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第三話 殺らずの雨
誤解の発端
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旅客のほかに、舟人夫が十六人。かれらを束ねる源吾という名の頭は、神坂藩の関所役人手代も兼ねていた。
手代……というのは、下っ端役人の代行という意で、この治外法権の一帯では、あくまでも名目にしかすぎない。
女将の琴江が、源吾を“源さん”と呼び、しかもその男は仇持ちといういささか複雑すぎる人間模様に、弥七の思念は止まりかけていた。
琴江が弥七を案内した先は、竈場から離れた川側に面した部屋だった。まだ新木のにおいがほのかに鼻孔をくすぐっていたのは、増築されて間もないからであったろう。
「や……おふさぁっ……!」
部屋のなかに両の手を縄で縛られたふさ恵がいた。
その隣に躯体の巨きな舟人夫……おそらく、かれが源吾にちがいあるまい、と弥七は察した。そ
さらにその横に敷かれたふとんの上に横たわっていたのは、まだ若い侍のようである。
ちらりとふさ恵が弥七を見やったが、なにも言わない、発しない。
後手に縛られていないのは、女将はかのじょのことをそれほど警戒していなかった証のようである。
「おい、早く、縄を解けっ!」
弥七は威嚇した。
すると、意外にも琴江はこくんとうなづいて、源吾に目を合図を送ると、すぐにふさ恵の手縛りがとかれた。
それでもふさ恵はなにも言わない。横たわって寝かされている侍のほうに視線を投じていた。
「死んでいるのか……?」
弥七がいった。
生きていることを承知の上で、弥七はあえてそんなことをたずねてみたのだった。気まずさを打ち破るには、どうでもいいことを口にするのも一手である。
「いや……」と、答えたのは、源吾であった。
「川へ飛び込んだのだ」
「引き上げたのか?」
「だから、ここにいる」
「旅のお侍さんかね」
「いや……おれを仇討ちの相手と狙って旅を続けてきたそうだ」
「じゃあ……」
と、弥七は琴江のほうに視線を向けた。先刻彼女が言っていたのは、この二人のことなのかと合点した。
「返り討ちにしたらいいのに、なぜ助けなすった?」
弥七が訊いた。
いまは舟人夫に身をやつしていても源吾はれっきとした武士であろうと見抜いた弥七の口調が、やや丁寧になっている……。
「そもそも、おれはこいつの兄を殺してはいない」
源吾が答えた。
複雑な人間関係のもつれた糸がほんの少しだけほどけたようだ。
「この若いお侍さんの名は……?」
「小野寺次郎右衛門」
「で、おまえ様は?」
「田所源吾、そやつの兄、太郎右衛門とおれは、備中葉山藩の侍で、ともに江戸詰であった……」
葉山藩は、神坂の地とは隣接してはいないものの、近隣と呼べる地域には変わりない。江戸で不祥事を起こした源吾は、逃げるようにして故郷に戻ってきたものの、帰参はかなわず、渡り舟人夫として糊口をしのいできたのであったろう。
「すべては酒の上での誤解……」
源吾は言う。弁解めいた口調ではなく、ふしぎと淡々としている。
「ま、みんな酒のせいにするってもんさ」
弥七が続ける。
意外にも源吾は否定しなかった。
「……かもしれぬ。やつは……太郎右衛門は、小野寺家伝来の宝刀を自慢していたのだ。抜いておれに見せようとしたとき、つまずいて、おのが左肩を斬ってしまった……ただそれだけのことだ。慌てて介抱しようとしたら、元服したばかりの弟が騒ぎを聴いて駆けつけてきよった。深手ではないようだったので、あとは親族にまかせればよいと立ち去ったが、その夜、太郎右衛門は死によった……」
そこで源吾は口を閉ざした。
女中の一人が、
「おさむらいさぁが、また二人、お出でになりんさった」
と、告げにきたからだ。
