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20 狼狽の淀辰
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そのときおときは、その座敷の円卓に備えられた椅子に腰をおろし、きょろきょろと視線を転がしていた。淀屋の夏座敷は、それこそ美しいきらめきに満ちていたが、おときにはどうも居心地の悪さのほうが気になって仕方がないのだ。めったに目にすることがない振袖に帯を吉弥結びにしたおときの姿は、近松の目にはことのほかまぶしく映っている。
お民の一件が落着するまで、おときはあえて町娘の姿で通すらしい。それがおときなりのお民への供養のかたちなのだろう。近松はそれと察している。かれは幾分緊張していたものの、それを悟らせないように無我の境地を実践していた。無表情、無感覚を装い続けるのである。
突然現れた淀辰は、ふてぶてしいまでの笑みを浮かべて佇んでいた。
「おときはん、久しぶりでんなぁ」
淀辰が言った。そうなのだ、おときは二年前に辰五郎と会っていた……。
「あれから二年とちょい経ちましたやろか。しばらく見んうちに、ほんまに、べっぴんさんになって……」
辰五郎は三十路半ば。世間では、毎夜が酒池肉林三昧だと、やっかみ半分で囁かれているが、二年前に会ったときのおときの印象では、そんなふうには見えなかった。そんなふうに、というのは、ぎらぎらと脂ぎった豪快さではなく、どちらかといえば、神経質そうにさえみえたのだ。
辰五郎の痩せ気味の頬に、ときおり縦筋が走り、ピクピクとせわしそうに顎のあたりが動くさまを見て、この人はなにかに苛立っているんだろうと、初めて会った二年前に思った。
二年前。
大洪水の被害者に公儀御蔵米の放出を提案したときであった。そのとき、辰五郎は二つ返事で請け負ってくれた。義援金集めにも賛同してくれて、後日、淀屋から大枚の金子と魚や野菜などが馬車に曳かれて届いた。意外にも、きめ細かい息遣いが感じられた。二年前の印象と比べても、いま目の前にいる淀辰は、頬がこけ、顔の艶が失せて別人のようにもおもえてくる……。
「さて、きょうは、どういった用件でっしゃろ。これでも忙しい身ぃですよって、はようすませておくれやっしゃ」
おときは、一度、近松の顔を見てから、辰五郎に向き合った。
「無礼は承知で口をきかせてもらいます。影絵茶屋とよばれるところで、人が死ぬ事件が続いているのは、ご存じやとおもいます。その小屋、淀辰はんがやってはるんですか?」
「ほんまに、物騒な世の中になりましたなあ。気味が悪い話やおまへんか。でもな、おときはん、このわてが、あんな小屋なんかに手を出すとお思いですかぃな?心外なことですわ。そないなことを触れ回っている輩がおるそうやけど、まったく迷惑な話でおますわ」
淀辰は、おときの視線を正面からとらえて、逸らさない。ときおり、頬から顎にかけて、肉がぴくひくと動いている。生まれつきの癖なのかもしれない。
「……たしかに、大和川の川違え工事で、以前にも増して人が集まるようになりました。それを目当てに、一山も二山も当てようとする輩が、ぎょうさんいることはたしかやけど、この淀屋が、そんなけちくさいことをすると思うてはるんやったら、迷惑な話でっせ」
そらとぼけているのか、本当に何も知らないのか、淀辰は淡々とした口調で喋り続ける。
「……ただな、おなごはんの前やけどなあ、世の中にはスケベな男が多いさかい、ああした遊びもはやりますねん。それはそれで、浮世の憂さ晴らしでんなぁ」
「そんならお民ちゃんのことは?淀辰はんが、囲ってはったという人もおますけど」
「お民?なんで、お民のことを?」
ふいに淀辰の顎のぴくぴくが止まり、目をしばたいておときを睨んだ。
「お民ちゃんは、うちの幼馴染みなんや!お民ちゃんには、幸せになってもらおうとずっと思ってたんや。寺島の若いもんをお民ちゃんの婿はんにでも、と考えていたのに、あんなことになってしもうて……なんか、うち、むちゃくちゃ、悔しゅうてならへんのや。お民ちゃんが、男はんと心中するなんて、そんなことは絶対ないと、いまも信じとります。お民ちゃんがなんであんなことになったか、それを突き止めたいだけなんです……」
目を腫らしつつあるおときのさまを見て、淀辰は意外だという顔を向けた。そうして、視線をおときの顔からはじめてそらせた。
「そうか、そうやったんか……」
急に口をすぼめ、もう一度、辰五郎は、おときの顔を正面から見た。その熱い視線のやり場に困って、おときは目を伏せた。
「……それで、あんたは、事の真相を調べようとしてはるわけなんや。どうやら、今のいままで、わては、大きな勘違いをしてましたわ」
淀辰は続ける。
「……わては、また、あんたが、この淀屋辰五郎を、世間の笑いもんにしようと画策しているとばかり思ってましたんや。なるほど、そういうことでしたら、すっかり、しゃべりまひょ。ただ、今から語ることは、どうか、ここだけの話にしておくれやっしゃ」
そう念を押されて、おときはこっくりとうなづいた。意外な成り行きに、近松も知らずのうちに身を前に乗り出した。
「……お民はなあ、わての可愛い女やったんですわ」
