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嶺 鳴 (五)
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「そこに居るのは誰?」
ありったけの力を振り絞り、もう一度、叫んだ。
「姫様·····」
そう聴こえた。
こちらが震えていたせいもあって、聴き覚えはあるのだけれど、声の主が判らない。
「さ、佐助?」
そうではないことを承知の上で、口に出してみた。喋ると不思議と畏れが消えかけていった。
「起こしたらいけないと思いまして、庭にてお待ちいたしておりました」
わたしはハッとして、吐息を洩らした。
熊蔵だ。
積雪の上でじっと蹲ったまま、こちらの様子を窺っていたらしい。急いで内に招き入れ、凍りついた熊蔵の肌をあたためるために寝着を渡し、その上から掛蒲団を頭からすっぽりとかぶせてやった。
外の冷気に身をさらすよりはましだろう。
熊蔵が言うには、茶屋衆の弥右衛門は密かにこの城を抜け出して、堺の天満屋へ報せに行ったそうである。また、誰かわからないが重要な人物が、翁狐と会見するためにこの城に向かっている、とも熊蔵は告げた。
その貴人を迎えるために警護の武士たちを赴せたらしい。弥右衛門はその武士団に混じって城から脱出したらしかった。
誰がやってくるのか興味は尽きなかったが、一番知りたかったことは、この先、いつまで、そうして、これからいかなる役割を演じなければならないかということだった。けれど、熊蔵には答えられようはずもないこともよく判っていた。
わたしは翁狐の企みの概要を熊蔵に伝えておいた。この城を出られる目処が立たない以上、熊蔵の口から彦左衛門へ、彦左から誰かへと伝えてくれるはずであろうから。
熊蔵が立ち去ると、つかの間とはいえ、知った顔をみた安堵からか、急に力が抜けて蒲団の上に横たわった。
眠りにつきかけた時、ざわめきに目が冴えた。
遠くから馬の嘶きと人声が聴こえてくる。
何事かが起ころうとしている……。
それを察して、早々に着替えをすませた。
すると、ばたばたと廊下で足音が響き、息せききった詞葉が現れた。
「ほどなく筒井順慶様が、この城を訪れられます……芦名兵太郎さまとご一緒に……」
「へ、い、た、ろ、う!」
「さようです。姫様のことは兵太郎さまもよく御存知ですので、なんの御心配もいりませぬ」
「へ、い、た、ろ、う!」
ついわたしはうろたえてしまった。他人の会話の中にだけ登場してきた〈芦名兵太郎〉と初めて対面することの緊張が吹き出てきた。
待機するように言い聴かせて詞葉は足早に立ち去っていった。詞葉でさえ慌てふためいているようにみえた。
ほんの少し落ち着きを取り戻しかけたとき、ふたたび物音が響いた。詞葉が立ち戻ってきたのかとおもったけれど、そうではなかった。
わたしを呼ぶ佐助の低声がした。
「姫、早く着替えろ!鉄砲足軽に扮して、もとのもくあみどのの鉄砲隊に紛れ込むぞ!」
蒲団の上に着替えの衣をドサッと投げた佐助の表情にも緊迫の度合いがみてとれた。
もとのもくあみどのとは、一体、誰のことだろう。呆然としていると、佐助は語調を強めてこちらを睨んだ。
「さあ、急げ!かおに炭がらを塗るのを手伝ってやる!すぐにクマも来るぞ!」
どうやら佐助はすでに熊蔵を仲間だと認めていたらしい。突き出された佐助の手は、黒く汚れていた。いまこの場で炭を顔に塗っていいものかどうか迷っていると、勢いよく障子が開かれた。
懐刀を手にした詞葉が現れ、左腕でわたしを庇いつつ、佐助に向かってなにかを投げつけた。
「あっ!」
誰が叫んだ声であったろう。
くるりと畳の上を転がった佐助は、立ちあがりざま、鞭をその手にして身構えた。佐助の背後に、おそらく吹き矢のような武器なのだろう、竹筒を口にくわえた熊蔵の姿を視た。
