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第六話 神様お願い……
複雑すぎて、もどかしい……
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このところ八右衛門は充ちている。もとより、性的に、という意味ではない。初とはまぐわう仲ではなかった。
始終、かれの頬が艷やかに潤っているようにみえるのも、性的な名残りではなく、おのれに対して向けられ続けてきたあの視線の意味合いが変わってきていることに気づいたからである。
それは初が家に居ついてくれたその効果というものであったろうか。
……あのような見目麗しき女人が、八右衛門宅に居候しているその事実というものが、耳目を集めたのは当然のことで、まず、同輩のかれをみる目が急に変わった。
いままでは、八右衛門のことをそこに在ってそこに居ないかのごとくぞんざいに扱ってきた輩が、突然、てのひらを返したかのように、冷ややかではなく、どことなく羨ましげさえある、『この男のどこにあんな美女を魅了するものが宿っているのか』と見直しつつある経過の吐息が洩れ聴こえてきそうな、いわばそういった相手の視線と挙措が、いつになく八右衛門の心持ちを豊かにしている。
第二に、往来の町人の八右衛門に対する態度が様変わりした。
これまで八右衛門が遠くから歩いて来つつあるのを目にするや否や、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、できるかぎり顔を合わさないようにしていた者どもが、ここにきて立ち去ることなく、八右衛門の面をちらりと拝むようにすらなっていた。絶世の美女が同居したいと思わせる何かを八右衛門が有しているのならば、そのお零れなりともあやかりたい、魅の素を授かりたいといったあたかも神頼みにも似た心理が働いていたのかもしれなかった。
(面妖なことだ……がの、こう、躰の奥底からむずむず痒さがわいてくるわい)
とはいえ。
とまどいつつも八右衛門は悪い気はしない。男やもめで子持ちの、しかも追手番という他人から毛嫌いされる御役目の身でありながら、周囲から注視されることが、これほど気分を良くしてくれるものなのかと、八右衛門自身、驚いてもいた。
かりに、初との関係を率直に質されたとしたら、八右衛門は思わせぶりに微笑みかけながら、
『さても、さても』
と、謳いつつ、空惚けてごまかすしかできないのだから。
このさい初を後妻に……などと妄想しようものなら、それこそ後々赤恥を掻くにちがいないことも重々わかっているのだが、しばしの間でもいまの心地よい気分というものを維持したいものだと八右衛門なりに算段してもいた。
ところが。
家に戻ると、初とちえの様子がどことなくぎこちないことに気づいて、首をかしげた。
実の母であるかのように初になついていたちえが、なんとも初を避けているように八右衛門には感じられた。よそよそしいまでは感じなくても、どことなく目には見えない壁をこしらえているように察した。
ひとの微妙な表情の動きを察する能力は、御役目を通じて学び取ってきた。しかも相手は血を分けた娘である。
ちえを連れ出して問うてやろうかとも考えたが、止めた。
実は八右衛門なりに薄々察しがついていたのだ。
(あるいは……ちえは、初の正体に気づきおったのかもしれぬ……)
そうと察しても、八右衛門には為すすべはなかった。
初はいわば生命の恩人ともいえた。たとえ、初が公儀の犬、いや、隠密であろうとも、である。
……あのとき、道中で手際よく傷の手当をしてくれた時点で、八右衛門は初の正体を察していたのだ。
見慣れぬ薬草を煎じ練り傷に塗り込んだ手際の良さ、隙のない身のこなし様、幕領に棲み周辺の藩の内情を探っているにちがいあるまいと八右衛門は踏んでいた。いま、初が神坂藩領に足を踏み入れたのも、その使命達成のためであったろう。
そうと推測してはいても、大きな借りを返さないうちは初を粗略には扱えなかった。
それに。
このまま、しずかに、三人での暮らしを続けてみたいとも思いはじめている。
