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14 奇妙な依頼人
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市中探索目附目附、分部宗一郎は、大坂城代、土岐家の家臣である。
分部の前に座している男の顔は、忘れようにも忘れられない、できればあまり思い出したくないものであった。
「分部氏、久しいのう」
声の主は、大曽根兵庫といった。
分部は拳を握り締めたまま、侮られぬ程度にかるく頷いた。兵庫の左隣やや後方には、見知らぬ武士が座っている。福島源蔵とすでに名乗り、挨拶をすませていた。
福島が大曽根の左側に座しているのは、初対面の礼儀というものであった。
右側なら、座談中にいきなり抜刀し、向き合った分部に斬りつける……といったことも不可能ではない。その心配は無用、という無言の合図のようなものである。
大曽根兵庫がやや横柄気味にふるまっていたのには、それなりの訳があった。
六年前、参勤交代のおり、三島宿で土岐家と他家の家士との間に、ちょっとした諍い事が起こった。発端は酒の席でのお国自慢からでた感情の交錯で、刀でのやりとりになりかけたとき、仲裁役を買って出たのが兵庫であった。
当時、兵庫は、京で公家などの雇われ家宰もどきのようなことをやっており、それを辞めて江戸に下っていたところであったらしい。
仲裁のおかげで事なきを得た謝礼として、大枚の金子を兵庫に与えた。その交渉をしたのが分部だった。それで決着したはずであるのに、六年の歳月を経て再び大坂であいまみえようとは、分部にしても想像だにしていなかった。
「分部氏、そのように警戒なされずともよろしゅうござる。なにも、遠い昔のことを蒸し返しにきたわけではござらぬゆえ」
淡々とした口調で兵庫はいうが、それを真に受けるほど分部は若くない。二十八といえば、そろそろ壮年にさしかかる年齢であろう。
「……なんとなれば、それがしにとって、土岐家は幸運をもたらしてくれた恩ある御家でござるからの」
突然、兵庫は意外なことを言った。
眼光がきらりと光ったが、悪意は感じられなかった。小首をひねって分部は、兵庫の言い分というものを最後まで聴いてやろうという気になっていた。
「……六年前、分部氏、そこもとと出会い、江戸にたどり着いてから、ひょんなことで、荻原様の知遇を得ることができ、過日は、勘定奉行荻原様の内命を帯びた使者として、大坂城代土岐様にもご挨拶を申し上げた次第……」
「や!」
頓狂な声を挙げかけた分部宗一郎は、顔を赤らめて俯いた。兵庫がすでに主君への謁見をすませていたとは初耳である。いや、幕府要人の使者が訪れたことは分部の耳にも達していたが、まさかこの大曽根兵庫が当事者であろうとは想像だにしていなかった。
兵庫が口にした、勘定奉行荻原とは、荻原重秀のことであろう。
五代将軍徳川綱吉が病死するのは、まだ先の宝永六年(一七○九年)のことであるが、この年、宝永元年は、まだ綱吉治世の後期にあたり、後世には宝永の世も〈元祿政治〉というひとつの大きな括りのなかで扱われることが多い。
そのときに必ず登場する時代の主役が、柳沢吉保と荻原重秀の両名であろう。
……将軍本綱吉がまだ館林藩主であった頃、小納戸役百六十石の陪臣に過ぎなかった柳沢は、綱吉の将軍就任に伴い、綱吉の側用人として幕臣となり、以降、加増に次ぐ加増で、いまや甲府十五万石の大名にまで出世した。いわば、当代一の出世頭で、いまは老中首座の地位にあった。
一方の荻原重秀は、二百俵取りの貧乏旗本の次男坊として生まれた。荻原自身、切米百五十俵から奉公をはじめ、勘定方の能吏として加増を重ねて、いま、四十三歳、二千五百石の押しも押されぬ幕閣重鎮となっていた。
余談ながら。
綱吉が将軍となって意気揚々と江戸城に乗り込んだとき、すでに幕府の御金蔵は空っぽのありさまで、柳沢吉保はじめ綱吉の側近たちは、しばし絶句したまま体躯を凍りつかせた。
