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35 父と娘
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寺島惣右衛門は何度この戎橋を渡ったことであったろう。賑わい創出の基点とも言うべきこの橋は、いまの惣右衛門にとっては気鬱を映す鏡の橋でもあった。
娘のおときが〈淀辰〉と関わってろくに家に居ないことを知って、惣右衛門は気もそぞろなのだ。ここは物識りと人脈の多さで知られる竹本義太夫に相談を持ちかけようとしたのも無理からぬ流れというものであった。
それほど親しくはないが、宴席で二度三度挨拶はすませていた。
寺島惣右衛門は、どちらかといえば凡庸な性格で、初代から受け継いだ御用瓦師の職をまっとうすることだけを考えて生きてきただけに、まだ若いみそらで娘のおときが仕事以外のことに首を突っ込むことにはやりきれない。面と向かっておききを叱るのだけれど、いつのまにか、自分の胸の奥深くで、おときの言い分の正さを承認してしまっていることに気づいて、よけいに苛立ちを隠せなくなるのだった。
惣右衛門は近松門左衛門がおときと行動を供にしているのを知り、ついに耐えきれずに、竹本義太夫に相談して近松の行動を抑えてもらう覚悟でいたのだったが、いざ、対面の場になると、どうやって話を切り出したらいいものかを考えあぐねていた。
義太夫が遅参の詫びを口にしながら座敷に現れた。互いに無沙汰の挨拶ごとを述べ、惣右衛門が意を決して口をひらこうとしたとき、かすかに笑いながら義太夫が口火を切った。
「お話の内容はあらかた察しております。ヘイさんのことですな」
「へ、ヘイさん?えっとっと……」
「近松門左衛門はんのことを、わたしどもは、昔から、ヘイさんと呼んでございます。おときさんは、“モン様”と呼んでおるそうな」
「えっ、は、はい、そ、そのことです、もう、ほんまに恥ずかしいことでおまして、世間様の物笑いになって、ほんまに、もう、なんと申していいのやら……」
惣右衛門は極端に顔を赤らめた。言葉を失って、どう続けたらいいのかとまどっている。そんな様子を義太夫はあたたかい目で見ている。親の悩みはよくわかるつもりだ。まして、寺島の名を世間の物笑い、噂の的にはしたくはないのだろうと義太夫は察している。
「惣右衛門はん、そのご心配は無用でおます」
「はあ?心配?」
「はい、惣右衛門はんは、ヘイさんがなにかおときさんのことをねたにして、世話物の台本でも書くのとちゃうやろうと、ご心配されておられるのでしょう。その心配はご無用と、いま申しました」
「近松様は、台本の材料欲しさにおときに近づいたのではないと?」
惣右衛門は意外な義太夫のことばに、まだ疑心が晴れない。それならどうして、近松はおときと行動をともにしているのか。その真意が見えてはこないのだ。
「もちろん、さいしょはどうでっしゃろか、ヘイさんも、いろんな話を集めるつもりでおましたやろなあ。わたしは、まだおときさんにお会いしたことはございませんが、ヘイさんの話では、それこそ、ひたむきで、まっすぐに、力強く、生きていなさるお方とか……わたしらが演じるものは、いわば、まっすぐに生きようとも生きられぬ定めのもんたちのせつない話でおますがな。おときさんとはまったく違う世界の話ですよって、おそらく、ヘイさんは、なにか新鮮な空気を感じるのでっしゃろなあ、おときさんといると。ああ、勘違いなさらんでおくれやっしゃ。なにも、ヘイさんとおときさんは男と女の仲やおまへんがな」
「ええっ?男と……」
言葉尻に敏感な惣右衛門は、おおげさに唸った。
「だから、そんな関係やおまへんがな。精一杯に、まっすぐに歩もうとしているおときさんのそばにいて、ついつい、助け舟と申しますかな、なんらかの役に立ちたいと思うているだけのようでおます。だから、浄瑠璃にせよ、芝居にせよ、世直しおときのことが演題になることは、こんりんざいありませんよって、どうか、ご安心くださいましな」
義太夫はそう言ってから、先日、近松と二人のときに話した淀屋辰五郎に関わる世間の噂も、惣右衛門にざっと言って聞かした。