「やっぱり。淀辰はんのお妾はんになったという噂、ほんまのことやったんやね」
「世間ではもうそんなことまで云うてますのんか……それは知らなかった。あれは、去年の夏の終わりの頃でしたわ……」
喋り出すと辰五郎はしみじみとした表情で口を動かし続けた・・・・。
お民の一件が落着するまで、おときはあえて町娘の姿で通すらしい。それがおときなりのお民への供養のかたちなのだろう。近松はそれと察している。かれは幾分緊張していたものの、それを悟らせないように無我の境地を実践していた。無表情、無感覚を装い続けるのである。
突然現れた淀辰は、ふてぶてしいまでの笑みを浮かべて佇んでいた。
「おときはん、久しぶりでんなぁ」
淀辰が言った。そうなのだ、おときは二年前に辰五郎と会っていた……。
「あれから二年とちょい経ちましたやろか。しばらく見んうちに、ほんまに、べっぴんさんになって……」
辰五郎は三十路半ば。世間では、毎夜が酒池肉林三昧だと、やっかみ半分で囁かれているが、二年前に会ったときのおときの印象では、そんなふうには見えなかった。そんなふうに、というのは、ぎらぎらと脂ぎった豪快さではなく、どちらかといえば、神経質そうにさえみえたのだ。
辰五郎の痩せ気味の頬に、ときおり縦筋が走り、ピクピクとせわしそうに顎のあたりが動くさまを見て、この人はなにかに苛立っているんだろうと、初めて会った二年前に思った。
二年前。
大洪水の被害者に公儀御蔵米の放出を提案したときであった。そのとき、辰五郎は二つ返事で請け負ってくれた。義援金集めにも賛同してくれて、後日、淀屋から大枚の金子と魚や野菜などが馬車に曳かれて届いた。意外にも、きめ細かい息遣いが感じられた。二年前の印象と比べても、いま目の前にいる淀辰は、頬がこけ、顔の艶が失せて別人のようにもおもえてくる……。
「さて、きょうは、どういった用件でっしゃろ。これでも忙しい身ぃですよって、はようすませておくれやっしゃ」
おときは、一度、近松の顔を見てから、辰五郎に向き合った。
「無礼は承知で口をきかせてもらいます。影絵茶屋とよばれるところで、人が死ぬ事件が続いているのは、ご存じやとおもいます。その小屋、淀辰はんがやってはるんですか?」
「ほんまに、物騒な世の中になりましたなあ。気味が悪い話やおまへんか。でもな、おときはん、このわてが、あんな小屋なんかに手を出すとお思いですかぃな?心外なことですわ。そないなことを触れ回っている輩がおるそうやけど、まったく迷惑な話でおますわ」
淀辰は、おときの視線を正面からとらえて、逸らさない。ときおり、頬から顎にかけて、肉がぴくひくと動いている。生まれつきの癖なのかもしれない。
「……たしかに、大和川の川違え工事で、以前にも増して人が集まるようになりました。それを目当てに、一山も二山も当てようとする輩が、ぎょうさんいることはたしかやけど、この淀屋が、そんなけちくさいことをすると思うてはるんやったら、迷惑な話でっせ」
そらとぼけているのか、本当に何も知らないのか、淀辰は淡々とした口調で喋り続ける。
「……ただな、おなごはんの前やけどなあ、世の中にはスケベな男が多いさかい、ああした遊びもはやりますねん。それはそれで、浮世の憂さ晴らしでんなぁ」
「そんならお民ちゃんのことは?淀辰はんが、囲ってはったという人もおますけど」
「お民?なんで、お民のことを?」
ふいに淀辰の顎のぴくぴくが止まり、目をしばたいておときを睨んだ。
「お民ちゃんは、うちの幼馴染みなんや!お民ちゃんには、幸せになってもらおうとずっと思ってたんや。寺島の若いもんをお民ちゃんの婿はんにでも、と考えていたのに、あんなことになってしもうて……なんか、うち、むちゃくちゃ、悔しゅうてならへんのや。お民ちゃんが、男はんと心中するなんて、そんなことは絶対ないと、いまも信じとります。お民ちゃんがなんであんなことになったか、それを突き止めたいだけなんです……」
目を腫らしつつあるおときのさまを見て、淀辰は意外だという顔を向けた。そうして、視線をおときの顔からはじめてそらせた。
「そうか、そうやったんか……」
急に口をすぼめ、もう一度、辰五郎は、おときの顔を正面から見た。その熱い視線のやり場に困って、おときは目を伏せた。
「……それで、あんたは、事の真相を調べようとしてはるわけなんや。どうやら、今のいままで、わては、大きな勘違いをしてましたわ」
淀辰は続ける。
「……わては、また、あんたが、この淀屋辰五郎を、世間の笑いもんにしようと画策しているとばかり思ってましたんや。なるほど、そういうことでしたら、すっかり、しゃべりまひょ。ただ、今から語ることは、どうか、ここだけの話にしておくれやっしゃ」
そう念を押されて、おときはこっくりとうなづいた。意外な成り行きに、近松も知らずのうちに身を前に乗り出した。
「……お民はなあ、わての可愛い女やったんですわ」
「やっぱり。淀辰はんのお妾はんになったという噂、ほんまのことやったんやね」
「世間ではもうそんなことまで云うてますのんか……それは知らなかった。あれは、去年の夏の終わりの頃でしたわ……」
喋り出すと辰五郎はしみじみとした表情で口を動かし続けた・・・・。
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