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23 新たな疑惑
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おときは近松と別れて一人で歩いている……。
淀屋辰五郎の述懐は、お民との出会いまでで了った。急な来客があって、淀辰が席をはずしたからである。五日後の再訪を快諾してくれたことは収穫だったが、それにしても……と、おときはいまだ感じたことのふわりとした感情に苛まれていた。お民の姿を思い出したことも一因だが、やはり、自分の知らない男と女の世界の一端を覗き見たことが、おときの心をざわめかせている。
近松は近松で、淀辰の表情から物書きならではの何かを察したらしく、知り合いの薬師を訪ねるということであった。
気もそぞろに一人で歩いていると、瓦屋町とは違う方角へ向かっていた。
天満天神社の境内にさしかかった頃、ふいに、
「おときさん」
と、背後から呼び止める声がした。
ぎょっとしておときは足をとめた。
振り向くと商人らしき中年の男が駆け寄ってきた。なぜ商人と察したかといえば、揉み手のまま、やや前傾の姿態でこちらを見て、頬をたるませていたからである。しかも小僧を一人伴っていた。まだ、九、十とみえた。
「どなたはん?」
あえておときはぞんざいな口調で威嚇した。いや考え事を中断させられた腹いせだったかもしれない。
「あ、これは申し訳ございません。どうやら、驚かせてしまいましたようで……」
相手は一層腰を落とし揉み手を見せつけるように腕を揺すっている。ことばの抑揚からは、どうやら上方の産ではなさそうだった。
「西海屋と申します」
男は先に名を明かした。
「あ、西の海、の西海屋……、徳右衛門です、どうぞ、お見知りおきを……」
わざわざ〈西の海〉と付け足したのは、おそらく大坂に来てから、散々『そりゃ再開するんはええことや』とか、『再会しとうおますな』とか、『なにを再開発するんでっか』などと大いに茶化されたにちがいなかった。上方人にはそういう性がある。
「あ、それはご丁寧に……で、うちになんか御用なんですか?」
すかさずおときも口調を改め向き直った。
「お呼び立てしましたのは、厄介な事になっておりまして……手前どもも難儀しておるのですよ」
徳右衛門がぼそりと言った。声は小さいものの謡曲のような、はっきりと筋が通っていて聞きやすい。上方人なら、〈往生してまっせ〉と言うところか……。
「難儀ってどんなことです?」
「それが……あの、心中があった影絵茶屋のことなんです」
「影絵……」
「ええ、小屋主さんのお一人から場所を借りまして、飯し物や酒を売っておったんです。……この大坂で店を持ちたい、出したいと博多から出て参ったものでして……手っ取り早く資金集めしようと考えまして……」
途切れなく徳右衛門の話は続く。いつものおときなら、『もうちょっと早うしゃべらなあかんわ』とせっつくところだが、あまりにも耳触りの良い声に、口を挟むことすら忘れていた。
徳右衛門によれば……お民が死んだ影絵茶屋と隣の茶屋との隙間に屋台を出していたという。真っ先に奉行所へ小僧を走らせたのはこの徳右衛門であったらしかった。
「……間の悪いというのはこのことでしょうか、たまたま近くに居たということだけで、取り調べは受けるは、屋台は閉鎖されるはで、もう、大変な目に遭いました……」
おそらくこんなときにも上方人ならば、『往生しまっせ……』を連発するにちがいなかった。
「……それが、うちと何の関係が?」
「ですから、お亡くなりになった女人が、おときさんのお友達だったそうで……。ほんとうにご愁傷さまでございます」
「・・・・・・・」
「実は……わたしども、いまだに、監視されておるようなんです」
「監視?」
「はい、あ、町奉行所の御方ではございません……なにやら、お奉行所では、相対死として落着されたと聴き及んでおります」
「心中やない!お民ちゃんがそんなことするはずがないわっ」
突然怒り出したおときの形相にもたじろかず、徳右衛門はしばし口を閉じてふた息置いてから、再び喋り出した。
そして、意外なことをおときは耳にしたのだ。
「はい、わたしも相対死だとはおもいません……これは、殺人です……間違いございません」
「え?初めてです、うちの言うことをまともに聞いてくれたん……あ、西海屋さんは、モン様の次です」
「も、もん様?」
「いえ、こっちのことです……お民ちゃんが殺されたって、なんか証拠でもあったんですか?」
「だから、お呼び立てしました……さきほど申しました、こちらを監視しているのは、御城代様直属の市中探索目附の方々らしいのです……分部様と申される御方がお目附様……寺島家とはご昵懇になされているとうかがいました。ですから、分部様に御口添え願えませぬかと……」
「はい、分部さんならようく知っとります。けんど、証拠をお持ちなら奉行所に……」
「いえ、ですから、一件落着したものを手前どもが蒸し返すというのは、後々、しっぺ返しが恐ろしい……犯人を自首させますから、おときさんから分部様に……」
「え?自首って?お民ちゃんを殺した者を知ってはるんですか?」
畳み掛けるようにおときが言うと、西海屋徳右衛門は一人の青年の名を告げた。
墨職人 清兵衛