すでにそんな噂が口の端々にのぼっているのかと惣右衛門は驚いた。
……京都所司代の松平信庸を通じて、老中主座柳沢吉保や勘定奉行荻原重秀のおおまかな意向を、義太夫は名前を伏せて聞かされていた。それを惣右衛門に実名で伝えた。
惣右衛門にしてみれば娘のおときが淀屋と関わり合うことは避けたかったのだが、すでに淀屋のことは噂の芽を摘むことも不可能な話であることがようやく惣右衛門にも理解できた。かれがひととおり頭のなかで整理する頃合いをみはからって、義太夫はさらに続けた。
「……寺島家は公儀御用瓦師の家柄ですよって、おそらく、お江戸の幕閣の方々ともご昵懇やと思います。さきほどわたしが話した噂話を披露するまでもなく、惣右衛門はんは、そのあたりのこともよくよくご存知のことやと思いますよって……なにか、寺島家に害が及ぶことを心配されておられるんやと思うとります。ですがな、このわたしが噂話として知っているということは、世間では、おおっぴらに話さずとも、いろんな噂が駆けめぐっていることでございましょうな……人が集うところは、そんな噂が、人を支配することもございますよってな。ヘイさんは、よく言ってはります、虚も実、実も虚なり、と。……虚のなかに実があり、その逆もありということで、それが世間というものでございましょうかな。それだけに、たわいもない噂に一喜一憂しないで、ただひたすらに信じる道をゆくおときさんの姿は、ヘイさんには、目からウロコが落ちるほど新鮮な感じがしたんでございましょう。ここはひとつ、父親といえど、じっと我慢で、娘はんのことを見守ってあげることが大事やないかと、わたしは思うております……」
義太夫のしゃべりは長く、惣右衛門にはその脈絡がつかめない部分もあったが、言わんとしているところはおおまかではあるが胸に
届いた。むしろ近松は、おときが無謀なまでに純粋な道を走り続けて傷つかないようにそれとなく守ってくれているらしい。
そのことも、ようやくわかりかけてきた。
惣右衛門は深く頭を下げ、
「ありがとうございます……胸のつかえがおりました」
と、礼を述べた。
それから二人で酒を酌み交わしながら、遅くまで話を続けた。惣右衛門は、ひさしぶりに肩の力が抜けてゆったりとした気分になった。
娘のおときが〈淀辰〉と関わってろくに家に居ないことを知って、惣右衛門は気もそぞろなのだ。ここは物識りと人脈の多さで知られる竹本義太夫に相談を持ちかけようとしたのも無理からぬ流れというものであった。
それほど親しくはないが、宴席で二度三度挨拶はすませていた。
寺島惣右衛門は、どちらかといえば凡庸な性格で、初代から受け継いだ御用瓦師の職をまっとうすることだけを考えて生きてきただけに、まだ若いみそらで娘のおときが仕事以外のことに首を突っ込むことにはやりきれない。面と向かっておききを叱るのだけれど、いつのまにか、自分の胸の奥深くで、おときの言い分の正さを承認してしまっていることに気づいて、よけいに苛立ちを隠せなくなるのだった。
惣右衛門は近松門左衛門がおときと行動を供にしているのを知り、ついに耐えきれずに、竹本義太夫に相談して近松の行動を抑えてもらう覚悟でいたのだったが、いざ、対面の場になると、どうやって話を切り出したらいいものかを考えあぐねていた。
義太夫が遅参の詫びを口にしながら座敷に現れた。互いに無沙汰の挨拶ごとを述べ、惣右衛門が意を決して口をひらこうとしたとき、かすかに笑いながら義太夫が口火を切った。
「お話の内容はあらかた察しております。ヘイさんのことですな」
「へ、ヘイさん?えっとっと……」
「近松門左衛門はんのことを、わたしどもは、昔から、ヘイさんと呼んでございます。おときさんは、“モン様”と呼んでおるそうな」
「えっ、は、はい、そ、そのことです、もう、ほんまに恥ずかしいことでおまして、世間様の物笑いになって、ほんまに、もう、なんと申していいのやら……」
惣右衛門は極端に顔を赤らめた。言葉を失って、どう続けたらいいのかとまどっている。そんな様子を義太夫はあたたかい目で見ている。親の悩みはよくわかるつもりだ。まして、寺島の名を世間の物笑い、噂の的にはしたくはないのだろうと義太夫は察している。
