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第七話 星雲はるかに
テラモンの使者
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井上善右衛門の従者はただ一人であった。それが顔見知りの弥七だったことは、源吾を一瞬、安心させた。けれど、捕り方を率いていないことが源吾の不審の念を助長させていた。
「後詰めは、いつ参られるのか」
一通りの挨拶を済ませたあとで、源吾は直截に善右衛門にたずねた。
後詰め……というのは、仕置陣屋に詰めるはずの配下の者、捕り方といった意味であったろう。
「後詰めはいない」
ずばりと善右衛門がいった。
「ん……? 参らぬ、ということか」
「さよう」
「な、なぜだ? そちらは、御差配さまであろうが? おれはいつの間にか副差配を命じられてしもうたが、上司であるそちらのことはほとんど知らぬ。しかも、おれは神坂藩士ではない……一体、どうなっているのだ。まずはそのことをうかがいたいものだ」
源吾の物言いはいたってぞんざいである。
ところが、善右衛門はそれには怒らず、むしろ、頬に笑みを湛えた。
「わしも仔細はわからぬ」
善右衛門は言う。
「テラモンどののご指示だ。ここはそれに従うほかあるまい」
「ん……? 御差配は、異なことを申される。あのテラさんは陪臣であろう? れっきとした藩士の御差配が、老師の言に従うとは、よくわからぬことだ」
源吾も負けてはいない。失うものはなにもないのだ、相手が役職者であろうと藩士であろうと、かまうことはない。そして、いつの間にかテラモンのことを“老師”と呼んでいた。琴江の口癖がうつっていたのだろう。
「いや、わしは……」
と、善右衛門が続けた。
「……たとえ、ご家老や殿さんの指示に従わないことがあろうとも、あのテラモンどのには頭が上がらないのだ」
「な、なんと……?」
「まあ、聴け。わしはテラモンどののご推挙により、新しくできる剣術道場の師範代に内定しておる。もとよりまだ、先の話だが、それまでの間、臨時でここの差配を務めるだけだ。わしのあとは、そなた、奥山源吾どのが、差配として、陣屋の主になるのだよ。いわば、雇われ代官だな」
「な、な………」
源吾は絶句した。次の言葉が出てこない。開いた口が塞がらないとは、このことであったろう。藩士でもない自分を代官職に抜擢するなどとは到底想像だにできないことであった。
嬉しいのではない。別に出世は望んていない。むしろ、琴江とふたりでひっそりと暮らしていければそれでいいのだ。源吾は心底そう願っていた。
「……ま、とにかくだ、中に入れてくれぬか。喉が乾いた、白湯なりとも馳走してくれまいか」
善右衛門が言うと、それまで黙って二人のやりとりを聴いていた弥七が、
「まあまあ、まあまあ……」
と、間に立った。
「それにいたしましても、お二方とも、実の兄弟のごとく、似ておりますねぇ」
「な、なにぃ」と、源吾。
「それはない」と、善右衛門。
「まあまあ、とりあえず、テラモン様が何を企図されているのか……それを整理しましょうや」
弥七が言った。
「おお、テラさんの容態はどうだ、どうなんだ?」
源吾が口を挟んだ。
「かなり重そうだ……と聴いたぞ」
源吾がいった。
「ええ、まあ、そのことを含めて、ま、なかで、寛ぎながら、お話を……」
弥七が先導し、真新しい材木のにおいが散る屋敷のなかへ入っていった。ちょうど、舟宿の裏側に面しており、門はまだない。
入り口の左右両側に井戸が掘り進められているのは、火事避けであったろう。この時代、天災に比して恐れられたのは火事なのである。
井上善右衛門が話し始めると、琴江が現れ、おそらく新しい船頭の頭目なのだろう、屈強な体つきの若者も同席した。
太一と名乗った。
善右衛門が語ったテラモンの企図の内容は、源吾や琴江、太一の想像をはるかに凌駕するものであった。
この無法地帯を、どの藩にも属さない第三勢力のもとに治める……というものであったのだ。当初、かつて山横目として活躍した山本正二郎を仕置陣屋の長として着任させる計画であったのだが、御城下である謀略が水面下で企まれていることを察知した谷崎家老の配慮で、正二郎を目付副差配の重職に就かせたのだ。
城下の陰謀とは、次期藩主の座をめぐる、江戸の正室派と各側室に連なる譜代重臣や新参の若手たちによる権力闘争であった。
つまりは、いま、神坂藩では、その後継問題と、無法地帯の治安化という二つの異なった大きな問題が横たわっていたのである。しかも、それはまったく別のものではない。なんとなれば、かりに藩内の或る一派が、この地帯での主導権を確立したとすれば、それはそれで大きな影響力を有するものになるにちがいあるまい。よしんば、そうではなくても、幕府に治安紊乱の報告が為されれば、藩自体がお咎めを受けないとも限らないのだ。
そこまでざっと説明した善右衛門が、
「……いずれにせよ、早急にこの地の治安を回復させねばならぬ。しかも、表向きは、神坂藩仕置陣屋が行政の上に立つが、実態は、数藩と幕府代官所も巻き込んで、それぞれの合意のもとでの共同統治を実現させる……」
と、言い切った。
「ひゃ」
先に声を上げたのは、弥七である。
ほかの者は、あまりにも壮大にして実現不可能な計画の概要を聴いて、衝撃のあまり、寂として声なし……といったあり様であった。
「……これが谷崎家老とテラモンどのが半月かけて考えに考えた最終攻防の鍵だ」
