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翁 狐 (六)
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「………筒井の若武者どのが、まもなくやって来るであろうよ」
茶室には、わたしの他には翁狐とわたしが名づけた松永弾正久秀どのと、高山右近さましか居ない。
あれから詞葉は姿を見せることはなかった。
二人の会話は延々と続いている。
知らない武将の名が度々登場するのだけれど、聴いていないふりをするのは難しいことだった。ここでも、新城で奥山休賀斎の老公から教わったことが役に立った。
相手と視線が交わることがあっても、その顔を通り越した背後の光景を想像し、あるいは親しき者の相貌を思い浮かべてそれを向かい合った相手の姿に重ね合わさせる、といったようなことだ。これは剣の極意に通じるらしいけれど、これを繰り返し試みることで、わたしは翁狐が放つ妖気のようなものに取り込まれることから、かろうじて免れたようだった。
「……筒井とは、筒井順慶どのでしょうか?」
右近さまが問うと、
「いかにも」
と、翁狐が頷いた。
「……興福寺を接収するという信長様からの通達が、ほどなく筒井に届くであろうから、このわしの助言を求めに息せききってやってこよう……」
翁狐は喋り続けた。
……筒井家は、もとは興福寺の僧兵の侍大将のような立場から、奈良を地盤とした戦国大名にまでのしあがってきたらしい。その筒井家を反信長様の陣営に引き込み、畿内における荒木村重さま、筒井順慶さまの連携を仲介、西国の毛利家、四国の長曽我部家、東国の武田家、北条家、さらには上杉謙信公との連合で、信長様に対峙する計略のようであった。
驚いたのは、翁狐が、決して信長様を呼び捨てにはしていないことだった。
あからさまに謀叛を企て、信長様と敵対しようというのに、どういうことなのだろう。信長様に対して、どこかに逃げ道を残しておこうという腹積もりなのだろうか。
やはり右近さまにも動揺がみられたようだ。
「弾正様は、徳川様の御一門にも睨みを効かせておられると聴き及びましたが……」
「武田攻略には、奥平信昌を用いるべし、と信長様に進言いたしておいた。徳川どのと縁戚になった奥平信昌と、徳川どのの嫡男、岡崎三郎信康どのの二人を、こちらの陣営に引き込む絵図は、すでにできておる」
このときほどわたしの感情が暴発しそうになったことはない。
翁狐の一連の謀略のなかに、夫信昌の名だけでなく、兄信康まで登場するとは、誰が想像できたろうか……。
「しかしながら、弾正様……たしか昨年、徳川様の家臣、大賀某と申す者が、武田方と内通せんとしたことが露見いたし……」
右近さまが、大賀弥四郎の件を持ち出したとき、翁狐はクックッと忍び笑いを洩らした。
「……大賀弥四郎は、わしが武田の武藤喜兵衛とともに三年かかって内通させたのだ!そうしておいての、徳川どのの耳元で、そっと囁いてやったのじゃよ、大賀なる者が謀叛を画策せんとしておるようだと……」
なんということか。あの大賀事件の背後には、この翁狐が居たのだ。
これには右近さまも絶句していたように見受けられた。裏切りを煽動しておいて、そのことをわざわざ父家康に告げるというのは、なぜなのか。
「……大賀弥四郎は、小者じゃからの。徳川家中に投げ込む最初の火種の役割を果たしてもろうたにすぎぬ。こうして一度、裏切り、謀叛の前例さえ作っておけば、これからのちは、どんな些細な嘘や噂であっても、徳川家中はうろたえようぞ。こうしておけば、相手を抱き込みやすくなろうし、律儀者の徳川どのといえど、信長様から疑われたならば、われらの陣営に迎えやすくなろうからのう……」
得意気に喋り続ける翁狐には、わたしの夫も兄も、そして父までもが、生きた人間ではなく、符牒のようなものでしかないのだ。
わたしの頭裡に白い靄靄が満ちた。その瞬間、前のめりに体が崩れた。
「おお、姫の足が痺れたようじゃ」
かしわ手を打って侍女を呼び寄せた翁狐は、真顔でこちらの様子を案じていたようだった。侍女らの腕につかまりながら、茶室を出た。
その中に詞葉がいたのに気づいた。
雪は降っていない。