そこで、財政再建という重大にして緊急の一大ミッションを与えられたのが、他ならない荻原重秀であった。荻原は、貨幣改鋳という奥の手を使ったのだが、やがて、これがさまざまな波紋を投げ掛けていく……。
大曽根兵庫の話はまだ続いている……。
「……それがしが江戸を発つさいには、御老中柳沢様にも直々に拝謁賜り申した……こうして、公儀御用の役目を担うそれがしとしては、ぜひにも、分部氏にも挨拶申し上げるのが筋と申すもの……」
延々と喋り続ける兵庫の狙いは、分部にも手にとるように判る。柳沢、荻原とのつながりをてこに、無理難題を持ちかける、その前口上ではなかったか。口調は穏やかだが、ときおり自慢ありげな表情を垣間みせている兵庫の胸裡に巣くっているものの正体に、とてつもなく分部は興味をおぼえた。
そういえば、天神の森そばの土岐家大坂屋敷に、江戸から来た侍を十数人、数か月前より住まわせていると聴いていたが、この兵庫のことかもしれないと分部は気づいた。
「……さて、前置きが長くなり申した。分部氏は、市中探索目附のお役目柄、公儀御用瓦師、寺島惣右衛門どのと面識もござろうかと推察し、この福島を連れて参った次第……」
兵庫が首を振って合図すると、それまで寡黙に控えていた福島源蔵が、ひと膝前に進めた。
「寺島?惣右衛門どのにご用事か」
さりげなく分部は空惚けて訊き返した。懇意にしている久富大志郎は、頻繁に寺島家に出入りしている。
寺島の一人娘おときも、久富を“大志郎はん”と気安く接していたし、分部自身、惣右衛門から頼まれて月に一度は、論語の講義めいた談話を寺島の職人たちを前に天王寺と瓦屋町の二か所で実施している……。
「いや、惣右衛門にはなんの用件もござらぬ。分部氏にお頼みいたしたいのは、寺島の瓦屋町寮にいる、伊左次とか申す男の素性を探っていただきたいのですよ」
「ほう……」
思わず分部が唸ると、横から福島源蔵が身をせりだして口をはさんだ。
「伊左次と申す者、あるいは、拙者の仇かもしれぬのです」
「や!」
ふたたび頓狂な声を挙げた分部は、もう一度、福島源蔵の顔を喰い入るように見つめた。
分部の前に座している男の顔は、忘れようにも忘れられない、できればあまり思い出したくないものであった。
「分部氏、久しいのう」
声の主は、大曽根兵庫といった。
分部は拳を握り締めたまま、侮られぬ程度にかるく頷いた。兵庫の左隣やや後方には、見知らぬ武士が座っている。福島源蔵とすでに名乗り、挨拶をすませていた。
福島が大曽根の左側に座しているのは、初対面の礼儀というものであった。
右側なら、座談中にいきなり抜刀し、向き合った分部に斬りつける……といったことも不可能ではない。その心配は無用、という無言の合図のようなものである。
大曽根兵庫がやや横柄気味にふるまっていたのには、それなりの訳があった。
六年前、参勤交代のおり、三島宿で土岐家と他家の家士との間に、ちょっとした諍い事が起こった。発端は酒の席でのお国自慢からでた感情の交錯で、刀でのやりとりになりかけたとき、仲裁役を買って出たのが兵庫であった。
当時、兵庫は、京で公家などの雇われ家宰もどきのようなことをやっており、それを辞めて江戸に下っていたところであったらしい。
仲裁のおかげで事なきを得た謝礼として、大枚の金子を兵庫に与えた。その交渉をしたのが分部だった。それで決着したはずであるのに、六年の歳月を経て再び大坂であいまみえようとは、分部にしても想像だにしていなかった。
「分部氏、そのように警戒なされずともよろしゅうござる。なにも、遠い昔のことを蒸し返しにきたわけではござらぬゆえ」
淡々とした口調で兵庫はいうが、それを真に受けるほど分部は若くない。二十八といえば、そろそろ壮年にさしかかる年齢であろう。
「……なんとなれば、それがしにとって、土岐家は幸運をもたらしてくれた恩ある御家でござるからの」
突然、兵庫は意外なことを言った。