「や……! おれのお頭、テラモン様のお着きにちげぇねえ」
嬉々として弥七が相好を崩すと、ずっと黙考していたふさ恵のひとみが妖しくきらめいた。
手代……というのは、下っ端役人の代行という意で、この治外法権の一帯では、あくまでも名目にしかすぎない。
女将の琴江が、源吾を“源さん”と呼び、しかもその男は仇持ちといういささか複雑すぎる人間模様に、弥七の思念は止まりかけていた。
琴江が弥七を案内した先は、竈場から離れた川側に面した部屋だった。まだ新木のにおいがほのかに鼻孔をくすぐっていたのは、増築されて間もないからであったろう。
「や……おふさぁっ……!」
部屋のなかに両の手を縄で縛られたふさ恵がいた。
その隣に躯体の巨きな舟人夫……おそらく、かれが源吾にちがいあるまい、と弥七は察した。そ
さらにその横に敷かれたふとんの上に横たわっていたのは、まだ若い侍のようである。
ちらりとふさ恵が弥七を見やったが、なにも言わない、発しない。
後手に縛られていないのは、女将はかのじょのことをそれほど警戒していなかった証のようである。
「おい、早く、縄を解けっ!」
弥七は威嚇した。
すると、意外にも琴江はこくんとうなづいて、源吾に目を合図を送ると、すぐにふさ恵の手縛りがとかれた。
それでもふさ恵はなにも言わない。横たわって寝かされている侍のほうに視線を投じていた。
「死んでいるのか……?」
弥七がいった。
生きていることを承知の上で、弥七はあえてそんなことをたずねてみたのだった。気まずさを打ち破るには、どうでもいいことを口にするのも一手である。
「いや……」と、答えたのは、源吾であった。
「川へ飛び込んだのだ」
「引き上げたのか?」
「だから、ここにいる」
「旅のお侍さんかね」
「いや……おれを仇討ちの相手と狙って旅を続けてきたそうだ」
「じゃあ……」
と、弥七は琴江のほうに視線を向けた。先刻彼女が言っていたのは、この二人のことなのかと合点した。
「返り討ちにしたらいいのに、なぜ助けなすった?」
弥七が訊いた。
いまは舟人夫に身をやつしていても源吾はれっきとした武士であろうと見抜いた弥七の口調が、やや丁寧になっている……。
「そもそも、おれはこいつの兄を殺してはいない」
源吾が答えた。
複雑な人間関係のもつれた糸がほんの少しだけほどけたようだ。
「この若いお侍さんの名は……?」
「小野寺次郎右衛門」
「で、おまえ様は?」
「田所源吾、そやつの兄、太郎右衛門とおれは、備中葉山藩の侍で、ともに江戸詰であった……」
葉山藩は、神坂の地とは隣接してはいないものの、近隣と呼べる地域には変わりない。江戸で不祥事を起こした源吾は、逃げるようにして故郷に戻ってきたものの、帰参はかなわず、渡り舟人夫として糊口をしのいできたのであったろう。
「すべては酒の上での誤解……」
源吾は言う。弁解めいた口調ではなく、ふしぎと淡々としている。
「ま、みんな酒のせいにするってもんさ」
弥七が続ける。
意外にも源吾は否定しなかった。
「……かもしれぬ。やつは……太郎右衛門は、小野寺家伝来の宝刀を自慢していたのだ。抜いておれに見せようとしたとき、つまずいて、おのが左肩を斬ってしまった……ただそれだけのことだ。慌てて介抱しようとしたら、元服したばかりの弟が騒ぎを聴いて駆けつけてきよった。深手ではないようだったので、あとは親族にまかせればよいと立ち去ったが、その夜、太郎右衛門は死によった……」
そこで源吾は口を閉ざした。
女中の一人が、
「おさむらいさぁが、また二人、お出でになりんさった」
と、告げにきたからだ。
「や……! おれのお頭、テラモン様のお着きにちげぇねえ」
嬉々として弥七が相好を崩すと、ずっと黙考していたふさ恵のひとみが妖しくきらめいた。
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