてしまわれたのだ。嗚呼、なんということだろう。あまりのことにため息すら出なかった。

「それで、彦左衛門は? 彦左はどうしているのでしょう。笹は? 佐助は?」

 なによりも傷心を負ったであろう彦左のことを考えた。
 それに、一度会った秀華姫の容姿を想像してみた。何度も瞼の奥に浮かびあがらせようとした。けれども、いつまで経っても真白のままで、いや、もやがかかり茫洋とした輪郭だけは描けても、それ以上はなんともやるせない思いと哀しみにとって代わられた。
 能登にいた妹の優華姫は、いまは上杉家がかくまっていると、半蔵さまが教えてくれた。

「どちらの上杉でしょう?」
「景勝!」

 短い即答こそ、まさに半蔵さまの得手えてとするものだ。優華姫が上杉景勝様のいる春日山城にいるのだろうとわたしは推測した。姫の引渡しのためには、その景勝様と交渉しなければならない。むろん、上杉家との伝手つてはまったくなかったけれど、いまならば交渉しやすいのではないかとふとおもった。なんとなれば、上杉家のお家騒動が起こっている今このときなら、やりようというものが見つかるのではないかと考えたのだ。
 それを半蔵さまに告げると、こちらの視線をらすことなく、ぼそりと呟いた。

「決め手は、武田勝頼かと存じます」

 半蔵さまの返辞へんじは、わたしの想像の翼をさらに押し広げた。いまは考えることで秀華様訃報の衝撃をやわらげ、その弔いのためにも、せめて妹の姫だけは我が手でたすけてさしあげなければならないとおもった。
 それが秀華姫の死に水をとったにちがいない彦左のためにもなるとおもったのだ。

 〈武田勝頼が決め手になる〉ということは、勝頼さまが、上杉景勝様、景虎様のどちらかに味方することで、上杉の家督争いを決着へ導くことになる……ということではないのか。
 そこからひらめいたある策を、半蔵さまに告げた。
 到底実現するとはおもわれなかったけれど、わたしなりにたどりついたことを頷きながら聴いていた半蔵さまは、ほほうと唸った。なにか物のでも見るような目つきになって、

「亀姫様は、なかなかの軍師でございまするな」

と、呟いた。
「……実は、家康の殿さんも同じお考えでございます。また、そのことは、氏真公がご提案なされたよし。あの御仁、暗愚を装ってはいるが、なかなかどうして余人には及びもつかない鋭い嗅覚をお持ちのようで……あのように頭を丸めたのも偽装ではないかと申す者もいるぐにいですから……なかなかにえぬお人でございまするな」

 半蔵さまは、氏真公のことを〈喰えぬ人〉と云ったが、かれの瞳には侮蔑の色は少しも宿っていなかった。
 つまりは、賞賛とまではいかないまでも、氏真公に対する敬いと戸惑いの心情が重きをなしていたにちがいない。


 ・・・・わたしが半蔵さまに告げた策とは、まずは優華様をかくまっている上杉景勝様に、金子を渡すことからはじまる。景勝様は、その金子を武田勝頼さまに渡し、上杉景虎様を攻めることを約させる。その盟約が成った時点で、こちらは優華姫を景勝様から受け取る。
 ・・・・と、いったようなことである。
 つまり武田と上杉景勝派の同盟を、こちら側から仕掛けてみてはどうだろうと考えたのだ。
 頭裡に描いただけの絵空事にしかすぎなかったのだけれど、ほぼ同じようなことを今川氏真公が父家康に提案したのだそうである。このとき、わたしはあることに気がついた。その父の上には、むろん信長様がいる。すべては、信長様が優華様を欲しているということではないのだろうか……。

「けれど、信長様は優華姫をどうなさるおつもりなのでしょう。かの翁狐どのは……」

 かつて松永弾正さまが云っていた計略のあらましを、半蔵さまに告げた。

「やつめ、そんなことをほざいておりましたか……弾正の城で、武田の武藤喜兵衛、いや、いまは……真田昌幸でしたか、かの者とお知り合いになられたのでございますな」
「なにもかも、ようくご存知で。ところで、彦左を新城につかわせたのはやはり半蔵さまなのでしょう?放逐されたなどと嘘をついて、この私までをも騙そうとしていたのでしょう。しかも、わざわざ騒ぎを大きくさせて小太郎を追い出すとは……」
「いや、彦左衛門のことは拙者ではこざいませぬ。それに、あのときは、ああするしか仕方なかったのでござるよ。芦名衆に連なる小太郎どのが新城しんしろに居ることが信長様の耳に入ったようでして、無理やり追い出すことこそが最善の策というものでござりました」
「……けれど、休賀斎のご老公は、こうも申されておりましたよ。半蔵さまは、家来に命じて本気で小太郎を斬ろうとされていたかもと……」
 
 ほんの少し誇張して問い詰めると、半蔵さまはふいに視線を逸らした。

「さあ、それはどうだったでしょう……いずれにしましても、小太郎どのはすでに出家なされたよし、それでようございました。願わくば、俗世を離れ静かに暮らしていただきたいものでございますなぁ。新城しんしろには二度と足を踏み入れてはもらいとうござらぬ」
「まあ、そのように淡々と……」

 もう一度、睨んでみせた。すると、半蔵さまは急に咳払いをして、

「かの真田昌幸めは、どうやら京に逗留してござるようで」

と、話題を転じた。
「……そのこともあって、亀姫様に真田と交渉していただきたいのでござる」

 なるほど、わたしを京の都に赴かせようとする理由の一端がみえてきたけれど、はたしてそれだけのことだろうか。
 もしかすれば、このわたしを、兄信康が居る岡崎から少しでも遠ざけようとしているのではないのか……。ふとそんな危惧の念が沸き起こってきた。
 意を決して、半蔵さまにすべてを打ち明けた。
 翁狐がき散らした噂のこと、徳川の家中にいらぬ争い事を持ち込もうと画策したこと、大賀弥四郎の叛逆事件の真相……。
 喋りながら、この身にもなんだか翁狐の亡霊が取り憑いてしまっているかのような奇妙な感覚をおぼえた。

「……岡崎に限らず、どの家中にも日頃の憤懣や怨恨から生じた争い事がございます。平時と有事、かんきゅうが入れ替わりおとずれると、人のこころのなかにもおのずと緩急が生じましてな……なにかのはずみでふとゆるんだとき、日頃の鬱憤が濁流のごとく一気に噴き出すことが往々にしてございまする。……謙信公という当主を失った上杉家の内紛は、その最たるもの。しき前例もござるゆえ」

 半蔵さまの口調はどことなく重かった。いうまでもなく前例とは、亡き武田信玄公のことであったろう。実父の信虎さまを追放することで武田家の覇権を握った信玄公は、父親に叛して成功した事例を天下に示してしまったのだ。
 まさに下克上とは、下が上に打ち克つことであって、親も子も、主も従も、ないのだ。

「……けれど岡崎のことは御心配には及びますまい」
と、半蔵さまは力強く云った。
 岡崎城には、平岩親吉さま、酒井忠次さまのような父と表裏一体の重鎮もいるから、いかなる噂にも惑わさることはあるまいと、半蔵さまはそのことを強調した。



 
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