おときは初めて耳にする名だった。
淀屋辰五郎の述懐は、お民との出会いまでで了った。急な来客があって、淀辰が席をはずしたからである。五日後の再訪を快諾してくれたことは収穫だったが、それにしても……と、おときはいまだ感じたことのふわりとした感情に苛まれていた。お民の姿を思い出したことも一因だが、やはり、自分の知らない男と女の世界の一端を覗き見たことが、おときの心をざわめかせている。
近松は近松で、淀辰の表情から物書きならではの何かを察したらしく、知り合いの薬師を訪ねるということであった。
気もそぞろに一人で歩いていると、瓦屋町とは違う方角へ向かっていた。
天満天神社の境内にさしかかった頃、ふいに、
「おときさん」
と、背後から呼び止める声がした。
ぎょっとしておときは足をとめた。
振り向くと商人らしき中年の男が駆け寄ってきた。なぜ商人と察したかといえば、揉み手のまま、やや前傾の姿態でこちらを見て、頬をたるませていたからである。しかも小僧を一人伴っていた。まだ、九、十とみえた。
「どなたはん?」
あえておときはぞんざいな口調で威嚇した。いや考え事を中断させられた腹いせだったかもしれない。
「あ、これは申し訳ございません。どうやら、驚かせてしまいましたようで……」
相手は一層腰を落とし揉み手を見せつけるように腕を揺すっている。ことばの抑揚からは、どうやら上方の産ではなさそうだった。
「西海屋と申します」
男は先に名を明かした。
「あ、西の海、の西海屋……、徳右衛門です、どうぞ、お見知りおきを……」
わざわざ〈西の海〉と付け足したのは、おそらく大坂に来てから、散々『そりゃ再開するんはええことや』とか、『再会しとうおますな』とか、『なにを再開発するんでっか』などと大いに茶化されたにちがいなかった。上方人にはそういう性がある。
「あ、それはご丁寧に……で、うちになんか御用なんですか?」
すかさずおときも口調を改め向き直った。
「お呼び立てしましたのは、厄介な事になっておりまして……手前どもも難儀しておるのですよ」
徳右衛門がぼそりと言った。声は小さいものの謡曲のような、はっきりと筋が通っていて聞きやすい。上方人なら、〈往生してまっせ〉と言うところか……。
「難儀ってどんなことです?」
「それが……あの、心中があった影絵茶屋のことなんです」
「影絵……」
「ええ、小屋主さんのお一人から場所を借りまして、飯し物や酒を売っておったんです。……この大坂で店を持ちたい、出したいと博多から出て参ったものでして……手っ取り早く資金集めしようと考えまして……」
途切れなく徳右衛門の話は続く。いつものおときなら、『もうちょっと早うしゃべらなあかんわ』とせっつくところだが、あまりにも耳触りの良い声に、口を挟むことすら忘れていた。
徳右衛門によれば……お民が死んだ影絵茶屋と隣の茶屋との隙間に屋台を出していたという。真っ先に奉行所へ小僧を走らせたのはこの徳右衛門であったらしかった。
「……間の悪いというのはこのことでしょうか、たまたま近くに居たということだけで、取り調べは受けるは、屋台は閉鎖されるはで、もう、大変な目に遭いました……」
おそらくこんなときにも上方人ならば、『往生しまっせ……』を連発するにちがいなかった。
「……それが、うちと何の関係が?」
「ですから、お亡くなりになった女人が、おときさんのお友達だったそうで……。ほんとうにご愁傷さまでございます」
「・・・・・・・」
「実は……わたしども、いまだに、監視されておるようなんです」
「監視?」
「はい、あ、町奉行所の御方ではございません……なにやら、お奉行所では、相対死として落着されたと聴き及んでおります」
「心中やない!お民ちゃんがそんなことするはずがないわっ」
突然怒り出したおときの形相にもたじろかず、徳右衛門はしばし口を閉じてふた息置いてから、再び喋り出した。
そして、意外なことをおときは耳にしたのだ。
「はい、わたしも相対死だとはおもいません……これは、殺人です……間違いございません」
「え?初めてです、うちの言うことをまともに聞いてくれたん……あ、西海屋さんは、モン様の次です」
「も、もん様?」
「いえ、こっちのことです……お民ちゃんが殺されたって、なんか証拠でもあったんですか?」
「だから、お呼び立てしました……さきほど申しました、こちらを監視しているのは、御城代様直属の市中探索目附の方々らしいのです……分部様と申される御方がお目附様……寺島家とはご昵懇になされているとうかがいました。ですから、分部様に御口添え願えませぬかと……」
「はい、分部さんならようく知っとります。けんど、証拠をお持ちなら奉行所に……」
「いえ、ですから、一件落着したものを手前どもが蒸し返すというのは、後々、しっぺ返しが恐ろしい……犯人を自首させますから、おときさんから分部様に……」
「え?自首って?お民ちゃんを殺した者を知ってはるんですか?」
畳み掛けるようにおときが言うと、西海屋徳右衛門は一人の青年の名を告げた。
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おときは初めて耳にする名だった。
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