職務一筋に生きてきた八右衛門にとっては、ほんのささやかで、つましい願いであった。初と夫婦にならずともいい。一緒にいてくれるだけでいいのだ。それが叶うものならば、性欲の衝動など抑えてみせようともおもっていた。刹那の快楽より、多年の安寧のほうが、八右衛門には好ましく映った。
(はて、さて、どうしたものか……)
複雑に絡み合う八右衛門の心情の動きというものは、なかなかに解けそうもない……。だから、もどかしい。考えれば考えるほど、せつなくもなる。
八右衛門には、胸中の悩みを打ち明ける友はいない。はてさて……と考えあぐねた末に、ぽっと火が灯るように頭裡に浮かんだのは、剣の師ともいうべき寺田文右衛の門の顔だった。
三年の間、剣の手ほどきを受けた。謝礼なしの、善意による指導であった。その返礼を兼ねて家に招き、素膳を供したときにも、テラモンは応じてくれた。かれは八右衛門にとっては剣の師である前に実の父、あるいは祖父ののようにもおもえてきていた。ちえも、興味の目でテラモンを眺めていたはずである。
そのおりの光景が浮かび上がってきたとき、八右衛門は、ふとあのテラモンに相談してみようとおもった。
……あの御仁ならば、藩士でもなく、谷崎家の用人にすぎないので、自分の仕事にも支障を来すことはないだろうといった打算もあった。だから、そうおもった
なによりテラモンは口が堅い……という世評があった。陰口をたたかず、若き頃の剣豪と畏れられた往時の自慢話も一切しない。
剣の指導も、厳しくはなかった。
本来ならば、十、十一の頃から剣の修行をはじめるべきものなのだが、とうが経っている八右衛門には、自分が気づかない癖や動作の緩慢さを指摘する程度のもので、さりながら、テラモンのおかげで、八右衛門の剣の腕前は別人のように上がった。
なにより、始終にこにこと笑みを絶やさず、好々爺のご隠居のようなテラモンならば、初とちえの間の見えない壁を打ち破ってくれるだろうと期待して、思い立ったその日のうちにテラモンに会いに出かけた。
相談事をしにいく鈍重な足取りではなく、むしろ、生き別れの父親にでも会いに出かけるような軽妙さに溢れていた。
そのことに気づいて、自然と八右衛門は頬をたるませるのだった……。
始終、かれの頬が艷やかに潤っているようにみえるのも、性的な名残りではなく、おのれに対して向けられ続けてきたあの視線の意味合いが変わってきていることに気づいたからである。
それは初が家に居ついてくれたその効果というものであったろうか。
……あのような見目麗しき女人が、八右衛門宅に居候しているその事実というものが、耳目を集めたのは当然のことで、まず、同輩のかれをみる目が急に変わった。
いままでは、八右衛門のことをそこに在ってそこに居ないかのごとくぞんざいに扱ってきた輩が、突然、てのひらを返したかのように、冷ややかではなく、どことなく羨ましげさえある、『この男のどこにあんな美女を魅了するものが宿っているのか』と見直しつつある経過の吐息が洩れ聴こえてきそうな、いわばそういった相手の視線と挙措が、いつになく八右衛門の心持ちを豊かにしている。
第二に、往来の町人の八右衛門に対する態度が様変わりした。
これまで八右衛門が遠くから歩いて来つつあるのを目にするや否や、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、できるかぎり顔を合わさないようにしていた者どもが、ここにきて立ち去ることなく、八右衛門の面をちらりと拝むようにすらなっていた。絶世の美女が同居したいと思わせる何かを八右衛門が有しているのならば、そのお零れなりともあやかりたい、魅の素を授かりたいといったあたかも神頼みにも似た心理が働いていたのかもしれなかった。
(面妖なことだ……がの、こう、躰の奥底からむずむず痒さがわいてくるわい)
とはいえ。
とまどいつつも八右衛門は悪い気はしない。男やもめで子持ちの、しかも追手番という他人から毛嫌いされる御役目の身でありながら、周囲から注視されることが、これほど気分を良くしてくれるものなのかと、八右衛門自身、驚いてもいた。
