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25 ゴロさん登場!
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戎橋。
この橋は今宮戎を詣でるときに渡るので、この名になった。
橋になじみが深いのが、橋の南東角にあった竹本座である。人でにぎわう様子は大坂随一といってよく、このあたりで遊ぶには一日ではこと足りない。
両三日は芝居にて日を経るなるべし
と、『摂津名所図会』にも但書きされている。ゆうに丸三日は楽しめる、ということになるだろう。
四十八軒並ぶいろは茶屋のひとつ、大和清の座敷で、近松はある人物と会っていた。
「ヘイさんや、そろそろ次の台本をお頼みしますよ。あんまし、へんなことに首をつっこまへんほうがよろしいでェ」
近松を〈ヘイさん〉と呼んだ、五十半ば過ぎの男は顔面に皺だらけの笑みをたたえている。
「ほいきた、ゴロさんや、なにか、ゴロさんの耳にでも届いてますかな」
近松は、相手を〈ゴロさん〉と呼んだ。
ゴロさん……とは、竹本義太夫のことである。
義太夫は天王寺村の農家の伜で、名を五郎兵衛といった。
近松門左衛門の幼名は〈平馬〉という。
この二人は……実の兄弟のように慣れ親しんでいる。
ヘイさん、ゴロさんの仲である。
「……いやなに、ヘイさんよ。竹本座のご贔屓衆には、おかげさんで、各藩の大坂蔵屋敷留守居役のお歴々から、いまをときめく大店の方々までおいででございますよってな。いやでも、あれこれと聴きとうもない噂が、耳に入ってきよりますがな」
すべての藩が大坂に〈蔵屋敷〉を置いていたわけではない。元祿年間、大坂蔵屋敷の数は九十五。その後、さらに増えていった。
義太夫は蔵屋敷詰の武士たちから饗応を受けつつ、さまざまな事象、風聞を溜めておいて、それを近松に伝えるのである。
これも取材活動の一端といえようか……。
「とうとう淀屋さんは、お江戸から睨まれなすったようでっせ」
義太夫が言った。〈お江戸〉とは、幕府の謂であろう。
「睨まれた?淀屋が?」
思わず近松は義太夫の言を繰り返した。
「ま、そういうことでおますな。それに……お上だけではありまへんで。淀屋はいわば特権商人でんがな。新興商人にとっては、目の上のたんこぶ。これから一旗もふた旗もあげようかという商人は、淀屋が無くなるちゅうのは、大歓迎でおますわなあ。一方にそういう支持があるよって、勘定奉行さま、ご老中さま方が強硬な態度で臨もうとしたとしても、おかしな話ではおまへんがな」
「なるほど……そこまでは気がつかなかった……さすがはゴロさん、詳しいですなァ。つまり、淀屋さんは、幕府だけではなく、いわば身内の上方商人、新興商人たちからも目のかたきにされていると?」
近松はさすがに機転が早い。それだけの会話でかなり複雑な構図がはっきりと見えてきたようだ。
義太夫はさらに詳しく説明した。
勘定奉行荻原重秀は、元禄八年に貨幣改鋳をおこなった。小判の金の含有率を減らし、鋳造枚数を増やすという戦略だった。
ありていに言えば、慶長小判百枚で、元禄小判百五十枚をつくったわけである。
ちなみに、慶長小判1枚の金含有率は84・3%、元禄小判1枚の金含有率は57・4%。
荻原重秀は、質のいい慶長小判を回収し、金の含有率の低い元禄小判を市中に流通させようとしたのだが、利にさとい商人たちは、金の含有率が高い慶長小判を使わずに蓄蔵しようとしたのだ。
これはこれで、もっともな話ではある。
おりしも、質の悪い元禄小判の価値が暴落した。
そこで、淀屋をはじめ大坂商人たちは、元禄金ではなく、銀を目安にして交換比率を決めるようになった。これがきっかけで、やがて江戸中期以降、江戸では金本位制、上方では銀本位制という、一つの国で二つの異なる貨幣経済が定着することになっていくのだが、このとき幕府は、大坂商人、特に淀屋を筆頭にした老舗門閥商人に、銀だけを用いることをやめるように何度も何度も要請した。
ところが。
もともと独立心の強い大坂では、幕府の通達を無視しようとしたのだった。市場経済を志向している商人たちにとっては、幕府の意向よりも、市場のニーズを優先するのもまた当然といえば当然の成り行きであったろう。
……そんな経緯があって、とうとう幕閣は怒り心頭に発した、というわけらしい。
「ということは、ゴロさん。いずれ、淀屋さんは……」
「そうやでェ、ヘイさん、きつ~いお咎めを受けることになりますやろかいなァ。ですよって、ヘイさんも、あんまし、関わらへんほうがよろしゅうおますでェ」
義太夫の耳には、どうやら近松とおときが得体の知れない連中に襲われた一件も入っていたようである。
「ただなんの理由もなく、淀屋を罰すれば、全商人を敵に回すことになりますやろ。そやさかい、お江戸のおエライさんらも、そのあたりまで考えて、いまのうちに根回しをしてなさるんやな。三井や鴻池など、新しく興ってきたあきんどになにほどかの優遇措置をするかわりに味方につけて……と、まあ、こんな段取りやおまへんやろか」
そこまで聞くと、近松はぐぅの音もでなかった。それほど緻密に描かれた絵図なら、無防備に首を突っ込むことは危険だ。そのことをさっそくおときにも言い聞かせねばと立ち上がりかけたとき、
「きょうは徹夜でしっかり書いてもらいまひょ」
