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第六話 神様お願い……

逃げたいけど、逃げきれない

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「や!」

 テラモンが舌打ちをした。困ったような顔になった。
 ……実は前もって八右衛門と打ち合わせていたのだ、この件が片付くまで八右衛門は知らぬふりに徹すると……。
 そう約束した上で、に会い、とおヨネ婆との間の秘密に近づいたというのに、肝心なこの場に八右衛門が姿をみせるとは、テラモンにとっても不意打ちのようなものであった。
 とはいえ、の父親として、八右衛門はおヨネ婆の存在を許してはおけなかったのかもしれない。そんなことぐらいは、テラモンにもよくわかる。
 ここで、八右衛門が登場してきた以上、敵であるの反応を見守るしかない。
 表情を変えず黙ったまま、テラモンは脇差鞘口にかけた手を離した。わざと大刀を置いてきたのは、敵を油断させる策であったが、ここは八右衛門の動きが読めないだけに、脇差とはいえ、ひとたびこちらが抜刀してしまえば、八右衛門をも巻き込んでしまうことになりかねない。
 そのことをテラモンは避けようとしていた。

 すると、八右衛門は、
「どうしても見ておれなかった……お師匠……テラモン殿……おゆるし願いたい」
と、テラモンの耳元で囁いた。
 詫びのつもりであったろう。

「お師匠ならば、一刀のもとに、あの婆めを斬り捨てることができよう。けれど、それでは、こちらの義が立たぬゆえ」

 意外にも、八右衛門はそんなことを言い出した。どうやら八右衛門は、おヨネ婆がテラモンに成敗されるのを止める覚悟でのこのことやってきたらしかった。
 それを知って怒ったのは、むしろおヨネ婆のほうであった。

「な、なにをぬかすかっ! かつての剣豪とは申せ、老いた隠居ごときに負けるような婆ではないぞえ……」

 そんなことを喋り出したおヨネ婆だったが、むしろ、八右衛門の登場に安堵の息を洩らしたのはこの婆のほうであったかもしれない。なぜなら、八右衛門が相手ならば、のことで駆け引きができるからだ。

「八右衛門よ、この婆めを斬れば、とて生きてはおれぬぞよ!」

「ええい、申すな!」

 応じたのは八右衛門である。

「……すでに、そのほうの正体は、お見通しぞ! 追っつけ、かたがこぞって駆けつけてこよう。の、去るのならいまのうちぞ!」

「な、なんと?この婆を逃すと言いやるのか!」

 おヨネは驚いて、八右衛門の顔をにらんだ。かれの意図が読み切れず、婆は眉をひそめた。

「……受けた恩は、なんとしても返さずばなるまい。の手当が遅ければ、わしの腕と脚は不具になっていたやもしれぬ。初の正体は、すでに見抜いておる。その上で、今のいままで気づかぬふりをしてきたのは、その恩のため。婆よ、さあ、いまのうちに、ぬるがいい。だが二度と、御領内に足を踏み入れるでないぞ!」

 これほどの父の長冗舌ながじょうぜつを、は初めて耳にした。なにやら別の何かが父に取りいているようにもおもえた。

 あたりにの姿はない。
 いや、近くで事の成り行きをじっと窺っているかもそれないと、はおもった。
 ふいにテラモンがしゃがんで、かいなをたぐって立たせた。
 なぜかはポッと頬を染めた。
 大きなため息が洩れ聞こえてきた。
 婆が吐いたのであろう、故意に音を響かせたのは、戦意がせたことを、八右衛門とテラモンの二人に告げるためであったろうか。

 ところがそのまま姿を消すことなく、おヨネ婆は、八右衛門ではなく、テラモンに向かって言い捨てた。

「テラモン……ふん、近いうちに、再び、相見あいまみえることになろう。この婆とて、只の老いぼれではあるまいぞ。そのこと、ようく覚えてらっしゃれ」

 さらに婆はどこかの国訛ほうげんなのか意味の解せない悪態をつくと、そのまましゅるると蔦を這って、小動物が逃げ去るように、やや尊大ともいえる大きな音だけを残して消えた……。

大事だいじないか?」

 振り返りざま、八右衛門は厳しい顔をに向けた。依然として、八右衛門は股慄こりつをおぼえていたようである。
 かりにおのれ一人で婆と闘っていたならば、勝算はなかったからである。
 婆が逃走したのは、やはり、テラモンの剣技をおそれたからであって、先の先が読めぬとあらば、あやうきに近寄らないのは忍び探索者の鉄則であった。

 風が舞うように去っていった二人の余韻はすでになく、蔦のからまる大木がかすかに左右に揺れていた。


 ……が戻って来るのか来ないのか、それは八右衛門にも判らない。気長に待ってやろう、とも思っていた。それに、他人からの複雑な視線のなかをくぐりながら生きていくのも、また、なにやら励みにもなる。八右衛門は、そんな気がしていた。

「……お師匠、助太刀すけだちかたじけのうござった」

 八右衛門がテラモンに礼をのべた。

「いや、わしはなにも……」
「なんの、お師匠は、それがしとにとっての救いの神様にほかならぬゆえ」
「・・・・・・・」

 テラモンはなにも言わない。
 照れているのか、驚いていたのかは、にもわからなかった。
 けれど父が言ったように、このテラモンこそが、稲荷社が遣わしてくれた神様の使者のようにおもえてきて、ふいに、目頭めがしらが熱くなってきた。
 その様子をみていた八右衛門が、つぶやいた。

・・・・かりに、かりにだ、が戻ってきたならば、なにも聴かず、たださず、そっとな、ただ笑って、迎えてやるのだぞ」

 そう言われたは、八右衛門が嬉しげに微笑むのをみて、稲荷社の神様への願い事は、一体どのように判定されたのだろう、とむしろそのことがちらりと頭裡をかすめた。
 そうして、なにやら若々しくなっている父の横顔をちらりとみた。

 そのとき。
 大木の上で人影がうごめいたのを認めた。であった。
 ひょいとなにかをこちらに投げつけた。
 あっ、と叫ぶ間もなく、、のびはじめたの後ろ髪をくるりと束ねたその中にぷすっと突き刺さった。
 瑪瑙細工のかんざし、であった。
 まだたかぶりが失せない八右衛門は、気づかなかったようである。
 おそらく察したであろうはずのテラモンは、なにも言わない。なにも発しない。
 それがには嬉しかった。
 テラモンの善意なのだと胸のなかで手を合わせた。

 それに。
 は、このかんざしはからの形見かたみの贈り物なのだと思った。
 そして、おそらく二度と初とは会うことはないだろうと、そのことを半ば確信した。

 けれども。
 このことは父には告げまい、言うまいとはおもった。ことさら言詞ことばにしなくてもいい真実もある。

 が伝っていった蔦のつるが揺れている。
 その揺れが今生こんじょうの別れを告げているようににはみえた。
 すると思ってもいなかったことが少女の口をひょいとついて出た。

「父上、初さまは、きっと戻ってきますとも」

 そう言ってあげることが、いまの父には必要なのだと、はそのことを勝手に信じようとした……。
 これぐらいの嘘なら、きっと神様も許してくれるにちがいないと、はほんの少し背伸びしたような大人びたみを八右衛門に返してみせた。


         (  第六話 了  ) 
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