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えどのひと
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商店街のはずれから街を南北に流れる中程度の川へ続く小径は、小高い丘をぐるりと迂回するように続いている。丘の麓には、神主不在の小さな稲荷社がある。
境内の境には朽ちかけた板塀がまだ残っていて、すこし離れた位置に梅の樹木が並んでいる。
初春には地元の人しか知らないちょっとした観梅スポットになって人で賑わうが、その季節以外は閑散としている。
石原書店まで直線距離で1kmもないが、住宅街と段々上の畑を避ける径しかないので、三倍以上の距離になる。のり代が眞と亜沙美を連れて来たのは、彼女が幼い頃によく沙恵と一緒にお散歩にきたスポットだった。
とりわけ夕方の光景がのり代と沙恵の二人にはお気に入りだった。
……その頃、板塀越しに見た空の色は、稲荷社の佇まいよりも鮮やかに紅く染めあげられていたはずである。そこに鱗雲が重なったなら、赤い色の魚があっぷあっぷもがいているようにも、たちまち黒ずんでいくだろう陽の名残りの色合いのかすかな変化というものが、のり代の記憶のなかにいまも色濃く刻まれている。
……そのときとほとんど変わらない光景を、いま、三人はみていた。
「うわぁ、きれい」
亜沙美が飛び上がるようにはしゃぎ出した。退院からまだ一週間、外に出たのははじめてだった。
「ダイちゃん……夕焼け、きれいでしょ!」
亜沙美が言う。
ダイちゃん……は、大沢眞の新しいニックネームだ。入院していたとき、退屈しのぎに亜沙美があれこれと言葉遊びに興じながら、決めた。
「うん、ホントだね……」
眞は眞で、このニックネームはことのほか気に入っていたようだった。
それは……石原書店を大きくしてね! という亜沙美の亡き両親からの強いメッセージのようにも眞の芯奥に響いていたからだった。
心機一転は新規一点……ともいえる。
ニックネーム一つで、なにか従来の自分の殻から脱するきっかけにもなる。そのことを眞は、亜沙美からプレゼントされたような心持ちでいた。
「あまり飛び跳ねたりしたらダメだよ」
「だって、うれしいんだもの」
「気持ちはわかるけど……」
「でしょ、でしょ?」
亜沙美は喋り続けることで、いまの嬉しさが遠のいていかないことを祈っているようにもみえる。
「あ……ダイちゃんが、あたしの先生になってくれるの?」
「ああ、勉強、これから教えるよ、ぼくにできる範囲でだけど……」
「なにが得意」
「国語、歴史、社会……」
「英語は?」
「あんまり得意ではないけど、一緒に、覚えていこうか」
「うん、あたし、算数は好き」
「おお、それはいい……亜沙美ちゃんは、将来の石原書店の社長さんだから、数字に強くなるのはいい」
「うーん、じゃ、ダイちゃんは、何」
「いまは、店長かな、雇われ店長……意味わかるかな」
「わかんない」
そんなやりとりが続いたあとで、
「これから、“ダイちゃん先生”って呼ばなくっちゃ」
「いや、先生……は、いらない」
「ほんと、ダイちゃんでいいの?」
「ああ、いいよ」
「ダイちゃん、腕立て伏せやって、やって!」
「ええっ……! 運動苦手なんだけどなあ」
実の兄妹か父娘のようなこの二人の姿をみて、のり代は亡くした夫との在りし日を思い出しては、ホッと胸を撫で下ろした。
(あ、いけない、いけない、こんなことで安心しては……これからが、正念場なんだから)
おもわずのり代は気を引き締めた。
商店会の会長に就任することが決まって、これから活性化と魅力創出のためのさまざまな取り組みをしていかなければならない。商店会の役員から退いた源さんは、
『これからは一兵卒として、ノリちゃんを応援するぞ』
と、息巻いている。
もっとも商店会メンバーを襲った悲劇の余波はまだ癒えることないにしても、
「ま、これからね」
と、のり代は思う。
……亜沙美の祖父、健吉は、まだ今回の悲報を知らないのだろう。でも、いつの日にか、この街に帰ってくるかもしれない。
「絶対、そうだわ。戻ってきてくれるわ……ね、沙恵、一郎さん……」
のり代には、そのことが信じられそうな気がしている。
信じることが力になる。
そうおもっている、おもいたい……。
「さあ、そろそろ、夕食の時間よ」
のり代が横から口を挟むと、
「まだ早いよぉ!」
と、亜沙美は振り返らない。
芝生の上で眞がうつ伏せになって、腕立て伏せをはじめた。
隣にちょこんと座って、
「十、十一、十二……」
と、数えはじめた亜沙美を叱り飛ばすことは、のり代にはできない。かすかに笑いながら、深呼吸をした。
二人とは反対のほうへ歩き出し、線路の上を電車が走っていくのをみていた。
(沙恵も動くものが好きだった……)
忘れていたどうでもいいことが、なにかの拍子にぽんと湧き上がってくることがある。そういうことを愉しむ余裕が、少しずつ芽生えていけばいい。そんなことを考えていると、亜沙美の嬌声が耳に届いた。
つられるように振り返ったのり代は、ハッと我が目を疑った。
亜沙美と眞の間に揺らぎながら佇んでいる人の姿を、確かにとらえた。
「ひゃあ、えどのひと……」
叫ぼうとして、のり代は、慌ててトーンを抑えた。
この世には言葉にしてはならない真実というものがある。そうおもった。
