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第五話 譲りの善右衛門

ある風聞

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「そうよ、あいつに頼めば、すぐに勝ちを譲ってくれるさ。多少、渡す金子きんすにな、ほれ、いろをつけてやればいいのさ」

 江戸表えどおもてから帰参したばかりの谷沢に、そう講釈しているのは丸目吉之助で、二人は井上善右衛門ぜんえもんのことを引き合いに出している。
 谷沢、丸目、井上は、かつて神坂こうさか三羽烏さんばがらすとまでうたわれた剣客たちであった。
 ……往時、幕領との国境くにざかいに、すでに今はないが一羽いっぱ流道場があって、三人はそこで剣を学んだ。
 塚原卜伝ぼくでんが創始した鹿島神當流を学んだ師岡もろおか一羽斎いっぱさいの流れをむ。
 かれら三羽烏の〈羽〉は、流派の祖、一羽斎の〈羽〉を献じたものである。
 谷沢が一つ上だが、剣の同門のよしみで、三十も半ばに達した今でも、ときおり酒食の会合を持っている。江戸詰めの谷沢が、ちょうど江戸家老が国元に密かに遣わした使者の一人に選ばれたため、早々に酒席を手配したのは、なにごとにも万端そつのない対応で知られている勘定吟味方の丸目であった。
 善右衛門の席はいている。
 伝えておいた待ち合わせの刻限になっても、善右衛門は現れる気配もなかったもので、谷沢と丸目はまずは二人だけで旧交を温めていたのだ。

「あいつは・・・・まだ、独り身だったかの」

 谷沢が訊いた。
 ややもすればわざとらしくもとれる湿った語調のなかに、善右衛門に対する蔑みにも似た笑いがかくされている……。
 いつものことである。
 丸目吉之助にしても、あの善右衛門に対して周りから寄せられる侮蔑の視線を庇い立てすることはできない。なんとなれば、この〈井上善右衛門〉の奇行というものは、なにも今にはじまったことではなく、藩内でつとに知られていた事実であったからだ。

 ・・・・まず、八歳の頃。
 神坂藩の重臣たち一同の前で、幼年組の小太刀こだち試合があった。そのとき、なんと善右衛門は、勝ちを相手に譲ったのである。
 その理由は、いたって素朴であった。
 京菓子を貰い受ける約定のためであったらしい。貧しかった善右衛門は、見るからに雅で美味うまそうな、紅葉と鹿の絵が描かれた餅菓子をなんとしても口に入れたかったのである。

 ・・・・これを皮切りに、金子や物品と交換で、剣の試合の勝ちを譲る回数が増えていった。さらには、十五、六になって井上家に持ち込まれた良縁を、大枚の金子や名刀、由緒ある掛け軸などと交換で、いわば嫁候補者を、その女人を切望する別の相手に譲り渡した。
 何気ない顔をして“右から左へ橋渡し”をしたのである。
 事実、二十歳のとき、江戸家老の縁者との縁談も、善右衛門この谷沢に譲った。
 交換したのは、谷沢家伝来の兜一具いちぐと短刀一振ひとふり。この縁談のおかけで、その後の谷沢は江戸詰め、書院番士としての出世の糸口を掴んだのだった。

 いま、当の谷沢が、
『善右衛門はまだ独り身か?』
とたずねたのは、そういう過去の経緯いきさつがあったからで、そもそも、善右衛門がなぜにそうやって勝ちや利というものを、わざわざ第三者に譲り続けてきたのか、誰にもその理由は判らない。