けれど、満天に輝く星が、涙のせいか流れているように見えた。
耳元で詞葉が吐く生暖かい息がねっとりとまとわりついた。
茶室には、わたしの他には翁狐とわたしが名づけた松永弾正久秀どのと、高山右近さましか居ない。
あれから詞葉は姿を見せることはなかった。
二人の会話は延々と続いている。
知らない武将の名が度々登場するのだけれど、聴いていないふりをするのは難しいことだった。ここでも、新城で奥山休賀斎の老公から教わったことが役に立った。
相手と視線が交わることがあっても、その顔を通り越した背後の光景を想像し、あるいは親しき者の相貌を思い浮かべてそれを向かい合った相手の姿に重ね合わさせる、といったようなことだ。これは剣の極意に通じるらしいけれど、これを繰り返し試みることで、わたしは翁狐が放つ妖気のようなものに取り込まれることから、かろうじて免れたようだった。
「……筒井とは、筒井順慶どのでしょうか?」
右近さまが問うと、
「いかにも」
と、翁狐が頷いた。
「……興福寺を接収するという信長様からの通達が、ほどなく筒井に届くであろうから、このわしの助言を求めに息せききってやってこよう……」
翁狐は喋り続けた。
……筒井家は、もとは興福寺の僧兵の侍大将のような立場から、奈良を地盤とした戦国大名にまでのしあがってきたらしい。その筒井家を反信長様の陣営に引き込み、畿内における荒木村重さま、筒井順慶さまの連携を仲介、西国の毛利家、四国の長曽我部家、東国の武田家、北条家、さらには上杉謙信公との連合で、信長様に対峙する計略のようであった。
驚いたのは、翁狐が、決して信長様を呼び捨てにはしていないことだった。
あからさまに謀叛を企て、信長様と敵対しようというのに、どういうことなのだろう。信長様に対して、どこかに逃げ道を残しておこうという腹積もりなのだろうか。
やはり右近さまにも動揺がみられたようだ。
「弾正様は、徳川様の御一門にも睨みを効かせておられると聴き及びましたが……」
「武田攻略には、奥平信昌を用いるべし、と信長様に進言いたしておいた。徳川どのと縁戚になった奥平信昌と、徳川どのの嫡男、岡崎三郎信康どのの二人を、こちらの陣営に引き込む絵図は、すでにできておる」
このときほどわたしの感情が暴発しそうになったことはない。
翁狐の一連の謀略のなかに、夫信昌の名だけでなく、兄信康まで登場するとは、誰が想像できたろうか……。
「しかしながら、弾正様……たしか昨年、徳川様の家臣、大賀某と申す者が、武田方と内通せんとしたことが露見いたし……」
右近さまが、大賀弥四郎の件を持ち出したとき、翁狐はクックッと忍び笑いを洩らした。
「……大賀弥四郎は、わしが武田の武藤喜兵衛とともに三年かかって内通させたのだ!そうしておいての、徳川どのの耳元で、そっと囁いてやったのじゃよ、大賀なる者が謀叛を画策せんとしておるようだと……」
なんということか。あの大賀事件の背後には、この翁狐が居たのだ。
これには右近さまも絶句していたように見受けられた。裏切りを煽動しておいて、そのことをわざわざ父家康に告げるというのは、なぜなのか。
「……大賀弥四郎は、小者じゃからの。徳川家中に投げ込む最初の火種の役割を果たしてもろうたにすぎぬ。こうして一度、裏切り、謀叛の前例さえ作っておけば、これからのちは、どんな些細な嘘や噂であっても、徳川家中はうろたえようぞ。こうしておけば、相手を抱き込みやすくなろうし、律儀者の徳川どのといえど、信長様から疑われたならば、われらの陣営に迎えやすくなろうからのう……」
得意気に喋り続ける翁狐には、わたしの夫も兄も、そして父までもが、生きた人間ではなく、符牒のようなものでしかないのだ。
わたしの頭裡に白い靄靄が満ちた。その瞬間、前のめりに体が崩れた。
「おお、姫の足が痺れたようじゃ」
かしわ手を打って侍女を呼び寄せた翁狐は、真顔でこちらの様子を案じていたようだった。侍女らの腕につかまりながら、茶室を出た。
その中に詞葉がいたのに気づいた。
雪は降っていない。
けれど、満天に輝く星が、涙のせいか流れているように見えた。
耳元で詞葉が吐く生暖かい息がねっとりとまとわりついた。
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