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急 転

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 天正五年という年は、光陰矢のごとく過ぎ去っていったような気がする。
 九月十五日、上杉謙信公の軍勢が、能登七尾城を陥落させた。
 城にかくまわれていたはずの優華姫の消息は不明のままであった。
 また、大和国信貴山城に籠もっていたかの翁狐、松永弾正どのは、織田信忠、明智光秀さまらの織田勢に攻撃され、自害して果てたということであった。
 十月十日のことであったと聴いた。
 ……あの城で寝込んでいたわたしの額に掌を添えたのは、やはり翁狐であったかどうか、もはや当人に確かめるすべはなかった。けれどなぜか確信に似たおもいが強くなっている。翁狐は、わたしがあの城にやってきたときから、わたしの素性を見抜いていたにちがいない、と。もとより根拠のあるものではない。あるいは翁狐は、おのれの生が落日のときを迎えつつあることを悟っていたのではなかったか。高山右近さまと同席のおり、ぺらぺらと夫信昌どのや兄のことを喋り続けていたのは、わたしの目と耳にしっかと謀略のありようを見せつけ、絵図の謎解きのきっかけを与えようとしたのではないかとすらおもえてくるのだ。
 なんのために。それは、おそらくは慌てふためく女人に、さらに輪をかけて疑心暗鬼という目に見えない壁をあちらこちらへとそび聳えさせようと意図したのではないか。そうして家康の長女であるわたしのこれからの歩みを、死してのちも操作し続けようと画策したのではあるまいか。
 なんのために。……それがわからない。
 いや、むしろ、あの魔の声こそが、翁狐の心根の核のようなものであったかもしれない。

《……そなたもまた一個の生き物にしかすぎぬのじゃ。おのがいまあるを、決してさだめとおもうな。蠢く生き物ならば、おのこを喰らい尽くし、地を這い血を舐めつつも、したたかに生き永らえるのじゃ。……》

 たしかに生き物なればこそ、虚栄に惑わされず、ただひたむきに地を這い続ければいいだけなのだ。
 したたかに、たおやかに。
 あるがままに、わがままに。
 あの魔の声こそ、翁狐からのわたしへの最期のはなむけであったのかもしれない。


 十月二十三日、中国の毛利討伐の総大将として羽柴秀吉さまが、京都を出発した。
 その途上、秀吉さまは、千宗易、今井宗休どのらを招いて茶会を催されたという。茶の湯を主催するという特権を信長様から与えられた秀吉さまは、満面の笑みを絶やさなかったそうである。これらは、嘉兵衛や弥右衛門の配下がもたらしてくれたものだけではなく、十一月になって、京にのぼっていた休賀斎の老公が戻ってきて直々に伝えてくれた。

「本当に、ご足労をおかけしてしました。ご老公には、ご健勝にておわすよし……」
「亀どのよ、この老体に、いらぬ気遣きづいは無用になされ!そなたさまが知りたいのは、小太郎のことでござろうよ。安堵なされよ、ようやく傷も癒えつつあるようだ。出家するとかしないとか、まだ煩悩に悩まされてござるがの。出家するなら、天誉てんよと号されるとか。名などあってもなくても、どうでもよきこと。じゃが出家のことは、身共みどもからも、とくにすすめておいたぞ。世を捨てることも、また、敵の目を欺く兵法の一手でござるゆえ」

 老公はにこりともせず呟いた。
 ちなみに老公の名は、公重きみしげといった。奥平公重がまことの名だ。奥平の姓を捨てた理由を訊ねると、老公はなにも隠さずに吐露してくれた。
 ……十代の頃に武者修行に出たとき、対手あいてに負ければ奥平の名を汚すことになると考え、山の奥にて朽ち果てる覚悟とともに〈奥山〉を名乗ることにした、のだそうである。

「それでは、やはり、奥平という姓を大切にされていた証ではございませぬか。いま、名などあってもなくてもいいと申されたのに、それでは辻褄つじつまが合いませぬよ」

 意地悪く云うと、老公は、
「わっはっは」
と、快活に笑った。
「……たしかに、あの時分は、この身も若くて、幾分、気負いがあったのでござろうよ。廻国修行で角がとれ、こうして隠居同然の身になれば、名や血ではなく、まさしく、日々生きていること自体が、かっこうの刺激になるのでござるわいな」

 そういうものなのかとわたしは思ったが、この老人には何を云ってもはぐらかされてしまいそうな気がした。どこかで翁狐の真根と相通じるところがあるようにもおもわれてくる。もっとも謀略で人を掌にのせてもてあそぶようなことはないだろうけれど。
 それになんといっても、父家康の剣の師なのだ。なにかとさりげない配慮はからいを怠らない点もいい。ひとを居心地よくさせてくれるのは、あるいは剣の極意にも相通じるところがあるのかもしれないとおもった。恩着せがましくもせずに、こちらが求めているものを瞬時に見抜き、さらりと提供してくれる。
 父家康とも違うし、徳川家の名立たる重臣おとなたち、本多正信さまや酒井忠次、平岩親吉、石川数正さまたちとも異なる人種だった。あるいは、かの真田昌幸どのが老いたならば、この休賀斎の老公に似てくるかもしれないと、ふとそんなことを想像していた。

 ……彦左と笹、佐助は、秀華姫を連れて但馬、丹波の寺を転々としているらしいと、老公が伝えてくれた。長旅の疲れのためか、秀華姫は床に伏せがちだという。かいがいしく世話をしている彦左のにやけた顔が、ぽっかりと頭裡に浮かんだ。
 詞葉は、いまだに高山右近さまのもとにいるらしい。右近さまが仕えている荒木村重という武将から離反させる計画については、老公にもわからなかったようだ。

「ひとつ、おたずねいたしたきことがございます。かりに女人の私が、敵の大将と対面したおり、相手を制するすべはありましょうや」
「はて、亀どのの頭裡には、倒すべき将が浮かんでいるのでござるかな」

 このとき、いまだ見たことのない武田勝頼さまの姿があったのだけれど、そのことには触れず、昌幸どのの動向を老公に告げておいた。

「真田でござるか……なかなかに油断できぬ対手あいてではありましょうなあ。こまめにおのがあしで各地を回り、見聞を広め、人脈をつなごうとする輩ほど、手ごわい者はござらぬ。身を護るすべはお教えいたしましょうが、しばらくはここでしっかと修行なさいませっ」

 素直にわたしは頷いた。修行という言葉が、なぜかとても気に入った。
 嘉兵衛は、浜松と岡崎の様子を詳しく探ってくれていたけれど、兄信康の周辺ではそれほどの緊張も、騒動もみられないということであった。それに熊蔵によれば、兄嫁の徳姫さまとの仲も睦まじくみえる、とのことだ。今川氏真公落胤という兄信康にまつわる噂も、それほどの衝撃を及ぼしてはいないとのことであった。
 わたしはひとまず安堵し、かつて熊蔵に約束したとおり、近々、岡崎までおもむこうと決めた。
 
 
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