そして、小さな声でそっとつぶやいた。
「ダイちゃんにも、みえる日がくるよ、きっと……」
( 了 )
境内の境には朽ちかけた板塀がまだ残っていて、すこし離れた位置に梅の樹木が並んでいる。
初春には地元の人しか知らないちょっとした観梅スポットになって人で賑わうが、その季節以外は閑散としている。
石原書店まで直線距離で1kmもないが、住宅街と段々上の畑を避ける径しかないので、三倍以上の距離になる。のり代が眞と亜沙美を連れて来たのは、彼女が幼い頃によく沙恵と一緒にお散歩にきたスポットだった。
とりわけ夕方の光景がのり代と沙恵の二人にはお気に入りだった。
……その頃、板塀越しに見た空の色は、稲荷社の佇まいよりも鮮やかに紅く染めあげられていたはずである。そこに鱗雲が重なったなら、赤い色の魚があっぷあっぷもがいているようにも、たちまち黒ずんでいくだろう陽の名残りの色合いのかすかな変化というものが、のり代の記憶のなかにいまも色濃く刻まれている。
……そのときとほとんど変わらない光景を、いま、三人はみていた。
「うわぁ、きれい」
亜沙美が飛び上がるようにはしゃぎ出した。退院からまだ一週間、外に出たのははじめてだった。
「ダイちゃん……夕焼け、きれいでしょ!」
亜沙美が言う。
ダイちゃん……は、大沢眞の新しいニックネームだ。入院していたとき、退屈しのぎに亜沙美があれこれと言葉遊びに興じながら、決めた。
「うん、ホントだね……」
眞は眞で、このニックネームはことのほか気に入っていたようだった。
それは……石原書店を大きくしてね! という亜沙美の亡き両親からの強いメッセージのようにも眞の芯奥に響いていたからだった。
心機一転は新規一点……ともいえる。
ニックネーム一つで、なにか従来の自分の殻から脱するきっかけにもなる。そのことを眞は、亜沙美からプレゼントされたような心持ちでいた。
「あまり飛び跳ねたりしたらダメだよ」
「だって、うれしいんだもの」
「気持ちはわかるけど……」
「でしょ、でしょ?」
亜沙美は喋り続けることで、いまの嬉しさが遠のいていかないことを祈っているようにもみえる。
「あ……ダイちゃんが、あたしの先生になってくれるの?」
「ああ、勉強、これから教えるよ、ぼくにできる範囲でだけど……」
「なにが得意」
「国語、歴史、社会……」
「英語は?」
「あんまり得意ではないけど、一緒に、覚えていこうか」
「うん、あたし、算数は好き」
「おお、それはいい……亜沙美ちゃんは、将来の石原書店の社長さんだから、数字に強くなるのはいい」
「うーん、じゃ、ダイちゃんは、何」
「いまは、店長かな、雇われ店長……意味わかるかな」
「わかんない」
そんなやりとりが続いたあとで、
「これから、“ダイちゃん先生”って呼ばなくっちゃ」
「いや、先生……は、いらない」
「ほんと、ダイちゃんでいいの?」
「ああ、いいよ」
「ダイちゃん、腕立て伏せやって、やって!」
「ええっ……! 運動苦手なんだけどなあ」
実の兄妹か父娘のようなこの二人の姿をみて、のり代は亡くした夫との在りし日を思い出しては、ホッと胸を撫で下ろした。
(あ、いけない、いけない、こんなことで安心しては……これからが、正念場なんだから)
おもわずのり代は気を引き締めた。
商店会の会長に就任することが決まって、これから活性化と魅力創出のためのさまざまな取り組みをしていかなければならない。商店会の役員から退いた源さんは、
『これからは一兵卒として、ノリちゃんを応援するぞ』
と、息巻いている。
もっとも商店会メンバーを襲った悲劇の余波はまだ癒えることないにしても、
「ま、これからね」
と、のり代は思う。
……亜沙美の祖父、健吉は、まだ今回の悲報を知らないのだろう。でも、いつの日にか、この街に帰ってくるかもしれない。
「絶対、そうだわ。戻ってきてくれるわ……ね、沙恵、一郎さん……」
のり代には、そのことが信じられそうな気がしている。
信じることが力になる。
そうおもっている、おもいたい……。
「さあ、そろそろ、夕食の時間よ」
のり代が横から口を挟むと、
「まだ早いよぉ!」
と、亜沙美は振り返らない。
芝生の上で眞がうつ伏せになって、腕立て伏せをはじめた。
隣にちょこんと座って、
「十、十一、十二……」
と、数えはじめた亜沙美を叱り飛ばすことは、のり代にはできない。かすかに笑いながら、深呼吸をした。
二人とは反対のほうへ歩き出し、線路の上を電車が走っていくのをみていた。
(沙恵も動くものが好きだった……)
忘れていたどうでもいいことが、なにかの拍子にぽんと湧き上がってくることがある。そういうことを愉しむ余裕が、少しずつ芽生えていけばいい。そんなことを考えていると、亜沙美の嬌声が耳に届いた。
つられるように振り返ったのり代は、ハッと我が目を疑った。
亜沙美と眞の間に揺らぎながら佇んでいる人の姿を、確かにとらえた。
「ひゃあ、えどのひと……」
叫ぼうとして、のり代は、慌ててトーンを抑えた。
この世には言葉にしてはならない真実というものがある。そうおもった。
そして、小さな声でそっとつぶやいた。
「ダイちゃんにも、みえる日がくるよ、きっと……」
( 了 )
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