「惣右衛門はん、そのご心配は無用でおます」
「はあ?心配?」
「はい、惣右衛門はんは、ヘイさんがなにかおときさんのことをねたにして、世話物の台本でも書くのとちゃうやろうと、ご心配されておられるのでしょう。その心配はご無用と、いま申しました」
「近松様は、台本の材料欲しさにおときに近づいたのではないと?」
惣右衛門は意外な義太夫のことばに、まだ疑心が晴れない。それならどうして、近松はおときと行動をともにしているのか。その真意が見えてはこないのだ。
「もちろん、さいしょはどうでっしゃろか、ヘイさんも、いろんな話を集めるつもりでおましたやろなあ。わたしは、まだおときさんにお会いしたことはございませんが、ヘイさんの話では、それこそ、ひたむきで、まっすぐに、力強く、生きていなさるお方とか……わたしらが演じるものは、いわば、まっすぐに生きようとも生きられぬ定めのもんたちのせつない話でおますがな。おときさんとはまったく違う世界の話ですよって、おそらく、ヘイさんは、なにか新鮮な空気を感じるのでっしゃろなあ、おときさんといると。ああ、勘違いなさらんでおくれやっしゃ。なにも、ヘイさんとおときさんは男と女の仲やおまへんがな」
「ええっ?男と……」
言葉尻に敏感な惣右衛門は、おおげさに唸った。
「だから、そんな関係やおまへんがな。精一杯に、まっすぐに歩もうとしているおときさんのそばにいて、ついつい、助け舟と申しますかな、なんらかの役に立ちたいと思うているだけのようでおます。だから、浄瑠璃にせよ、芝居にせよ、世直しおときのことが演題になることは、こんりんざいありませんよって、どうか、ご安心くださいましな」
義太夫はそう言ってから、先日、近松と二人のときに話した淀屋辰五郎に関わる世間の噂も、惣右衛門にざっと言って聞かした。
すでにそんな噂が口の端々にのぼっているのかと惣右衛門は驚いた。
……京都所司代の松平信庸を通じて、老中主座柳沢吉保や勘定奉行荻原重秀のおおまかな意向を、義太夫は名前を伏せて聞かされていた。それを惣右衛門に実名で伝えた。
惣右衛門にしてみれば娘のおときが淀屋と関わり合うことは避けたかったのだが、すでに淀屋のことは噂の芽を摘むことも不可能な話であることがようやく惣右衛門にも理解できた。かれがひととおり頭のなかで整理する頃合いをみはからって、義太夫はさらに続けた。
「……寺島家は公儀御用瓦師の家柄ですよって、おそらく、お江戸の幕閣の方々ともご昵懇やと思います。さきほどわたしが話した噂話を披露するまでもなく、惣右衛門はんは、そのあたりのこともよくよくご存知のことやと思いますよって……なにか、寺島家に害が及ぶことを心配されておられるんやと思うとります。ですがな、このわたしが噂話として知っているということは、世間では、おおっぴらに話さずとも、いろんな噂が駆けめぐっていることでございましょうな……人が集うところは、そんな噂が、人を支配することもございますよってな。ヘイさんは、よく言ってはります、虚も実、実も虚なり、と。……虚のなかに実があり、その逆もありということで、それが世間というものでございましょうかな。それだけに、たわいもない噂に一喜一憂しないで、ただひたすらに信じる道をゆくおときさんの姿は、ヘイさんには、目からウロコが落ちるほど新鮮な感じがしたんでございましょう。ここはひとつ、父親といえど、じっと我慢で、娘はんのことを見守ってあげることが大事やないかと、わたしは思うております……」
義太夫のしゃべりは長く、惣右衛門にはその脈絡がつかめない部分もあったが、言わんとしているところはおおまかではあるが胸に
届いた。むしろ近松は、おときが無謀なまでに純粋な道を走り続けて傷つかないようにそれとなく守ってくれているらしい。
そのことも、ようやくわかりかけてきた。
惣右衛門は深く頭を下げ、
「ありがとうございます……胸のつかえがおりました」
と、礼を述べた。
それから二人で酒を酌み交わしながら、遅くまで話を続けた。惣右衛門は、ひさしぶりに肩の力が抜けてゆったりとした気分になった。
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