ぼそりと井上善右衛門は告げながら、一方でテラモンの復帰を案じてもいた。目の前の源吾たちにはその詳細は誤魔化しはぐらかしていたが、いま、テラモンは医師も匙を投げるほどの容態であったからである……。
「後詰めは、いつ参られるのか」
一通りの挨拶を済ませたあとで、源吾は直截に善右衛門にたずねた。
後詰め……というのは、仕置陣屋に詰めるはずの配下の者、捕り方といった意味であったろう。
「後詰めはいない」
ずばりと善右衛門がいった。
「ん……? 参らぬ、ということか」
「さよう」
「な、なぜだ? そちらは、御差配さまであろうが? おれはいつの間にか副差配を命じられてしもうたが、上司であるそちらのことはほとんど知らぬ。しかも、おれは神坂藩士ではない……一体、どうなっているのだ。まずはそのことをうかがいたいものだ」
源吾の物言いはいたってぞんざいである。
ところが、善右衛門はそれには怒らず、むしろ、頬に笑みを湛えた。
「わしも仔細はわからぬ」
善右衛門は言う。
「テラモンどののご指示だ。ここはそれに従うほかあるまい」
「ん……? 御差配は、異なことを申される。あのテラさんは陪臣であろう? れっきとした藩士の御差配が、老師の言に従うとは、よくわからぬことだ」
源吾も負けてはいない。失うものはなにもないのだ、相手が役職者であろうと藩士であろうと、かまうことはない。そして、いつの間にかテラモンのことを“老師”と呼んでいた。琴江の口癖がうつっていたのだろう。
「いや、わしは……」
と、善右衛門が続けた。
「……たとえ、ご家老や殿さんの指示に従わないことがあろうとも、あのテラモンどのには頭が上がらないのだ」
「な、なんと……?」
「まあ、聴け。わしはテラモンどののご推挙により、新しくできる剣術道場の師範代に内定しておる。もとよりまだ、先の話だが、それまでの間、臨時でここの差配を務めるだけだ。わしのあとは、そなた、奥山源吾どのが、差配として、陣屋の主になるのだよ。いわば、雇われ代官だな」
「な、な………」
源吾は絶句した。次の言葉が出てこない。開いた口が塞がらないとは、このことであったろう。藩士でもない自分を代官職に抜擢するなどとは到底想像だにできないことであった。
嬉しいのではない。別に出世は望んていない。むしろ、琴江とふたりでひっそりと暮らしていければそれでいいのだ。源吾は心底そう願っていた。
「……ま、とにかくだ、中に入れてくれぬか。喉が乾いた、白湯なりとも馳走してくれまいか」
善右衛門が言うと、それまで黙って二人のやりとりを聴いていた弥七が、
「まあまあ、まあまあ……」
と、間に立った。
「それにいたしましても、お二方とも、実の兄弟のごとく、似ておりますねぇ」
「な、なにぃ」と、源吾。
「それはない」と、善右衛門。
「まあまあ、とりあえず、テラモン様が何を企図されているのか……それを整理しましょうや」
弥七が言った。
「おお、テラさんの容態はどうだ、どうなんだ?」
源吾が口を挟んだ。
「かなり重そうだ……と聴いたぞ」
源吾がいった。
「ええ、まあ、そのことを含めて、ま、なかで、寛ぎながら、お話を……」
弥七が先導し、真新しい材木のにおいが散る屋敷のなかへ入っていった。ちょうど、舟宿の裏側に面しており、門はまだない。
入り口の左右両側に井戸が掘り進められているのは、火事避けであったろう。この時代、天災に比して恐れられたのは火事なのである。
井上善右衛門が話し始めると、琴江が現れ、おそらく新しい船頭の頭目なのだろう、屈強な体つきの若者も同席した。
太一と名乗った。
善右衛門が語ったテラモンの企図の内容は、源吾や琴江、太一の想像をはるかに凌駕するものであった。
この無法地帯を、どの藩にも属さない第三勢力のもとに治める……というものであったのだ。当初、かつて山横目として活躍した山本正二郎を仕置陣屋の長として着任させる計画であったのだが、御城下である謀略が水面下で企まれていることを察知した谷崎家老の配慮で、正二郎を目付副差配の重職に就かせたのだ。
城下の陰謀とは、次期藩主の座をめぐる、江戸の正室派と各側室に連なる譜代重臣や新参の若手たちによる権力闘争であった。
つまりは、いま、神坂藩では、その後継問題と、無法地帯の治安化という二つの異なった大きな問題が横たわっていたのである。しかも、それはまったく別のものではない。なんとなれば、かりに藩内の或る一派が、この地帯での主導権を確立したとすれば、それはそれで大きな影響力を有するものになるにちがいあるまい。よしんば、そうではなくても、幕府に治安紊乱の報告が為されれば、藩自体がお咎めを受けないとも限らないのだ。
そこまでざっと説明した善右衛門が、
「……いずれにせよ、早急にこの地の治安を回復させねばならぬ。しかも、表向きは、神坂藩仕置陣屋が行政の上に立つが、実態は、数藩と幕府代官所も巻き込んで、それぞれの合意のもとでの共同統治を実現させる……」
と、言い切った。
「ひゃ」
先に声を上げたのは、弥七である。
ほかの者は、あまりにも壮大にして実現不可能な計画の概要を聴いて、衝撃のあまり、寂として声なし……といったあり様であった。
「……これが谷崎家老とテラモンどのが半月かけて考えに考えた最終攻防の鍵だ」
ぼそりと井上善右衛門は告げながら、一方でテラモンの復帰を案じてもいた。目の前の源吾たちにはその詳細は誤魔化しはぐらかしていたが、いま、テラモンは医師も匙を投げるほどの容態であったからである……。
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