ありったけの力を振り絞り、もう一度、叫んだ。
「姫様·····」
そう聴こえた。
こちらが震えていたせいもあって、聴き覚えはあるのだけれど、声の主が判らない。
「さ、佐助?」
そうではないことを承知の上で、口に出してみた。喋ると不思議と畏れが消えかけていった。
「起こしたらいけないと思いまして、庭にてお待ちいたしておりました」
わたしはハッとして、吐息を洩らした。
熊蔵だ。
積雪の上でじっと蹲ったまま、こちらの様子を窺っていたらしい。急いで内に招き入れ、凍りついた熊蔵の肌をあたためるために寝着を渡し、その上から掛蒲団を頭からすっぽりとかぶせてやった。
外の冷気に身をさらすよりはましだろう。
熊蔵が言うには、茶屋衆の弥右衛門は密かにこの城を抜け出して、堺の天満屋へ報せに行ったそうである。また、誰かわからないが重要な人物が、翁狐と会見するためにこの城に向かっている、とも熊蔵は告げた。
その貴人を迎えるために警護の武士たちを赴せたらしい。弥右衛門はその武士団に混じって城から脱出したらしかった。
誰がやってくるのか興味は尽きなかったが、一番知りたかったことは、この先、いつまで、そうして、これからいかなる役割を演じなければならないかということだった。けれど、熊蔵には答えられようはずもないこともよく判っていた。
わたしは翁狐の企みの概要を熊蔵に伝えておいた。この城を出られる目処が立たない以上、熊蔵の口から彦左衛門へ、彦左から誰かへと伝えてくれるはずであろうから。
熊蔵が立ち去ると、つかの間とはいえ、知った顔をみた安堵からか、急に力が抜けて蒲団の上に横たわった。
眠りにつきかけた時、ざわめきに目が冴えた。
遠くから馬の嘶きと人声が聴こえてくる。
何事かが起ころうとしている……。
それを察して、早々に着替えをすませた。
すると、ばたばたと廊下で足音が響き、息せききった詞葉が現れた。
「ほどなく筒井順慶様が、この城を訪れられます……芦名兵太郎さまとご一緒に……」
「へ、い、た、ろ、う!」
「さようです。姫様のことは兵太郎さまもよく御存知ですので、なんの御心配もいりませぬ」
「へ、い、た、ろ、う!」
ついわたしはうろたえてしまった。他人の会話の中にだけ登場してきた〈芦名兵太郎〉と初めて対面することの緊張が吹き出てきた。
待機するように言い聴かせて詞葉は足早に立ち去っていった。詞葉でさえ慌てふためいているようにみえた。
ほんの少し落ち着きを取り戻しかけたとき、ふたたび物音が響いた。詞葉が立ち戻ってきたのかとおもったけれど、そうではなかった。
わたしを呼ぶ佐助の低声がした。
「姫、早く着替えろ!鉄砲足軽に扮して、もとのもくあみどのの鉄砲隊に紛れ込むぞ!」
蒲団の上に着替えの衣をドサッと投げた佐助の表情にも緊迫の度合いがみてとれた。
もとのもくあみどのとは、一体、誰のことだろう。呆然としていると、佐助は語調を強めてこちらを睨んだ。
「さあ、急げ!かおに炭がらを塗るのを手伝ってやる!すぐにクマも来るぞ!」
どうやら佐助はすでに熊蔵を仲間だと認めていたらしい。突き出された佐助の手は、黒く汚れていた。いまこの場で炭を顔に塗っていいものかどうか迷っていると、勢いよく障子が開かれた。
懐刀を手にした詞葉が現れ、左腕でわたしを庇いつつ、佐助に向かってなにかを投げつけた。
「あっ!」
誰が叫んだ声であったろう。
くるりと畳の上を転がった佐助は、立ちあがりざま、鞭をその手にして身構えた。佐助の背後に、おそらく吹き矢のような武器なのだろう、竹筒を口にくわえた熊蔵の姿を視た。
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