と、義太夫の一声が飛んできた。
近松は泣きべそをかいたような顔を義太夫に向けた。
この橋は今宮戎を詣でるときに渡るので、この名になった。
橋になじみが深いのが、橋の南東角にあった竹本座である。人でにぎわう様子は大坂随一といってよく、このあたりで遊ぶには一日ではこと足りない。
両三日は芝居にて日を経るなるべし
と、『摂津名所図会』にも但書きされている。ゆうに丸三日は楽しめる、ということになるだろう。
四十八軒並ぶいろは茶屋のひとつ、大和清の座敷で、近松はある人物と会っていた。
「ヘイさんや、そろそろ次の台本をお頼みしますよ。あんまし、へんなことに首をつっこまへんほうがよろしいでェ」
近松を〈ヘイさん〉と呼んだ、五十半ば過ぎの男は顔面に皺だらけの笑みをたたえている。
「ほいきた、ゴロさんや、なにか、ゴロさんの耳にでも届いてますかな」
近松は、相手を〈ゴロさん〉と呼んだ。
ゴロさん……とは、竹本義太夫のことである。
義太夫は天王寺村の農家の伜で、名を五郎兵衛といった。
近松門左衛門の幼名は〈平馬〉という。
この二人は……実の兄弟のように慣れ親しんでいる。
ヘイさん、ゴロさんの仲である。
「……いやなに、ヘイさんよ。竹本座のご贔屓衆には、おかげさんで、各藩の大坂蔵屋敷留守居役のお歴々から、いまをときめく大店の方々までおいででございますよってな。いやでも、あれこれと聴きとうもない噂が、耳に入ってきよりますがな」
すべての藩が大坂に〈蔵屋敷〉を置いていたわけではない。元祿年間、大坂蔵屋敷の数は九十五。その後、さらに増えていった。
義太夫は蔵屋敷詰の武士たちから饗応を受けつつ、さまざまな事象、風聞を溜めておいて、それを近松に伝えるのである。
これも取材活動の一端といえようか……。
「とうとう淀屋さんは、お江戸から睨まれなすったようでっせ」
義太夫が言った。〈お江戸〉とは、幕府の謂であろう。
「睨まれた?淀屋が?」
思わず近松は義太夫の言を繰り返した。
「ま、そういうことでおますな。それに……お上だけではありまへんで。淀屋はいわば特権商人でんがな。新興商人にとっては、目の上のたんこぶ。これから一旗もふた旗もあげようかという商人は、淀屋が無くなるちゅうのは、大歓迎でおますわなあ。一方にそういう支持があるよって、勘定奉行さま、ご老中さま方が強硬な態度で臨もうとしたとしても、おかしな話ではおまへんがな」
「なるほど……そこまでは気がつかなかった……さすがはゴロさん、詳しいですなァ。つまり、淀屋さんは、幕府だけではなく、いわば身内の上方商人、新興商人たちからも目のかたきにされていると?」
近松はさすがに機転が早い。それだけの会話でかなり複雑な構図がはっきりと見えてきたようだ。
義太夫はさらに詳しく説明した。
勘定奉行荻原重秀は、元禄八年に貨幣改鋳をおこなった。小判の金の含有率を減らし、鋳造枚数を増やすという戦略だった。
ありていに言えば、慶長小判百枚で、元禄小判百五十枚をつくったわけである。
ちなみに、慶長小判1枚の金含有率は84・3%、元禄小判1枚の金含有率は57・4%。
荻原重秀は、質のいい慶長小判を回収し、金の含有率の低い元禄小判を市中に流通させようとしたのだが、利にさとい商人たちは、金の含有率が高い慶長小判を使わずに蓄蔵しようとしたのだ。
これはこれで、もっともな話ではある。
おりしも、質の悪い元禄小判の価値が暴落した。
そこで、淀屋をはじめ大坂商人たちは、元禄金ではなく、銀を目安にして交換比率を決めるようになった。これがきっかけで、やがて江戸中期以降、江戸では金本位制、上方では銀本位制という、一つの国で二つの異なる貨幣経済が定着することになっていくのだが、このとき幕府は、大坂商人、特に淀屋を筆頭にした老舗門閥商人に、銀だけを用いることをやめるように何度も何度も要請した。
ところが。
もともと独立心の強い大坂では、幕府の通達を無視しようとしたのだった。市場経済を志向している商人たちにとっては、幕府の意向よりも、市場のニーズを優先するのもまた当然といえば当然の成り行きであったろう。
……そんな経緯があって、とうとう幕閣は怒り心頭に発した、というわけらしい。
「ということは、ゴロさん。いずれ、淀屋さんは……」
「そうやでェ、ヘイさん、きつ~いお咎めを受けることになりますやろかいなァ。ですよって、ヘイさんも、あんまし、関わらへんほうがよろしゅうおますでェ」
義太夫の耳には、どうやら近松とおときが得体の知れない連中に襲われた一件も入っていたようである。
「ただなんの理由もなく、淀屋を罰すれば、全商人を敵に回すことになりますやろ。そやさかい、お江戸のおエライさんらも、そのあたりまで考えて、いまのうちに根回しをしてなさるんやな。三井や鴻池など、新しく興ってきたあきんどになにほどかの優遇措置をするかわりに味方につけて……と、まあ、こんな段取りやおまへんやろか」
そこまで聞くと、近松はぐぅの音もでなかった。それほど緻密に描かれた絵図なら、無防備に首を突っ込むことは危険だ。そのことをさっそくおときにも言い聞かせねばと立ち上がりかけたとき、
「きょうは徹夜でしっかり書いてもらいまひょ」
と、義太夫の一声が飛んできた。
近松は泣きべそをかいたような顔を義太夫に向けた。
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