眼光がきらりと光ったが、悪意は感じられなかった。小首をひねって分部は、兵庫の言い分というものを最後まで聴いてやろうという気になっていた。
「……六年前、分部氏、そこもとと出会い、江戸にたどり着いてから、ひょんなことで、荻原様の知遇を得ることができ、過日は、勘定奉行荻原様の内命を帯びた使者として、大坂城代土岐様にもご挨拶を申し上げた次第……」
「や!」
頓狂な声を挙げかけた分部宗一郎は、顔を赤らめて俯いた。兵庫がすでに主君への謁見をすませていたとは初耳である。いや、幕府要人の使者が訪れたことは分部の耳にも達していたが、まさかこの大曽根兵庫が当事者であろうとは想像だにしていなかった。
兵庫が口にした、勘定奉行荻原とは、荻原重秀のことであろう。
五代将軍徳川綱吉が病死するのは、まだ先の宝永六年(一七○九年)のことであるが、この年、宝永元年は、まだ綱吉治世の後期にあたり、後世には宝永の世も〈元祿政治〉というひとつの大きな括りのなかで扱われることが多い。
そのときに必ず登場する時代の主役が、柳沢吉保と荻原重秀の両名であろう。
……将軍本綱吉がまだ館林藩主であった頃、小納戸役百六十石の陪臣に過ぎなかった柳沢は、綱吉の将軍就任に伴い、綱吉の側用人として幕臣となり、以降、加増に次ぐ加増で、いまや甲府十五万石の大名にまで出世した。いわば、当代一の出世頭で、いまは老中首座の地位にあった。
一方の荻原重秀は、二百俵取りの貧乏旗本の次男坊として生まれた。荻原自身、切米百五十俵から奉公をはじめ、勘定方の能吏として加増を重ねて、いま、四十三歳、二千五百石の押しも押されぬ幕閣重鎮となっていた。
余談ながら。
綱吉が将軍となって意気揚々と江戸城に乗り込んだとき、すでに幕府の御金蔵は空っぽのありさまで、柳沢吉保はじめ綱吉の側近たちは、しばし絶句したまま体躯を凍りつかせた。
そこで、財政再建という重大にして緊急の一大ミッションを与えられたのが、他ならない荻原重秀であった。荻原は、貨幣改鋳という奥の手を使ったのだが、やがて、これがさまざまな波紋を投げ掛けていく……。
大曽根兵庫の話はまだ続いている……。
「……それがしが江戸を発つさいには、御老中柳沢様にも直々に拝謁賜り申した……こうして、公儀御用の役目を担うそれがしとしては、ぜひにも、分部氏にも挨拶申し上げるのが筋と申すもの……」
延々と喋り続ける兵庫の狙いは、分部にも手にとるように判る。柳沢、荻原とのつながりをてこに、無理難題を持ちかける、その前口上ではなかったか。口調は穏やかだが、ときおり自慢ありげな表情を垣間みせている兵庫の胸裡に巣くっているものの正体に、とてつもなく分部は興味をおぼえた。
そういえば、天神の森そばの土岐家大坂屋敷に、江戸から来た侍を十数人、数か月前より住まわせていると聴いていたが、この兵庫のことかもしれないと分部は気づいた。
「……さて、前置きが長くなり申した。分部氏は、市中探索目附のお役目柄、公儀御用瓦師、寺島惣右衛門どのと面識もござろうかと推察し、この福島を連れて参った次第……」
兵庫が首を振って合図すると、それまで寡黙に控えていた福島源蔵が、ひと膝前に進めた。
「寺島?惣右衛門どのにご用事か」
さりげなく分部は空惚けて訊き返した。懇意にしている久富大志郎は、頻繁に寺島家に出入りしている。
寺島の一人娘おときも、久富を“大志郎はん”と気安く接していたし、分部自身、惣右衛門から頼まれて月に一度は、論語の講義めいた談話を寺島の職人たちを前に天王寺と瓦屋町の二か所で実施している……。
「いや、惣右衛門にはなんの用件もござらぬ。分部氏にお頼みいたしたいのは、寺島の瓦屋町寮にいる、伊左次とか申す男の素性を探っていただきたいのですよ」
「ほう……」
思わず分部が唸ると、横から福島源蔵が身をせりだして口をはさんだ。
「伊左次と申す者、あるいは、拙者の仇かもしれぬのです」
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