かりに、初との関係を率直に質されたとしたら、八右衛門は思わせぶりに微笑みかけながら、
『さても、さても』
と、謳いつつ、空惚けてごまかすしかできないのだから。
このさい初を後妻に……などと妄想しようものなら、それこそ後々赤恥を掻くにちがいないことも重々わかっているのだが、しばしの間でもいまの心地よい気分というものを維持したいものだと八右衛門なりに算段してもいた。
ところが。
家に戻ると、初とちえの様子がどことなくぎこちないことに気づいて、首をかしげた。
実の母であるかのように初になついていたちえが、なんとも初を避けているように八右衛門には感じられた。よそよそしいまでは感じなくても、どことなく目には見えない壁をこしらえているように察した。
ひとの微妙な表情の動きを察する能力は、御役目を通じて学び取ってきた。しかも相手は血を分けた娘である。
ちえを連れ出して問うてやろうかとも考えたが、止めた。
実は八右衛門なりに薄々察しがついていたのだ。
(あるいは……ちえは、初の正体に気づきおったのかもしれぬ……)
そうと察しても、八右衛門には為すすべはなかった。
初はいわば生命の恩人ともいえた。たとえ、初が公儀の犬、いや、隠密であろうとも、である。
……あのとき、道中で手際よく傷の手当をしてくれた時点で、八右衛門は初の正体を察していたのだ。
見慣れぬ薬草を煎じ練り傷に塗り込んだ手際の良さ、隙のない身のこなし様、幕領に棲み周辺の藩の内情を探っているにちがいあるまいと八右衛門は踏んでいた。いま、初が神坂藩領に足を踏み入れたのも、その使命達成のためであったろう。
そうと推測してはいても、大きな借りを返さないうちは初を粗略には扱えなかった。
それに。
このまま、しずかに、三人での暮らしを続けてみたいとも思いはじめている。
職務一筋に生きてきた八右衛門にとっては、ほんのささやかで、つましい願いであった。初と夫婦にならずともいい。一緒にいてくれるだけでいいのだ。それが叶うものならば、性欲の衝動など抑えてみせようともおもっていた。刹那の快楽より、多年の安寧のほうが、八右衛門には好ましく映った。
(はて、さて、どうしたものか……)
複雑に絡み合う八右衛門の心情の動きというものは、なかなかに解けそうもない……。だから、もどかしい。考えれば考えるほど、せつなくもなる。
八右衛門には、胸中の悩みを打ち明ける友はいない。はてさて……と考えあぐねた末に、ぽっと火が灯るように頭裡に浮かんだのは、剣の師ともいうべき寺田文右衛の門の顔だった。
三年の間、剣の手ほどきを受けた。謝礼なしの、善意による指導であった。その返礼を兼ねて家に招き、素膳を供したときにも、テラモンは応じてくれた。かれは八右衛門にとっては剣の師である前に実の父、あるいは祖父ののようにもおもえてきていた。ちえも、興味の目でテラモンを眺めていたはずである。
そのおりの光景が浮かび上がってきたとき、八右衛門は、ふとあのテラモンに相談してみようとおもった。
……あの御仁ならば、藩士でもなく、谷崎家の用人にすぎないので、自分の仕事にも支障を来すことはないだろうといった打算もあった。だから、そうおもった
なによりテラモンは口が堅い……という世評があった。陰口をたたかず、若き頃の剣豪と畏れられた往時の自慢話も一切しない。
剣の指導も、厳しくはなかった。
本来ならば、十、十一の頃から剣の修行をはじめるべきものなのだが、とうが経っている八右衛門には、自分が気づかない癖や動作の緩慢さを指摘する程度のもので、さりながら、テラモンのおかげで、八右衛門の剣の腕前は別人のように上がった。
なにより、始終にこにこと笑みを絶やさず、好々爺のご隠居のようなテラモンならば、初とちえの間の見えない壁を打ち破ってくれるだろうと期待して、思い立ったその日のうちにテラモンに会いに出かけた。
相談事をしにいく鈍重な足取りではなく、むしろ、生き別れの父親にでも会いに出かけるような軽妙さに溢れていた。
そのことに気づいて、自然と八右衛門は頬をたるませるのだった……。
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