 けれど、人は口をそろえて、
ゆずりの善右衛門〉
と、半ばの侮蔑と半ばの驚愕の念を含みつつ、公然と呼び習わしてきたのである……。


「ところで、聴いたぞ。あのテラモンが、いよいよ老境に達して、そろそろ棺桶行きっていうそうじゃないか! ひっひひ、やっとだ、あのじじい……」

 突然、テラモンのことを切り出したのは、谷沢であった。
 江戸での暮らしが長かった谷沢には、国元の動向、とりわけ数人居る家老たちの派閥などの直近の動向について調べることも、こたびの国元入りの任務の一つであった。
「ああ、あのテラモンか……! けどな、あの死に損ないが、いまだ諸家の揉め事について、なにかと口をはさみおる。やっかいな爺さんだな」
 丸目が答えた。
 無意識なのであろうが、口がゆがんだのを、谷沢は見逃さなかった。
 やはり剣の腕前に自信があるかれらには、かつて剣豪の名をほしいままにしていたテラモンこと寺田文右衛門の存在がいまもうっとうしくてならないのだ。
「永沼様はどうだ……?」
 ふいに谷沢が、国家老の一人、永沼の名を出した。娘が殿様の側室で、懐妊すれば、次期藩主の母ともなる可能性が残っていた。江戸にいるご正室は、江戸家老の縁戚に連なるので、当然、江戸派に属する谷沢は、永沼家老の動向にも関心を寄せないわけにはいかない。
 正室は江戸に住まい、側室は国元で暮らすというのが半ば慣習しきたりになりつつあった。江戸派・正室派にくみする谷沢は、国元の永沼家老に権力が集中するのを嫌っていた。当然のことである。
 国元には、三人の家老がいるが、その動向が見逃せないのは、永沼家老と、中立を標榜している谷崎家老の二人だった。
 幸い江戸に居る正室は一男二女を産んでいたが、その嫡子が無事に成人を迎えられる保証はどこにもない。
 国元では、三人の側室がいた。一人は一女をもうけた。
 永沼家老の娘が、この先、和子(男児)を生むことになれば、政争の火種になっていくことは、火を見るよりもあきらかである。

「なんだ? そうか、谷沢は、江戸ご正室派だから、永沼家老のことが気にかかるのだな」

 丸目がいった。
 実は、谷沢には、江戸家老から内々に託された使命があった。
 永沼家老暗殺……である。
 これには、どうしてもあの善右衛門の力を借りねばならない。
 そのこともあって、かれを招いたつもりなのだが、まだ善右衛門は現れない。事が露見したとは思われぬが、中立派の谷崎家老の家宰があのテラモンである。ここは、かつてテラモンに剣の勝負で敗れ、いまだに意趣を抱いているらしい丸目を焚きつけようと、わざわざテラモンの近況話を持ち出したのだ。

「いずれにせよ、谷沢、おぬしがこの地に舞い戻ってきて、なにをやらかそうとしているかは知らぬが、せいぜい気をつけることだな」
 丸目が忠告した。
「善右衛門のことか?」
「ちがう、ちがう、気をつけねばならぬのは、あのテラモンだ」
 丸目の口調には、やはりテラモンに対する憤りの感情が底辺に滞っているように谷沢にはみえた。

「おお、いま、良きことを思いついたぞ」

 丸目のひとみがキラリと光った。

「……なあ、谷沢、こうしてはどうだ、このさい、善右衛門を焚き付け、テラモンと試合をさせるのだよ。来年にも藩営道場ができるそうな。善右衛門の耳にこう囁いてやればいいのさ、『おまえは、道場師範代の候補になっている』とな。それを横から邪魔しているのがテラモンだと……。善右衛門をテラモンにぶつけてやるのさ」
「ん? 師範には佐々木世之介が内定と聴いておったが……」
「ああ、そうらしいが、そんなこと、いちいちの耳に入れておかなくてもいいさ。な、こうすればどうだ、師範代候補になった善右衛門の就任に、テラモンが横槍を入れた、といったようにしておけばいいのだ」
 意外な丸目のその提案に、谷沢は、
「ふうむ、なるほど、それは……よき思案かも」
と、肌が寒気立つほど昂奮こうふんを覚えていた。
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